28《首相官邸》――JST16時17分

 官邸に置かれた大型テレビを囲んだ外務大臣たちから、感嘆の声が漏れた。

「まさか、こんなことが現実になるとは……」

 わずかに微笑んでいるのは、官房長官だ。

「これで、この国はまた一歩、前に進めたな……」

 テレビには、日本語の同時通訳が付いたCNNのニュース映像が映し出されている。ロシア、ウラジオストク空港からのライブ中継だ。BBCやロシア国営テレビでも同様の放送が行われている。

 中継の開始は、日本人拉致被害者の解放を伝えるものだった。総勢100名を超える被害者たちが空港ロビーに集まり、その先頭に立った日本国総理大臣が彼らが解放されたことを宣言した。

 それだけでも、充分なインパクトを持つ発表だった。

 全世界は、北朝鮮のクーデターに震撼していた。内乱が引き金となって核が発射されるのではないかと、身構えていた。その直後に、大量の日本人拉致被害者がロシアに現れたのだ。

 拉致問題は日本以外では大きな関心を持たれていないが、震源地である北朝鮮から脱出してきたのであれば関連性があるとしか考えられない。日本国内のマスコミはもちろん、世界中の報道機関からの問い合わせが官邸に殺到していた。

 その全てを断って、今、彼らは中継画面に見入っている。真の〝発表〟がこれから行われることを、彼らは知っている。

 総理は、発表の最後に付け加えた。

『今回の拉致被害者解放は、北朝鮮最高指導者であるキム・ジョンウン氏の決断によってなされたものです。一部ではキム・ジョンウン氏が殺害されたという情報が流れていますが、それは完全な誤りです。日本国民は長らく行き詰っていた両国の関係をほぐす北朝鮮最高指導者の英断に感謝し、今後の協力を惜しまないことをお約束いたします。では、キム・ジョンウン氏ご本人に変わります』

 現場で中継に当たっていた記者たちの間にどよめきが広がる。彼らにとっては、まったく予想外の出来事だったようだ。

 背後の壁にカメラが振られると、スタッフ用の出入り口から車椅子に乗ったキム・ジョンウンが現れた。車椅子を押しているのは、ロシア軍の軍服を着たニーナだ。空港スタッフが、スタンドマイクをジョンウンの傍にセットする。

 あたりの騒がしさが静まると、ジョンウンが朝鮮語で話し始めた。傍らに立つニーナが、それを英語で通訳する。中継画面では、ニーナの言葉が女性の声で同時通訳されていった。

『ああ、わたくし朝鮮民主主義人民共和国最高指導者であるキム・ジョンウンは……国を離れておりました……それは、心臓病治療のためであり……手術は無事に終了いたしました……それは日本の名医のおかげであります……。今回解放された皆さんは……ああ……不当にも長らく北朝鮮に捕らえられていた方々であり……すべての責任は最高指導者のわたくしにもあり……よってこの度、解放を決意したものであります。しかし拉致犯罪の計画、実行は数十年にわたる軍部の独走によるものであり……ああ……わたくしの一存では……対処できない性質のものでもありました。その証拠の一端が……今回の暗殺報道であります。おそらく……殺害されたのは、わたくしの身代わりでありましょう……軍部が主導して……その背後で企んだのは、中国共産党人民開放軍だと確信しております。よって、暗殺報道以後の北朝鮮の声明には……なんら正当性がありません。わたくしはその声明によって打ち立てられた政権を否定し……国家を取り戻すまでの一時的なものではありますが……このロシアの地に正統な北朝鮮政権を樹立することを宣言いたします』

 さらに彼らの横のドアから、もう一人の男が現れた。

 会場のどよめきがさらに高まる。

 5人のSPに囲まれたロシア大統領だった。

 大統領がにこやかに微笑みながら片手を上げて挨拶し、車椅子のジョンウンの傍らに立つ。ニーナがスタンドマイクを伸ばして、大統領の前に置く。大統領がマイクに語りかける。その言葉の区切りごとに、ニーナが英語で通訳した。

『わたくしロシア大統領は……キム・ジョンウン氏の亡命政権樹立に……全面的に協力することをお約束いたします。北朝鮮国境付近の……土地や建築物の提供や……人員や資金援助など……可能な協力を……惜しまず提供させていただきます……』

 テレビ画面の中で、日本国総理大臣がロシア大統領に歩み寄った。二人は握手を交わし、そして満面の笑みを浮かべながら抱き合った。

 と、防衛大臣の携帯電話が鳴った。防衛大臣が舌打ちをして通話を始める。

「電話は取り次ぐなと――そうか、それならやむを得ないな。しばらく待つように」そして、官房長官に言った。「早速、米軍からです」

 官房長官の表情が引き締まる。

「中央指揮所の幹部からですか?」

「いいえ、本国からヒギンズ国防長官が直接……」

 官房長官がうなずく。

「スピーカーフォンに」外務省の通訳が、スピーカーに近づく。スイッチを入れると、官房長官が言った。「官房長官です。あいにく、総理はロシアに外遊中でして」

 通訳を待たずに、相手がまくし立てる。

 通訳がその怒声を翻訳する。

「何てことをしてくれたのか、どんな権限があってこのようなことを企んだのか――と。相当怒っています」

 官房長官は冷静だった。

「我が国は、北朝鮮に捉えられた自国民を救出したに過ぎない。あなた方が、砂漠に特殊部隊を送り込んでアメリカ国民を救出する努力を重ねるのと同じだ。違いは、我が国の作戦は成功したということだ。対価として北に与えたのは、優秀な医師の派遣だけだ。その他のことは、中国の介入による不測の事態だ。結果的に極東のパワーバランスの再構築が必要な事態となり、誠に遺憾である――そのように伝えてください」

 通訳が話し終えると、やや落ち着きを取り戻した返事が帰った。

「だが、ロシアが介入している。北朝鮮がロシアに亡命政権を作ることなど、我々は聞いていない」

 官房長官がうなずく。

「拉致被害者を安全、かつ確実に移送するため、モンゴルとロシア政府には水面下で協力を要請していた。貴国の大統領にも、我が国の総理から直接、内密に連絡を入れてある。計画の概要とロシアの協力を得ることは、承認済みだ。あなたにまで情報が届かなかったのは、大統領の判断だろう。危険が伴う計画だから、失敗した際には聞かなかったふりをしたかったのだろう。だが、我々が行ったのはそれだけだ。ロシアが北朝鮮を取り込むことなど、考えてもみなかった――そう言いなさい」

 通訳がヒギンズの返事を伝える。

「では、なぜジョンウンがロシアにいるのだ、と」

「本人の希望だからだ。ジョンウン氏は機上で治療を行ないながら、母国でクーデターが起きたことを知った。当面は北朝鮮に帰ることは難しい。選択肢は二つ。日本へ行くか、ロシアへ行くか、だ。ジョンウン氏が選んだのはロシアだった。それ以外の理由はない――そう伝えなさい」

 ヒギンズの、諦めたようなため息が漏れ聞こえた。

「それで今後、日本はどう動くつもりだ?」

 官房長官は覚悟を決めたように言った。

「それは、総理が国に戻ってから落ち着いて考えたい。ただし、モンゴルとロシアには、拉致被害者解放のために多大な協力をしていただいた。危険を冒して日本国民を守ってもらった礼は、国家として果たさなければならない。ウクライナや中東での横暴に対する制裁には今後も同調していくが、両国間の経済協力は別個に深めていくことになる。ロシア極東地域の開発には日本国として力を貸すことになるだろう。それは、アメリカにも認めていただかなければならない」

 通訳が怯えたように問う。

「いいんですか、そんなことを言って……?」

「総理は了解済み……というより、望んだことだ」

 通訳が伝えると、ヒギンズの返事には怒りをこらえている気配があった。

「北朝鮮との関係はどうする気だ?」

「我が国は、ジョンウンの亡命政権を支持する。日本からも多くの在日朝鮮人が亡命政権に参加するだろう。当然、全面協力する。拉致問題が解決した今なら、それに反対する国民は少ない。ロシアは国境地帯に浸透する朝鮮や中国の勢力に頭を悩ませてきたと伝え聞く。その勢力を亡命政権を中心にまとめ上げ、中国の方向へ反転させる。ジョンウンをトップに据えれば、それは可能だ。日本は、亡命政権に経済協力を惜しまない。日本が手を貸せば中国の配下にいるよりも優れた国家が築けることは、70年以上前の満州国で証明済みだ。政権の正統性も、ジョンウンの側にある。北朝鮮と国交があった国々も、亡命政権を否定できないはずだ。国境線は次第に中国側へ移動していくだろう。たとえ韓国が中国の傀儡と化しても、北朝鮮が中国包囲網に加われば、戦わずして朝鮮半島は分断できる。半島が丸ごと中国の手に落ちるよりはよほど安全なはずだ。合衆国が北の核さえ抑え込んでいれば、それができる。それとも合衆国は、未だに中国に甘ったれた幻想を抱いているのか?」

 最後の一言は、総理とも打ち合わせていなかった官房長官自身の言葉だった。

 長い説明を、通訳がメモしながら聞く。そして、英語に翻訳した。帰ってきたヒギンズ国防長官の言葉は、意外なものだった

「いったい誰がこんな〝絵〟を描いたんだ? 次に何かを企む時は、絶対に我々も噛ませろ――そう言ってきました」

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