導関数f’(a)

轍無き路を真っ直ぐ、真っ直ぐに。

少女は先に先に進んでいく。

どこへ行くのかも知らないまま。

その少し後ろを彼が歩く。

その小さな背中を後押しするように、その小さな姿に引っ張られるように。

そして不意に足が止まった。

この道は、いけない。

この道を行ってはいけない。

この道は、行けない。


だいぶ先まで行ってから少女は後ろが無人なことに気づいて引き返す。

彼の足は止まっていた。

その顔は表情をなくしていた。

少女がその手をひいても彼は動かなかった。

体格差がある。

もともと物理的に力の差がある。

彼はぴくりともしない。

少女は彼の正面に立った。

互いのことを何も知らない。



二人が立ち尽くしてからどのくらい経っただろうか。

自分はこの先には行けないから行ってくるといい、彼は少女に告げた。

「怖いものがあるなら一緒に見よう?」

その思わぬ言葉に彼は逸らしていた視線を合わせた。

目が強く、行こうと誘っていた。

少女はずっと彼の手を掴んでいた。


"一緒に"?



「生まれた時からたくさんの荷物を持ってたの」

少女は初めて、本当に初めて自分についての事を口にした。

「私には要らないと思うものばかりで、私は見向きもしなかった。

みんなが私を悪い子だと言った」


一呼吸置いて少女は続けた。

「見たくないものを見なくていい理由が欲しかったの」


少女はそこで言葉に詰まった。手に力が入る。

「たくさんのものを投げ出して何も見ずに自分だけを見てきたの」


ただ在るだけで幸せだった、当然だ。

あんなにも自分勝手に誰の気持ちも考えずに好きにした。


「そしたらみんな居なくなっちゃった」

それでいい人もいるだろう。

だが、少女は違った。



なんの反応もなく、誰の声もない。

自分に何か声をかける者もない。

勝手に庭に出るだけでも怒られていたあの日々が本当に嫌だったのに、

庭のきれいな花を誰ともわかちあえない。

呆れる声があんなに耳障りだったのにどうして。

「見たくないから見ずにいたら、」

そこで堰を切ったように少女は泣き出した。


少年と歩いてわかった。

あんなにきれいだと思った外にはたくさんの陰があった。

陰には影が濃くあって、強い光の裏側があった。

自分が誰でもいいということは、

自分の外側が誰であるかを頼れないことだと知った。

けれどこの身には確かな内側がない。

あの小さな箱庭で自分の見たいものしか見てこなかった少女には、

外界と戦う術がない。


守られていた。

護られていた。

多くのものに。

多くのことに。

そして自分はただ身勝手でわがままで何も出来ないただの子供。

それを自覚し始めた頃に少年が少女を彼の家に導いた。

少年も彼も何も訊かず、何も言わず、ただそこに居た。

いい天気だ、気持ちがいいね、花が咲くといいね、


ねえ咲いたよ。

咲いたからあなたにも見て欲しい。



ただ泣きじゃくる少女を前に彼は立ち尽くしていた。

そうしてだいぶ時間をかけてから、そっと抱き寄せてその頭を撫でた。

壊れ物を触るように。

これが正しいのかも彼にはわからない。

ただ腕の中に温かい生き物が居て、自分にしがみついていた。

少女には彼しかいないのだと、その手が語っていた。



男は足跡をたどる。

あの日に向かって、その道を逆に行く。

見るも無惨な、と少年は言った。

あの少年が何者なのかは知らないが、あの少年が知っている事は解っている。

巷の噂は本当ではないのだ、と。

罪の在処を少年は知っている。

気が重い。

どんな風に変わってしまったのか。

男は何度も足を止めた。


もう終わったことだ、忘れていいじゃないか。

あれはもう過去のことだ。

毎日楽しく生きればいいじゃないか。

男は己の影を見る。濃く黒く深く。

自分はそっと降ろしただけだ。

それ以上のことは何もしていない。

何も悪いことなどしていない。在処以前に、罪などそこにはない。

けれど影には亡霊が映る。



あの日のことが鮮明に強く影を灼きつける。

恨んでいるだろうか。

怒っているだろうか。

今さら許すも許されたいもない。

なにも罪はないのだから。

男は自問自答を繰り返しては止まったところから、のろのろと歩きだす。

彼は今何処にいるのか。

壊したという噂、彼は何をしたのだろうか。


男はかなり近くまできて、やはり足を止めた。

そして向きを変えた。

いまさらだ。

すべてが。

広まった噂は消せないし、わざわざ直す必要も無い。

もしかしたら余計なことかもしれない。

そうだきっとそうだ。

心はきっと会いたくなどないだろう。

いや、もはや何も感じないかも。

どちらにしても無意味だ。


「待ちなさいな」

知った女性の声だ。

振り返るとそこには彼女が立っていた。

染みを下敷きにした時と同じように仁王立ちだ。

その久しぶりの顔は、怒っていた。

男は久しぶりだな、と声をかける。

他に何を言いようもない。なぜこんなところに、都合よく彼女がいるのか。

今この時に。

彼女は男に近づく。


少年に頼まれたのだと彼女は言った。

あの時後ろをついてきた、あの少年だろう。

あの子は何者なのか。

それよりなぜ彼女が、と男が思ったところで、行くわよ、と彼女は歩き出した。

男が当初向かっていたほうに。

待ってくれ、一体なぜ、と男は動けずに投げかける。

彼女は答える。


「私たちは総て清算すべきよ」


ええ、心。

あなたもよ。

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