29《ウラジオストク》――JST16時25分

 ウラジオストク空港は混乱していた。

 拉致被害者たちは一足早く政府専用機へ搭乗し、出発を待ってくつろいでいる。

 ホールに急遽用意された演壇には日本国総理大臣、ロシア大統領、そして亡命政権樹立を宣言したキム・ジョンウンが並んでいた。彼らを、各国の記者団が取り囲んで矢継ぎ早の質問を浴びせる。

 記者たちの大半は、クレムリンからロシア大統領の〝突然の不審な動き〟を追ってウラジオストクまで辿りついた。彼らの予測は、ウクライナや中東での紛争から目をそらすために極東地域で何らかの発表があるというものだった。確かに、驚くべき爆弾発言があった。同時に記者たちは、自分たちはこの発表のために〝呼び寄せられた〟のだということを悟った。

 日本の総理と組んだ大統領は最初からこの〝イベント〟を企み、記者たちを手のひらで転がしていたのだ。

 記者たちは知っていた。本当の混乱はこれから始まる。極東は、そして世界はこれから激動の時代を迎える。危うい均衡を保ち続けてきた東アジアが、明らかな国際紛争のホットスポットと化したのだ。

 だが、〝激動〟が紛争の激化や武力衝突を意味するとは限らない。

 火を放ったのは中国の膨張政策だ。それに対抗して、日本とロシアが手を組んだ。このまま中国の拡大を押し止め、その間に中国の経済力が低下していけば、対立が沈静化する望みも大きい。その上、日露間の対話が進んで懸案の北方領土問題が解決されれば、東アジアの経済協力が推進されて新たな世界秩序の幕開けとなる可能性も孕んでいる。両国の首脳は、すでに何度もの会談を重ねて方向性をすり合わせている。

 記者にとっては力量の見せ所でもある。

 その一団に背を向け、ひっそりと姿を消そうと歩き出す罠師たちと根本がいた。

 根本が大熊竜子にささやく。

「さっき部下から連絡が入った。新潟空港周辺で活動を起こした工作組織が一網打尽にされた。組織のトップは、監視を強化して泳がせたそうだ」

「やっぱり、ね」

「大森だと分かっていたのか?」

「確証はなかったけど、9割方は間違いないと思っていたよ」

「また、助けられたな……。しかし、警察官僚がそこまで喰い荒らされていたとは……」

「首相の愛人が中国のスパイだったとまで疑われる国だよ。もう、平和ボケと笑ってはいられない。日本は、ふんどしを締め直さなきゃならないんだ」

「私たちの、これから役目だな……」

 竜子が根本に問う。

「お返しと言っちゃなんだが、私と娘を輸送機で日本に送ってくれるかい?」

 根本が微笑む。

「もちろんだ。だが、政府専用機に比べれば快適とは言えないが?」

「あたしたちは、快適さを求めて生きてるわけじゃないんでね」

〝佐藤〟が言う。

「私はロシアに残るよ。これから先、ここでやらなければならない仕事が多いだろうからね」

 竜子が肩をすくめる。

「あまり欲をかくんじゃないよ。何年かぶりに顔を合わせたのに、これが最後になったら寂しいからね」

「私が殺される、とでも?」

「大統領の側近やらロシアンマフィアやら、物騒な連中と絡んでるんだろう? でなけりゃ、これほど大掛かりな罠は仕掛けられなかった」

「ヤバイ連中と関わっているのは、お前も同じだろう? ロシアが日本よりリスクが高いのは初めから分かっていることだ。だからこそ、ここに留まる価値がある」

「ま、これで罠が終わったわけじゃない。中国も朝鮮も、手を替え品を替え攻撃を仕掛けてくるだろう。ロシアが裏切らないという保証もない。あんたがいてくれれば、これからも役に立つ。またいつか、一緒に動くこともあるだろうからね」

「いつでも言ってくれ。罠師、だからな。じゃあな」

「ああ。達者でな」

 佐藤はわずかに片手を上げて、どこへともなく去って行った。

 その背中を見送った春香が言った。

「久しぶりに会ったんでしょう? こんなにあっさりお別れしてもいいの?」

「あいつもあたしも、いつ死んでもいい覚悟は決めている。家族だからって、未練は残さない。でなければ、罠師は続けられない。でかい仕事に手を出すには、それなりの犠牲は払わなくちゃね」

 春香がかすかなため息を漏らす。

「母さん……だからまた一つ、大きな罠を成功させられたのね」

 しかし、大熊竜子の顔色は暗かった。

「バカ言うんじゃない……こんなものは、失敗と変わりないさ。偶然のおかげで、辛うじて大負けを防げただけだ」

 春香にとっては、意外な返事だった。

「なぜ?」

「分からないかい? 日本は今の今まで、拉致された国民を救えなかった。自ら戦う力を捨て、その意志さえ見せようとはしなかった。そんな国を作ってしまったのは、あたしたちの責任なんだ。ようやく戦う決意が固められたのは、キム・ジョンウンが心臓病を患ったからに過ぎない。それが偶然じゃなくて、何なんだ?」

「それはそうだけど……」

「日本という国は、戦争が終わって70年も経ってから、ようやく少しだけ誇りを取り戻し始めた。中国にやられっぱなしの時代は終わったかもしれない。だけど、勝ち負けはいつまでたっても決まりはしないだろうね。こんな諍いは、これからもずっと続いていくだろうよ。だが、今回ばかりは誇れない。相手の力を見切って、こちらの狙い通りに追い込んでいくのが罠師の本領だ。敵の出方に振り回されて、やっとこさ惨めな敗けをかわしたなんて、恥ずかしくてご先祖様に報告できやしない……」

 彼らの会話を聞いていた根本が言った。

「だが、君たちは拉致被害者たちを見事に救い出した。中国の膨張も食い止めた。望める以上の、最高の仕事をした。これは、勝ちと言っていい。特殊作戦群の指揮官として、それは断言させてもらう。日本を救ってくれて、感謝している」

「確かに、力は尽くした。だが、まだ第一ラウンドが終わっただけだよ。混乱の種も蒔いてしまった。そうする以外に、目の前に迫った中国の圧力を跳ね返す手段がなかったからね。これからは、あんたたちに任せる。政府が覚悟を持って国を立て直し、あんたの自衛隊が毅然と戦えるようになること。それができなければ、日本は内部から食い荒らされる。警察や政府だけじゃない。土地も文化も人の心も、全てが腐っていく。しかも敵は中国に限らない。日本が泥沼にはまっていくことを望む国は多い。アメリカだってその一つだ。でなければ、たった一度戦争に負けただけでこれほど叩きのめされはしなかっただろうからね。世界で一番古くから続く、あたしたち国を、何があっても守り通して欲しい。頼んだよ」

 根本がうなずく。

「その通りだな。世界はまた、争いの時代に突入した。日本は、目覚めなければならない」

「今度の主敵は中国共産党だ。奴らは共産主義国である以上に、大中華思想を臆面もなくひけらかす独裁国家だ。領土を拡張したいという欲望をむき出しにして、今でさえ南シナ海を我が物にしようと食指を伸ばしている。経済で追い詰められている分、体制を維持するためになりふり構わない手を打ってきている。日本を内部から腐らせるために、あらゆる場所に小金をばら撒いて手先を増やし、土地を買いあさり、世論を誘導しようと企んでいる。皇室さえも破壊しようと、あの手この手の工作を仕掛けてきている。その破壊活動の効果を高める武器が、軍事力による恫喝だ。『さあ戦争が起きるぞ!』と煽り立てれば、9条信者が神頼みに走るからね。そんな中共に朝鮮半島が奪われたら、東アジアは思いのままに撹乱される。その危機は、いったん退けられた。これからは、日米ががっちり手を組んで彼らに対峙することになる。中共はロシアを自分の陣営に引き込もうと画策してきた。だが、ロシアはそもそも中共とは相容れない国だ。今回の北朝鮮亡命政権が、その軋轢を決定的にする。中露の協調路線を防げたことは、一応の成果だったかもしれない。米露が和解することは望めないだろうが、日露は良好な関係を築ける。つまり、日本が間に入れば、日米露で中国を囲むことができる。今回のミッションをそこまで進められれば、あたしも少しは自分を褒めてもいいと思うんだがね……」

「あなたがたの働きを無駄にはしない。日本は、決して小さな国ではない。広大な海を領海に擁する、資源に恵まれた国だ。頭脳も、技術も、生産力もある。何より、日本人そのものが優秀な〝資源〟だ。地力はある。魂さえ取り戻せれば、日本は変われる。私たちも、全力を尽くすよ。だが……」

「だが?」

「本当に困ったことが起きたら、連絡を取ってもいいか?」

 竜子がうなずく。

「まあ、どう頑張っても政府にはできない汚れ仕事はあるだろうからね。人殺しは引き受けない。だけど、国のために誰かを罠にかけたいなら、相談には乗れるかもな。その時のための、罠師だ」

「連絡は、どうすればいい?」

「それは、こっちからする。あたしたちの国が本当に追い詰められた時は、必ず分かる。その準備は、いつでも整えているからね。あんたは、仕事にふさわしいギャラを用意して待ってな」

 そして竜子は、ようやく人懐こい笑顔を浮かべた。



                    縞馬計画〈罠師外伝・1〉――了

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縞馬計画 岡 辰郎 @cathands

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