記憶

 翌日、私は家政婦さんに代わって伏木野弁護士の食事を用意した。午後八時頃、そのひはやって来た。


「先生、お疲れ様です」

「今日は愛里栖さんが作ってくれたんですか?ありがとうございます。お、バターの香りがしますね」

「はい、先生、今回の東京滞在は少し長いようなので、レシピを見ながらつくってみました」

「おお、チャンチャン焼きですね。北海道の味だ」

「はい、良さそうな生鮭の切り身があったので。こちらだと、塩鮭が多くて生鮭の切り身はなかなか売ってないんですよ」

「そうですか。いや、これは楽しみだ。手を洗ってきますね」


「どうぞ」

 ランチョンマットの上に、チャンチャン焼きとご飯と味噌汁を並べる。あとは一鉢の野菜サラダ。

 チャンチャン焼きは、生鮭の切り身さをフライパンで焼いた後、刻んだ野菜を合わせ、味噌とお酒を加えて蒸し焼きにする北海道の郷土料理だ。今日は香り付けと、ちょっとコクを出すために、バターを少し使った。

「では、いただきます」

 彼は軽く手を合わせ、まず鮭に箸を伸ばした。ゆっくりと咀嚼している。

「お口に合いますか?」

「ええ、とても優しい味で美味しいですよ。これはほんとに家庭料理で、その家ごとの味があります。まさに愛里栖さんの味ですね」

 あっ、心の中で小さく叫ぶ。

「やはり、亡くなった奥様も……」

「ええ、よく作ってくれましたよ。鮭ほのかわりに帆立の貝柱や豚肉を使っても美味しいんですよ」

 彼はふと懐かしむような目をした。

「私たちの新婚時代、妻はちょうどあなたと同じくらいの歳でした。私が休みの日には二人でキッチンに立ったこともあります」

「仲が良かったんですね」

「ええ、とても」

 なぜだろう、胸が重苦しい。

「すみません、私のような者が……」

「どうして謝るんです?私は嬉しかったですよ。あの穏やかで、幸せだった頃が蘇ってきました」

「奥様との大切な思い出を汚してしまったのでは」

「いやいや……」

「私、今まで男性とお付き合いしたことがなくて。だから、誰かのために食事を作ったということがないんです。それでちょっとはしゃいでしまいました」

「愛里栖さん、いま私はとても暖かい気持ちになっています。あなたの作る料理には優しさが沁みています。良かったら、これからも一緒に食事をしてくれませんか?」

「はい」

「いつも、お世話になってばかりでは申し訳ないから、今度、私もなにか作りましょうか?スープカレーとか作れますよ」

「と、とんでもない……」


 なんだろう、この気持ち。

 確かなことが二つある。

 彼は、いまでも奥様のことが好き。奥様のことしか愛せない。私を見ると、なぜか奥様のことを思い出すんだ。

 私は。

 私は、変わった。

 今までに知らなかったことを知ってしまった。

 これは恋だ。

 悲しい恋だ。

 その相手は決して振り向くことはない。

 でも許してください。

 決して口にしないから、心の中で「邦夫さん」と呼ばせて。


 ある日、私の部屋を訪れた時から、邦夫さんは体調が悪そうだった。やっとという感じで食事を済ませると、お茶を飲みながら、目を閉じてしまった。

「お疲れのようですね。少しソファーでお休みください。落ち着いたら、ホテルまでお送りしますので」

「す、すみません。昨夜寝ていなくて……。ちょっとめまいがします」

「ベッドで横になられますか?」

「い、いや、ソファで大丈夫です」

 ぐったりと沈み込む邦夫さんを見て、私は言葉もなく立ち尽くしていた。

 確かに食事の用意はしているけれど、それだけで大丈夫なのだろうか。額に手を当てると、特に発熱している様子はない。

 でも、今日は大丈夫でも病気になったらどうするのだろうか?

 私がそこまで心配する必要はないのかもしれないけれど。

 

 水分を取ってもらおうと、室温のスポーツドリンクを持って近づくと、邦夫さんの顔が少し動いた。

 気付いたのかな。

 邦夫さんの唇が動く。


 みゆき……


 私は一瞬で凍りついた。

 でも、思った。気持ちを強く持たなければ。

 たとえ、私に奥様の思い出を投影しているだけだとしても、私はもう止まることはできない。


 目覚めた邦夫さんに、私は言った。

「先生、このままだと、先生の体調が心配です。ここで生活されてはいかがですか?健康管理をサポートさせていただけませんか?」

 



 


 

 

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純情可憐な社長令嬢はイケオジ弁護士に溺れていく 芦屋 道庵 @kirorokiroro

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