Nope

瀬尾なずな

Merry


 あ、と、声が出た。

「ご、ごめんなさい」

 震えて弱々しそうな情けない声が、喉をいっぱいに満たす。

「ごめん、なさい、わ、別れてください、」


 肩を掴む彼の手に、力が入ったのがわかる。先輩は身体を離した。

「ごめん、嫌だったよな」



 別れよう。短い間だったけど、嬉しかったよ。

 それだけ。たったそれだけで、別れてしまった。


 恋人たち、友人たち、一人で家路を急ぐ人。はしゃぐ女の子。ベージュのコート。青い電飾。全てが特別なこの街で、私だけ異物だ。


「何、してんだろう……」

 コンビニに行って、ケーキでも買おうか。一人の部屋で、ふっちゃった、なんて笑いながら写真を撮って真悠子に送ったら、真悠子は気にするだろう。

 心配させるなんてことは百も承知で、心配してほしかった。そもそも真悠子は今年もクリスマスの予定を確認してくれたわけで、私から断ったのに。先輩とデートするから、そう言うと自分のことみたいに喜んでくれて、気にしないでいいよ、私は女子会開いちゃうから、ちさはデート楽しんできてよ、って最高の笑顔で。

 真悠子との予定をキャンセルして今日のデートを選んだはずで、こんなに服も悩んで、プレゼントを選んで、靴も、メイクも、頑張ったはずで、きっと会話も上手くできていて、あのままいくと私はあの人とキスをして、手を繋いで駅まで行って、帰って、それから、余韻覚めやらぬまま寝て、朝になったら真悠子にLINEをして。報告して。二人で、きゃーってはしゃいで。

 そんな、ありふれた、幸せな女の子としてのクリスマスを迎えるはずだったのに。

 先輩にあげたタンブラーはこのあと捨てられてしまうんだろうか。私がもらったペンダントは?ううん、そのペンダントの代わりに箱にしまった、付けてきたネックレスは、……私はあのネックレスを選んだのに。

 可愛くして、頑張って、それなのに、自分からだめにしてしまった。たかがファーストキスくらい、今どきもう、どうってことないものなのに。

 拒んでしまったのだった。先輩の、薄い桃色の唇が近くに見えたとき、どうしても顔を遠ざけてしまったのだった。

 だって、本当にこの人で大丈夫なのかなって、そんな気持ちがぐるぐるして。唇と唇が触れたら、皮膚が触れ合ってしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうと感じたのだ。それ以降先輩が取り返しのつかない相手になることが、ひどく怖かった。

 帰りたくない。外にいることはどうしようもなく虚しかったけれど、一人で住む部屋に戻るなんて、もっと虚しかった。歩き慣れている道を歩いて、渡り慣れている橋を渡って、見慣れている店のシャッターが降りた姿を、いつものアルバイト帰りの姿を見たら、気が滅入ってしまう。今日帰らなかったら、明日に響く。浮かれるつもりでいたけれど、明日は金曜日。私には授業があるし、真悠子と会う予定も入れた。今日の話をしなくちゃいけない。

 そう、話さなくちゃいけない。真悠子はきっとわかってくれるだろうけど、今日のことを思い出して言葉にするのは考えただけで苦しい。自分のことのはずなのに、自分がどうしてそんな行動をとったのか、全くわからなかった。誰かに話して、こんなことあったんだよ、って言わないと重たくて苦しくて仕方がないのに、その誰かを見つけること、順序立てて話すこと、相手の表情や態度や返答を受け止めることが面倒くさくてしょうがない。

 だからふらふら、電飾と電飾の間を歩いた。帰りのバスとか寒さとか、なんだかそういうことを考えるのも億劫で、考えないと辛いのは自分なのにどうでも良くなってしまっていた。

 繁華街の中心部を抜けて、少し暗くなった路地に辿り着く。下町のにおいが残る居酒屋が立ち並ぶ中を抜けていく。途中でスーツの女の子と肩がぶつかる。その子の隣にいた男の人が、「おっと、」とつぶやいた。ベージュのコートの肩が視界の右端から消える。遅れて、「だから本当に〜さんは、」と、間延びした声が聞こえる。名前の部分が聞こえたようで聞こえないのは、女の子がちょっと酔っていて、険を感じさせる口調で喋っていたからだった。こういうの、甘える声っていうんだ。私の耳には刺さった。自分がこんな声を出していたのかと考えても嫌だったし、かといって出せていなかったとしたらそれも苦しかった。

 きっとみんな、クリスマスを生きている。私が手放した特別な一日を、こんなに上手に楽しんでいる。歩き続けているうちに、喧騒は遠ざかり、落ち着いた裏路地に出ていた。遥か後ろに人々がいて、明るさがあって、ここには何もない。

 ぽとり、と涙が落ちた。遅れて、頬を涙が伝う感覚があって、唇の端が震え始める。涙が走った場所に触れる風がひどく冷たくて、喉が苦しくて、目と心だけが熱くて、たまらなかった。半ば脚を引き摺るように歩いて、ベビーピンクのコートの袖で涙を拭いながら歩いて、そして私はさらに暗い路地にたどり着いていた。住宅街のようで、ぽつぽつとある店のほとんどはクリスマスだというのにシャッターを下ろしていた。きっと個人商店なのだろう。家族や友達と過ごすためにお店を閉じているのだろう、そんな温かさがある古いクリーム色のシャッターが降りているのを見て、私の目頭はまた熱くなってしまう。もう23時だった。どこだかわからない車道の真ん中で、立ちすくんでいた。けれど、振り向いて歩いた道を辿る気にはなれなかった。

 結局、歩くしかなかった。スマホを取り出して帰りの電車を調べることもできたはずだけど、そうする気になれなかった。終電とか終バスだとか、考えなければいけないはずだった。

 家の扉にリースがついている。サンタクロースが壁を登っているオーナメントをつけてある家もある。庭の植物にイルミネーションが施されている家もあったし、シャッターに張り紙がしてあって、そのテンプレートがクリスマスの仕様のものもあった。閑静な住宅街の中で、控えめな、それでも幸せを感じさせる飾りをぼんやりと見つめながら歩く。小さい子供がいたりするのだろうか。クリスマスだからこそ食事をしにくる常連のお客さんがいるのだろうか。

 ふと、足を止めた。開いているお店があったのだ。扉のところの曇りガラスの窓の向こうから、オレンジ色のあたたかい光が煌々と漏れ出している。こんな夜にやっているのに、その外観はバーや飲み屋さんというよりはカフェだった。

 木製の楕円の看板に、「café balloon」と書いてある。漆喰だろうか、すこし毛羽立ったみたいな質感の白い壁が分厚くて、中は温かそうだ。

 温かそうだ、と思った瞬間、身体が震えた。寒い。温かいものを飲みたくなった。火傷するほど熱いコーヒーを流し込む感触が恋しい。

 外気で冷えた木製の手すりに手をかける。そっと引くと、適度な重みの扉がゆっくりと開いた。マスターと、おじいさんとおばあさんのカップルが一組。そして、L字型のカウンターの右端に、背中のあたりまで黒髪を伸ばした女の人がひとり。カフェの雰囲気から想像するよりも若いマスターが感じのいい微笑みを投げてくれる。カウンターの端でマグカップを口に近づけようとしていた黒髪の女の人もこちらを振り返る。うっとりするほどまっすぐな髪の束が揺れた。それに目を奪われかけ、思わず目線を下にやってしまう。そういえば私、泣いたんだった。アイメイクはどろどろになっているだろう。

「いらっしゃいませ」

 男性の声に目線を上げると、女の人と目が合った。心配気、というよりはこちらをじっと見つめ、観察するような目つき。思わず目を伏せる。にこやかなマスターが手を述べる先に歩いていく途中、横目で彼女を窺うと、再びかつん、と目が合う。瞬きに隠して、その視線が彼女のカップの中に戻されたのがわかった。

 なんだったんだろう。

 カウンターの反対側の端に案内され、メニューを手渡される。コーヒーを飲みたくてお店に入ったのに、どうしてもココアが飲みたくて頼んでしまう。

 待っている間に、鏡を取り出した。あんなに泣いたけれど、目の下が真っ黒になっているわけではなくて、とても疲れている人のクマ、といった感じだ。少しほっとしつつ、マスカラの塊が涙袋に乗っかっているのを取る。涙のせいで貼り付いてしまっているけど、こすったら取れるだろう。

 また、視線を感じた。振り向くのはなんとなく怖くて、手鏡をそっと傾ける。やっぱり、鏡の中で、黒髪の女性がこちらを見ている。

 顔つきまではよくわからないけど、怜悧なつり目をしていることはなんとなく感じ取れた。すっきりと卵型の顔、少し薄めの唇。仕事ができる女の人、って感じだ。クリスマスにも仕事をして、ここで息抜きの一杯を飲んで帰るのだろうか。

 そこまで考えて、失礼だったと思い当たる。なんなら私は、ピンクのコートなんか着ちゃって、パールのイヤリングなんかつけて、髪もふわふわにまとめていて、それでひとりで化粧崩れを気にしているんだから、デートで振られた女の子にしか見えないだろう。

 振ったんじゃなくて、別れたんだけど。

「お待たせしました」

 自嘲的な笑みが浮かびかけたとき、マスターがココアを持ってきてくれた。上に、砂糖菓子の帽子をつけたマシュマロの雪だるまが乗っかっている。両手で包んだらすこしだけ高さがはみ出るくらいの、わりと大きなマグだ。そういえばさっき、ココアの文字に惹かれて指さしたのは、(大)と書かれた方だったっけ。

 そっと、マグをつかんだ。分厚い陶器の大きなカップは、べったりと掌を使って持つのにちょうどいい。悴んだ指先を温めながら、口をつける。私の呼気で、湯気がふわりと上がっていく。

 マシュマロが少し溶けた部分と、ココアが喉に流れてくる。種類の違う重さと温度が、口の中で絶妙に混ざり合う。

 ごくり、と飲み込んだあと、ふう、と息をついた。喉の奥、身体の真ん中を温かい液体が流れ落ちていく。思えばココアを飲むのなんて久しぶりだった。昨年の冬ぶりだろうか。こちらに引っ越してきてからは、粉を買って作るのも面倒で買っていない。

 おじいさんとおばあさんが、ゆっくりと立ち上がってお会計をし始めた。カップの中に目を落とす。大きなマグカップのおかげで中身は冷めていないけど、雪だるまの頭と体が分離し始めている。二人連れは店を出て行った。マスターが女性に話しかけるのが聞こえた。先程の視線が気になったせいか、どうしても聞き耳を立ててしまう。

 心地の良いピアノの音に混じって、研究、とか留学、という言葉が聞こえてくる。あのひとも大学生なのだろうか。カップにもう一度口をつけたとき、お店のドアがまた開いた。

「いらっしゃいませ」

 赤みがかった茶髪の、外国人の、細身の男性が入ってくる。常連なのだろうか、彼はにっこりとマスターに笑いかけ、マフラーを取りながら女性の隣に座った。なんだ、恋人と待ち合わせだったのか。私はココアを飲んだ。ひとくち、ふたくち。ごくごく飲むには熱すぎるけど、なんとなく無理矢理飲もうとしてしまう。

 女性の声は想像より低い。耳触りがよい声かと言われるとわからないけれど、よく通る落ち着いた声で、流暢な英語が聞こえてくる。外国人の彼は日本語が話せるようで、時折会話の中に日本語が混じる。騒がしいわけではないけれど、楽しげな空気が流れてくる。私の英語力ではうまく聞き取れないけれど、時々聞き取れる英単語からすると、二人は同じ大学なのだろうか。横目で様子を伺う。イト、イト、と聞こえるけれど、伊藤さんという名前なのだろうか。それとも下の名前がイト?

 私、あの人が一人でいることに、変な共感を抱いてしまっていたのかもしれない。思わぬ彼氏の登場で、僻みみたいな感情が生まれていることに気づいてしまった。ココアはまだ温かい。マシュマロでできた雪だるまの頭と体は完全に分離してしまって、顔は崩れ始めている。砂糖菓子でできた帽子は消えてしまった。不意に、虚しくなった。

「ライアン、カーソンは?」

 マスターの声が聞こえて、注意がそちらに向く。細身の男性はライアンというらしい。

「カーソンは寝てる、昨日遅くまで仕事だったから疲れてるみたい」

 男性が首をすくめながら答える。女性が揶揄うように英語で二言、三言付け足した。男性が笑い、マスターも微笑を浮かべる。

「イトは?」

「私は別れた」

「聞いてないよ僕、それ。いつなの?」

「割と最近」

 そっと、振り返ってしまう。あの二人、恋人じゃなかったんだ。そしてあのひと、彼氏がいたんだ。

 ライアンさんと、ばっちり、目が合ってしまった。彼はにっこりと人好きのする笑顔をつくった。気まずくなって、私もカップに目を落とす。

「カーソンが、ケーキ、置いていったんだけど」

「うん?うわ」

「ホールは大きいよね」

「これ、カーソンが買ったの?」

「うん、なんか一緒に食べようって」

「ライアンとカーソン二人だけで?」

「いや、イトとマスターも一緒に」

「僕もいいの?」

 白い箱を覗き込んで、なんだか楽しそうだ。私はココアを飲み干した。白い泡がカップの底に溜まっている。砂糖菓子の色だけが少し残って、ピンク色になっている。

「でもカーソンは寝てる」

「そういうことです。三人で食べてしまおう」

 うふふ、と笑い声が聞こえた。細身の彼が箱を開きながら嬉しそうに笑っている。

 マスターも話しているから店を出るに出れなくて、だけどこれ以上やり取りを聞いているのはなんとなく辛い。マシュマロだった泡をすする。また、視線を感じた。英語での会話の音量が、少し下がった。

 ややあって、マスターが近づいてくる。にこにこしていた。

「ご近所の方ですか」

「え、ぁ、いえ、その」

「いや、あまり見慣れなかったものだから。そろそろ終電がね、近いんですよ」

「あ、……」

 終電。というかバス。忘れてしまっていた。そうだ、私、帰らなくちゃいけないんだった。持ったままだったカップを置き、財布を取り出す。ああもう、なんでこんなときに限って財布がカバンの奥底に入ってしまっているんだろう。

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

「ご、ごめんなさい、おいくらでしたっけ」

 ゆったりとした空間に、焦った私の声だけがうわずって響く。言いようもない羞恥心に顔が赤くなる。

「イト」

 ライアンさんがまた、彼女の名前を呼ぶのが聞こえた。おそらくイトさんのものであろう視線が突き刺さる。なんだかすごくいたたまれないのに、指先は滑ってしまってうまくお金を取り出せない。

「あと18分で終電」

 顔を上げると、イトさんがこちらを見つめていた。

「今日はちゃんと帰りなよ」

 今日はちゃんと。イトさんがお札をマスターに差し出した。今日はちゃんとって、どういうことか分からなくて、わたしはフリーズしてしまう。

「クリスマスプレゼントだから。いいからもう駅に行きなよ」

「え?」

「ああ」

 納得したみたいな声を出すマスターに顔を向けると、微笑んでいた。

「駅は店を出て右側です」

「え?」

「気になるなら、また来てお金、置いてって」

「え?」

「今日のところはココア、払っておくから。気になるならまたいつか返しにおいでってこと。私、明日もいるから。また明日の夕方おいで」

「そんな」

「預かっておきますよ」

 マスターまで。やけにテンポのいいやりとりに、私の疲れた脳みそは追いつかない。

「お、お名前は、イトさん、で大丈夫ですか」

「うん。気をつけて」

 そこまで言われるともうじたばたできずに、私はまだ心臓をばくばくさせたまま店を走り出た。暗い夜道を歩く。電車、乗らなくちゃ。こんなことまでしてもらったんだから。だけど。やっぱり、……。

 振り返ると、お店の電気が消えた。もしかして、いやもしかしなくても、終業だったのかも。

 それなら、明日出直してちゃんとお詫びしたほうがいいか。

 まだ雲を踏んでいるような気分のまま、電車に乗って、最寄駅まで揺られる。綺麗な黒髪、射るような鋭い目線、すべてが、まだ私の心に張り付いて消えない。




 次の日、昼までだった授業を終えて、記憶を頼りにお店を探す。なんていうんだっけ、balloon。夜の雰囲気と違って、繁華街から入り組んだ路地に入ると迷ってしまう。諦めて検索に入れて、きょろきょろしながら家が立ち並ぶ中を歩き回り、結局この間とは反対の方向からお店の外観を見つけることになった。イトさんははたして、ちゃんとお店にいた。昨夜と同じ場所で、今日はパソコンを叩いている。おそるおそる、店内を進む。何も頼まないのもおかしいのかな、マスターに声をかける。

「イトさんなら向こうですよ」

「待ってらしたんですか、もしかして」

「いや、今日は11時くらいにお昼ごはんを食べに来て、ずっとあのまま。いつものことですが」

 私は店内の時計を見やった。14時半。30分くらい迷ってしまっていたらしい。

「声を、かけたいのですがっ」

「じゃあ僕が呼びましょう」

 マスターはにこやかにそう言ってイトさんの方向に歩いていく。集中している人に声をかける勇気なんてなかったから、ほっと息をつく。二人のやりとりをじっと見ているわけにもいかず、目線を上げて、カフェの内装を見る。外装と同じ白い壁が四角くへこんでいて、底辺の部分がカウンターのようになっている。そこに、アンティークっぽいタイプライターのような機械がひとつ、その隣に黒電話がひとつ、置いてあった。つやつやした黒電話をぼうっと見つめていると、会話が止んだ。意識をそちらに向けると、イトさんがすでにこちらをじっと見つめていた。

「あ、あの。昨日、ほんとうに、ありがとうございました」

「どういたしまして。ちゃんと帰れたの?」

 問いかけ、なのだろう。その割に、「帰れたの」、という言葉の語尾は上がらず、呟いたように聞こえた。

「はい、無事に。ココア、美味しかったです」

「それは私じゃなくてマスターに」

 イトさんはここで初めて破顔した。目がぐっと細くなって、冷たい雰囲気が消える。今日はタートルネックの黒いニットとあたたかそうな分厚いグレーの生地のスカートを履いていて、スツールにほとんどもたれかかるだけみたいな座り方は昨夜と同じだ。昨日は何を着てたっけ。黒に近い紺色のジーンズだったっけ。

「また来るなんて思わなかった」

 ぽつん、とイトさんが会話を続けた。私は我に帰る。

「それは、お金借りてるんだから、返しにきますよ」

「奢られとけばいいのに。大学生だよね、何年生?」

「一年生です」

「そうなんだ。一人暮らし?」

「はい。えっと、」

「私も大学生。三年生だよ。ここから電車でもう少し北に行ったところに通ってる」

 私の知る限りでは、ここから電車でもう少し北に行くと全国でも有名な私立大学があるはずだった。頭、いいんだ。落ち着いた喋り方や雰囲気からなんとなくそんな気はしていたけれど、大学名が結びついてしまうと急に目の前の女性が身近で、そして遠い存在に思えてしまう。昨夜の時点ではなんだか、物語の登場人物みたいなひとだ、と思っていたのに。不思議なリアリティと、未だになんとなく掴めないイメージが合わさったせいで、私はイトさんをじっと見つめてしまっていたらしい。

「えっと」

「あ、ごめんなさい、その、頭いいんだなって思って、あと、大学生なんだなって、」

「らしくない、かな。たまに言われるけど」

 イトさんは微笑んだ。右の口の端が先に上がる。少し嫌味な笑い方だな、と思う。別に、嫌味を感じたわけではないんだけど。

「何学部なの?」

「私は、経済です。イトさんは」

「私は心理」

「心理学……」

 なんとなく、他のどの学部と言われるよりも腑に落ちる気がする。人の心の裏側まで見つめるような鋭い視線だ。

「どうして経済なの?」

 私はちょっと言葉に詰まる。

「特には、決まらなくて。文学部と迷ったんですけど、本を読むのを勉強にしたくない気がして、それで」

「ああ……。なんか、わかるかもしれない」

「本、すきですか」

「うん」

「私もです。好きな作家さんとか、いますか」

「最近は村上春樹ばっかり読んでるけど。ずっと好きなのは『博士の愛した数式』っていう、小川洋子の」

「あ、読んだことあります。中学生のときだったかな」

「私は高校生のときに読んだんだ。きみは?」

「私は、江國香織が一番好きです。すみれの花の砂糖漬けとか、教科書に載ってた犬の」

「デュークかな」

「そうです。それを読んで、好きになったんです」

「あれは素敵な文体だよね」

 はじめカウンターの方を向いていたイトさんが、いつからかこちらに向き直っていた。もう冷めていたはずのコーヒーを飲み干す。ごくり、という音の後、苦くて甘い独特のコーヒーの匂いがふわりと香った。江國香織を素敵な文体と表現する同時代の女の人に出会ったことがなくて、私はすこしまごつく。文体、なんて表現、日常生活で使ったことがなかった。

「私のときの教科書には載ってなかったんだけど、一回生のときに塾講師でバイトをしてて、中学生のテスト対策とかやってたから、そのときに読んだ。椎名誠も好きだった」

「なんでしたっけ、それ」

「変わったおじさんの話。アイスプラネット、だったっけ」

「ああ、その話は私も好きです。本当に見てみたくなって」

「私も」

 イトさんは私を見た。そしてすぐ、悪戯っぽく笑った。少しだけ、イトさんを身近に感じた。

 カフェの扉が開き、男の人が入ってくる。お客さんだ、と思ったら見たことのある外国人の男の人だった。

「ライアン」

「イト。あ、」

 男の人は私の姿を認め、眉をひょいと上げた。

「仲良く、なったんですね」

 独特のクセはあるものの流暢な日本語で、彼は親しげに笑む。

「まあ」

 イトさんは元の無表情に戻ってしまった。

 どういう組み合わせなんだろう。昨夜からの疑問を浮かべたままでいると、ライアンさんが口を開いた。

「イトとは大学が同じ。もしかして、あなたも?」

 慌てて首を振る。私はそんなに頭が良くない。

「そうですか」

 です、がカタカナで聞こえそうで聞こえないくらいの訛り方で、彼は頷いた。

「名前は?僕はライアン・ブラウン、アメリカ出身です。ライアンと呼んでください」

「ライアンさん」

 彼はにっこりした。細すぎるくらい細身の身体で、笑顔だけ大きくてとてもあたたかい。

「私は辻本千咲といいます」

「チサキ、ありがとう。どういうふうに書くの?」

 ライアンさんは勝手知ったるという様子でレジの近くからボールペンを持ってくる。ナプキンを構えて、万全の様子だ。

「えっと、」

 彼はボールペンを私に差し出した。辻本千咲、と書くと、ライアンさんは唸った。

「これで、チサキですか」

「ちょっと変わっています」

 ふむ、みたいな喉声を出して、彼はナプキンをじっと見つける。

「イトも、結構変わっているよね」

「私にも書けってことか」

 カウンターに手をついて前屈みになっているライアンさんの鼻の先を、イトさんの手が掠める。手早い様子で、彼女はナプキンにボールペンを走らせた。

「相良彩登」

 私は、イトさんのイトが名前であることと、イトさんの名字が相良であることをそこで初めて知ったのだった。

「これで、いとって読むんですね」

「読ませる、の方が近いかな」

「sunrise、ですよ」

 ライアンさんはにっこり微笑む。英語の発音がなめらかで美しくて、サンライズ、日の出、と理解するまでに時間がかかってしまった。

「その話は別にいいけど」

「素敵だと思う」

 頭上から別の声が降ってきて、私は肩を跳ねさせた。

「カーソン」

 イトさんがびっくりしたような声を出す。

「起きたのか」

「ワタシをなんだと思っているの?」

 また、外国人の男の人だ。細くて背が高いライアンさんより小柄で、もう少ししっかりした体つきをしている。ダウンを着て、ユニクロのCMに出てきそうな感じの人が不満そうな顔をして立っていた。

「え、っと」

「カーソン・ロペスです。えっと、チサキさん」

「あぁ、え、はい」

「イトの友達?」

 カーソンさんの方が喋り方が外国人っぽい。

「友達、というか」

「昨日初めて話して、今日」

「カーソンが寝ていたあいだに、イトが彼女を助けたんだ」

「助けたというか」

 イトさんが目を伏せる。

「助けた、というか……」

「仲良くなったの?」

「それもまた、今日で、しかも仲良くというか」

 怒涛の質問に、彩登さんがたじろぐ。仲良くなれた、と感じている私にとっては少し悲しい反応だったけど、それはそうか、だってまだほんの一時間も経っていないのだ。

「えっと、サンライズって、どういうことですか?」

 彩登さんはまた言葉に詰まる。

「太陽の表面のことを、日本語で彩層というんですよ。それが登るから、sunrise」

「なるほど……?」

「ほら、わからないって」

 彩登さんがため息をつく。

「最初、糸だと思ってました。あの、裁縫とかする時の」

「ああ、よく間違えられるよ」

「いと?」

 首を傾げるカーソンさんに、ライアンさんが英語で教えている。

「この字、彩りって、目とかにも使いますよね。虹彩とか」

「うん」

「素敵な字だと思います。なんていうか、日本ぽいけど、そういう、科学的なものにも使われていて、しかも、目とか太陽とか、大事で、光るものっていうかきらきらしているものの色に使う字ですよね」

「うん……」

 彩登さんの返事の歯切れが悪くなる。何かおかしいことを言ったかと思って目線を上げると、目と目がぶつかった。彼女は素早く瞬きをして、マスターがよそっていったコーヒーをひとくち、飲む。

「大事で、ひかるもの」

 カーソンさんが口元をほころばせる。

「イトらしいと思う」

「なんだ、カーソンまで」

 彩登さんは照れたように笑った。

「カーソンさんとおふたりも、大学が一緒なんですか」

「うん。学部は違うけれど。イトは心理学部で、僕は理学部。カーソンは工学部。もともと僕がイトと知り合いで、そこから知り合った感じかな」

 ライアンさんが、やっと座ろうとする。私が隣の椅子に移ろうとすると、彼はそれを押しとどめた。右手の中指に銀色の指輪が光る。カーソンさんはその更に左に座った。その右手の中指にも指輪がついている。そっと彩登さんの右手を見る。何もついていない。三人おそろい、という訳ではなさそうだった。

「カーソンさんは、大学からってことですか」

「うん、そうなるね」

「いつもここで話してらっしゃるんですか?」

「結構入り浸ってるね」

 マスターがこちらに意識を向けるのを感じた。カウンターを磨いている。

「そうだね。誰かがいないことも多いけど」

 三人は座高も高くて、私は大人に囲まれている気分になる。カーソンさんがコーヒーを頼んだ。ライアンさんが同じものを、と続けたので、私も同じものを頼む。

 それから、三人が通う大学の話や、ライアンさんと彩登さんが初めて会ったのが、彩登さんが高校時代にアメリカに留学していた頃だったという話や、それぞれの勉強の話をした。学部の専門的な話はよくわからなかったけれど、私よりももっとずっと踏み込んだ勉強をして、楽しいと思っていることだけは伝わってきた。不思議と胸焼けしたり不安になることはなくて、私は三人がかわるがわる色んなことを説明してくれるのを楽しんだ。高校の時に行っていた塾で、面白い授業をするから人気だった先生のことを思い出した。

 16時になって、カーソンさんが帰るタイミングで私もお店を出た。なんだか新鮮な気持ちだった。

 昨日のショックから、こんなに早く立ち直れるなんて思ってもみなかった。違う大学の人と勉強の話で盛り上がれることも、勉強の話が楽しいことも、私は知らなかった。

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Nope 瀬尾なずな @3a_karasu

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