軋む音

森林公園

軋む音

 まるでゴミみたいに小さい折り畳みの自転車で、坂を駆け上がる。この辺り一帯は坂が多く、小さいタイヤの方が向いている。ダカダカと駆け上って、その勢いで駐輪所に停車すると、タイヤにチェーンを絡ませてから、疲れた身体を押し込むように、アパートの自室へと入って行った。


 その部屋に引っ越して来たのは今から六年ほど前の話だ。初めての一人暮らしで得た部屋は、アパートの一階の右の方にあり、両脇はそれぞれ他の部屋に囲まれていた。壁は薄く温度すら通すようで、冬は両側と上の暖房にあやかって、帰宅時から室内はそこそこ暖かかった。


 総合大学が近いので、自分以外の住人は殆ど学生だ。自分はと言うと、デザイン事務所のしがないグラフィックデザイナーをやっている。そんなわけで、朝七時に自分が出社のために家に出る際は、アパートはまだ静まり返っている。ただすぐ上の階の住人だけは、違ったのだけれど。


 毎朝六時ごろ、扉を頻繁に開け閉めする音が二階から聞こえてくる。玄関の立てつけが悪いらしく、何度もそれを繰り返さないとピッタリ閉まらないようだった。ようやくその上からガチャリと鍵をかける音がしたかと思うと、カッカッカッという硬質なヒールの音が響くのが常であった。


 色はきっと紅だ。姿を見たことのない彼女のことを色々と妄想していた。自分より朝が早い職業の女性が住んでいるのだろう。それがどんな職業か空想しながら自分も起き出していた。歩き方から想像して、バリバリのキャリアウーマンなのかもしれない。


 早起きで働き者の女性が階上に住んでいるかと思うと、軋む足音なども、軽やかで心地好く感じられるものだ。朝はそのおかげでこちらまで元気が出るようだった。感謝しながら衣服を身に着け、コートを羽織るとマフラーを巻いた。


 しかし、いつの間にやらその上の女性に、どうやら本気で気が向いてしまったようだ……。彼女以外の足音が、彼女に続かないか心配なのである。でも、そんな心持ちは無用のようで、今までひっそりと出て行く足音に、続く気配はなかった。しかしその平穏は突然と奪われる形になる。


 バタン。


 それは夜の十時過ぎだったように思われる。二階の住人が自分よりも遅くに帰宅することは稀で、その時のことをより鮮明に記憶していた。女性が入室した足音に加えて、それに続くようにギッシギッシと重たい足音が続いたのだ。


「嗚呼ついに、男を連れ込んだか」


 どこか心の隅でガッカリする。気にはなるが、自分も翌日は早いので眠りについた。しかし次の日、彼女は六時には出掛けて行かず、例のドアの開け閉めを目覚まし代わりにしていた自分は、危うく会社に遅刻するところであった。


 そして、その日の夜から何だか二階の足音が『変わった』。女性の、羽のような軽快さがなく『重たい』のだ。ドシドシとした音は騒音に感じられる。朝、ヒールの音も、玄関の開け閉めの音も、耳にすることはなくなった。


 もしかしたら、自分が日中仕事をしている間に階上の女性は引っ越していて、今は違う男の人が住んでいるのかも知れない(そして、玄関の扉は修理したのかも知れない)。そして朝の音の代わりに、夜決まって聞こえてくる音ができた。


 それは、決まって深夜というか朝方の四時ぐらいから聞こえてきた。それまで比較的ゆっくり動く静かな足音が、急に足早に部屋の隅へと向かう。その後断続的に特徴的な音が聞こえてくるのだった。


 きぃ、きぃ、きぃ、きぃ……。


 まるで、老婆が時代物の椅子に腰掛けて揺するような。糸鋸いとのこで何かを切断するような。ベッドの上で恋人たちが愛し合うような、そんな音がし始める。何ごとかと注意深く聞いていると、それは段々と速くなるのだ。


 きっきっきっきっ。

 きぃ、きぃ、きぃ、きぃ……。 きっきっきっきっ。


 それが毎晩一定の時間続いて、やがて唐突に終わる。洗面所の方角へ向かう足音。そうしてそれも止むと、やっと静寂が訪れてこちらも眠れる。自分にも覚えがある『ソロ活動』だと決めつけて、かたく瞳を閉じた。


 それが何週間か続いたころだろうか。その日は仕事で大きな文字のミスがあり、とてもイライラしていたのを覚えている。帰宅した時間は深夜一時過ぎであった。冷凍のカレーを温め直して食べると、風呂は朝入ることにして布団に潜り込んだ。


 気が立っている時は眠れないものだ。その日も四時ごろになり部屋の隅に歩いて行く音が聞こえた時、思わず自分は、彼女が別れる際に置いて行ったヌイグルミを手に握っていた。軋みが聞こえてきた瞬間に、天井に向かって真っ直ぐに投げつける。


 ヌイグルミは何も悪くないのに、鈍い音を立てて天罰のように天井にぶち当たると、物だらけの床の上に埃を立てて落ちた。グワリっと、まるで地震のような天井の軋みを感じて、思わぬ大きさの音にぎょっとして息を詰めた。


 暫く向こう側も動きを止めてこちらを伺ってから、大きな足音を立てて洗面所へ向かったようだった。そのまま静まり返り、それが余計こちらの恐怖を煽った。途端に部屋が冷えたような気がして足を擦り合わせる。


「もしかしたら、包丁でも持って部屋に乗り込んで来るのではないか」


 その考えに至ってしまって、布団の中で丸くなり、恐怖に耐えた。しかし階段を降りる者も、インターホンを鳴らす者も、その夜は誰一人としていなかった。静かなのに、今度は恐怖で一睡もできなかった。


 ことが動いたのはそれから数日後だ。その日自分は会社で体調を崩し、早退して家にいた。平日の昼間は学生も講義に出掛けているのか、アパートは静かなものだ。近所の雑音や、鳥のさえずりなんて聞こえて、心が穏やかになる。


 さて横になろうと万年床に寝転ぶと、力強くチャイムが鳴った。人前に出れる程度にスウェットを身に纏うと、仕方がなしに扉を開けた。するとそこに立っていたのは自分より幾分か若い青年だった。きっと近くの大学の学生なのであろう。


「あの、僕二階に住む者で……」


 そう頭を掻きながら言った言葉に、昨夜のことが思い出されて背中が冷えた。こいつ……顔を見に来やがった。そう感じて警戒していると、青年は人好きのする顔で笑んだ。背が高く、ひょろひょろで、あの重い足音とは印象が異なる。


「今、何か音楽聴いていませんよね? 下の階から何だかメタルみたいな音がドムドム聞こえてきていて……」

「……何も聴いちゃいませんが」

「そうですね、やっぱり貴方じゃないようだ。隣の部屋かな? 五月蝿くないですか?」


 彼が目線で彼から見て左側の部屋を示唆する。その部屋と自分の部屋との間には押し入れがあって、それが防音の役目を果たしているのか、今まで隣人の騒音がこちらに聞こえ漏れて来ることはなかった。気づくと玄関をまるで塞ぐように青年が間近に立っている。


「俺には聞こえないけどな、大家さんに言ってやろうか」


「ちょっとこちらへ」


 大人ぶって面倒見が良いことを口にすると、青年が唐突に手首を掴んで外に向かって引いた。件の部屋はアパート一階の角にあって、何もない白い外壁に青年は片耳を当てて見せた(掛けていた鼈甲べっこう色の眼鏡がズレる)。


「やっぱり、この部屋から聞こえますよ。どうぞ、聞いてみてください」


 素直に青年と同じく外壁に耳を当てる。すると聞こえてきたのはメタルの騒音などではなかった。少し前まで、毎晩のように聞いていた音だった。遠くでパトカーのサイレンの音も聞こえてきたが、それを塗りつぶすように鼓膜の中は軋みでいっぱいになった。


 きぃ、きぃ、きぃ、きぃ……。 きっきっきっきっ。


「ほらね、何か壁にぶつけますか?」


 驚いて壁から耳を離すと、後に立っていた青年は、先ほどの笑顔とは全く別物の、見たこともないような顔で、ただ嗤っていた。眼鏡の中の瞳を糸のように細めてはいるが、本当の『笑顔』でないのだと知れる。



「友だちと相談してね、『作業場』を、こちらに移動したんですよ」



<了>

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軋む音 森林公園 @kimizono_moribayashi

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