船首岬の人魚様
船首岬の人魚様
がたん、ごとんと規則正しく電車が揺れる。さっきまでその眠気を誘うリズムのそそのかすままに惰眠を貪っていたけれど、寝すぎてそんな気も失せてしまった。ほんの少しだけ開けられた窓から、ほんの少し粘っこい匂いが漂ってくる。海の匂いだった。
『終点、———駅。終点、———駅。お降りの方はお忘れ物ありませんようお気を付けください———』
どこか気だるげに聞こえるアナウンスに従って立ち上がり、キャリーバッグを持って降りる。案の定俺以外に降りる客はいなくて、電車はすぐにUターンしていく。運転手が気だるくもなるわけである。
「陸人。」
俺を呼ぶ声に振り向くと、地味目ながらも垢抜けた服装の人が立っていた。肩を越すぐらいの髪を押さえる仕草は記憶そのまま。
「みい姉さん。迎えに来てくれたの?」
「ええ。折角免許取ったから、行っておいでって父さんが。」
「免許取ったんだ?」
「うちの町には車がないと行けないもの。…さ、行きましょう。こっちに車が止めてあるわ。」
銀色の軽は危なげなく発進。ちょっと遅めかなと思うスピードで走っていく。とは言ってもすれ違うのは車でも人でもなく、風と草木と時々動物。だから誰も文句は言わない。
「大きくなったわね、陸人。」
景色に意識をやっていたから、突然話しかけられて少し慌てた。
「前に会ったのメチャクチャ前じゃん。俺もう高1だから。」
「もうそこまで行ったの! びっくりだわ。ついこの間まで絵本読んであげてた気がするのに。」
「みい姉さん、それ、前も聞いたから。」
「あらほんと?」
「うん、マジで。」
突然何かに乗り上げて、大きく揺れた。舌を噛みそうになる。
「大丈夫? 陸人。石か何か踏んだのかしら…。」
「だいじょーぶ。」
「それならいいけれど…。」
「みい姉さん相変わらず過保護。」
「まあ! そんなことないわよ?」
「そんなことあるって。」
久々に会ったいとこということで、会話はいつまでたっても終わらない。いい加減に話すのに疲れてきたころ、ようやく視界が開けた。
「相っ変わらず、ド田舎…。」
「ん? 何か言った?」
「…別に。」
「そう。」
軽は驚いたことに舗装されていない道を走っていく。みい姉さん曰く、道路の管理するお役所が遠すぎて道路がアスファルトにならないらしい。隣の町との距離もそれこそ山1つ分くらい挟んだ位置にあるし、最寄り駅からは車で15分。目の前は海。反論しようのない陸の孤島が俺のじいちゃんばあちゃんが住む町だった。
生垣の向こうにある手作り感満載の駐車場に軽を止め、ロックを外してもらって車の外に出る。
引き戸を開け、俺は大きめな声で言った。けど久々過ぎて他人の家みたいに思えて、自分の予想よりは声が出なかった。
「じいちゃ――ん、ばあちゃ――ん。こんにちは――!」
一瞬の間が空いてから、ばたばたと足音が近付いてきた。
「おお、陸人か。久し振りだな。」
「いらっしゃい、陸人。本当に久し振りねえ。まあまあ、すっかりお母さんそっくりになって……。」
「…じいちゃんもばあちゃんも、なんか縮んだ?」
「まっ、あなたが大きくなったんじゃないの!」
ぺちんと背中を叩かれる。全然痛くなかったけど、妙に懐かしかった。
夏休みの間使う部屋に案内してもらって荷物を置き、縁側でぐうたらする。何せここは陸の孤島。テレビのチャンネルも少ないしパソコンもない。やることまったくないのである。
ケータイが一応使えることだけが、唯一の救いだがずっとケータイを見ているとばあちゃんにいい顔されないので、こうしているしかない。
すると、生垣の向こうに人の頭が見えた。
「おっちゃん! 久し振り!」
「…おお! 陸坊か! 何年振りだ?」
「最後に来たのが小4の冬休みだから、ざっと…5、6年振り!? うわむっちゃ久し振りじゃん俺!」
「ま―たでかくなったなぁ。」
「そ―だ、おっちゃん。なんか暇潰せるとこない?」
「暇だぁ? 若もんは海ででも遊んでやがれ! ……ああでも、『
「船首岬…それ、向こうにある尖った岬だろ? なんでダメなんだっけ?」
「あそこには、『人魚様』が住んでんだ。攫われっちまうぞ。」
「『人魚様』は自分を好きになった奴を攫っていくんじゃなかったっけ?」
「んだよ、覚えてたのかよ…。とにかく、ダメだからな! 落ちたら危ねえし、行くんじゃねえぞ!」
「…分かった。海辺歩いてくる。」
「そうしろそうしろ。」
一応じいちゃんに声をかけてから外に出て、海の方へ歩いていく。それだけでひそひそ話している姿や窺い見る視線を感じる。ド田舎のこの町は変化に敏感だ。明日には俺のことは町中に広まっているだろう。
町の中心部から離れ、十分に人の目がなくなったのを確認する。辺りも軽く見回す。そして、俺は全力ダッシュした。
姿勢は低めで。常に周囲に気を配りながら。住宅地から離れたところにある海へと続く坂道。分岐しているそれの上へと昇っている方へ。周りは山道っぽいけど、足元は丸太で階段みたいなのが作ってあるし、道はけっこう踏み固められていて走りやすい。
「…まだ『人魚様』伝説は健在みたいだな…っと!」
ラストスパートを駆け抜けた先には、小さな祠が建っている。昔、おっちゃんがここにお供え物を持って祈りに行くのについていったことがあるから、道は覚えていた。
祠は定期的に建て直されているらしく、いつも大体きれいだ。格子扉の向こうには、紙皿にのったウサギのリンゴが置いてあった。
祠の後ろは少し歩けば断崖絶壁。覗き込めば真下は海。
船の船首みたいな形をしているから『船首岬』というらしい。そして、ここには町に伝わる不思議な存在、『人魚様』が住んでいると言われている。
が。
「誰もいねーけど、な。」
もしも、『人魚様』とやらがいるのなら。俺を海の底へ攫っていったりするのだろうか。
「そんなこと、しない。」
「うわ!?」
心を読んだかのようなタイミングで誰かの言葉が聞こえ、俺はひっくり返りそうになった。
「落ちるよ? 私は大丈夫だけど、ヒトの貴方が落ちたら死んじゃう。前に落っこちた人は、そうだったもの。」
恐る恐る、振り向く。そこには1人の少女が立っていた。
白いシンプルなワンピースを着ていた。ゆるくウェ―ブした髪は自分のよりも少し淡い亜麻色。そして、何より目を引くのはその瞳。晴れた日の海を切って、嵌め込んだみたいな。人間にはありえないぐらい、きれいな青だった。
「貴方は、何を叶えてほしいの?」
その少女は尻餅をつく俺の横を素通りし、何やらきいと音を立てた。そうして回り込んできた少女の手には、ウサギのリンゴがのった紙皿が。
「なあ…それ、さすがにやばいんじゃ…。」
「やばい?」
「それ『人魚様』に捧げられたお供え物だろ? 勝手に食べたら大目玉………って、まさか。」
「? まさか?」
こて、と首が傾げられる。本気で不思議そうだった。
「なあ…お前、何?」
「何? なに…私は、人魚。」
あっさり言われて、ふうんそうかと流してしまいそうになった。
「に…人魚、て。冗談キツイぜ。」
「冗談じゃない。私は人魚だから、人魚って言った。」
止める間もなく少女はしゃりしゃりもぐもぐとウサギのリンゴを頭から頬張ってしまう。
ぺろっと唇を舐め、少女は町の方に目を向けた。
「どうしたんだよ…。」
「『お願い』されたから、雨、降らせる。」
もう言葉が出なくて、口をぱくぱくさせることしかできない。そうしていたら、笑われた。
「お魚みたい。」
むっとした。口を閉じる。
「怒った? ねえ、怒った?」
不安そう、というよりは好奇心旺盛な猫が何してるんだろうと目をきらきらさせている様子に近かった。
俺の顔を覗き込んでくるものだから、青い瞳が目の前に。
ぞくっとした。そのまま吸い込まれてしまいそうな、小さな海。それが、こんなに近くに。
このまま吸い込まれたら、どうなるんだろう。飛び込んでみたい。この、青い海に。
「なぜ触れるの?」
気が付けば、少女の頬に手を添えていた。少女の頬は俺の手よりもひどく冷たい。
魚の体温だ、と思った。
「…ごめん。無意識。」
「むいしき。」
「気にしないでいいってこと。」
「そう。じゃあ、気にしない。」
少女は一歩、二歩と俺から離れてくるりと町の方を向く。
そして、遠くの誰かを呼ぶみたいにおいでおいで、と手を動かす。
しばらくそれを続けて、飽きてしまったのか始めたときと同様唐突に手招きを止めてしまった。
「もういいのか?」
「うん。もういい。来てくれるって。」
何故か俺の横に、体育座りでちょこんと腰掛ける。そしてボ――――っと待つこと約2分。
「あ、ほら来た。」
少女の指差す方向から、鈍い色の雲がのそのそとやって来ていた。鉛色の亀が空を悠々と泳いで、太陽を遮ってしまう。
雲からぱらぱらと雫が落ち始める。あっという間に土砂降りの雨になった。
「『お願い』、完了。」
少女の声に横を見ると、びとびとに濡れそぼっていた。当然だ。雨の中、傘も差さずに体育座りしているのだから。
亜麻色の髪は海藻のように少女に絡みつき、白いワンピースはほとんど透明になって、体にぴったり張り付いている。
胸元の、小さくとも確かにあるふくらみに目が吸い寄せられた。ちんまりと尖っているから下着をつけていないことも、はっきりとわかってしまう。
どくん、どくんと鼓動が高鳴る。これでも高校では女子と付き合ったこともあるし中学も含めればもっとたくさんある。なのに、このザマだ。鼓動は収まってくれる気配もない。
「顔、赤い。」
「き、気のせいだ!」
「気のせいじゃない。耳まで真っ赤。」
ちょんと耳に雨粒より冷たい指が触れる。さらにどくどくと鼓動がうるさく、激しくなる。
始め驚いた冷たさも、今は何とも思わない。指の感触だけが、胸を大きく騒がせる。
「ヒトがずっと雨の中にいるのは、よくない。」
また、青い小さな海が目の前に来た。濡れて額に張り付いた髪を、指が優しくかき分ける。
瞳から。顔から。体から。少女の全てに目が釘付けられて、動かない。
ぺち、と頬が手に挟まれる。無理矢理顔が近付けられる。
「帰った方が、いい。ヒトには家があると聞く。そこに、帰った方がいい。」
「…いや、だ。」
「どうして?」
「…次、ここに来た時に、お前がいるかわからないから。」
少女は、一層不思議そうな顔をした。
「どうして。私と貴方は、今日会ったばかり。」
「…俺にも、わからない。」
でも、このうるさい胸が。
別れたくないと、叫ぶのだ。
身じろぎした拍子に、サマージャケットのポケットがかさりと鳴った。
正確には、ポケットの中のものが。
俺の手は、勝手にそれを掴みだしていた。
「『お願い』だ。また俺が来たとき、ここにいてくれ。」
グレープのキャンディーを、少女が手に取る。
裏返したりつついてみたりするものだから、見かねて袋を開けてやる。
少女は、雨に濡れるよりも早くそれをぱくりと咥えた。口の中で、ころころと転がす。
「ぶどう?」
「ぶどう。」
「飴?」
「飴。」
奇妙なやり取りに、ついつい噴き出してしまう。
「わかった。『お願い』される。あなたがここに来た時、私も出てくる。」
「…ありがとう。」
「飴おいしいから、いい。」
「そうか。」
また笑いがこみあげてくるから、一旦少女から顔を背けて笑いを収めようとする。
顔をあげたとき、少女はいなくなっていた。
でも俺の手の中には、確かに空のグレープキャンディーの袋が残っていたのだった。
俺は来た時同様辺りに気を付けながらじいちゃんの家へと戻った。
じいちゃんやおっちゃん、みい姉さんにはやたらと心配されてしまって、でも目的地が言えないから誤魔化すのが大変だった。
風呂に放り込まれて、熱いシャワーを浴びて気付いた。頬に、額に、手に。
魚みたいに冷たい体温が、まだ残っていたことに。
「人魚…か。」
明日、彼女が呼んだ雨が止んでいたらまた何かをもって彼女のところに行こう。
もちろん、皆には内緒で。
みい姉さんが作ってくれた手巻き寿司を食べ終わって、布団に転がる。
意外と疲れていたのか、案外すぐに眠ることができた。
△▽△▽△
翌朝、雨は止んでいた。でも、けっこうさっきまで降っていたのか世界がまだ、瑞々しい。
朝食は普通に食パンだった。この町は海がすぐそこにあるから、船便で様々な生活雑貨が届くのだと聞いた。
「コンビニもあるから、お腹すいたら何か買うといいわ。お金は大丈夫?」
「ん。大丈夫。」
「そう。…また、海に行くの?」
「そのつもり。」
正確には『船首岬』へ行くのだが、みい姉さんにも話せない。
『人魚様』のところへは『お願い』をしにいくとき以外あまり行ってはいけないのだ。
この町生まれの子供なら、まず釘を刺される。
「泳ぐつもりなら、気をつけてね。離岸流に流されると、あっという間に沖へ行ってしまうから。」
「わかった。…みい姉さんって、やっぱり過保護。」
「もう! またそんなこと言って!」
「ははは、じゃあ、行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
みい姉さんとその両親であるおっちゃんとおばさんはじいちゃんの家に同居している。
代々漁師をしているのだと言っていたか。昔、一緒に釣りに行った記憶があった。
「また釣りに行くのも悪くないかもな。」
ぽつっと小声で呟いてから、コンビニへ行く。その途中、予想よりもたくさん人がいるのに驚いた。
田舎の朝は早いということだろう。
「あのぉ、ちょっといいですかぁ?」
妙に鼻にかかったような声だった。振り向くと、数人の女子が固まってこちらを見ていた。
目は媚びるような上目遣いで、タンクトップから覗く肩は日焼け止めのせいで斑に白かった。
「満香さんのいとこの、陸人さんですかぁ?」
「…そうだけど、何。」
さすが田舎。個人情報もクソもない。
「私たちも今から海、行くんですけどぉ、よかったら一緒に行きませんかぁ?」
道理で全員タンクトップだったり短いスカートだったり足元ビーサンだったりするわけだ。
「オススメの場所とか教えますからぁ、都会のこと教えてくれませぇん?」
期待に満ち満ちた表情。もしかしたらこの女子はこの町のヒエラルキーでは結構上にいる方なのかもしれない。他の女子は声も発さないし、俺を見やる目もどこか諦めムードが漂っている。
確かにこの女子、顔はそこそこいい。だが。
あの吸い込まれるような、否応なしに視線を攫っていくあの魅力は、ない。
「…悪いけど、昨日来たばっかりで疲れててさ。また今度誘ってくれる?」
「…そうですかぁ。じゃあまた今度~~~。」
一瞬瞳の色が、苛立つように光った、気がした。
女子の群れが去った後、しばらく町をぶらついて暇を潰す。
万が一にでもあのふたつに分かれた坂道を上に上るところを見られてはいけないのだ。
悪いことをしているとの高揚からか、高校では味わえないワクワク感がする。
見つかったらきっと怒られる。ド田舎だからこそ、見つかったときのリスクはより大きい。
でも、その分感じるこの楽しさは。
(止められない、よな。)
町から人が減ってきた頃合いを見計らって、坂道を上に昇る。
木々の隙間から船首岬へ出ると、祠のそばに昨日出会ったあの少女がいた。
『お願い』した通りに。
「来た。」
「ああ。来た。」
「来るとは思ってなかった。ヒトはヒトで群れるものだから。」
「覚えとけよ人魚姫。俺は変わり者のヒトなんだ。」
「覚えておく。貴方は変なヒト。」
軽口を叩きながら少女の横へ立つ。想像していたより岬の突端が近くて、足元からぞわぞわした感覚が上がってきた。
これは恐怖か高揚か。それは俺にも、わからない。
「今日は何を『お願い』しにきたの?」
「…いや、特にない。」
少女の首がかく、と固い動きで傾く。
「じゃあ、何しに来たの?」
「…何しに来たんだろうな。」
ちょこんと体育座りをする少女の横に、俺も腰掛ける。空が青くて、海も青くて、水平線はやたらとはっきり見える。
海から吹き付ける強い風が少女の髪を激しく弄ぶ。ぐしゃぐしゃになったのを直しもしないから見かねて直してやるも、全く反応がない。
もう一度海を見て、ふとまた横を見たらいなくなってしまいそうな。
そんな不安を掻き立てられる、静謐だった。
「…食うか?」
コンビニで買ってきたビスケット。好き嫌いも一切わからなかったから、一番無難なバニラ風味の。
「…焼き菓子?」
「まぁ、焼き菓子は焼き菓子だけどな…ビスケットって言うんだ。」
「びすけっと」
「まあ、食え。」
袋を開けて差し出すと、意外と躊躇いのない仕草で花に似た形のビスケットを取る。
妙に恐る恐る、口に運ぶ。
真珠色の歯が赤いくちびるの隙間から覗いて、ぞくりとした。
少女の方は見れなかったが、さくさく、ぽりぽりと咀嚼音が響いてごくりと飲み込む音だけはおかしいぐらいに耳についた。
「…どうだ?」
「おいしい。」
「なら、よかった。」
俺も1つ取り、口に運ぶ。それを見た少女は何故か負けじと言わんばかりの勢いで、2つ3つをまとめて食べる。
「何焦ってんだ? 気に入ったならまた明日持ってくるが?」
俺の何気ない言葉に、少女は目を瞠った。
「また、あした」
「ああ。明日何か食べたいものとかあるなら聞くぞ。」
「…わからない。」
「じゃあ、プリンとかどうだ?」
「ぷりん」
「絶対美味いから。保証する。」
「…じゃあ、それ食べる。あした?」
「また明日、な。雨が降ってなかったら、ここにまた来る。」
「…そう。」
少女はどこか、戸惑っているように見えた。
こういうときには甘い物だ。俺はビスケットをつまみ、少女のほんのちょっぴり開いた口に触れさせた。
ぴくっ、とくちびるが震え、小さなビスケットと一緒に俺の指まで咥え込む。
少しねばついた口の中もやっぱり冷たくて、昨日と同じに魚に触れている気分だった。
ビスケットがなくなって、太陽が傾き出した頃。俺は立ち上がった。
「じゃあ俺、そろそろ帰るから。またな。」
「ん。あした、ぷりん。」
「ああ。また明日。」
「また、あした。」
何もない岬の先から、木々が蔓延る道へ入るその直前。俺は岬を振り返ってみた。
そこにはただ、逆光で変に真っ黒に見える祠がぽつんと立っているだけだった。
△▽△▽△
次の日、俺は天気予報を見て今日1日中曇っていることを確認した。
そしてコンビニに走っていってごく普通のプリンを2つ買う。もちろんスプーンも2つ、つけてもらった。
昨日のあの女子たちに会わないように、そして坂道を上に行くところを見られないように細心の注意を払って俺はまた、船首岬に到着した。
「よう。」
「…本当に来た。」
「約束したんだから、当たり前だろ。…それからほら、プリンも持ってきた。」
「ぷりん。」
「もう食べるか?」
「食べる。」
そんなやり取りをしつつ、また少女の隣に座ったときだった。
がさ、がさと草木の隙間を通り抜ける音がしたのだ。さっき、俺が通ったその場所から。
俺はたちまち凍り付いた。船首岬の先端部分には隠れる場所がない。
祠は小さすぎて子供1人ぐらいしか隠してはくれないだろうし、何よりここには俺ともうひとり、人魚を名乗る謎めいた少女がいるのだ。
見つかれば一巻の終わり。いささか異様とも言える『人魚様』信仰の根付いたこの町のこと、ここに頻繁に来ていたことがばれたら
(どうする。どうする?!)
がさがさと近付いてくる音に諦めようとしたとき。冷たい魚の体温が、俺の手を包み込んだ。
船首岬にやってきた老婆は唐揚げと思しきものを載せた紙皿を持っていて、祠の中に恭しくそれを納めた。それから手を合わせ何かもごもごと呟き、元来た道をがさがさ音を立てて、帰っていった。
「行った。」
ぱ、と俺の手を包んでいた少女の冷たい手が離される。俺はまだついさっき自分の身に起こっていたことが理解できずに呆然と座り込んだままだ。
「さっきのヒトに貴方は見えてない。だから怖がらなくてもいい。」
少女はひょいぱっくんと唐揚げを口に放り込んでいた。
指についた油を舐め取り、少女は祠を回り込んで岬の突端に立つ。それも、あと一歩足を踏み出せば間違いなく海に落ちてしまうほどぎりぎりに、だ。
「…なあ、何を『お願い』されたんだ?」
「海が荒れるから、凪にして、って。」
少女は息を大きく吸い込み、口をいっぱいに開いて。
歌った。
とは言っても声は聞こえない。でも何故か俺にはその光景が、「歌っている」ように見えたのだ。
無音の歌は、ヒトの耳を震わせず。自然に染み渡り広がっていく。
永遠とも思えるほどに長いその
「おしまい。」
さっきまで波の荒かった湾の外は嘘のように凪ぎ、曇った空を映して灰色の鏡のようにも見えた。
改めて思う。彼女はやはり、俺たちとはどこか違うのだと。
それでも。それだからこそ。
「……なあ、名前、教えてくれよ。」
「それは、『お願い』?」
「そういうわけじゃない。ただ、知りたいんだ。」
少女はかく、と固い動きで首を傾げた。
「
「え」
「私の名前、汐。」
空中にゆっくり書かれるさんずいへんと夕日の夕。俺は、その動きをしっかり頭に刻み込んだ。自分でも不思議なほど、必死に。
「貴方は。」
淡々とした言葉に一瞬頭がついていかなかったが、これは俺の名前を聞かれているのだろう。
「陸人。俺の名前は、陸人。」
汐の真似をしてゆっくり空中に陸地の陸と、人の字を書く。
「陸人。」
「なんだ?」
何故だろう。ただ名前を呼ばれただけなのに、これ以上ないほどの歓喜が俺を突き上げるのは。
「ぷりん。」
「………ソウダッタナ。」
汐はぶれなかった。プリンは大層美味しかった。まる。
その次の日はコンビニでアイスを買って、持っていった。
「…陸人、これは?」
「アイスクリームって言うんだ。冷たいけど、美味いぞ。」
「食べる。」
「召し上がれ。」
汐がもどかしげにプラスチックのスプーンを手に取り、アイスを掬う。
そうっと口に入れるとき、いつも口元に視線が引き寄せられる。
赤いくちびる、真珠色の歯。白い肌や長い亜麻色の髪は絹のよう。
(抱き締めたい。)
(キスしたい。)
(…食べてしまいたい。)
食べ物と引き換えにヒトの『お願い』を叶える汐。彼女は、俺のこんな欲までも見ているのだろうか。
「陸人。」
かけられた声に我に返れば、汐の顔が息もかからんばかりの距離にある。
青い海を切り取ったかのような瞳に俺の意識は吸い込まれて、溺れて、魅了されて。
囚われたのは、きっと俺の方。
「…どうしたんだ、汐?」
「あいす、食べた。」
「どうだった?」
「冷たいけど、甘くて美味しかった。」
「じゃあまた近いうちに買ってくるな。」
「待ってる。」
俺は、汐とのこの関係に囚われている。
誰か来たら手を繋いでやり過ごして、汐が『お願い』を叶えるところを見る、この関係に。
俺の持ってきた食べ物を2人並んで食べる、この関係に。
ただ、2人そこにいるだけの、この関係に。
俺は、この町に来てからほぼ毎日汐のところへ行っていた。
だから、だろうか。
船首岬へ通っていることが、ばれてしまったのは。
△▽△▽△
夏休みも半分ほど過ぎて、俺は宿題をいささかのんびりと片付けていた。
また昼から汐のところに行くつもりだ。昼は人通りが多いから、気を付けなくてはならない。でもそのスリルさえも、楽しくて愉しくて仕方がないのだ。
みい姉さんが作ってくれた昼食を食べ、さて今日は何を買っていこうかと考えていたとき。
「陸人、今日もお友達のところに行くの?」
「ん、うん。」
突然みい姉さんに声をかけられた。
「よかったわね、仲のいいお友達ができて。私、実はちょっと心配していたのよ?」
「え、マジ? 大丈夫だよ、そいつといるとすげー楽しいから。」
「あら…もしかして女の子?」
「あ、わかる?」
「ふふ、まあね。…その子の名前、なんていうのかしら。」
「汐、って言うんだ。」
「しおちゃん…可愛い名前ね。」
「本人もめちゃくちゃ可愛い。」
「………メロメロなのね。」
「ばあちゃんとか、おっちゃんには内緒な?」
「ええ。内緒にしておくわ。」
「じゃ、行ってきます。」
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
「ん、わかった。」
その日は汐のためにゼリーを買っていくことにした。
あえて違う種類のものを買って、シェアして食べたかったのだ。
目論見は成功して、汐に「あーん」をしてもらうこともすることもできた。
おれはちょっと得した気分で帰って。
待ち構えていたおっちゃんとじいちゃんから殴られた。
「じいちゃん…おっちゃん…何で……。」
「何でって言いたいのはこっちだ、陸坊。」
「陸人…お前、船首岬へ毎日のように行っていたそうだな? しかも、食べ物を持って。」
「…『お願い』をしに行ったわけじゃ「んなもん知ってら。ただ祈りに行くだけならよかったのによぉ…お前、誰か知らない女にうつつ抜かしてたそうじゃねえか。よりにもよって、船首岬で。」
「…俺が出掛けてる間、何人も祈りに行ってたんじゃないのか、おっちゃん。その人らは俺を見たのか?」
「見てねえよ。誰1人。」
「じゃあ。」「だがな、今日お前が出ていった後に町を隅から隅まで探した。だが、お前はどこにもいなかった。」
「人が見えなくなる、なんて妙なことが起こんのは、あの場所ぐらいだ。」
「それからな、陸人。お前が会っていたという『しお』という子は、この町におらん。」
その話をしたのは。
(みい姉さんだけ—————。)
みい姉さんの姿は今この場に見えないけれど、きっとそういうことなのだろう。
辺りを見回せば、温厚なばあちゃんや控えめなおばさんまで俺のことを冷たい怒りの宿った目で見ている。
そのとき、悟った。
俺に、味方はいないのだ、と。
「お前の部屋は今日からここだ。精々反省するんだな。」
乱暴に突き飛ばされて、肩を強く打ち付けた。暗闇の中、ほとんど唯一と言っていい外からの光が次第に狭く小さくなっていき、完全に消えた。
そこは、蔵の中にあった座敷牢のような場所だった。
幼い頃蔵に入ろうとしてひどく怒られたことがあったが、それはこれを隠すためだったのだと今ならわかる。
「汐…。」
汐に会いたい。心の底から、そう思った。
その日から俺の日々は一変した。
食事は三食みい姉さんが運んできて、体を拭くための水とタオルもくれる。
でも、それだけ。
どれだけみい姉さんに懇願しても、何を考えているのかわからない笑顔が返ってくるだけで出してくれそうもなかった。
俺はその日から、「生きる意思」のようなものを失った。
食事は目に入らず眠りは一向に訪れず、ただ海の方を見てぼんやりと座っているだけ。
俺自身にも自分が何をしているかわからず、ただ心の中は「汐に会いたい」それだけだった。
あるとき、みい姉さんが座敷牢の中に入ってきた。
「陸人、陸人。私よ。わかる?」
「………みい、姉さん。」
「よかった…わかってくれて。さあ、ご飯よ。食べて。そうじゃないと、陸人が死んでしまうわ。」
差し出された匙を、顔ごとそっぽを向いて拒絶する。とても食べたい気持ちにならなかった。今はただ、前みたいに汐と2人、並んでお菓子を食べたかった。
頬を掴まれ、無理矢理みい姉さんの方を向かされる。
みい姉さんの顔がぐっと近付いて、くちびるを押し当てられた。
俺は突然の奇行に対応できず、みい姉さんの舌の侵入を許してしまった。
舌と一緒に押し込まれたのは、さっきから食べさせようとしていた粥だった。
みい姉さんが離れると同時に俺は、激しくえずいた。飲み込まされたものを吐き出したくて、口の中に残る舌の感触がおぞましくて。
指を喉に刺す勢いで突っ込んで、ようやく吐き出した。
吐瀉物には血と胃液が混ざっていたけれど、それでも俺は吐き続けた。
「陸人、止めなさい。」
俺は、澄ました顔で止めるそいつを睨み付けた。
「お前の顔なんか…、見たく、ない!」
「まあ、どうして?」
にこにこといつもと変わらぬおっとりとした様子で微笑むそいつに怒鳴る。まだ自分の体にこんなに力が残っていたのかと驚くほどに、大きな声が出た。
「お前が! お前が裏切った癖に! お前は味方だと思ってたから話したのに! それを…お前は…っ!」
「まあ、何を言っているの、陸人。私は今でも貴方だけの味方よ。」
「先に裏切ったのは、貴方じゃない。」
いつもの穏やかで優しい声とは似ても似つかぬドロドロとした怨嗟と嫉妬と、ありとあらゆる悪感情のビスク。
顔はいつもと同じはずなのに、それはひどく恐ろしい。
「陸人、貴方が他の女の子なんか好きになるからいけないのよ。私はこんなにも、貴方のことを愛しているのに。」
伸ばされた手が怖くて怖くて仕方がなくて、全力で振り払う。
それでも手は、伸びてくる。
頬に触れる。頭に触れる。肩に触れる。腕に触れる。足に触れる体に触れるくちびるに触れる目に触れる。
あらゆる場所に、毒を塗り込まれていくような。
「大丈夫よ、陸人。私が貴方を守ってあげるから。ここにずっといて、ここでずっと暮らしましょう。」
「ね? 私の可愛い陸人。」
がくがくと全身が小刻みに震えていた。
目の前で慈母のごとく微笑むこの怪物が、怖かった。
「おとなしく、しているのよ。」
耳元に最後の毒を、ひと塗。
俺がようやく動けるようになったのは、その日の夜になってからだった。
「しお」
「あいたい」
会いに行こう。あの、愛しい人魚姫の元へ。
お誂え向きに怪物が帰ってきた。怪物が座敷牢の扉を開ける。
その瞬間。
「きゃあぁっ!」
タックルは上手く決まった。けれども俺の体は想像以上に弱っていたらしく、怪物は尻餅をついただけだった。
よたよたと、走り出す。そのうちどこからともなく力が湧いてきて、座敷牢を出た直後よりはまともに走れるようになってきた。
見えてきた、海へと向かう二股の坂道。
その、上へ上る方の前に。
にっこり笑った、怪物が。
「お前…何で、ここに…。」
「もう、私がここに十何年住んでると思ってるの? 近道の2つや3つや4つぐらい、知っているわ。」
ゆっくりと、歩いて来る。よく見れば、その手には華奢な果物ナイフ。
「そんなに会いたいのね、しおちゃんに。」
「でも、だめ。貴方は私のものだから…しおちゃんには、死んでもらうわ。」
怪物は、くるりと背を向け坂道を登ろうと歩き出した。
このとき唐突に、俺はこの怪物との血の繋がりを実感した。
俺たちは、そっくりだったんだな、と。
俺は少しだけ微笑み、
俺の体に、鞘になってもらうことにした。
意外と軽い衝撃がきて。熱い何かが込み上げてきて。げぼ、と口から血が溢れ出た。
「……あ。あ、あああああああっ、い、いやあああああああああああああああああ!!!!!」
悲鳴を上げてへたり込むみい姉さんの横を通って、木を支えにしながら坂道を上る。
ようやく祠が見えてきたと思ったら足にあんまりにも力が入らなくて、がくりと膝をつきそうになる。
でも、大丈夫だ。
ここには、『人魚様』がいる。
傾ぐ体は、途中で止まった。受け止めたのは。
「汐…。」
「陸人。真っ赤。」
「久し振りに会った第一声、それかよ。」
「だって本当に、真っ赤。大丈夫?」
「大丈夫じゃない! …げほっ」
「ヒトのところに戻って、手当した方がいい。」
「いや、これヒトにやられたやつだから。…それよりさ、汐。」
「?」
「会いたかった。」
「ん、私も。待ちくたびれた。」
ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が陸人の白い額に落ちた。それは、激しさを増していくばかり。
「汐。」
「何。」
「ふたつ、お願い。」
「何?」
「キスして。それから…、俺を、連れて、いって。」
「いいよ。」
にわかに岬の先端へと続く坂道が騒がしくなる。おそらくは、陸人を追ってきた人々が追い付いてきたのだろう。
「し、お。」
「ん。」
「好き。大、好きだ。」
「ん。」
「あい、してる。」
「ん…」
『人魚様』としてでなく、『汐』として。
願われたままに。息を絡めて、くちびるを優しく重ねる。
鉄錆の味がする舌と、自分の舌とを軽く絡めて。
自然ならざる赤色に、くちびるを染め上げて。
汐は、顔を上げた。
どこか自分と似たような端正な面持ちと、亜麻色の髪をした少年。
陸人を抱いたまま、いつからか置かれた祠の向こう、船首岬の端の端に立つ。
「行こう、陸人。」
「あ、あ…。」
陸人を追って、泣きじゃくる満香から事情を聴いて。慌ててきつい坂道を上ってきた町の人々、及び彼の親類縁者たちは見た。
陸人を抱いて岬の突端に立つ長い、長い亜麻色の髪をした少女を。
少女の体から光が迸り、その姿が変わっていくのを。
陸人をその手に抱えた海と同じ瞳の色の真っ白な竜が、空の彼方へ飛んでいくのを。
むかーしむかし、ある小さな村に一人の美しい娘がおりました。
亜麻色の髪と海と同じ青い目を持ったその娘には不思議な力があり、雨を降らせたり荒れた海を凪にすることができました。
あるとき娘が言いました。
「わたしは人ではないのです。人ではないわたしたちの掟で、わたしはもう人として生きることができなくなったのです。」
でも、と娘はさらに言いました。
「わたしはこの村の守り神として、あなたたちを見守りましょう。わたしに頼みたいことがあるのなら、食べ物を供えてください。そうしてくれればわたしはあなたたちの『お願い』を叶えましょう。」
と。
こうして娘は空飛ぶ魚のような姿になって、雲の向こうへ消えていきました。
こうして娘はいつしか人の姿と魚の姿を持つ守り神、『人魚様』と呼ばれるようになったのです。
おしまい
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