昭和十二年、原稿用紙と私
@keu72823
昭和十二年、原稿用紙と私
時に昭和十二年。私こと大賀康介は広島の田舎町で原稿と格闘していた。一週間後までに短編小説を仕上げねばならなかったのだ。この稿料で、私は東京へ出て来たのだが、当時の金にして二円五十銭だったから、今なら百万円以上になる計算だ。もっとも当時は物価が安い時代だから、今の金額に換算するともっと安かったかもしれない。しかし当時の二円五十銭という金額も相当なものであったろうと思う。
私はこの仕事のために、わざわざ東京の出版社まで出かけて行った。その帰り道のことである。東京駅に着いたところで、ふっと思いついて上野公園の方角へと足を向けてみたくなった。まだ昼飯時だったので空腹でもあったし、それに何よりも桜の花を見たいと思ったからだ。
上野の森には花見の名所が何カ所かあるけれど、私が向かったのはその中の一つ、不忍池のほとりにある山谷堀と呼ばれる場所であった。明治の頃はこのあたりにも遊廓があって賑わったらしいが今は見る影もない。それでも人通りは多くて活気があった。
私は不忍池に沿って歩きながら、満開に近い桜の木を見上げたりして歩いた。そして一時間ほど経った頃だろうか……突然一人の男が私の前に立ち塞がって言った。
――あなたは小説家ですか? 小説を書いているんですね? そう言われればそんな気もしなくもなかった。だがその時の私は、ただ漠然とした気分のまま歩いていただけで、何も考えていなかった。だから男の言葉に対して咄嵯に返事をすることが出来なかった。男はさらに続けて言う。
――あなたが書いた小説を読んでみたいものだなあ…… 私は黙っていた。男の言っていることがよく分からなかったからである。
――あなたの書いたものを読んだらきっと面白いだろうと思いますよ。どうやら彼は私の小説を読みたいと言っているようだ。それでようやく意味を理解した。しかし……
――申し訳ありませんけど、もう何年も書いてないんですよ。
私は正直に答えた。事実である。
――そうなんですか。それは残念ですねえ……。
相手は明らかに落胆の色を見せた。無理もないことだ。せっかく自分の作品を読ませてくれと言って来た人間が、もう何年も書かないと言い出したんだから……。
――じゃあ仕方がない。諦めましょう。でもいつか機会があれば是非読んでみたいなあ。
――そのうち書くかもしれませんよ。
――本当ですか! それでは楽しみに待ってますよ。
――分かりました。約束します。
――本当にお願いしますよ。
――はい。
これが私と彼との出会いであり、別れでもあった。
それから三日ばかり経ってのことだった。東京にいる友人を訪ねようと思い立った私は、さっきの男のことを思い出したのである。あれ以来一度も会っていないわけだし、名前さえ聞いていなかったことを急に後悔し始めたのだ。そこで早速電話をしてみることにした。ところが……いくら呼び出しても誰も出ない。留守なのかと思って受話器を置いた瞬間、相手の声が聞こえてきた。――もしもし……大賀さんでしょうか? 先方の声を聞いて驚いた。あの時の男だったからだ。
――はい、そうです。ご無沙汰しておりましてすみませんでした。
――いえいえとんでもない。こちらこそお礼を申し上げなければなりません。実は今日、会社の同僚たちと花見に行ってきたところですよ。みんなで酒を飲みながら楽しく話をしていたところへ、偶然あなたの名前が話題に上ったのです。そうしたらみんなの口から口へと話が伝わっていって、いつの間にか全員があなたのことを知っていました。これは凄いと驚きましたねえ。もちろん僕も驚いています。こんなこともあるのかと思いましたよ。
――それは光栄なことだと感謝しています。ところで皆さんは何という名前なんでしょう?
――ああ、失敬しました。僕は鈴木一郎といいます。――私は田中敏雄という者です。以後よろしく願います。
――私は佐藤浩子。どうぞよろしく。
――私は高橋和美。これからは何かとお世話になるかもしれないわね。
――私は渡辺久江。
――私は加藤正樹。
――私は……
――ちょっと待って下さい。私は大賀康介です。
――はい、承知してます。
――ありがとうございます。これで全員の名前を知ることが出来ましたね。
――はい、そのとおりです。
――それで、どうして私のことを知ったのですか?
――それは簡単明瞭。あなたが僕の目の前を通り過ぎていった時に、あなたが手にしていた原稿用紙が見えたからなんです。
――なるほど、そういうことだったのですか。しかし……よく私のことを覚えていましたね?
――はい、覚えていますとも。何しろあなたが通り過ぎた後、しばらくの間、僕らは呆然と突っ立って見送っていましたからね。そのくらいインパクトがあったということです。
――それは嬉しいことですが、何だか照れくさい感じがします。
――そんなことはありませんよ。あなたは小説家としての才能があるということじゃないですか。
――才能ですか…… ?
――はい、あなたは小説家としての天分を持っていると思いますよ。
――小説家の素質……?
――ええ、小説家になるために生まれて来た人間……と言ったらいいかしら。
――小説家のための生まれつき……?
――まあ、そう考えてもいいんじゃないですか?
――それはまた随分と褒められたもので……
――本当のことでしょう?
――はい、確かにそうだと思いますけど……。
――じゃあ、今度書いてみて下さいよ。小説を。
――小説を書く……?
――はい、是非お願いしたいですね。
――分かりました。書きましょう。
――本当ですか!
――ただし、あまり期待しないでくださいよ。
――大丈夫、きっと面白いものが出来上がりますよ。あなたなら。――はい、頑張りたいと思います。
――楽しみにしてる人がいるということをどうか忘れないで下さい。
――ええ、分かっています。
――それでは……
――さようなら……
――どうも……
――…………。
電話を切ると私はすぐに机に向かい、小説を書き始めた。
それから一週間後のことである。
――大賀さん、出来ましたよ。――出来たんですか!
――ええ、何とか。
――拝読してもよろしいですか?
――もちろんです。
封筒の中から取り出した原稿用箋には次のような文章が書かれているだけだった。
1 桜の花びらが風に舞う中、一人の男が池のほとりに佇んでいる。
2 男はふと空を見上げた。
3 その時、一陣の強い風が吹いた。
4 花吹雪の中、男の目に美しい女性の姿が映った。
5 彼女は微笑みながら男に向かって手を差し伸べた。
6 二人はしっかりと手を握り合った。
7 そして二人の唇は静かに重なり合っていた。
8
――完――
私はこの短い文面を読み終えると、大きく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
それからもう一度、今度は深く深呼吸をした。
すると……不思議なことに今まで味わうことが出来なかったはずの爽快感が全身に広がっていくではないか。
それはまるで長い間、塞がれていた扉が開かれて新鮮な空気が一気に流れ込んでくるかのようだった。
私は椅子から立ち上がると窓辺に行き、外の風景を見た。
ところで、昭和十二年当時の日本といえば、まさに日中戦争(支那事変)の最中であり、日本国民全体が戦争一色に染まっていた時期である。
当然のことながら私も戦争の渦に巻き込まれていくわけだが、この時の体験が後に書くことになる作品に大きな影響を与えることになるのだから、人生というものは何が起こるか分からないものだ。
ところで、私がこの作品を書いた動機について説明しなければならないだろう。
私はこれまでにも何度か自分の書いた作品を出版社に持ち込んでいるのだが、いずれも採用されることはなかった。
その理由については色々と考えられるものの、一番大きなものはやはり時代性の違いということになるだろうか。
つまり、当時流行した恋愛小説や純愛物語といったものを書こうとしても、今の読者にとってはピンと来ないものらしいのだ。
もちろん、そういう作品が嫌いだというわけではない。
むしろ、私はそういったタイプの話の方が好きだし、読んでいて楽しいと思うこともある。
しかし、今はもうそのような作品は出版されていないのだし、これから先に登場することもないかもしれないのである。
そこで、私の方から新しいタイプの作品を書いてみたいと思ったということだ。
それにはどうすればいいのかと考えた時に浮かんだのが、当時の流行であったラブ・ロマンスを現代にも通用する形で取り入れることだ。
しかも、ただ単に昔の恋を再現するのではなく、現代の感覚を取り入れ、より洗練されたものに仕上げなければならない。そうでなければ、いくら何でも時代遅れになってしまうからだ。
しかし、実際にやってみるまでは、それがどれほど難しいことなのか分からなかった。
いってみれば、それは巨大な山に挑戦するようなものなのだから。
ところが、いざ挑戦してみたら意外と簡単に出来るのではないかという思いが湧いてきた。
何故なら、それはあくまでも過去の時代の出来事として捉えればいいだけのことで、それを現在の時代に当てはめれば、それほど難しくはないことが分かったからである。
ただ、それでも問題はあった。
それは、私の知っている限り、この時代に生きた人間の中で、誰一人として恋人がいたことがないという事実だ。
これはちょっとした問題になるのではないか。
そんなことを考えているうちに、ある人物の顔が浮かんできた。
それは、あの大賀美六氏のことだった。
彼は現在、小説家として活躍しており、その傍ら、歴史研究家としても活躍している人物である。
彼がどういう経緯で小説家になったかは知らないが、とにかく、この時代を生き抜いた人間の一人であることは間違いない。
そう考えた途端、私は彼のことをもっと知りたいと思い始めた。
そして、私は彼に取材を申し込んだ。
その結果、私は彼に会うことが出来た。
会うといっても、当時は手紙によるやり取りが主だったので、実際には会っていないに等しい。とはいえ、私は直接会ったような気持ちになっていた。
なぜなら、彼とは何度も電話で話をしていたからだ。
電話というのは便利なものである。
何しろ、相手の顔を見ながら話すことが出来るのだから。
もっとも、声だけしか聞こえない分、言葉遣いには注意しなければならなかったが。
さて、ここで私は改めて小説を書くことになった事情を説明しておく必要があるだろう。
実は、大賀氏と初めて電話をした時に、私はこんな質問をしてみたのである。
――小説をお書きになったことはあるんですか?
――いえ、ありませんね。
――でも、お好きなんでしょう?
――えっ?
――だって……好きじゃなければわざわざ調べたりしないでしょうから……。
――ああ、なるほど!
――まあ、確かにそうなのですが……。――何か、理由があるのですか?
――はい、昔読んだ本の中に、とても感動する内容のものがあって、それを書き起こしたいと思っていたんです。
――へえー、どんな内容のものだったんでしょうか。興味がありますねえ。
――残念ながら、題名は忘れてしまいました。確か、恋愛に関することだったと思います。
――なあんだと……。――ということは、ひょっとすると、あなたも誰かに恋をしているということなんですね。
――はい、一応……
――それでしたら、是非とも書いて下さいよ。きっと面白いものが出来上がりますから。
――楽しみにしてる人がいるということをどうか忘れないで下さい。
――ええ、分かっています。
それが私の作家業の原体験であったのだが、それから長い時を経た現在でも、わからないことがある。それは、どうして私がこの作品を書こうと思ったかということだ。
もちろん、私に小説の才能があったわけではない。
また、私自身、これまで一度も書いたことがなかったのだから才能などありようはずもない。
では何故か。
それは、やはり時代性の違いということになるのだろう。
つまり、私自身が今、生きているのが、まさに昭和十二年という激動の時代だからである。私はそのことを強く意識しながらこの小説を書いたのだ。この文章が未来の人々に読まれることを願って。
昭和十二年、原稿用紙と私 @keu72823
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