松藤四十弐

 駅前のロータリーは、濡れて光っている。水溜りの向こう側にはネオンがあって、スナックの看板からは、熟年の笑い声が聞こえてきそうだった。折りたたまれた傘が何本か、僕の近くを通過していった。

 目の前にいる占い師の女は、小さな椅子に座り、小さなテーブルに置かれた鏡を見ながら、僕の前世を覗いている。黒いフードを深く被り、アラビアンなマスクをしているが、なんとなく若そうだった。そんな女に、タダでいいからと呼び寄せられてから、かれこれ5分が経っている。女と同じ小さな椅子に座っているせいか、お尻が痛くなってきた。腕時計の針が、終電時間を焦らしてくる。

「わかりました」

 ようやく聞こえてきたのは、変に訛りのある声だった。

「あなたは、恋愛面で苦労します。例え成就しても一時的で、最後は破滅します」

 占い師の女が言うには、僕は深い業を背負っているらしい。前世の悪行のせいで、現世で恋愛成就は不可能らしかった。

「でも、安心してください」

 女は顔を上げた。怪しい目元が見えた。

「1000万円で」

「もう行きます」

 僕は傘と鞄を持って立ち上がった。

「1000万円で恋愛の悩みはゼロになるんですよ?」

「お金はないし、恋愛には困ってません」

「今後、後悔するかもしれませんよ。後払いでもいいです」

 僕は女を一瞥して、駅へと歩を進めた。

「一番必要なのは覚悟と非常識です」女が少し大きな声で言った。「いいですね。覚悟と非常識ですよ」

 雨はまた降ってきそうだった。僕はエスカレーターを使わずに、改札口に続く階段を登った。

 僕は街をぶらぶらと歩きながら、昨晩の占い師について考えていた。

 さすがに1000万円はふっかけすぎだ。

 そう心で呟いていると、僕の肩が叩かれた。

「ユウジじゃん!」

 声の持ち主を見ると、意外にも大学時代の友人だった。親から買ってもらった左ハンドルの車にはまだ乗っているのだろうか。そんなことを思い出し、ようやく名前が出てきた。

「おお、カイトか」

 僕はそう返しながら、彼の隣で黙っている人を見た。ショーウィンドウの前にいたせいか、一瞬、マネキンかと思ったが生きていた。生きていたというより、光っていた。光っていたというより、月だった。初めてだった。引力を人に感じるのは。

「紹介するよ。婚約者のサキ。彼は友達のユウジ」

「はじめまして」とサキさんは笑顔で言った。

 サキさんは黒髪のショートヘアが似合っていた。潤いのある唇にも、全てが吸い付きそうな白い肌にも、鳩尾あたりが反応した。

「おまえ、結婚するんだ」

「まだ籍は入れてないけどね」

「一週間後なんです。一週間後の金曜日の14時に、この地区の区役所で」

「具体的なんですね」

「俺とサキの約束なんだ」

 背中の方で、通りすがりのおばさんたちの笑い声が響いた。

「結婚式来てくれよ」

「え? ああ、もちろん」

 彼を黙って見ていたサキさんは、笑顔で僕を見た。

「金曜日の14時なんです」とまた言った。

「じゃあ、そろそろ行くよ。また連絡する」と今度は僕の腕を叩いて、彼は歩き出した。

 サキさんは軽く会釈をして、彼に付いて行った。

 残ったのは、妙に嫌な感情だった。それは、時間と共に膨れ上がり、歩くのさえ億劫になり、タクシーを使って家に辿り着いたときには、絶望と名付けてもいいくらいになっていた。天井から輪っかの付いた縄が、ぶら下がっているような気がした。

 とりあえず心を休めようとベッドに入る。しかし、目を閉じると、浮かんできたのはサキさんの顔だった。サキさんは結婚する。カイトと結婚する。訳もわからず悲しくなり、僕は声を出して泣いた。恋と失恋が同時に押し寄せて、引いた。ありえないことだった。

 思わず僕は財布と携帯電話だけを持ち、家を飛び出した。最寄り駅まで走り、息を整えられないまま電車に飛び乗った。占い師のいる駅に着いたときには、どうやって来たのかわからなくなっていた。

 僕は階段を降りて、南口にいるだろう占い師を探した。だが、期待に反し、占い師はいなかった。終電まで待っても姿は現さなかった。後悔しても遅い。女の言葉が、目の前にいるかのようだった。

僕は怒涛の感情と運命に弄ばれたような気がしたまま家路に着き、シャワーを浴び、泣いた。夢の中にサキさんが出てきて慰めてくれたが、それが夢だと知り、また泣いた。

 カーテンが透け始めて、感情の波が一巡した後は、すっきりとした心持ちでもあった。天井は白く、何もぶら下がっていなかった。ただ芯が残っている感覚があり、そのままにしていると醜い花が咲きそうな気配があった。だから、やるべきことは明確だった。

 占い師を探し、この災いを解決し、サキさんのことは忘れて、いつかまた出合うだろう恋愛を成就させる。1000万円は……後払いだ。もちろん値切る。現実的ではない馬鹿な選択だとは思っているが、あの感情をもう一度味わいたくはない。

 それから毎晩、僕はあの駅へと向かった。感情は波打っていたが、初日ほどではなかった。ただ、水曜日になっても占い師を見つけられないことに焦りを感じていた。そもそもあの日は、通勤電車から途中下車をして、一人で飲んでいた。スペインバルで、パエリアと、ハムをつまみにサングリアを飲んでいた。

 もう一度、行ってみるか。行ってみたところで、何が変わるかわからないけど。

 僕はそう思い、あの日と同じ行動をとってみた。僕はパエリアとハムを啄み、サングリアを啜った。雨が降ってきて、すぐに止んだ。あの日に似ていた。

 僕は急いで店を出て、駅へと向かった。アスファルトは濡れていて、水溜まりもできていた。ロータリーは光り、ネオンは騒がしかった。

 占い師もいた。南口の広場に、フードの付いた外套着て、マスクをして、ただ立っていた。テーブルと椅子は近くになかったが、確かに同じ女だった。

「すみません」

 声を掛けると、女はこちらを向いた。

「よかった」とまた変な訛りが返ってきた。「お待ちしていました」

「待っていた?」

「ええ。必ず来ると思っていました」

「昨日や一昨日も来ましたが、いませんでしたよね?」

「ええ。用事があって。まあ、そんなことより、私に用ですよね?」

「はい。……お金は用意していませんが、どうにか運命を変えたいんです」

「お金は後払いにしますか?」

「はい。でも、1000万円は無理かもしれません」

「いいえ。1000万円は必ず用意してもらいます」

「でも」

「覚悟はないんですか?」

 女はピシャリと言った。例外は認めない。そんな雰囲気だった。

「覚悟はあります。いえ、今、覚悟しました」

 女は頷いた。そして、外套の中から紙を取りだし、僕はそれを受け取った。

「それが運命を変えるアイテムです」

「本当に?」

「覚悟と非常識です」

「でも、どうやって?」

「チャンスは一度切りです」

 僕はサキさんの顔を思い出した。そして、彼女との会話も丁寧に遡っていった。

「それでは、私はこの辺で。1000万円は、いずれ回収します」

 女はそう言うと、小走りでロータリーに停まっていたタクシーに乗り込んだ。僕は何も言えずに、そのタクシーが夜に消えていくのをじっと見ていた。

 区役所では、老若男女が入り乱れていた。ほとんどの人が書類を持ち、じっとその時が来るのを待っている。ロビーの時計は13時30分を指していて、僕は2時間前からスーツ姿でここにいた。

 視線は入り口付近と、裏口からここへとつながる通路に向けていた。

 腕時計がもうすぐ14時を指すとき、カイトに手を握られサキさんが、現れた。

「サキさん。カイト」

 僕が声を掛けると、カイトは驚いた表情を見せた。

「どうしたんだ。こんなところで」

 僕は一度だけ深呼吸をして、手に握った紙をサキさんに渡した。

 カイトが眉間に皺を寄せ、それを奪おうとする。しかし、サキさんはその手を払い、紙を受け取った。

「これは」サキさんは僕を見ながら紙を開いた。「婚姻届ね?」

「サキさん、結婚してください」

「ユウジ、どういうことだ」

「カイトさん」サキさんは満面の笑みでカイトを見た。「まだ14時前です。私の勝ちですね」

「ちょっと待て、おまえたちグルか?」

「いいえ、私たちが会うのは、まあ、2回目といったところです。あら、まだユウジさんの証人欄が空いてますね。証人はカイトさんにお願いしようかしら」

「ありえない。嘘だ。認めない」

「いいえ。負けは負けです。約束しましたよね?」

 サキさんはピシャリと言って、僕に向き直った。

「ユウジさん、私はあなたと結婚します」


 映画のようにとはいわないまでも、僕とサキさんは怒鳴るカイトから逃げるようにその場を後にした。逃亡先の喫茶店は、区役所と違い自由な雰囲気があった。縛られた待機はなく、待ち遠しさがあった。僕は目の前にいるサキさんとの会話と、紅茶を待っていた。サキさんはすでに来た珈琲を飲んでいる。

「わからないことばかりです」

 僕が正直に言うと、サキさんは頷いた。

「ごめんなさい。全て話します」

 お待たせしましたと、紅茶が運ばれてきたが、僕は手を付けずに話を待った。

「カイトさんとの縁談は親が持ってきました。私の親は町工場を経営していて、お金に困ることも多くて。だから彼を選んだのでしょう。恋愛感情というのを知らなかった私も少しワクワクしましたが、会ってみると肩すかしで。それでも私以外は乗り気で、あっという間に事は進んでいきました。でも、私は拒みました。理由は……これは、信じられないと思いますが、前世が見えるようになったせいです。他人のではなく、自分の前世です。カイトさんにも話しましたが、信じてくれませんでした。でも、鏡を見ると、前世の私が映るんです。前世の私は恋人を捨て、別の人と夫婦になりました。でも結局、私は捨てられます。私は同じことがもう一度起こるのではないかと、不安で。そして、直談判をカイトさんにしました。婚約破棄をしてほしいと。すると、無茶な条件をつけてきました。他の誰かにプロポーズされること。期限は金曜日の14時まで。自分から告白したり、誰かを雇ったりするのは禁止。私は、その条件をのむしかなかった。親に全てを打ち明けることもできなかった。矛盾してますよね。親は悲しませたくない。でも、結婚したくない。でも、本音です。それから、私は駅のトイレで泣き、洗面台の鏡を凝視しました。すると見えたんです。あなたの顔と、私の求める未来が」

 新興宗教の勧誘みたいだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。もう似た様な場面は経験していた。

「私は占い師に扮し、あなたに会いに行きました。そして、お願いをしました」

「1000万円」

「それもそうですが」とサキさんは笑った。「覚悟と非常識です。親は安心させたいから、お金は必要でした。でも、それ以上に大切なことは運命をなぞることでした。そのために、ユウジさんに行動してもらう必要がありました。私はあなたがどこに現れ、いつどこで出会うかわかっていました。だから占い師になって」

「なんで、変に訛ってたんですか?」

「私自身として直接お願いしたら、カイトさんから提示された、誰かを雇ったりしてはいけないという条件に抵触するかなと」

「変に真面目なんですね」

 僕が笑うと、サキさんは微笑んだ。

「あのとき、鏡で見ていたのは、本当は私の前世と未来です。不安がらせてごめんなさい」

 僕は首を振った。

「それで、ユウジさん。私はあなたが、好きです。それでも、最後に決めるのはユウジさんです。このまま進むのか、去るのか。恨みはしません。全ては私のせいですから」

「……サキさんは、業が深いって言ったけども、僕はそうは思いません。前世では一緒にならないことが正解だったのかも。それでも」

「それでも?」

「それでも、もう二度と離しません」

 僕が手のひらを上にして出すと、サキさんは手を重ねてくれた。そして微笑んで言った。

「1000万円は、一緒に貯めましょう」


 それにしても、このときは、新手の結婚詐欺だとは皆目見当がつかなかった。警察は前世も未来も信じてくれず、ただの婚約破棄だと一蹴された。カイトに連絡すると、彼もブランド物をかなり貢がされたらしい。

 彼女の業に僕はやられた。

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