第3話 里中家-2
雨は、夜半の内に大方止んだようだった。朝になり、空も晴れ間こそ見えないものの、機能に比べれば幾分明るく、風も殆ど凪いでいた。
結局、ほとんど眠る事は出来なかった。シートの上で痛む背中をもぞもぞと動かし、ぼんやりした頭で健一郎はスマートフォンを取り出した。朝八時。あたり一帯の大雨警報は解除されていたが、まだ大橋は通行止めだった。ニュースサイトを見れば、災害区域の空撮映像が映し出されていた。浸水した地域も大分水は退いているようだが、表面はどこもかしこも茶色い泥濘に覆われていた。完全な復旧には、時間が掛かるだろう。
車から降りて、肩甲骨の辺りにぐっと力を入れ音を鳴らしながら、体育館に向かった。まずは洗面所に行って顔を洗いたかった。
薄く雨水の広がる舗装された農道の上を足音をたてて歩き、小学校までたどり着いた。
避難所も朝を迎え、活気というには程遠いものの人々の営みを感じさせる音――話し声や布ずれ、足音がまばらにあった。伏し目がちにすれ違う住民に会釈をし、裏手の手洗い場に向かった。
既に行列が出来ているトイレを横目に顔を洗い、ポロシャツの裾で顔を拭った。
体育館に入り、少しだけ迷いながら昨日訪れたスペースに顔を出すと、もう三人とも目を覚まし、めいめい所在なげに座り込んでいた。
「おはよう」
「おはよう」
「良く寝れた? 車で大丈夫やったと?」
「まあ、それなり」
「今日は仕事はええの?」
「大橋がまだ通行止めだし、ウチがこんなんじゃな。あとで職場に休みの連絡入れとくよ」
「健にい、朝ご飯まだだよね」三千佳が、また昨日のとは違う非常食のパッケージを取り出してきた。
「もう帰っちゃった人も結構いるみたいで、ちょっと余ってるって、町内会の人が」
「じゃあ、もらうわ」
流石に少しは食べなければ保ちそうにない。お言葉に甘えて、受け取った。
「水ある?」
「うん」
ミネラルウオーターの水を入れ、再び手持無沙汰の時間が始まった。
読みかけの小説でも持ってくればよかったな、とそんな時間はなかった事は分かりきっているくせに、ぼんやりと考える。
康二郎が無言で目の前を大股に横切り、出て行った。また煙草を吸いに行くのだろう。
「帰った人らは、家は大丈夫だったってことか」
「そうだね」
「うちの辺りは?」
「まだ、水が退いてないみたい」
俯きがちに、三千佳が答えた。目の下には隈が見える。
「寝れなかったんか」
「こんな時に、ぐっすり眠れないよ」
「まあ、そりゃそうだな」健一郎は笑った。自分も、全く人の事は笑えない。
「親父は?」
「まだ」
「ほうか」
飯を食ったら、少し横になろうと健一郎は思った。そう考えると水を入れて一時間というのは如何にも長い。どこかでお湯を調達すればよかった、と少し後悔した。
辺りの騒がしさに、健一郎は目を覚ました。横になり頬杖を突いた体勢で、船を漕いでいたようだった。
声の主は、康二郎だった。避難所という場所に似つかわしくない大声で、何かを捲し立てていた。
そんなはずは。おい。意味をなさない殆ど掠れたような叫び声が聞こえる。間口から顔を覗かせると、こちらに背を向けた康二郎と、それに相対するカラーシャツ姿の中年男性の姿が見えた。三千佳が、横からとりなすような格好で康二郎に縋っている。傍には晶子の姿もあった。
「確かにうちの親父なんですか、間違いなく」
「損傷は激しいんですが」
「じゃあ違う人かもしれん訳ですよね」
「康ちゃん、もうやめて」と晶子。
「康にいちょっと落ち着いて……すみません」三千佳は康二郎を押さえながら、男性に頭を下げている。
ついにきたか、という思いと、案外早かったな、という思いが半々だった。
徹男の遺体が上がったのだ。
行方不明の報せを聞いてから今まで意識のどこかに予感としてぼんやりとあって、時間と共に確信へと濃淡のグラデーションを経ながら、それでも心の何処かで否定することで何かを支えていたそれが、いよいよ現実に晒され急速に風化しぽきりと折れた。康二郎もきっと同じで、口やかましく発するそれは、折れた後の余波に過ぎない。
身体が一気に重たくなった。
尚も激しく、康二郎は口角泡を飛ばさんばかりに男性に喰ってかかっている。両の手がもう襟に届きそうだった。
「ちょっともう、いい加減にしてよ」
身を乗り出して割って入ろうとした三千佳を、康二郎が振り払い、突き飛ばした。
それを見て、健一郎も頭に血が上った。
殆ど駆け足で近寄り、康二郎の右肩を後ろから掴んで強く引いた。
三千佳の方に気を取られていたせいか、康二郎の脚は踏ん張りが効かず、音を立てて後ろ手に尻餅をついた。
やりすぎだ。ええ加減にしとけや。
そう言うつもりだった健一郎の口を突いて出たのは、しかし全く違う言葉だった。
「みっともねえぞ、お前」
康二郎が目の色を変えた。跳ねるように立ち上がりざま、発条を効かせた足腰で健一郎の頬桁を思い切り殴りつけた。
健一郎は避けない。自分でも失言だと分かっていた。
190センチ近い健一郎の身体が大きく傾ぐほどの、ものすごい拳だった。工業高校時代毎日のように猛威を振るったやんちゃ坊主のそれは、未だ健在だった。健一郎の、目の前がちかちかした。眼鏡がどこかに飛んでいっていた。
「なにしてんの」目の色を変えたのは三千佳も同じだった。康二郎の前に立ちはだかり、強い口調で咎めだてた。
体勢を立て直した健一郎は、どちらも無視した。
「落ち着いて、ちょっと落ち着いてください」目を白黒させて慌てるばかりの男性に向き直り、深々と頭を下げたのだった。
「身内が済みません。お見苦しいところを」
結果的に、それが康二郎の最後の理性を捨てさせた。
再び三千佳を振り払い、無防備な背後から健一郎の顎を目掛けて強烈なフックを放った。
口内で何本かの歯が飛ぶのを感じながら、今度こそ健一郎は床に倒れた。
「康ちゃん、お願いやめて。健ちゃん、大丈夫?」晶子は、もう泣いていた。もしかしたら、訃報を聞いた時からそうだったのかもしれない。
「ちょっと、ちょっと」
男性が流石に止めに入ろうとするのを、健一郎は何とか立ち上がって止めた。
頭がぐわんぐわんと揺れていた。今にも倒れ伏しそうだった。
それでも伝えたい事があった。だから、ぐらぐら揺れる頭を持ちあげて康二郎を睨みつけた。
「康二郎」
何年ぶりになるだろうか。久しぶりに、弟の名前を呼んだ。
「親父はもう、いねえんだぞ」
「だから何なんだよ」
負けじと睨みながら康二郎が答える。
「里中家に、男はもう俺たち二人しかおらんのやぞ」
「だからどうしたってんだよ」
「お前そんなんで、家守れんのか。お袋と、三千佳守れんのか」
「んだとコラ」
「別に喧嘩売ってんじゃねえ。訊いてんだよ」
答えの代わりにやってきたのは、強烈な前蹴りだった。背中の方まで抜けた衝撃を、辛うじて倒れずに耐えた。
「身内面すんなっつってんだよ」
縋りつこうとする三千佳を、康二郎は乱暴に跳ねのけた。
「お前に言われるまでもねえんだよ。今更出しゃばんなクズ野郎」
「何だと」
声を出すだけで精いっぱいだった。
「いい気になってんじゃねえ。お前が大学行って公務員だかなって家に見向きもしねえ時に家に居たのは俺だ。今になって長男ぶって体面を気にしてますみてえな面すんなボケ」
「やめて、康にい」
三千佳は咎めたが、康二郎の言葉は否定しなかった。
「……すまん」
「なに」
「今まで、すまん」
「今更だつってんだクズ野郎」
なおも殴り掛かろうとした康二郎だが、その拳は届かなかった。
健一郎は、弟の拳を搔い潜るようにしてその身体を抱きしめていた。
「離せボケ。気持ち悪りいんだよ」
「蔑ろにしてすまん」
「うるせえ」
「放ったらかしにしてすまん」
「いいから離せようぜえ」
わき腹や背中を殴っていた康二郎だが、思いのほか強い力にたじろいだのか、今度はひたすら健一郎の身体を引き離そうとしている。
それでも、健一郎は離さなかった。
「離せ。てか帰れ、出てけよ。俺らはお前抜きでやってくんだ」
「すまん」
重なる謝罪に、康二郎はむしろ激昂した。
「いい加減にしろ糞が、何様のつもりだ。三千佳が寝込んだ時も親父が骨折った時も、いなかったんはお前だけじゃ」
「それは」
どちらも健一郎は知っていた。三千佳が春先の風邪を拗らせて肺炎一歩までいった事、徹男が階段で躓いてあわや入院とまでなった事、どちらも晶子から聞いていた。それでも帰らなかったのは「別にどうもないけん」という晶子の言葉に易々と乗ったからであり、つまるところ康二郎の誹りを何も否定は出来ない。
「すまん」
「うるせえ、早く消えろや」
「すまん」
「死ね、消えろ」
「すまん」
うるせえ、と康二郎は言おうとして止めた。晶子と、三千佳がしがみ付いていた。
瞼が腫れて視界が狭まった健一郎にも、二人が泣いているのが分かった。
体育館のど真ん中で起こったこの騒ぎを、住民たちが遠巻きに見ていた。
いよいよ口内も腫れて発音を不明瞭にしながら、健一郎は「すまん」と重ねて言葉にした。両の手に、一層力を込めた。
康二郎は、引き離そうと躍起になっていた手を緩めた。そのまま脱力し、兄に抱き締められたまま、空々しく白光る天井の水銀灯を見つめた。
「父ちゃん」
それは、幼い頃の康二郎が父を呼ぶ声そのままだった。
涙を流さぬままに泣くことが出来るのであれば、きっと今のこの二人がそうだった。
これで今までのわだかまりがこれで消えるだとか、和気藹々とした家族団欒を過ごせるだとか、そういう都合の良い事は起らないだろう。そう健一郎は思う。
それでも。少しずつ。
一歩ずつ、おれたちは良い方向に進まなければならない。
そう思った。
<里中家 了>
台風12号 南沼 @Numa_ebi
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