天と海

水鏡 玲

【青華楼の青年】

西暦2×××年。日本は変わった。

何度かの天災の後、発達した科学と文明を用い、人々は住処すみかを地から天へと移した。

かつての街は海に沈め、高く高く基礎を築き、その上に新たな都市を造った。

高層都市に建つ高層マンション。

その屋上から天へと伸びる天空エレベーター。

繋がるのは空に浮かべた宙空都市。

宙空都市から宙空都市へは空を走るモノレールが通る。

その更に上、かつては限られた人しか行くことができなかった宇宙には様々なテーマパークやリゾート施設、ショッピングモールなどが造られた。

宇宙旅行は珍しく特別なものではなく、すっかり日常に溶け込んだ。

仕事と呼ばれていた様々な労働のほとんどはアンドロイドが請け負うことになり、人々の収入源は国から定期的に支給されるものとなった。

貧富の差はほぼなくなり、穏やかで美しい暮らしや街並みが保たれている。

日本だけではなく、他の国々もそうであるとネットで知り合った海外の友人が言っていた。


僕は今日も高層階の部屋から、遠く広がる空と、遥か下に広がる海を眺めていた。

ここは青華楼せいかろうと呼ばれる都市だ。

どこよりも高く美しいと言われている。

白壁の建物と青い煉瓦の道路。

白と青だけで造られた都市。

海から最も遠いと言われる都市なのに、街並みは海に寄せているようでもあった。

龍光たつみくん、また海を見下ろしているの?」

ふわりと心地よい声が耳に届き、そちらを振り返る。

柔らかなウェーブが入った、長く青い髪。

色白な肌に細い体躯。

優しい顔に、髪色に合わせたブルーのフレームの眼鏡。

「お姉さん。帰って来ていたんですね」

僕と似ているのは色白なところと、細い体躯だけだ。

ゆるく入った生まれつきのウェーブヘアーも似ているんだろうか。

肩の上まで伸ばした、黒髪を細い指でかき上げる。

くっきり二重の大きな目に、細っそりと通った鼻筋、柔らかな微笑みを浮かべる口元。

それが僕、月舘つきだて龍光。25歳。

「海へ行きたいの?」

優しい口調でお姉さんが問うてくる。

その瞳は少し悲しそうに見える。

「海は神様が棲まう場所よ」

近くのソファーに腰を下ろして、お姉さまが語る。

「昔、まだ私たち人が地で暮らしていた頃、神様は天にお棲まいだった。それが人々がどんどん天へ近い場所へ居住地を移していったため、神様は困ってしまったの。神様が棲まう場所は特別な場所。人に寄り添い生きる神様たちだけれど、その場所へ人を入れることは許されない。たくさん悩んだ神様たちは決断したわ。人が天に昇るのならば、我れは海へ降りよう、と。泣く泣く天空の地を捨て、海へ飛び込んだの。海の水が塩辛いのは、天上を恋しく思う神様たちの涙が混ざっているからなのよ」

窓辺の壁に凭れ、お姉さんの話に耳を傾ける。

神様が棲まう場所……か。

「ねぇ、お姉さん。もしも……もしも僕たち人が海へ近づいたなら、神様はお怒りになるんでしょうか?」

吹き込んできた風が、僕とお姉さんの髪を揺らし、飾られた貝飾りも揺らしていく。

カラリカラリと乾いた音が鳴る。

「さぁ、どうかしら。もう長いこと海へ行った人の話は聞いていないわ」


次の日の朝早く、僕は家を出た。

青華楼の最下層まで一気にエレベーターで下りる。

エレベーターホール脇の立入禁止の扉を躊躇なく開き、体を滑り込ませる。

ゴウゴウと機械の唸る音が響く、薄暗い空間が広がっている。

ここは青華楼低層部の機械を操作し維持するための施設だ。

低層部、中層部、高層部、超高層部、宙空層とそれぞれにこのような大きな機械室が存在する。

中間地点である高層部には全機械室の監視センターがあり、24時間年中無休で故障やエラーがないかを管理していた。

機械の間を走り抜ける。

僕は高層部に住み、機械室の監視にも携わっている。

監視カメラの設定は昨夜のうちに多少システムをいじらせてもらった。

これでたとえ僕の姿が監視カメラに映ったとしても、それはエラーと判定されない。

そして、機械室の構造は低層部から宙空層まで全て同じである。

だから僕は知っている。

「あった……」

機械室の東側床面に、人一人が通れるくらいの隠し扉があることを。

ここは床下に通じており、埋め込まれた配線やモーターの確認をする時のみ開かれる。

機械室に入れる人間は限られている。

故に床下への隠し扉に鍵はかけられていない。

それは、低層部でも同じだった。

高層部とは違う点として、扉の下には長い鉄製の梯子が伸びていた。

下から吹き込む風は湿り気を帯び、潮の香りがした。

高層階へも吹き抜けてくる、海の香り。

長い梯子をゆっくりと下りる。

途中に配線が這う壁があり、そちらへ移れるようになっていたが無視をした。

青華楼を支えている基礎が剥き出しになる。

海の香りは強くなり、時に波の音も聞こえてくる。

僕は海へ下りたことはない。

けれど、過去の映像として、テレビで海の映像を見たことはある。

陽が昇り、陽が沈み、月の力で寄せて引く波。

美しい映像だった。

「あっ!」

急に足元の梯子が崩れ、僕は息を呑む。

恐る恐る下を見ると、ほんの数十cm先に地面があった。

そっと手を離し、飛び降りる。

灰色のコンクリート、その中間に引かれた白い転線。

「昔の道路かな」

ガードレールを乗り越え、歩道へ移動する。

西側は行き止まりになっていた。

東側は、車道は水に浸かっていたが歩道はなんとか歩けそうだ。

迷うことなく足を進める。

大きくなる波音に合わせるように、僕の鼓動も高まる。

かつての街が沈んだ海は、綺麗に澄んだ水をたたえ穏やかに波打っている。

しばらく行くと歩道の先も海に沈んでいた。

屈み込んで、その先に目を凝らすと、数m先に光が見えた。

「泳いだら抜けられるかも」

水泳には自信がある。

大きく息を吸い込んで、僕は海に飛び込んだ。


沈んだ街の骸のような建物の上に立ち、僕は広がる海を眺めていた。

所々に骸と化した建物の屋根やビルが顔を覗かせている。

かつては屋上庭園だったんだろうか。

こんもりと木々が生い茂っている場所もあった。

振り返ると、聳え立つ青華楼。

その先は見えない。

遥か雲の向こうだ。

「神様の、涙の味」

確かに海の水は塩辛い。

今、僕の瞳から零れ落ちるものも、同じく塩辛かった。

こんなにも美しい場所を僕は知らなかった。

知ることなく、生きていくところだった。

「僕が帰らなかったら、お姉さんは悲しむのかな」

アンドロイドが感情を持つことはないと言う。

お姉さんは、僕に似せて造られたアンドロイドだ。

一人ぼっちだった僕が寂しくないようにと、国が充てがったアンドロイドの姉。

僕を見守り、知識を与えるための……

「監視用のアンドロイド」

そのことに気づいたのは20歳を過ぎてからだった。


ある日の夜、ふと目を覚ました僕の耳に入ってきたのは、とんでもない言葉だった。

「はい。こちらコード318。龍光様の動きに異常なし。ですが、最近はよく海を眺めて過ごされております。昔の記憶が蘇りつつあるのかもしれません。あの子は天に取り残された……いえ、人が奪い取った神の子。水の神の息子。……えぇ、返しません。だってあの子は、私の可愛い弟ですから」


この話を聞いてから、僕は機械室の監視に携わらせてもらった。

隠し扉に気づけたのは予想外の報酬だった。

本来の目的は、相手方にバレずにお姉さんのシステムをダウンさせる方法を探るためだった。

最近になってようやくその方法を見つけ出した。

昨夜、僕は背後からお姉さんに近寄り、長い髪に隠された停止スイッチを押した。

それは一時停止的な機能にすぎない。

やや躊躇った後、頭部に埋め込まれたシステムへとアクセスした。

人間の脳に位置する場所に、記憶を書き込む基板がある。

長く複雑なコードを入力していく。

僕の記憶だけを消すコードを。

エラーもアラートも鳴らなかった。

成功だった。

今朝、家を出る直前に停止スイッチを解除してきた。

起動するにはしばらく時間がかかる。

おそらくは今頃目を覚ましたんじゃないだろうか。


自由になった僕の目の前に広がる、どこまでも青く美しい海。

「ここが僕が棲むべき場所なんだ」

もう一度、青華楼を振り返る。

未練はなかった。

「さようなら、お姉さん」


大きな飛沫を上げて、僕は海に飛び込んだ。

美しい青の世界。

陽の光が煌めいて、まるで宝石のよう。

ふと首元に温もりを感じた。

そのまま強い力で抱き寄せられる。

「龍光……会いたかった」

顔を見なくともわかる。

ずっとずっと、会いたいと願っていたから。

「母様……やっと、やっと還って来られました」

それが合図だったかのように、続々と懐かしい顔が覗いた。

「おかえり、龍の子よ。水神の子よ。さぁ、ここで伸び伸びと暮らすがよい。天へは戻れぬかもしれないが、住めば都よ。ここもまた良い場所だ」

神々の長がそう告げる。


人は、いつかまた地へと戻ってくるのでしょうか。

その時、天では何が起こったのでしょうか。

僕は今も時々水面へ顔を出しては、青華楼を、その先にあるとされる故郷を見上げる。

優しい風が吹き抜け、小さな波を立てた。


遠い遠い未来のお話し。

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天と海 水鏡 玲 @rei1014_sekai

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