第2話 里中家-1
健一郎が遅ればせながら避難所に乗り込んだ時、そこに父親である徹男の姿はなかった。
予てから母親の晶子に聞いていた通りであり、同時に猛烈に嫌な予感がした。
愛車である2シーターのクーペは道すがら田んぼのあぜ道に停めてきていた。小学校とは目と鼻の先だったが、横殴りの雨はいよいよ強さを増しており、向かい風に逆らうよう斜めに傘を差しながらたった数百メートルの距離を歩いただけで、健一郎の両肩と膝下はしとどに濡れていた。眼鏡に付いた雨滴を拭う暇も惜しんで、家族を探し回った。
「健にい」
「おう、ここにおったか」
探し回る事十分余り、背の高い段ボールで区切られた手狭なスペースのひとつに、見知った顔があった。避難場所に指定された近所の小学校の体育館、里中家のスペースはその中ほどにあった。妹の三千佳だった。
「親父はまだか」
「うん」
焦燥がその顔に浮かんでいた。
半ば予想された答えではあったものの、それを聞いた健一郎の顔は絶望に歪んだ。三千佳が、息を呑んだ。
「健ちゃん、落ち着いてな。お父さん、もう少ししたら戻ってくるから」
晶子が、奥からとりなすように言った。お茶とは言え、ここは避難所である。手に持った小振りのペットボトルを差し出すのが精いっぱいのようだった。体育館の空々しい照明のせいか、母親の顔は健一郎の記憶にあるよりもずっと皺ぶいて見えた。
「田圃の様子見に行って、まだ帰らんのか」
「そうなんよ、でももう少ししたら戻ってくるけん」
もう少しって、それはいつだよ。そう言いかけて、健一郎は思いとどまった。晶子はいつでもそうで、徹男の行動に全幅の信頼を置いていた。
小さい頃は健一郎も康二郎も三千佳も、それを無邪気に信じていた。お父さんは全能で、無敵で、最上の存在である。晶子も子供たちも、また当の徹男も、多くの家庭でそうであるよりもずっと強固に考え、振舞っていた。
「康二郎はどうした」
「外で煙草吸ってくるって」
三千佳の返答に、健一郎はかっとなった。
「ちょっと、喧嘩せんでよ」三千佳が咎めるように言い含めるも、健一郎は構うことなく踵を返した。
「ちょっと待ってって」
慌てて靴をつっかける三千佳を、健一郎は顧みる事もしなかった。
康二郎は体育館裏の軒下で三本目の煙草に火を点ける所だった。壁に背を付けしゃがみ込み、膝の間には短くなった吸い殻が転がっている。軒は大きく張り出していたが、雨は爪先のすぐ向こうの地面を濡らしていた。時折風と共に舞い込む雨滴が煙草を湿らせ、煙草は歪な形に燃えていた。康二郎は構うことなく、口から煙を棚引かせている。
その姿を見つけた健一郎は、苛立ちも露わに歩み寄った。
「何で親父を止めんかったんじゃ」
康二郎は答えない。健一郎を見もしない。
「おい、答えろ」
「うるせえよ」捨て鉢に、康二郎は吐き捨てた。
「何だとコラ」
「うるせえっつってんだよ」
短くなった煙草を、康二郎は投げ捨てた。ぬかるんだ地面に落ち、たちまち音を立てて火が消える。
「行っちまったもんはしょうがねえだろ」
「お前、何言ってるかわかってんのか」
健一郎は、横から康二郎の胸倉を掴んで引き寄せた。
「健にい、やめてってば」
ようやく追いついてきた三千佳が、胸倉を掴む腕にしがみ付いた。たっぷり頭一つ以上は小さな三千佳がいくら引っ張ったところで、大男の健一郎の腕はびくともしない。
「離せや、くそ野郎」
「お前本当にどうしようもねえ奴だな。俺に突っかかる意気地はあんのに親父は止めらんねえのか」
「うるせえボケ」
康二郎が立ち上がった。年子の二人は背丈もどっこいで、並んで立つと異様な迫力があった。
「離せや、殺すぞ」
「根性無しが、できもしねえこと言うな」
二人とも、間近でお互いを睨みつけながら対峙していた。殺気立った凶暴な仕草で、康二郎が胸倉を掴む腕の、手首の辺りを握った。
ずっと半べそでしがみ付いていた三千佳が、ついに泣き出した。
「健にい、ごめんなさい。私もお父さん止めれんかったから」
さすがに健一郎は何も言えず、ただ舌打ちをして握り込んでいた右手の力を緩めた。康二郎も、手を振り払った。
「私も怒っていいから、だからこんな時に喧嘩なんかせんでよ」
健一郎はもう一度舌打ちをしてポケットに手を突っ込み、その場を歩み去った。
「都合のいい時だけ帰ってきて身内面すんじゃねえよ」
その背に向かって、聞こえよがしに康二郎が言葉をぶつけた。
健一郎は、振り返らなかった。
「お父さん、誰にも言わずに出てったみたいで」
ブルーシートの上に膝を畳んで座り、腿の間に両手を挟みながら晶子が申し訳なさそうに言った。
「ほんじゃあ、田圃の様子ってのは」
「多分そうじゃないかなって、思ったけん」
「……ほうか」
今でこそ退職したものの、徹男は地元の小規模な機械工場で働きながら、三人の子をなし、育てた。そういうことが出来る時代だった。偶に休みを取っては、先祖代々の田圃を耕し、苗を植え、手塩にかけ育てては収穫した。稲作だけで食べていけるほどではとてもなかったが、それでも一家が食べていくだけの米は十分に確保できた。元々は今の倍ほどの耕作地を持っていたのだが、ニュータウンの建設だか何だかで、かなり良い値で手放したという事が健一郎の幼少期にあった。
徹男や晶子、康二郎に三千佳、家族五人で暮らしたあの時代を、健一郎はいつでも脳裏に思い描くことが出来る。よく酒を飲み鉄拳と共に強権を振るう父親と、それに良く従い家庭を支える母親。いくら怒鳴りつけられようが、過ぎた事はすぐ忘れて姦しく騒ぐ兄妹。
幼少の頃は、仲の良い三兄妹だった。兄二人が何かと競うように先頭に立ち、妹がよたよたと後を追う。みそっかすにしているようで、その実どちらの兄も妹を溺愛した。三千佳が苛められていると聞けば小学校のクラスに二人して乗り込んだ。体躯に恵まれ殺気だった中学生二人に凄まれたクラスメイトは、さぞ生きた心地がしなかったことだろう。後にこれはちょっとした事件として扱われたが、一向に悪びれずふんぞり返る徹男と対照的に平身低頭する晶子に対し、他の父兄から同情が集められるという形で尻すぼみに終わった。古き良き時代に、どこにでも見られる家庭の形だった。
健一郎に続き康二郎が反抗期を迎えてから、この関係は少しづつ形を変えた。何か切っ掛けがあった訳ではない。強いて言うなら、自分とよく似た人間が自分よりも立場が上である様に振舞う姿が、お互い気に障ったのだろう。始めは小さなストレスに過ぎなかったはずのそれが、二人の間にある空気を少しずつ険悪にしていった。健一郎は県外の国立大学を卒業して隣県の公務員試験に合格し役所に勤め、一方康二郎はそれよりもやや非行よりの素行を積んだこともあって地元の工業高校を卒業後すぐに工員として働きだし、今も実家にいる。行く道を違えてなお、二人の仲が戻る事は無かった。
「ごめんね、健にい。ごめんなさい」
赤い目を擦りながら、三千佳がなおも謝っている。今はまだ大学生だが、次の春からは晴れて社会人となる。希望するマスコミ関係の仕事に就いて都会に出るのだと、早いうちから就職活動に張り切っていたのを健一郎は知っている。
「もうええから、泣き止めや」
「泣いてないもん」
どこか甘えたような声で三千佳は言った。
体育館の天井から輝度の強い水銀灯で照らされた空間は、屋根や壁を乱暴に叩く風雨の音と、それに紛れまいと張りがちに交わされる避難民たちの声が幾重にも籠り満たしていた。まだ日暮れには早い時間だが、分厚い雲が立ち込める窓の外の空は恐ろしく暗い。
「健ちゃん、今日はどうすると?」晶子が訊いてきた。
「俺は様子を見に来ただけだしな」
帰れるのならば帰りたいのだが、と健一郎。
「危なかよ。泊まっていったら」
「そうは言ってもなあ」
「お仕事?」
「いや、仕事はどうにでもなるけど」
明日は月曜日だが、仕事の都合なら何とでもなる。少なくとも、こういった緊急時にそうできるだけの立ち回りを、働き始めてからの数年間で健一郎は学んできた。
ひゅ、と三千佳の息を呑む音がした。
「どうした」
「ねえこれ。家の辺りだよね」
三千佳が掲げたのは横向きにして報道番組を映したスマートフォンで、その画面いっぱいに濁流に飲まれるかつての田園地帯が映し出されていた。周りに気を使ってか音量は小さく絞っていたが、ニュースキャスターの声は聞こえなくとも映像を観るだけで状況の酷さは十分に伝わった。溢れる濁水の表面は激しく波打つ褐色の水に覆われて見る影もなく、しかし水面から突きだした電柱の並びや家屋の屋根、堤防の名残、それらすべてに見覚えがあった。幼少期からずっと過ごしてきた生家が、その中にあるはずだった。普段は穏やかな幅広の一級河川はこの災害にあってがらりと態度を変え、許容量を遥かに超えた水量は河川敷を満たし、ついに堤防の大部分が決壊していた。
「嘘だろ」
信じられない思いで、吐息にも似た声を健一郎は零した。避難勧告が出ていると聞き、三千佳に連絡を取って押っ取り刀でやってくる時は、ここまで酷くなかったはずだ。
「お袋」
「ん?」
「家、駄目かもしれん」
「仕方なかね」意外なほど明るい声で、晶子はあっさり言った。
「きっと保険も下りるし、なんなら建て替えてもええ。お父さんも、ボロ屋やボロ屋や言うとったけん」
無理をしているのが見え見えの口ぶりだった。
「健ちゃんは車、大丈夫? 近くに停めたと?」
「ここが大丈夫なら、多分」
「でも今日は帰れないでしょ」三千佳が言った。
「そうだな……」
河川を渡る大橋は桁下どころか主桁の半ばまでが濁水に飲まれて、通行止めは間違いない。他の橋も軒並み全滅だろう。少なくとも、水が引くまではここで過ごす他はないと、ようやく健一郎も事態を飲み込んだ。
「それよかスマホのバッテリーは大丈夫なんか」ネットで報道番組を見ているのか、さっきから三千佳はずっとスマホを触っていた。
「そろそろヤバいけど、もう少ししたら充電代わってくれるって」
壁際あるコンセントを、避難民たちは交代で使っていた。中には準備よく複数口の電源タップを持ち込んでいる者もあったが、それでも順番待ちの列ができているようだった。
舌打ちが聞こえた。
「まだおるんか」
康二郎だった。どかどかと入ってきて、健一郎の方に背を向けてごろりと横になる。
「もう、そんな言い方せんでよ」諦め半分の声色で三千佳が窘める。
「いつ帰るんか知らんけど余所もんの飯はねえぞ」
「いらねえよ」強がりではない。正直なところ、空腹を感じる余裕はまるでなかった。
「あの、ほら、お水入れたらご飯ができるパック、あれ配って貰うとるちゃ。私はお腹すいとらんけん、健ちゃんお食べ」
晶子が差し出してきた掌に少し余る程度の大きさのビニール製パッケージには、「水・お湯を注ぐだけ 五年間保存可能」と謳い文句が書かれている。こういった災害に備えて自治体が備蓄している非常食が、各家庭に配布されているようだった。
「いいって。おれも腹減っとらんから」
「そう」と残念そうに、晶子はパッケージをしまった。
「色々種類があってどれも美味しそうなん。お父さんはどれが好きかねえ」
誰も、返す言葉は無かった。晶子は、まだ徹男が帰ってくると頑なに信じている、少なくともそう努めようとしているように見えた。流石に、健一郎は居たたまれなくなった。
「おれ、車で休んでくるわ」
「危なかよ。ここにおりゃええとに」
「そうだよ何考えてんの。まだ雨もすごいよ」
晶子と三千佳が目を剥いた。
「近くだし大丈夫だって。それに四人だと狭いだろ」
康二郎は何も言わなかったが、その方がせいせいするのは間違いないだろう。四人では手狭なのも、また事実だった。
「傘もあるし。朝にでもまた来るから」
まだ夕刻には早い時間だったが、健一郎は半ば無理やりその場を辞した。
雨は一層強くとどまるところを知らず、愛車のもとに辿り着く頃には、また濡れ鼠のようになっていた。晴れていればまだ残暑の厳しい時期であり風邪をひく心配こそなかったが、それでも不快感は相当だった。
それにこの車。独身の若いうちに遊んでおこうと粋がって買った2シーターは、リクライニングの余地など無い。横になるスペースもないのは正直参るところだ。あの場を逃げ出すにしては少々払う犠牲が大きかったかもしれないと、後悔する気持ちもないでは無かった。
それでも、やはり一人が気楽だった。ガソリンはまだたっぷりあるし、エンジンさえかけておけばシガーソケットから電源を取ってスマートフォンの充電も出来る。
SNSやニュースサイトを巡れば、この辺り一帯の被害の大きさが改めて認識できた。九州という地域柄、台風被害はある意味風物詩とも言える。だが今年のこれは健一郎の記憶にあるかぎり未曽有の規模だ。実家の近辺に避難勧告が出たのも初めてだった。家が洪水に蹂躙され、父親は行方不明。田圃もまず間違いなく駄目だ。明日出勤できたとして、この災害の後始末に大わらわだろう。良いニュースは何一つなかった。
スマートフォンの画面を繰るたびにストレスが積み重なる様な気がして、健一郎は画面を閉じ、ヘッドレストに頭を預けて目を閉じた。予想以上に疲れていた。少し仮眠を取ろうかと思ったが、要らぬ考えだけがぐるぐる頭を巡り、瞼の裏に凝った。
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