第28話 七瀬の岐路(2)
「……それって」
彼女の部屋の写真立てが脳裏に蘇り、俺は遠慮も忘れて尋ねる。
「キミのお母さんと、何か関係が?」
一瞬の沈黙。しまった、踏み込みすぎたか――と思った瞬間、切ない色をしていた彼女の目が、ハッと驚きに見開かれた。
ノーマスクの赤い唇を微かに震わせて、彼女は俺を見つめて答える。
「よくわかるね。さすが、私の
「いや……」
キミのものじゃないけど、と突っ込みかけて、俺はぎゅっと口をつぐんだ。キミのものになれるならそれでもいい、と思った。
ざわざわと揺れる俺の心に切なさを染み渡らせるように、彼女は静かに口を開き、
「……あの作品の原形になったのはね。小さい頃に、お母さんと作った話なんだ」
と、遠いまなざしで語り始める。
「お母さん、ずっと街の病院に入院しててね」
街の病院、という東京では馴染みのない表現を聞いただけで、父親の車だか、一時間に一本の電車だかに揺られて、イナカの家から遠い市街地を目指す幼き日の彼女の姿が脳裏に浮かぶようだった。
「お母さんも、私達くらいの頃は小説を書くのが好きで、お友達と同人誌とか出してたんだって。わかる? 同人って」
「……まあ、多少は」
「そっか、尾上くんも中学の文芸部で出してたんだもんね」
俺の話になると、彼女は少し口元を
なんでそんなことまで知って――いや、この前、ラインの通話で喋らされたんだっけ。
「俺のは電子だけだけど……」
うん、と笑顔で頷いて、彼女は本題を続ける。
「そんなお母さんだから、お父さんが買ってく小説の本とか、あっという間に読み終えちゃうの。……それで私、小学校に上がった頃くらいからかな、お母さんに喜んでもらいたくて、自分でノートに書いたお話とか持ってくようになって。そしたら、いつからか、お母さんも一緒に話を考えてくれるようになってた」
「……英才教育じゃん」
俺が言うと、美少女作家はくすっと笑って、そうかも、と答えた。
「そうやって、お見舞いのたびに、ちょっとずつ一緒に物語を作っていって……それで出来たのが、オルフェウスの元になった話。もちろん、主人公もまだケントじゃなかったし、絶滅生物の設定もなかったし、結末もこうじゃなかったけどね。……でも、あの作品の中核は、確かに、お母さんと作ったあの物語なの」
「だから、死を背負って生きるのがテーマなわけか……」
思ったままのことを述べると、作者の口から「えっ」と息が漏れた。
呆気にとられたような目で、こちらを見つめたまま固まる彼女に、あれっと俺は慌てる。そんなに見当外れの発言だった?
「えっ、だって、新人類との戦いってそういうメタファーなんじゃ。お母さんが……その、いなくなっても、その命を背負って生きてくから、って思いを込めたんじゃないの?」
「……尾上くんっ」
ふいに身を乗り出して伸びてきた彼女の両手が、強く俺の片手を包んだ。
「ちょっ、手っ!!」
二人の間の飲み物がこぼれそうなほど揺れている。かっと熱くなる顔をそむけ、身を引こうとしたところで、彼女の震える声が鼓膜を叩いた。
「そんなことまで読み取ってくれるんだ……やっぱりキミは、私の……」
手を握られたまま目をやれば、黒い瞳に涙を浮かべた美少女の姿。
私の、の後にどんな言葉が続くのだとしても、そこまで聴いたら魂が抜けてしまいそうで、俺は「いやいや!」と必死に声を被せる。
「俺なんか、全然っ、全然大したことないから! 普通わかるって!」
そこまで言ってから、周囲の席からの視線を感じて身を縮こませると、彼女は涙目のまま微笑んで。
「……そうだね。私の見込んだキミなら、そのくらい朝飯前だよね」
と、いつもの褒め殺しのようなことを言って、すっと俺の手を放し、どこからか取り出した白いハンカチで目元をぬぐった。
早鐘のような胸の鼓動が到底収まらない俺の前で、可憐な唇が再び本題を紡ぐ。
「……最後の一時退院のときにね、お母さんとお父さんと、レイコおばさんと、皆で一緒にホタルを見に行ったの」
地元はホタルが綺麗なところ――と、前に彼女は言っていたっけ。
「お母さんが最後に教えてくれたのは、ホタルの儚い輝きを、散りゆく命になぞらえること。あとは
三たび繰り返される「最後」という響きの重さに、俺は相槌も打てずに頷く。
「……お母さんは、その身をもって命の意味を教えてくれた。だから私は、それから一生懸命、文章を練習しながら、何度も何度も、この物語だけを書き直したの。……あとは、尾上くんも知ってる通り。頑張り続けたナナセちゃんは、時代と運に助けられて、十七歳で遂に『オルフェウスの楽園』を
星の瞳を
空元気のようなその笑顔を前に、俺は何も言えなかった。
それだけの想いを背負って、彼女はただ一つの作品に打ち込んでいたのか。オルフェウスの原形になった話しか書いたことがない、という冗談めいた言葉も、正真正銘の事実で……。
そして、何年もの時間をかけて、彼女はその物語を受賞作のレベルにまで磨き上げたのだ。想像もつかない努力の積み重ねの果てに。
そんな彼女に、粗製乱造が代名詞の俺なんかがどんな口出しができるだろう。
……いや。それでも。
彼女がこの物語に蛇足を付けたがらない理由を、今や頭ではハッキリ理解しながらも、俺の心は別のことを叫んでいた。
ここで何も言えなくてどうする。だって、彼女の物語はまだ終わっていない。
まだ、たった一冊本を出しただけじゃないか。
「……だったら」
見えない何かに突き動かされるように、俺は声を上げていた。
「それを一冊きりで終わらせたらダメだろ。無理やりにでも続きを書いて、十巻でも二十巻でも続くような人気作にして……そうじゃなくても、キミ自身がもっとメジャーな作家になって、このデビュー作の存在を世に轟かせないとダメだろ!」
周囲の視線なんて気にせず言い切ると、彼女の目が大きく見開かれた。
そうだ、このまま一冊きりで終わっていいはずがない。ウイルス禍の中であの一冊を出しただけで終わったら、彼女がペンネームに込めた夢だって永遠に叶わなくなる。
「四十七の都道府県に……日本中の本屋さんに確かめに行くんだろ。キミと、キミのお母さんの作った物語の晴れ姿を」
美少女作家の白い頬を再びの涙が伝う。微かに声を詰まらせながら彼女が発したのは、なんで、という言葉だった。
「……私、そこまで言ってないのに……。ただ本屋さん巡りがしたいとしか言ってないのに、どうして……?」
「わかるって。こんだけキミと関わってれば、キミの考えてることくらい」
不思議と恥ずかしさはどこかに吹き飛んでいた。言葉を失って俺を見つめていた彼女が、ハンカチに涙を染み込ませ、何かを振り切ったような明るい笑みを取り戻すまでには、五秒か十秒か……それ以上の時間は要らなかった。
「わかった、尾上くん、私書くよ。オルフェウスの続き。……だから、力を貸して?」
確たる決意と健気なお願いが同居した上目遣いで、彼女が俺の目をまっすぐ見上げてくる。俺はしっかりと頷いて答えた。
「姫の望みなら、何なりと」
彼女は満面の笑みで、いつもの弾むような「ありがとっ」ではなく、「ありがとう」と温かな声で俺の心を包んでくる。
出会ってからずっと、本心か冗談かもわからない言葉で弄ばれ、手玉に取られ続けてきた俺だけど……
このとき、初めて本当の意味で、彼女と俺の思いが噛み合った気がした。
思い出したようにミルクティーを一口飲んで、「よしっ」と可愛く拳を握り、彼女はスクールバッグからノートとペンケースを取り出す。
「そうと決まれば、デートなんてしてる時間ないねっ。ざんねん?」
「……い、いや」
緊張の波が
「遊びどころか、受験勉強の時間だって返上するって」
「だーめ。ちゃんと勉強して、都内の大学に受かってくれなきゃ。その上で私のことも手伝ってっ」
「要求きっつ……」
「原作と比べたら、カワイイもんでしょ?」
前に俺が竹取物語をそう称したのを引用して、姫君はぱちりと片目を閉じて笑ったのだった。
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