絶対値たちの相対値


「あ。」


なんとも間抜けな声が、互いの第一声だった。

あと少しでいつか離れたあの場所が見える、

そんなところで彼が男が彼女が少女が出会った。

おまえもあの心を見に来たのか、と男は声が出ない。

彼が何を背負わされたのかを直視できない。

その目を逸らしてしばらく沈黙が続く。

そもそもだ。


そもそも、なんでここに来てしまったのか、彼は考えていた。

来るはずがなかった。

いくら傍に誰かが居たとしても、来るはずがなかった。

自分たちはただ少年を探しているだけのはずだ。

近い。

あの日が、あの悪夢が、あの現実が。

指先が触れるかどうかの距離で崩れてしまった心。

叶わなかった想い。


沈黙のまま、誰からともなくその方に向かう。

なぜかはわからないが歩き出す。

足取りは重い。

少女が声をあげた。

指したその向こうに、 少年が立っていた。

その広がる混沌の跡地のすぐ縁に。

心はそこにある。

男はそれを目にして一歩も動けなくなった。

自分が放した結末が男を襲う。

柔らかいかつての心。


「さて、もう一度問おう。 君はどうしたかったんだい?」

少年は笑顔で続ける。

「君たちは、どうしたいんだい?」

雨が降り始めた。

ぽつり、ぽつり、ぽたったった、たったったざー。

その地が濡れる。

染みが雨に濡れて混ざる。

もうどこが乾きとの境界なのかもわからない。

「心はここに在るか」


雨でぐしょぐしょになりながら誰もが立ち尽くしていた。

道に水が溜まり始め、その足元は浸かり始める。

染みが雨に溶ける。


「あるよ」

明るい朗らかな声で答えたのは少女。

なににも負ける気のない瞳で少年に向かう。

雨の音が轟音のように耳を打つ。

「見えなくたってあるよ。そんなものたくさん知ってる」

居た場所から離れて初めて知ったこと。


乾燥との境界を失って足もとが浸かり始める。

形を失った心がどうなってしまったのか、それでも少女はそこにそれがあると言う。


彼はくるぶしを覆うほどに溜まった水を、その手で掬った。

「形が変わってしまっても、こうして触れることはできたのに、

どうして絶望したんだろうな」

彼はその両手に溶けた心を抱く。


その顔は雨に濡れてどこか微笑み。

そして彼は両手をそのまま、男に差し出した。

形がないなら形の中に。

崩れたものを無理に元通りにしなくていい。

全部元通りでなくてもいい。

男はおそるおそる手を差し出してその水をいれる。

そうして水を溜めた両手を胸元に、

「すまなかった」 それは自然に口から出た。


誰もがそれを見た。

大雨の嵐の中に人が象られていく様を。

それはもう随分前に失われた心の形。

心は目の前の男を、彼を彼女を少女を、 そして少年を見た。

頑健な四方八方の壁はない。

そこにあるのは生身の心。

雨にも風にも水にも負けない心。

「やっぱりきれいだ」 彼はそう言って笑った。


「これでみんな歩き出せるでしょう?」 少年も笑った。

雨が、あがる。

あれほど前が白くなるくらいに、道を川のようにした雨が。

黒い雲隙間から光がこぼれる。


「なぜだ。そもそもお前は誰なんだ」

心は少年に問う。

その声は少し恨みがましく。

「僕は無くなるはずだった一欠片」

あの日、あの嵐、 一度は心を崩したその手は昔、自分を救ってくれた。

そして少年は彼を見た。


「救ったその手で、崩したその手。最後は未来を掬って終わり」

少年は彼に頭を下げた。

あの日、自分を諦めないで助けてくれた手。

彼もまた軽く頭を下げる。

「君が突然来た時、何事かと思った」

「あなたにもう一度誰かが必要だと思ったんだ」

怖くても 閉ざさないでその扉。

怖くても開けてみてその扉。


そうしてみんなが帰路につく。

帰る場所はまちまちで。

ここはただの交差点。

彼女は彼に、男は心に、それぞれの言葉を告げて、新しい風が吹く。

跡地は跡形もなくただの地面に。

そして歩き始める。

俯いて一人歩き出す少女の横に彼と少年が追いつく。


「さあ、"一緒に"行こうか」

その手を取って。

あの花を見に帰ろう。


おわり



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「手縫いのこころ」 Uamo @Mizukoshi_27

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