エデンの薬

ナポ

エデンの薬

時は21世紀中葉。

たゆまぬ科学技術の発展によって、人類は長年の悲願を達成することとなった。

その悲願とは、「罪」の根絶。

そう、人類はついに、罪ある身に堕ちる危険性から、永久に解放されることになったのだ。

新たに開発された薬「エデン」・・・この薬は、人間の内に秘めたる闘争本能を消し去ることに成功した。

この薬を飲んだ者はみな危害性を喪失し、もはや傷害事件を起こすことはなくなるのだ。もちろん、殺人も起こさなくなる。


この薬が生まれた瞬間から、あらゆる国家が治安向上のため、薬を自国民にあまねく投与した。

その結果何が起こったか?


人間社会の、革命だ。


そう、それはまさに革命だった。

もはや、人は人に殺される心配をする必要はなくなった。

幸せな家族が無残に殺されるニュースは、テレビから姿を消した。

この社会には、人を殺そうと考える人間は、もう一人も存在しない。

自分の目の前にいる見知らぬ人間だって、自分に危害を加える可能性は万に一つもない。

人類は、その誕生から膨大な時間を経て、初めて心から他人を信じられるようになったのだ。


もちろん、人類がまったく犯罪を犯さないようになったわけではない。

エデンが消し去るのは人間の危害的な性質だけだ。人の殺傷を伴わない知的犯罪までは、この薬で根絶することはできない。

だから、人を騙して金を手にいれる詐欺師はまだこの社会にたくさん存在するし、汚職で懐を肥やす政治家も跋扈している。

しかし、そんなことは薬によって消え去った「罪」に比べれば些細なことではないか?

今や「殺人」はこの社会から消え去ったのだ。

人間の犯し得るあらゆる罪のうち、最も憎むべき罪・・・殺人は、もはや存在しないのだ。

人が人を殺さぬ社会、この理想郷を実現するために、どれだけの人間がこれまで血と汗を流してきたか?

知恵ある人々が膨大な人生を費やしても手に入れられなかったその社会が、ついに実現することとなったのだ。

我々が手に入れたものに比べれば、詐欺や汚職などの犯罪はちっぽけなものだ。

今はただそんなもの脇に置いて、この素晴らしい社会の光景に目を見張ろう・・・












暗い廊下に朝の白い光がほのかに差している。

横にはいくつもの檻が俺を挟むようにして聳えており、その中には怪訝な目つきでこっちを見る人間が入っている。

突き刺さってくる目線を気にもかけずに、俺は黙々と廊下を直進していく。

無機質な廊下に、革靴が床を叩く音がコツンコツンと響き渡る。


ここは俺の職場だ。

俺の職業は・・・もう言わなくてもおおよそ察しがついていると思うが、刑務官だ。この拘置所で看守を務めている。

“神の薬”ことエデンの登場で犯罪件数は劇的に減少したが、完全に0になった訳ではない。

新たに入ってくる殺人犯こそ絶滅したものの、詐欺や違法薬物をやらかした連中は毎月のようにやってくる。

例の薬が殺人を無くした結果、殺人事件を捜査する刑事はお役御免となったり、護身用のスタンガンを販売していた会社は倒産してしまったようだが・・・俺の仕事は相変わらずだ。

社会がどれだけ変わろうとも、俺が失職して飯を食えなくなる心配をする必要はなさそうだ。





ガチャ 俺は廊下の突き当たりにあるドアを開けた。


「失礼します」


軽くお辞儀して中に入る。


「・・・おう、来たか」


先に来ていた先輩が席に座りながら、低く小さい声で呟いた。


「もう来ていたんですね」


俺は腕時計に目を向けた。時刻はまだ7時30分、始業は40分以上も先だ。


「ああ、今日は大事な日だからな。“これ”をやる日は万が一でも遅刻しないよう、いつもこのくらいの時間に来てるんだよ、俺は」


先輩は神妙な面持ちでそう返した。その顔には、ほのかに疲れが滲んでいるみたいだった。


「そうですか・・・・そうですよね」


「・・・・・・」


先輩はその後、ずっと黙ったまま、顔を机に向けていた。

部屋からは音が消えて、重たい雰囲気が漂っていたが、別に特段喋る理由もなかったので、俺も口を閉じたままにした。

俺は近くにあった椅子に座った。

別にまだ始業時間ではないので何をしていてもよかったのだが、何となく携帯を弄るのは憚られたので、ただ黙って壁を見つめた。

何か物思いにふけようかとも思ったが、頭に上がってくるのは雑音ばかりで、まともな思考が出てこない。俺は考え事をするのをやめて、後はひたすら壁に目を投げ続けた。

そして薄暗い空間には時間だけが流れていった。


「・・・・・・」


「・・・・・・」


ゴーン、ゴーン


天井のスピーカーから、始業時間を告げる鐘の音が流れてきた。


「時間だな」


ずっと微動だにせず沈黙し続けていた先輩は、鐘の音が流れた瞬間にそう呟き、機械的に立ち上がった。


「行くぞ」


「はい」


俺もすっと椅子を立った。

先輩はそれを確認すると、静かに歩き始めて部屋の外へと出ていった。

俺は先輩の後に続いて、まだ鐘の音の余韻が漂う廊下を歩いていった。




コツン コツン コツン

俺と先輩は長い間、革靴の音を廊下に響かせていた。

40年前に建てられたこの拘置所は内装の至る所が剥がれ落ちており、見る者に否が応でも時の流れを感じさせる。

そんな古びた建物に革靴の打ち付ける乾いた音が交じると、どこか切なさや、ほのかな残酷さが感じられるのだった。

この拘置所は、あの“神の薬”が生まれるよりずっと前から存在していて、そしてその“役目”を果たし続けてきたのだ・・・・




コツン コツン コツン・・・

長い廊下を抜けて、俺たちはついに目的の場所にたどり着いた。

俺たちの目の前、突き当たりの先には、赤い色をしたドアが一つ、存在感を放ってそこに立っている。

このドアの先に、今日の仕事の相手が待っている。

そう、何も知らずに、ただ静かに待っている。


「・・・今更の確認になるが、今日の手順はしっかりと理解しているな?」


「はい、問題ありません」


「わかった、じゃあ開けるぞ」


先輩はドアノブに手をかけて、ゆっくりと赤い扉を開いた。


俺たちが中に入ると、そこには廊下が続いており、左右には廊下を挟む形で檻があった。そして中にはそれぞれ人が入っている。

なんということはない、今まで歩いてきた囚人室と姿形は同じだ。

しかし、見た目は同じだが、この部屋に流れている空気はこれまでのものとはまったく違う。

この部屋は、特別なのだ。

入っている人間が、他とは違うのだ。


コツン コツン


俺たちが廊下を歩き始めると、檻の中にいた囚人たちの表情が一変した。

彼らは、まるで蛇に睨まれたネズミのような表情で目を全開にして、俺たちの歩く姿を全力で見つめる。

俺たちが一人の囚人の檻の前を通り過ぎると、その囚人は硬直していた表情を一気に緩めて、安堵のため息とともに自分の布団の上に身を置きなおす。

そして今度はその囚人の奥、次の檻の囚人が前のやつと同じく、死にそうな表情を作ってこっちを見つめる・・・そして俺らが止まることなく何事もなしに過ぎれば、同じく安心した表情を見せる。


コツンコツン・・・コツン


俺たち二人はある場所で立ち止まった。

そこはある囚人の檻の前。今日の大事な“仕事”の相手だった。


檻の中の男は、自分の目の前で立ち止まった俺たちを見ると、顔面を蒼白にした。


「囚人××××、出房だ」


無機質な声で先輩が告げる。

何回もこのやり取りを繰り返してきただけあって、その声には迷いがない。


囚人は絶望を表に表した顔つきでその声を受け止める。

何かを言いたそうに喉を震わせているが、その口からは声になっていない音が漏れ出てくるばかりだった。


「出房だ、××××」


先輩は、黙ってばかりで一向に返事を返さない囚人に向けて、再度無機質な告知を発した。


「・・・・・・・・はい」


囚人は憔悴しきったか細い声で返事した。

それを確認すると、先輩は懐から鍵を取り出し、独房の扉を開けて囚人を外に出した。


「ついてこい」


独房の扉を閉めた先輩は囚人にそう命令すると、俺を囚人の後ろにつけ、男を挟み込む形にして囚人室から出ようとした。


「あの、どちらに行くのですか?」


囚人が目を泳がせながら俺に訪ねた。


「それは後ほど告げる」


俺はマニュアルに書いてあった通りの回答をした。

囚人もこれから向かう先を内心分かっていたのか、それ以上の詮索はせずに俯いたままとなった。

俺と先輩と囚人の三人は、列になって囚人室から出ていった。

周りの囚人たちは、連れられていくその囚人を檻の中から息を殺しつつ見つめた。

その目には哀れみと、そしてありがたみのようなものがこもっていた。




先輩を先頭にして真ん中に囚人、後ろに俺。

面会などで囚人を出房させるときは、いつもこの形で囚人を連れ出す。

間違っても囚人を脱走させないようにするためだ。

今目の前にいる囚人も、これまで何度もこうして外に連れ出したことがある。

しかし今日はいつもとは違う。

いつもであればこれから面会室に向かうための廊下を通るはずだが、今日はそれとは真反対の方向に進んでいる。

この道は、囚人がこれまで通ったことのない道だ。

それが何を意味するかを理解した囚人は、最後の希望を失ったのか、目から一切の光を消し去っていた。

目的地まではしばしの距離があり、歩くと数分はかかる。

この囚人にとっては気の遠くなるような長い時間になるだろう。

しばらく廊下を歩いていると、やっと突き当たりに階段が見えてきた。

この階段を上ると、目的の場所はすぐそこだ。


「この階段を上がる。足元に気をつけるように」


先輩は階段を上がる前にそうやって囚人に注意を促した。

しかし囚人は階段を目の前にして、一歩も足を投げ出すことができずに固まってしまった。


「囚人、階段を上がるんだ」


が、囚人は動かない。

この階段を上った先に待ち構えているものを思うと、もはや足を動かすことができないのだ。

囚人はひたすらに足元を見つめたまま、体を震わせている。


「・・・・所長を待たせることになる、後ろから押してやれ」


先輩に言われた通りに、俺は動けずにいる囚人の体を後ろから押してやり、階段を上らせてやった。


「あっ、いやだ・・・いやだ・・・」


俺に押されている囚人は懇願するように声を漏らしているが、体を暴れさせるようなことはしなかった。

そんなことをしても無駄だと分かっているからだろう。

彼の中には、今や絶望しかない。気力などどこにもないのだ。



階段を上がり終えると、その先に短い廊下が続いていた。

廊下の右端を見ると、そこにはこの拘置所の刑務官が勢ぞろいして1メートル間隔で立ち並んでいる。

刑務官は階段の出口に始まり、目的の場所に至るまで並び、囚人が取り乱して逃げることのないようにしっかりとこちらを凝視している。

まるで何かの儀式でも行うかのようなその整然とした人の列は、明らかにこの廊下のすぐ先に“特別”なものがあることを示していた。

囚人はその光景を見てもそれほど動揺を見せなかった。

もはや、この先にある運命が何であるのか、とうに十分理解していたからだろう。

俺たちは囚人の列をゆっくりと抜けて、短い廊下の突き当たりを右に曲がった。

その先に、この拘置所には似つかわしくない小綺麗な部屋が現れた。

とうとう俺たちは目的の場所にたどり着いたのだ。


コツ・・・コツ・・・


部屋の真ん中に立っていた白髪の男が一人、俺たちの方へと歩いてきた。

俺と先輩はその男を目にした瞬間、機敏な動作で敬礼を向けた。

白髪の男・・・こと拘置所長は、俺たちが当の囚人を連れてきたことを確認し、小さく頷いた。


「ご苦労」


その言葉を受けて、俺たちは敬礼を解いた。


「××××君」


所長が温和な声で囚人の名前を呼び上げた。


「本日、君の死刑を執行するようにとの命令書が法務大臣より届いた。残念だが、今日でお別れだ」


囚人の耳にそっと入れてやるように、所長はもの柔らかな調子で死刑執行の事実を告げた。

囚人は口を開いて返事をするでもなく、うな垂れていた頭をさらに少し下げて、それに答えた。

所長はそれを確認すると部屋の隅まで歩いていき、壁に付いているボタンを押した。

すると、部屋にかかっていた布幕が真ん中から左右に割れて開いていき、その先にもう一つの部屋が現れた。


「では、こちらまでついて来るように」


部屋へと進む所長に遅れないよう、俺は囚人を押して歩かせてやった。

その

部屋の中に進むと、その正面の壁に小さな仏像が一体取り付けられているのが見える。

その繊細で滑らかな曲線美をまとった仏像は、平面と直線で構成された無機質なこの拘置所の中にあって、明らかに異様な風景だった。

そう、ここは教誨室。死を目前にした囚人が最後に祈りを捧げて、心を落ち着けさせるための部屋だ。

囚人を教誨室に招き入れた所長は、仏像の前に囚人を立たせて、菩薩を真似たような優しい声で語りかけた。


「さあ、お別れの前にお祈りを捧げなさい」


所長は片腕を仏像へと伸ばして、囚人に祈りを捧げるよう促した。

しかし、囚人はその場に立ったままうなだれているばかりで、壁の観音菩薩に両手を合わせることも、目を向けることもしなかった。

見かねた所長が囚人に問いかけた。


「・・・仏教式はお気に召さなかったかね? 確か、君は教誨の時間によくお寺の先生と話をしていたと聞いていたが」


「・・・・・」


「キリスト教式の祭壇に変えた方が良いかね?」


「・・・・・・・俺は、どちらでもありません。仏様も、神様とかも、俺は信じていません」


「そうか」


下を向いたまま細い声で答える囚人を慎重に見やって、所長は再度声をかけた。


「××君、これが最後の祈りの時間となるのだよ? 君が自分の心の奥底を見つめて、そして反省する最後の機会だ・・・本当にこのまま終わらせていいのかね?」


「構いません」


囚人は一言だけ、冷たくそう言った。

所長はまぶたを下ろして、小さな吐息を一つ吐くと「よろしい」と呟き、「では、参りましょう」と俺にも聞かせるように言った。

所長が歩き始めるのを確認して、俺も囚人の背中を押した。

俺と、囚人と、先輩は、壁に設置された仏像を通り過ぎて部屋を進んでいった。

部屋を抜ける間際に、囚人の最後の言葉を聞くこともなく今日の役目を終えた仏像を横目でチラと見ると、そいつは先ほどとは違っていくらか物質っぽさを放っていて、いつの間にかこの無機質な部屋に溶け込んでいた。

それだけ確認して、俺はこの部屋を出た。



教誨室を抜けた先に現れるのは、正方形の広い床の広がった部屋。

部屋の真ん中には天井からぶら下がった縄が浮いていて、その下の床を見ると、そこに床が開く仕掛けがあることが一目でわかる。

ここは処刑場。俺の目の前にいるこの囚人は、今日、ここで刑を執行される。

俺が執行することになっている。


所長は自分の腕時計で時刻を確認して、囚人に目を向けた。


「さて・・・××君。残念だがお別れの時間だ」


「・・・!   っっっ・・・・・!」


絞首具を目にした囚人は、顔じゅうに冷や汗を流して震えていた。

全てを諦めていた彼は、これまで所長に声をかけられても黙って下を向いているだけの、力の抜けた廃人でしかなかった。

が、いざ自分の命を奪うものを目の前にした途端、生物である彼の奥底に眠っていた生存本能が、全力で彼を覚醒させたようだ。

彼の目は四方八方を走り、どうにかして自分がここを抜け出る方法がないかと、必死になってそれを見つけようとしている。

しかしそれは無駄なあがきだ。

俺と先輩の二人が囚人の体をしっかりと抑えているし、仮に俺らを振り切ったとしても、先ほど控えていた大勢の刑務官がこいつをここまで戻すだけだ。

それはこいつも理解している。だから、顔には必死さと苦しさを浮かべているが、ここから出ようと暴れもがいたりはしていない。

嫌だけど、もう死ぬしかないという現実が、この男の体を縛って、動かしているのだ。


「最後に何か、言っておきたいことはあるかね?」


所長は震える囚人を見て動揺することなくそう言った。


「っ・・・!!! ・・・・・・最後・・・・・・・・!」


囚人は歯茎をむき出して、自分の歯を砕くかのように噛み締めだした。

その目は血走っていて、まるで死ぬほど憎い何者かを睨んでいるかのようだった。


「最後に、言っておきたいことがある・・・・」


これまでとは打って変わって、力強い声が囚人から響いた。


「かつて、俺は四人のヒトを殺した。男と、その女と、そいつらの子供二人をやった。理由は、金が欲しかったからだ。俺は捕まって、そして裁判にかけられて、そして死刑になった。それでこの監獄に入ることになった」


処刑場にて突如始まったのは、囚人の独白だった。こいつはこの独白を最後の言葉にするつもりらしい。

被害者への謝罪でもなく、死にたくないがための叫び声でもなく、こいつが始めたのは演説だった。

いささか珍しいパターンだな。俺は若干の興味関心を抱きつつ、この男の言葉に耳を傾けた。

無論、男が逃げることのないよう、腕はしっかりと押さえつけたままで。



以下は、男が最後に語った独白をそのまま載せたものである。


最初、俺は自分がやったことを悪いとは思っていなかった。

向かい部屋のやつに、殺した相手のことを考えて何か感じることがあるかって聞かれたこともあったが、特にないって答えた。

実際のとこそれは嘘じゃなかったし、俺の本心だった。

俺が捕まったのは、ただ運が悪かったから。独房ではそんなことばかり考えていた


けど、そんな俺も、やがて徐々に考えが変わっていった。

お寺の住職の先生が俺に会いに来て、仏の教えとか命の美しさとか、いろんな話をしてくれてさ・・・

最初は看守に無理やり会わされたってだけで、話なんかろくに聞いちゃいなかった。けど、段々と先生の話を聞いてるのが苦痛じゃなくなっててさ、気がついたら話を楽しみにしている俺がいたんだ。

そこからだったな、俺は初めて自分の犯した罪に向き合うことができた。

命はかけがえのないものだって、人は人のために生きないといけないって、その時は本気でそう信じるようになってさ・・・


俺は俺が殺した家族の遺族に手紙を書いた。

取り返しのつかないことをして申し訳ないって、家族が浄土で安らかに眠っていることを願っているって、俺が犯した罪はこの身をもって償うって、そんなことを書き連ねて送った。

返信は来ていない。遺族がそれを読んだのかどうか俺にはわからない。家族を殺した男からの手紙なんて、手に触れるのも吐き気がするっていって捨てられちまったのかもしれない。

だとしても仕方のねえことだった。俺がやったことってのはそれだけ重い罪だったんだからな。

だから、俺は、遺族に俺の声が届かなくても、ただ俺が殺した人たちのことを想って祈り続けた。


俺はそういうことを心からできる人間に、その時はなっていた。


もはや心の中に恨みや怒りや悲しみなんてものはなく、ただ、なんというか、そうだな・・・暖かくて、とても穏やかな気持ちだけが俺を満たしていた。

先生の言葉が、ボロボロになっていた俺の心を、そんな風にまとめ上げてくれた。

今思えば、あの時が俺の人生の中で最も幸せな時だったと思う。

俺が殺した家族とその遺族を差し置いて、俺だけが一人至福のひと時を過ごしてたんだから、今思えば勝手な話だけどな。

でも、実際幸せだったんだからしょうがない。


その時はもう死刑を恐れてはいなかった。

むしろ、自分にできることは死刑を受け入れて罪を償うことだけ。そう、だから早く死刑になりたいとすら思ってた。

この身を捧げて、俺はついに先生の教えを全うすることができるんだって・・・・



ある日、たまたま俺が新聞を読んでいると、あるニュースが目に飛び込んできた。

「“神の薬”、全国民に投与へ」・・・見出しは確かこんなんだったか

死刑が決まってたってこともあって、あんまり外の世界のニュースに関心がなかった俺は、その薬のことをこれっぽっちも知らなかった。

その時、俺はそのニュースをいつもみたいに軽く流すこともできたはずだった。

でも、なんだか俺の中に引っかかることがあって、そのニュースをぽいと横にやるのを気持ち悪く感じた。

神の薬・・・興味深い異名を付けられたその薬のことを、俺は調べてみることにした。

図書室で新聞の過去の記事を漁って、看守に薬の専門誌を取って来てもらったりして、俺は神の薬がどういうものなのかを知るようになった。

正式な名前をエデンというその薬は、投与した人間の暴力的な本能を抑える働きをする。つまり、その薬を投与された人間は、人に危害を加えることがなくなる・・・・まとめるとこんな感じの薬が外の世界で開発され、それが今やこの国の全員に投与されようとしているらしかった。

そうか、外ではそんなことが起きているのか。俺は感心した。

これでもう誰も犯罪に怯えることもなくなるってことか、技術の進歩とはすごいもんだなあ・・・って、そう感心するしかなかった。その時はそれ以外の感情を特には抱かなかった。


それから数時間経って、夜、就寝間際にいつもやっていたお祈り・・・俺が殺した人たちへの祈りを捧げていた途中、奇妙な感覚に襲われた。

どうしたのか、祈りに力が入らない。

いつもだったら他のすべてのことを忘れて祈りに没頭しているはずなのに、その時の俺はわけのわからない雑念が頭の中を動いてて、全然祈りに集中できなかった。

祈りに無心になろうと必死になっている自分を意識しちまって、かえって祈りから離れてしまう始末だった。

ひょっとしたら風邪でも引いているのかもしれない、その時はそう考えて、祈りもまともに捧げられないのを惜しみつつ、いつもより早く布団に入ることにした。


翌朝、起きて体の調子を確認しても、別にどこもおかしいところはない。

昨夜のあれはなんだったんだろうと不思議に思ったが、答えが出ることもないまま朝礼の時間が始まって、俺は独房を出た。

その日の夜も、俺はまともに祈りを捧げることができなかった。

祈ろうとしても、なんだか俺の心にポッカリと穴が空いているみたいで、その穴から俺の想いがドバドバと溢れ出しているみたいで・・・数分も経たずに俺は祈りの手を降ろしてしまった。

その次の夜も、そのまた次の夜も、俺の祈りは雑念によって切断され、俺は自分が手をかけた相手に声を届けることができなくなっていた。

ある日、教誨室で先生にこのことを相談してみると、こう言われた。

「おそらく疲れているのだろう。君はここずっと、毎日自分が手がけた人のことを考えてばかりだっただろう? もちろん、その心はとても大切で、美しいものだ。けど、そんなに日夜自分の罪に向き合ってばかりでは、君の精神も疲弊しきって崩壊してしまう。今の君には、どうやら他者ではなく自身のことを見つめ直す余裕が必要なようだ」

先生の言葉を受けて、俺は久々に自分自身のことに考えを向けてみた。


そもそも、なぜ祈りに力が入らなくなってしまったのか?

それはいつだ? ちょうど1週間前だ。

その日に何があった? ・・・思い返してみても、特に変わったことはなかった。

待てよ、そういえばその日はこんなニュースを見たんだよな。確か、飲めば人を傷つけなくなる薬が全国民に投与されたってニュースが・・・・

俺はあのニュースが妙に気になった。その薬のことを調べてみた。いったいなんのために?

俺は考えた。



そして、一瞬、頭の中で何かが弾け飛んだ感覚がして、そして元に戻った。


俺は気がついた。


そう、もしあの薬がもう少し早く出ていれば、俺は人殺しなんてせず、こんなところにもいなかったってことに。


俺は気がついた。


あの薬があれば、俺は死刑にならずに済んだってことに。


俺は気がついた。


たった数年の差のせいで、俺は死刑にならないといけなくて、これからの奴らは死刑にならずに済むってことに。


それから、俺は祈りを捧げることをやめた。

もはや俺が殺めた奴らに対しての罪悪感よりも、薬があればこんなことにはならなかったのにという悔しさの方が頭を支配していた。もうまともな祈りを捧げることはできなくなっていた。

そして先生・・・いや、俺にとっちゃもうただの坊主だ、あいつに会うこともやめた。

俺はもう何も信じることができなくなった。

なんで俺がこんな状況になってから、あんな薬が出てくる?

なんで俺がシャバにいるときにあの薬が出なかった?

いったいどういうことだ?

神様仏様がいるのなら、なんで、世界の全てが、こんなにも俺にとって絶望的な進み方をしているんだ?


俺は呪った。

この世界を、こんな世界を作った神や仏を、人間を呪った。

そして、エデン・・・この薬を呪った。

この薬のせいで、俺は頭が煮えたぎるほど苦しんだ。

この薬さえあれば、俺は人を殺すことがなく、死刑になることもなかった。

この薬さえなければ、俺は回心したまま死ぬことができ、最後に真人間となってこの世を去れるはずだった。

薬は、俺のその二つの人生のどちらをも抹消した。

俺は、この薬によって2回殺された・・・・






長く続いた演説の果てに、男は力無い声で幕を下ろした。

いつの間にか男の顔には汗がしたたり、その滴を床にポロポロ落としている。

床に散らばる水跡を見るに、結構な量の汗を流していたようだ。


その後、男が顔を下に向けたまま喋りを再開しないでいることを確認し、最後の言葉はもう済んだのだと判断した俺は、男を再び絞首具へと運んだ。

先輩も即座に反応して、男の体に巻き付けていた腕に力を込め直し、そして俺に合わせて男を前に進めた。

男の顔の真正面に絞首具が現れると同時に、俺は用意していた布袋を男の顔にかぶせた。

そのまま布の上から男の首元に絞首具をかけて、やるべき「準備」を完了させた。

男は特に抵抗しなかった。

先ほどの演説ですべての気力を使い切ってしまったのか、息を吐く以外の動作は何一つしていなかった。

俺は片腕を上げて上官に合図を送った。

瞬間、上官の発声が部屋中に響き渡った。


「押せ!!!!!!!!!!!」


部屋の裏に控えていた3人の刑務官たちが一斉にそれぞれの目の前にあったボタンを押すと、囚人の立っていたところだけ床が開き、男の全身を落下させた。

下を覗くと、絞首具に首からぶら下がる男が、弧を描いて揺れているのが見えた。

俺と先輩は部屋のわきの階段から下に向かい、宙に揺れる男のそ傍らに集って、そこで待機した。

十数分後、俺と先輩で絞首具から男の首を外して体を降ろし、そばにある長台の上に寝かせた。男の顔はピクリとも動いてなかった。

やがて、現れた医師が男の腕に手を当てて脈をとり、こう宣言した。

「死亡しております」


これで、今日の仕事は終了となった。













俺と先輩は休憩室に戻り、カバンに荷物を詰めて帰宅の準備をしていた。部屋の中には俺たちの他に、執行室の床を開くボタンを押した3人の刑務官もいた。

職務規定により、死刑の執行に直接携わった刑務官は、その日の以後の業務をすべて免除されることになっているのだ。

俺は部屋の中にいる人間をさりげなく確認した。

先輩も、ボタンを押した3人も、みなこれといった感情を表に出すことなく、ただ黙々と制服を脱ぐ作業に取り掛かっていた。

誰一人として先ほどの「仕事」に動揺した顔をしている者はいない。ただいつものように、仕事終わりの気の抜けた、多少疲れた感じの力無い顔つきを見せているだけだ。

そして、それは俺も同じだった。

鏡がここにないからはっきりとは言えないが、俺も彼らとほとんど同じ表情をしていることだろう。

だって、現に俺は今、何も感じていない。心になんの変わった動きもないのだ。

もし表情が心を写しているものなのなら、俺の顔も彼らと同じ、つまらないものになっているんだろう。


・・・・俺もさっさと着替えを済まそう。

胸のボタンに手をつけて、それを外そうとすると・・・・


「おい」


先輩の声がした。それは明らかに俺の方へと向けられていた。

声のした方へと顔を向けると


「お前、今日あいつが言ってたこと、どう思った?」


先輩は作ったような笑みを口元にわずかに滲ませて、こう言った。


「・・・あいつというのは囚人のことですか?」


「ああ」


「囚人が最後に言っていたことについて、私がどう思うかってことですよね?」


「そうだ。暴れるでもなく、いさぎよく簡潔に済ませて死ぬでもなく、最後の言葉をあんなに長くつらつらと並べて演説をしたのは、あいつが初めてだ」


先輩は鼻笑いして乾いた空気を吐いた。


「で、どう思った? あいつが最後に喋っていた話の内容、お前の考えを聞かせてくれよ」


俺はすぐには口を開かなかった。

あの男が処刑直前にした話について、先輩から聞かれるまで特に何か考えたりしたわけではなかったからだ。つまり、話すべき自分の考えがすぐには出てこない。

俺は初めて、男のした話のことを考えてみた。考えてみると、少しながらそれに対する意見も見つかってきた。たった5秒程度で見つけた意見ではあるが、黙ったままでは先輩に失礼だ。俺は口を開くことにした。


「男の話していたことは、部分部分を見れば同情できるところもあります。確かに、エデンがもう少し早くこの世に出ていれば、あの男も死刑になんかならずに済んだでしょう。しかし・・・」


「しかし、なんだ?」


「全体的な結論としては、やはり男には同情できません。あいつは薬があれば人殺しなんかせず、死刑にもならなかったと言っていましたが・・・その言葉はむしろ奴が手がけた被害者の方に向けられるべきですね」


「と、いうと?」


「あの薬がもっと早く出ていれば、あのような男が現れることはなく、被害者が殺されずに済んだということですよ」


「・・・なるほどな」


「あいつは自分のことばかり考えて、自分をこんな境遇にした社会への恨みつらみを吐き捨てていましたけど・・・そんな言葉は被害者のことを本当に想っていたのなら、真っ先には出てくるはずがないですよ」


俺は一区切りを置いて、最後の言葉をこう締めくくった。


「あの男は、死刑になって当然だったと思います」


先輩は口元だけ緩んだ顔つきで俺の話を聞いていた。

そうして俺の話した言葉を受け取って、それを吟味しているみたいだった。


「なあ、もうひとつ聞いていいか?」


先輩が口を開いたと思ったら、またも俺への質問だった。


「・・・なんでしょう」


「お前、今日の仕事やってさ、今、何か感じることある?」


先輩の質問はまたも抽象的なものだった。

俺が何を感じているか? なんでそんなことを聞いてくるんだろう。

先輩の意図が分からず、困惑する。

が、今回の質問自体は先ほどのものとは変わって非常に答えやすいものではあった。

なにしろ、その問いには最初から、しっかりと答えが俺の中にあった。

いや、答えが“ない”ことこそが答えだった。


「特に何も感じておりません」


「・・・そっか」


先輩は表情を変えなかった。

相変わらずの人工的に緩ませた顔つきで、「まあそうだよな」とでも言いたそうな雰囲気を醸し出しつつ、ただ黙ったままだ。


「・・・じゃ、俺は先に帰るわ」


先輩は既に私服に着替え終わっていた。


「また明日な」


鞄を左肩に担いで、先輩は颯爽と部屋の出口を抜けていってしまった。

軽い足取りで歩く先輩は廊下に出ると同時に視界から消えた。その軽快ささえも、作り物みたいに見えた。

気がつくと、ボタンを押した3人も休憩室から消えていた。

部屋の中には、まだ紺色の制服を身につけた俺だけが、一人取り残されていた。

気を取り直して、俺は再び胸のボタンに手を近づけた・・・・










午後12時40分、俺は勤め先を抜けて帰路についていた。

この時季、勤め上がりの道は夜の暗さに覆われているのが常だが、今日は明るい日差しが辺りに溢れている。早抜けのおかげだ。

普通の人間だったら日光に釣られて気分も明るくなるところだろうが、俺の内から活力が湧いてくる気配はない。

別に、さっき処刑を済ませたばかりでそんな気分にはなれない、ってわけではない。

さっき先輩に言ったとおり、俺はもう、あれで気持ちをかき乱されることはない。いつの間にかそうなっていた。

いつからそうなったのか?

俺がまだ自分のことを若者と自信を持って言えた頃、社会人駆け出しの間もない時期に、初めてあの仕事を手がけたとき・・・体の中に、そこに押し込めることのできない強烈な感情のどよめきが湧いてきて、それが俺を揺さぶって吐き気を催させたのを覚えている。

不快と苦痛と不安に塗り固められたその感情の塊は、しかし、そのどこかに、ほんのひとかけらだけ、言い知れぬ高揚を密かに隠し持っていた。

今、俺のうちにそんなものは見つからない。

処刑をいくつもこなしていくうちに、それはただの作業に変わっていき、俺になんの感情も起こさなくなっていた。俺はいつの間にか処刑に慣れていた。

慣れ、それは人間という生物が有する一つの機能だ。

その機能があるからこそ、俺は今でもこの仕事を続けられている。

その機能があるからこそ、俺はこうやって生きていられる・・・・・




しばらく歩いていると、住宅街の中に広がる大きめの公園にたどり着いた。

普段、俺がここを通り過ぎるときは既に太陽も沈んでいて、暗い公園には誰もいない光景が映るだけだ。しかし昼盛りの今は多くの子供たちがそこで遊んでいて、辺りには無邪気な明るい声が溢れている。

このまま家に帰っても特にすることはなかった。

俺は公園の中へと静かに入っていった。


俺は芝が広がる原っぱの、その隅にあったベンチに腰掛けた。

向こうには色とりどりの遊具が設置されており、子供たちがその上に乗って元気よく遊んでいる。楽しそうな声がこっちにまで届いてくる。

その声を聞いていると、嫌でも思い知らされる。

あそこにいる子供たちと、ここにいる俺は、まったく別な生き物なんだと。

あの子たちは、人を傷つけることを知らない。それは彼らが汚れを知らない子供だから、いや、そうじゃない。

彼らはこれから大人になっても人を傷つけることはないし、そう考えることさえない。

なぜなら、みんなあの薬を・・・エデンを投与されているからだ。

そして俺・・・この俺はというと、実はエデンを投与されていない人間だ。

エデンの投与は法律で定められた国民の義務であり、全ての国民はそれを飲まなければならない。当然の話だ。もしエデンを飲んでない人間がそこらに存在しているとなれば、心から安心できる社会なんて実現できない。

しかし、実はエデンを飲まないことを法律的に許された人間も、極少数ながら存在する。

その一人が、俺だ。

なぜこの俺がそんなことを許されているか? そんなこと考えればすぐにわかる。

俺の仕事は、死刑囚を処刑することだ。エデンを飲んだら、他人を処刑することなんてできなくなってしまうだろ?

エデンがこの世に生まれて、これ以降殺人を罰する必要がなくなったとしても、既に罪を犯した死刑囚が許されるわけではない。彼らはその罪を贖わなければならない、死刑によって。


だから、俺がいる。

エデンを飲まない俺が刑務官を務めることによって、人を殺せなくなった他人に代わって俺がその役目を全うし、そして社会は正義を完成することができるってわけだ。

正義、フッ 我ながら皮肉な言い方をしたものだ。

エデンを全国民に投与して殺人を否定しておきながら、過去の殺人者を殺す人間を必要としているんだからな、この社会は。

矛盾といえば矛盾かもしれない。少なくとも歪な形をした正義であることは間違いないだろう。

だが、そんな正義が生きながらえるのも、あと少しの話だ。

もう新たな殺人犯が現れることはない一方、今いる死刑囚は着実にその数を減らしている。俺らが仕事をしているから。

やがて全ての死刑囚を処刑し終えたら、それからはもう俺みたいな人間は必要なくなる。刑務官もエデンを投与されるときがくるだろう。

そうなれば、もう、人を殺す人間は本当に一人もいなくなる。

歪な形をしていた正義が崩れ落ちて、その内から真の正義が姿を現すのだ。

その瞬間こそ、待ちに待った、正義の完成だ。

あと少しだ。

あと、もう少しで、俺は・・・・・・・



「おじさん、どうしたのー?」


混じり気のない声が脳に入り込み、意識を外界に呼び戻した。

ハッとして目の前を見てみると、そこには一人の女の子が立っていた。

見た目は8歳ほどの、赤いスカートを履いたその女の子は、俺のことを不思議そうな目で見つめていた。


「おじさん、さっきからすごい疲れた顔をしてたよ? いまもしてる。大丈夫?」


女の子は澄んだ目で、心配そうに俺を眺めている。

その心は、どこを探しても汚れたものはなさそうだった。


「大丈夫だよ。さっきまで仕事をしてたから、ちょっと疲れてただけ」


「おじさん仕事してたの? なんのお仕事?」


女の子はひとかけらの警戒心を見せることもなく、俺の方に近づいた。

どうやら俺とお話がしたいみたいだった。


俺が子供の頃は、知らない人に近づいちゃダメって、話しかけられても無視しないとダメだって、大人から念押しに言い付けられたものだ。

けど、この女の子にそんな概念はないようだ。

まるで、俺に近づいても何もされないと確信しているかのように、無防備に、俺のそばにいる。

この子はおそらく、物心がついたときには既にエデンが全国民に投与された世界に生まれ、そして生きてきたのだ。

生まれてからずっと、人が人を傷つけるなんて考えたこともないし、それは彼女にとってはあり得ない世界なのだ。

だから、こうやって見知らぬ俺に声をかけられる。

俺は今、この女の子になんの疑念も、不安も、抱かれていないのだ。


そのとき、俺の内にある思考が生まれた。




俺は、今、この子を殺すことができる。




それはまったく、なんの前触れもなく、突然生じた思考だった。

それは反射的な思考だった。

ただ、「この女の子は人を殺すことができない」という事実があって、その対をみると「俺は人を殺せる」という事実が見つかっただけの話だった。

それは文字で表せるだけの、単なる抽象的な事実に過ぎないはずだった。


だが、この女の子の顔を見た瞬間、それは「この女の子」を「実際に殺せる」という内容を持った具体的な事実へと変わった。


この子は人が人を傷つけるなど考えてもいない。俺の動きに対して、なんの準備もできていない。

この子は、俺と話がしたくてすぐそばまで来ている。手を伸ばせば、すぐそこに少女の首がある。思いっきり力を入れて締めれば、この子は死んでしまうだろう。


他の人間と違って、俺は人を殺すことができる。



急に、目の前が白くなった。

頭が揺れる感覚がして、俺は全身を前のめりにしてうずくまった。


何を考えてるんだ、俺は。


俺の内を、得体の知れない感情が走っている。

この感情は、覚えがあった。懐かしい。なんだ、この気持ちは。


そうだ、これは、俺が初めて処刑をやったときに感じた、あの感情だ。

心臓を締め付ける不快さと苦痛さと不安さと、そして、密かな高揚感。

俺は今、あのときに戻っているんだ。

初めて人を殺した、あのときに・・・・・


次に、腹の底から吐き気が込み上げてきた。

白くなった視界は今度は黒くかすみ、少女の顔を闇で隠した。

震える両手を抑えて、口にあてた。

手のひらが湿っている。いつの間にか、全身から汗が滲み出ていた。


「おじさん大丈夫!? 気持ち悪いの?気分が悪いの?」


女の子が俺の背中に手をあてて、優しくさすっている。

こんな俺を見ても、まだこの子は俺を不気味に思わない。俺から逃げようとしない。俺を心配してくれる。


殺せる。こんな子を、俺は殺せてしまう。


吐き気が強まった。

腹から込み上げてくるのは、今朝食ったサンドイッチか?

それとも、この子に対して向けられた感情か?

その感情の、正体は・・・・・


俺は抑えられなくなりつつある意識の中で、こう考えた。


かつてエデンがこの世になかったとき

人を殺そうと思えば本当に殺せてしまえたとき

人は、人を目の前にして、どういった感情に襲われていたのだろう?

こんな、俺の、今みたいな気持ちに、なることなんてあったんだろうか?


だが、崩壊しつつ意識の中では、これらの問いに対して、答えを与えることなどできなかった。

背中にほのかな温もりを感じたのを最後に、俺の意識は途切れた。

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