ドリーミングは夢を見ない

ドリーミングは夢を見ない

「おやすみなさい。良いゆめを。」

 着の身着のままベッドに倒れ込んだといった風情の男の身体から強張りが取れ、安らかな寝顔になった。人間には知覚できない光に照らされた男は、とても幸せそうだ。

 それを見届けた少女──ドリーミングは、傍らの獣を一撫でして立ち上がった。黒白の毛並みをしたまろやかな体つきの獣は獏といい、悪夢を食らって生きる幻獣だ。獏と共にいるのは利害の一致という側面が大きいものの、ドリーミングの相棒であることには間違いない。

 獏と共に外へ出ようとしたところで、不意に獏が慌て始めた。長い鼻を縮め、大きな体をどうにかしてドリーミングの影に隠そうとしている。見るからに怯えた様子の獏を宥めつつ、ドリーミングはランタンの付いた羊飼いの杖シェパーズ・クルークを引き寄せた。

 窓の外に現れたのは、黒い馬を連れたひとりの少年。手に持つ大きなカンテラからは煤のような黒いもやが溢れ出し、夜気にたなびいていた。

「なんだいたのか、ドリーミング。」

「こんばんは、ナイトメア。」

 窓をすり抜けナイトメアの前に出て行くと、カンテラから溢れる黒いもやが退いていく。夜色に溶けるそれを、獏が名残惜しそうに見ているであろうことは振り向かずともわかった。

「貴方の見せる悪夢ユメを食べてしまうからって、あまり獏をいじめないであげてね?」

「いじめてねーよ。あんな奴どうでもいい。」

 心底どうでもよさそうな様子からするに、ナイトメアの言葉は真実なのだろうが。

「あら、貴方の相棒は心当たりがあるみたいだけど?」

 瞳のない黒馬は、先ほどから全力でドリーミングとナイトメアから目を逸らしている。なんと分かりやすいことだろうか。

「はぁ!? お前また勝手なことしやがって!」

 頑なに目を合わせようとしない黒馬にナイトメアが食ってかかり、静かな夜は一気に賑やかになる。くすくす笑うドリーミングの後ろに、そっと獏が寄り添った。

「おい。」

 突然顔を近付けてきたナイトメアに驚いたのか、獏がまたドリーミングに隠れようと慌て始める。反射的に捕まえようとしたナイトメアの手を羊飼いの杖シェパーズ・クルークで押し止め、少し距離を取らせた。

「獏は臆病なの。もう少し、慮ってあげて?」

 憮然とした表情をしながらも大人しく待つ辺り、ナイトメアはとてもいい子である。

「おい今何考えた。」

「何にも考えてないわよ?」

「獏はドリーミングのふてぶてしさをちょっとは見習え!」

「こら、あんまり大きい声出さないの。」

 頭を掻くナイトメア。口をひん曲げながらも静かに待っていると、ようやく落ち着いたらしい獏が顔を覗かせた。

「おい、獏。俺の相棒が悪かったな。」

 キュウゥーゥと甲高い鳴き声に、赦しの意が含まれていることを悟ったのだろう。ナイトメアは少し笑って、獏から離れた。しょぼくれた様子の黒馬に跨れば、手に持つカンテラが揺れる。

「後ろの人間に悪夢ユメを見せてやるつもりだったんだが、もうお前が手を付けちまったんだろ? 俺は別のとこに行くから、ついてくんなよ。」

「ええ。それじゃあね、ナイトメア。」

 黒いもやの尾を引いて、黒馬が駆けていく。ランタン付きの羊飼いの杖シェパーズ・クルークを翳せば、そこに残ったもやはたちまち消えていった。

「私たちも行きましょうか、獏。」

 その背に腰掛ければ、獏はナイトメアたちの向かった方とは反対の方向へと走り出す。ドリーミングの口ずさむ、人間の扱うあらゆる言語に当てはまりそうで当てはまらない歌は獏以外のなにものの耳に入ることなく消えていった。


 人々に吉夢ゆめを見せる、ドリーミング。

 人々に悪夢ユメを見せる、ナイトメア。


 人々に夢を見せるふたりは、今日も相棒と共に夜を彷徨うのだった。


◇◆◇


 人間でないものたちは、それぞれが己の世界を持っている。人間の世界に折り重なり存在するそれらのうち1つに、ナイトメアは降り立った。

 煤じみた黒い霧がかる自身の世界とは異なり、空気は暖かに澄んでいる。己が世界の歩く度水音の鳴る地面とは違って若草に覆われ、悪夢の欠片の代わりに綿毛羊があちらこちらで寛いでいた。

「こんにちは、ナイトメア。また来たの?」

「悪いか?」

「いいえ。別に構わないけれど。」

 大きく横に枝を広げた樹の下、壁のない部屋に置かれたベッド。ランタン付きの羊飼いの杖シェパーズ・クルークを膝の上に寝かせて、ドリーミングが座っていた。

「貴方は貴方の世界があるでしょうに、どうしていつも私の世界に来て眠るの?」

「居心地いいんだよ、お前の世界。」

「こんなにも正反対なのに?」

「俺はお前から生まれたんだから、この世界を居心地よく感じてもおかしくないだろ。」

 サイドチェストに黒いもや溢れるカンテラを置き、勝手知ったる様子でドリーミングの膝先に転がる。痛みも動きづらさも感じない、ほどよい柔らかさのマットレスにナイトメアの身体が沈みこんでゆく。

「それもそうね。」

 応えるドリーミングは、羊飼いの杖シェパーズ・クルークに付いたランタンの光に照らされながらも影がない。ドリーミングの影からナイトメアが生まれたからだ。

 影という輪郭だけの現身から生まれたせいか、ドリーミングとナイトメアは性別も、行いも、世界でさえも似て非なる。生まれながらの対にして、対極だった。

「・・・寝る。」

「そう。おやすみなさい、ナイトメア。」

 瞼の下の暗闇の中、人間の扱うあらゆる言語に当てはまりそうで当てはまらない歌が聞こえる。この世界に住まう綿毛羊どもはカンテラから溢れるもやを嫌うから、この歌を聞くものはナイトメアだけ。その事実が少しだけ、心地よかった。


◆◇◆


 崩して座った足の先、膝に触れそうなほどの距離に黒衣を纏った少年が転がっている。もぞもぞと身じろぐこともなく、規則正しい呼吸も微かながら聞こえてきた。

「ナイトメア、もう寝たの?」

 問いに答えは返らない。間違いなく、眠っているようだ。

 ドリーミングは少しずつ後退り、音を立てぬよう裸の足をパネルに下ろした。この場所にしかない、冷ややかな人工物。

 マットレスの端に座っているせいで、身体が深く沈みこんでいることに気付く。ナイトメアを起こしてしまうかもと頭を振り、ゆっくり立ち上がった。どうにもひとりでいると、物思いに耽り過ぎてしまう。

 集まってくる綿毛羊をランタン付きの羊飼いの杖シェパーズ・クルークでいなしつつ群れに分け入れば、唐突に空隙が現れた。真っ白な綿毛羊の壁の中、蹲るのは真っ黒な綿毛羊たち。ナイトメアの相棒たる黒馬を思わせる瞳のない目でこちらを見て、媚びるような鳴き声を上げた。


 ぶちっ。


 羊飼いの杖シェパーズ・クルークに付けられたランタンが揺れて、音を立てる。潰れて千切れ、若い緑の草にへばりついた黒い染みはランタンの放つ光に照らされ消え失せる。


 ぶちっ。


 潰れ消えていく黒い綿毛羊ブラック・シープ。ドリーミングは微笑みすら浮かべて、羊飼いの杖シェパーズ・クルークを振るう。


 ぶちっ。ぶちっ。ぶちっ。


 本来悪夢とは、現実であった嫌なことを悪夢と言う形で発散し、精神の均衡を保つためにあるそうだ。だから人間は、ナイトメアを呼ぶ。声なき招きに導かれ、ナイトメアは悪夢ユメを見せに行く。

 しかしドリーミングのしていることは、人々の持つゆめの種を光でもって芽吹かせること。腐り落ちるかもしれなかった希望ゆめを、消えるはずだった願いゆめを、強制的に引きずり出すこと。人間に望まれたわけでも、求められたわけでもなく。それが、吉夢を見せるものドリーミングだから。


 ぶちっ。ぶちっ。


 黒い綿毛羊はドリーミングの見る──見続ける悪夢ユメの顕現。こんなものが常に発生するのだから、吉夢を見せるものドリーミングから悪夢を見せるものナイトメアが生まれたのは道理というものだろう。


 ぶちっ。


 ドリーミングは眠らない。吉夢を見せるのものであるが故に、見るべきゆめを持たないから。

 ドリーミングは黒い綿毛羊を潰し続ける。吉夢を見せるものであるが故に、悪夢ユメを見るべきではないから。


 全ての黒い綿毛羊を潰し終わったドリーミングは、踵を返して再びベッドに上がった。足を崩して、ランタン付きの羊飼いの杖シェパーズ・クルークを横たえて。気持ちよさそうに眠るナイトメアを気紛れに撫で、いつもの歌を口ずさむ。

 人間の扱うあらゆる言語に当てはまりそうで当てはまらない、歌を。


◆◇◆


 ナイトメアにとって眠りとは、見せた悪夢ユメを反芻し成果を確認するためのもの。人間のように、絶対に必要なものではない。

 だから、いつも見ていた。ドリーミングが、黒い綿毛羊を潰すところを。

 ドリーミングはきっと気付いていないだろう。ドリーミングの見続ける悪夢を、悪夢を見続けていることを、ナイトメアが知っているだなんて。

(知るべきじゃ、なかったんだろうな。)

 人間でないものは、存在と行動の矛盾や存在理由の消滅などであっけなく消えてしまうことがある。

 ナイトメアとドリーミングは全く逆の存在であるが、ドリーミングに消えてほしいとは思わない。むしろ、消えてほしくないとすら思っている。

 これは言うべきでない言葉。聞かれるべきでない言葉。だから、心の内でだけ。

(おやすみ、ドリーミング。良いゆめを。)

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短編小説集~現代ファンタジーの章~ 夢現 @shokyo-shoujo

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