第14話 緊張の映画館

「じゃ……じゃあ、とりあえず、映画でも観に行く? ふじ……ナナセ先生が観たいのあればだけど」


 結局のところ、いくら東京育ちと言っても、リア充の世界を知らない俺にはそんなありふれたプランしか思いつかないのだった。


「暗闇で二人? 私なにされちゃうんだろー」

「い、いや、イヤなら別のプランでもいいけど!」


 マスクを付け直した美少女の言葉に、冗談と知りつつも俺が声を裏返らせると、彼女はくすっと笑って「ううん」と言ってくる。


「いいよー、私も映画は好きだから。良質なインプットは創作の肥やしになるしねっ」

「な、ならよかった……」


 動揺と緊張に呑まれきったまま、俺は彼女と一緒に喫茶店を出て、再び飯田橋の駅に向かって歩く。陰キャの俺が地の利を発揮できる部分なんて、せいぜい、大きなシネコンがどの駅にあるかを知っていることくらいだった。

 絶世の美少女との初デート……と言っていいのか何なのか、とにかく私服姿で休日の街を一緒に歩いているという状況に、まだフワフワとした高揚感が止まらない。だって、先程までは堀井ほりい氏との打ち合わせに同行するという建前があったのに対して、今はもう完全に二人きりでの遊びなわけで……。


「さっきよりガチガチだね、尾上おがみくん」


 俺とは対照的に、微塵の緊張も感じさせない素振りで、藤谷さんは駅構内を歩きながら俺の顔を覗き込んでくる。


「そ、そりゃ、ガチガチにもなるって。……こういうの初めてだからさ」

「こういうのって、どういうの?」

「……いや、だから、その、女子と二人で街に出る的な?」


 せめてもの照れ隠しのつもりで、俺がさっきの彼女の表現を引用して言うと、彼女は律儀に「むう」とマスクの下で頬を膨らませてきた。


「イナカ育ちだって、Suicaくらい持ってるんだからねー」


 ピンク色の可愛いパスケースを見せびらかすように顔の横に掲げ、彼女が俺の隣の改札を通る。……その言動の全てが、語彙力を失うくらいに可愛くて、俺は今にも火を噴きそうな顔を必死に彼女からそむけていた。



***



 十数分ほどJRに揺られ、駅からさらに歩くこと数分。休日のシネコンは、ウイルス禍で休業していた頃がウソだったかのように賑わいを取り戻していた。


「……これとかどう? ちょうど上映時間もこの後すぐだし」


 まだまだ全く緊張が解けないまま、俺は藤谷さんとロビーに立ち、とある映画のポスターを指差した。彼女は「あっ」と声に出し、そのポスターを興味ありげに見ている。


「これねー、気になってたんだよね。原作はウェブからの書籍化でしょ?」

「そうそう。ナナセ先生と観るなら、ちょうどいいかと思って」


 俺が言うと、彼女はぱっちりした目をきらきらと輝かせて、「おっけー、決まりっ」と弾んだ声で即答してきた。

 しかし、券売機の列に二人で並ぶさなか、「……でも」と彼女は少し声をひそめて言ってくる。


「尾上くんは、こういうの苦手じゃないの?」

「えっ? ……恋愛ものが?」

「そうじゃなくて。……成功してるプロ作家の作品に触れるの、心がえぐられちゃうんでしょ?」


 彼女の目を見て俺はドキリとした。その上目遣いの視線には、本気で俺のことを案じてくれている優しさが見えた。

 ……確かに、そういう気持ちが今でもないわけじゃない。何かが少し違っていれば、俺だって今頃はウェブ小説発の商業作家として活躍できていたかもしれなくて。

 自分の作品がメディア化される未来だって、夢見たことがないと言えば嘘になる。

 だけど……。


「いや……向き合わなきゃいけないからさ、俺も」


 虚勢を張るわけでもなく、俺は素直に思ったことを口にした。

 この先、俺がまた書籍化を目指して小説を書き始めることが、あるにしても無いにしても……。チカのいつもの説教じゃないけど、いつまでも商業作品に触れることから逃げていたって始まらない。

 何しろ、「持ってるやつ」全てと距離を置いていたいというクソザコ敗残者のセコい希望は、他ならぬ彼女によって崩されてしまったのだから。


「……よかった。ちょっと立ち直ったね、尾上くん」


 ちょうど順番の回ってきた券売機を前に、彼女がそんなことを言ってマスク越しの笑顔を向けてくるので、危うく俺の思考はフリーズしそうになった。



 劇場の中ほどの席のチケットを確保し、売店で飲み物を買って、いよいよ彼女と二人でシアターに足を踏み入れる。封切りから二週間ほど経っている映画でも、客の入りはそこそこ多かった。

 心臓をバクバク言わせながら、彼女の左隣の席に腰を下ろしたところで、ふいに美少女の一言。


「営業制限の頃じゃなくてよかったよね」

「え?」

「だって、その頃だったら二人並んで座れなかったもん」


 緊急事態宣言のもと、一席ずつ空けての営業を強いられていた頃の映画館の光景が脳裏をよぎる。

 彼女が嬉しそうな目で微笑みかけてくるのに、俺は数秒固まってから、かろうじて喉の奥から言葉を引っ張り出した。


「……ナナセ先生、そんな都会の事情なんか知ってるんだ」

「おこるぞー。ウチの県にだってシネコンくらいありますー」

「県単位なんじゃん」


 俺が思わず笑うと、彼女もそれに合わせてくすりと笑った。


「……でも、男子と来るのは初めてだけどね?」


 ようやく少しは戻りつつあった冷静さを奪うように、彼女はそう言って――アームレストに置いた俺の右手に、すっと自分の左手を伸ばそうとしてくる。


「っ!?」


 声にならない叫びとともに、咄嗟に俺が手を引っ込めると、彼女はいつもの弄ぶような目をして。


「今日は彼氏のふりでしょ?」


 と、ささやくような小声で言ってくるのだった。


「……い、いや、それは、さっき終わったじゃないすか……」

「えー? 私聞いてないよ?」


 完全に俺をオモチャにしている目で、彼女がふふふと笑ったとき、やっと館内が暗くなり、本編前の宣伝がスクリーンに流れ始める。

 さすがに彼女はもう言葉を発さなかったが、俺は自分の心臓の鼓動が周りに聴こえてしまうんじゃないかと気にするのに必死で、次々と流れる新作映画の予告なんて何一つ頭に入ってこなかった。


 それでも、本編が始まる頃には、なんとか心を落ち着かせて――

 ウェブ小説発の書籍化作品を原作とするその映画に、俺は勉強と思って真剣に見入った。

 ライト文芸のレーベルにありがちな、ループものを絡めた恋愛ストーリーだ。人気の男子アイドルグループのメンバーが演じる主人公が、CMでよく見かける若手女優の扮するヒロインを死の運命から救うため、高校生活の最後の一年間を何度も繰り返していく。

 その手の流行りに乗っかって成功した作品と言ってしまえばそれまでだけど、商業で高い評価を得た一作だけあって、伏線を巧みに活かしたシナリオの面白さは申し分なかった。

 ジャンルが違うので比べられないが、もしかしたら、作品としての力は彼女の……虹星ななせ彩波いろはの『オルフェウスの楽園』より上かもしれない。


 でも、確実なのは。

 俺と同じ歳で彼女が歩んでいる道は、こういう世界にも繋がっているということで。

 これが、何も成し遂げられなかった俺と、彼女の住む世界の差なのか……と、悔しさ以上の寂しさを感じながら、俺はふと彼女の横顔を見た。

 ちょうど映画はクライマックスで、泣かせにかかるシーンに入っている。暗がりの中、スクリーンの光に微かに照らされた美少女作家の瞳は、美しくうるんでいて――。

 俺の視線に気付いたのか、彼女はちらりとこちらに流し目をくれて、マスクの下でそっと微笑んだように見えた。


「……!」


 静かに伸びた彼女の片手が、今度こそ俺の手の甲に重ねられる。あの日のサインの痕跡も消えたその手に、新しい思い出を刷り込むように。

 思わず声を上げそうになるのをギリギリで耐え、俺は空いた左手で自分の胸を必死に押さえつけた。

 涙のにじんだ彼女の瞳が、またイタズラっぽい笑みを含んで俺を見つめ続けている。

 ……今はこれでいいか、と思った。

 今日限りの恋人のふりでも。どんなに住む世界が違っても。少なくとも今、この場で彼女を独り占めしているのは俺だけなのだから。

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