第5章 そして夜が明けたあと、百億の怒り

序幕

5-0 エレクトラには向いてない




 幼いキニスに母殺しは早すぎた。

 復讐譚の主人公となるには、彼女は優しすぎたのだ。


 少女キニスの故郷はある種の異界だった。

 槍域文化圏の外にまでその名が轟くセインディアの博物城。

 血と秘儀の宝物庫。あらゆる過去が集う書庫。キニスはそこで生まれた。

 あるいはこう言い換えた方が実態に即していたかもしれない。『創られた』と。

 あらゆる種族。あらゆる人種。あらゆる血統。

 それらを掛け合わせ、整え、保存し、正しく配列する。秩序派の血統術師たちはずっとその営みに心血を注いできたし、これからもそうするだろう。


 彩度に乏しい白と黒の古城を、遊び場であり修練場でもあった中庭から見上げるたび、キニスは得体の知れない寒気に身体を震わせた。幾つもの尖塔に囲まれた外観は巨大な鳥籠のようでもあり、色の無い光景はどこか温度の絶えた世界を思わせたからだ。

 少女の世界には最初から何かが欠けていた。


 赤蜥蜴人の竜導師たちの説教も。

 ディスケイムの血統術師たちの講義も。

 王宮騎士たちによる鍛錬も。

 優しくも厳しい母が語り聞かせてくれた偉大なる祖先の物語も。

 完璧な環境の中で純粋に、正しく、清らかに育てられてきたキニスにとって、どこか虚しく感じられて仕方が無かった。求められるように素晴らしい大人に成長しようという気持ちはある。期待に応えて母に喜んで貰いたい、褒めて欲しいという欲求もある。けれど、それを成し遂げたところで自分は満たされないだろうという漠然とした予感が少女の中にはあった。

 けれど、少女の世界にも一つだけ不完全なものがあった。 

 父だ。母に従属するもの。粗暴で荒々しく、理想的な大人像からはほど遠い人物。

 それでもキニスは、たぶん父のことが好きだった。


「待ってろキニス。帰ってきたらまたいっぱい外の土産話を聞かせてやるからな」


 父は『不純物』なのだと家庭教師が言っていた。

 博物城においては不要な存在であり、それゆえに自由に外に出る事を許されているのだと。

 その詳しい立場や仕事について、幼いキニスが理解できたことは多くない。

 それでも、父が見た事も無いような広い世界を飛び回って信じられないような経験をしてきたという自慢話の数々は少女を夢中にさせた。

 キニスだけではない。博物城内で育てられていた他の子供たち、妹や弟に等しい小さな幼馴染みたちも外の世界には興味津々で、父親が帰ってくるたびに人だかりができるほどだ。


「おう、帰ったぞキニス! ルー坊はちょっと大きくなったか? 相変わらずキニスにひっついて、すっかり懐かれたもんだ。ん、早く話が聞きたい? よしよし。今回は凄いぞ、第四世界槍の竜巻に飛び込んで異界巡りだ。陸地が無い世界を想像できるか? でかい魚や亀の上に街を作って生活する海の民の遠い祖先たちがそこにはいた! サンプルもかなり採取できたし、ジジイどもの度肝を抜いてやるのが今から楽しみだ」


 それからこいつだ、と父親は自慢げに戦利品を見せびらかす。

 彼が外から持ち込んでくる宝の山に、子供たちはいつだって目を輝かせた。


「これは珊瑚の角が生えた蛙の世界に行ったときの土産だ。大海蛇の魔の手から助けた姫君にいたく気に入られた俺は、彼女の愛の証であるこの見事な珊瑚の角と情熱的な接吻を賜った。まあそのせいで俺は蛙にされ、呪いを解くために古代珊瑚人たちが隠れ潜むまた別の世界で秘薬探しの冒険をすることになったんだが、キニスこれママには内緒な?」


 父は奔放な自由人で、博物城の大人たちから疎まれていた。

 曰く、子供の情操教育に悪い。

 キニスも同意見だった。他の子供たちも同じだっただろう。

 少年少女たちは育ちが良く、完璧な環境で整えられていくはずの作品だった。

 聡明なキニスは父がろくでもないことを知っていた。

 自分に悪影響を及ぼす存在だと正しく理解できていた。

 だからこそ、みんなこの異物が大好きだったのだ。


「この世界は本当はもっと自由なんだ。正しさとか必要性とか、そういうものだけで世界はできていない。冒険だよ冒険。危険や邪悪の世界を渡り歩く緊張感、バカみたいに無謀な無茶して死にかける、退屈な人生にはそういう大冒険が足りないのさ」


 そんなことを得意げに吹聴していた父は竜導師たちから叱責され、血統術師たちに馬鹿にされ、同情的な騎士たちから窘められ、最後に母から鉄拳を貰って引っ繰り返る。

 滑稽な顛末を見た子供たちはそれを見て大笑い。

 その扱われ方はある種の禊ぎであり許しでもあった。

 彼は異物で、そう扱われることで異物で在り続けることを許されていた。

 キニスはそんな父が好きで、会うのが待ち遠しくて。

 そして、たぶん蔑んでいた。


 見下していたとも言えるかもしれない。

 異物であり、自分たちとは違うもの。だからこそ愛すべきものであると安心できた。

 キニスを含めた子供たちの好意とは、自分たちが彼のような落伍者、異端者ではないという前提の上に生じたものだ。そしてその歪んだ前提は、父にも共有されていた。

 いつだって楽しそうに冒険の話をしてくれる父が、どんな感情を胸に秘めて子供たちと向かい合っていたのか。キニスはその日まで一度だって考えたことが無かった。

 全てが終わったあと、少女は何度も考える事になる。

 不意に忘却の中から甦る父の声は、呪いのようでもあった。


「ついに俺は成し遂げたんだ。守護者の資格を得た。見ろキニス、これがトライデントの細胞たる証。融血呪の秘儀だ」


 ある日、いつになく興奮した様子の父が娘の前で見せびらかしたのはいつもの戦利品とはいささか趣きが異なっていた。彼がナイフで指先を傷つけると、滴り落ちた血液がみるみるうちに赤から青への変化していく。深い色合いは、藍に近い。


「ざまあ見ろクソジジイども、秩序派ディスケイムが仇敵である混沌派クロウサーにただひとつだけ劣っていた『根源に至る鍵』をこの俺が手に入れたんだ! 数多の異界を渡り歩き、弔いの祭司イヴァダストの死せる悪夢の中でようやく見つけた。この藍神クリマの母体さえあれば、俺はもう落伍者なんかじゃない」


 父の周囲で彩域が強く共鳴し、青く色付いていく。

 特定の血と強く結びついているはずの藍神クリマたちが、どうしてか父におとなしく従っていた。異なる血統と反発して然るべき様々な形の藍色、大小さまざまな力の波が整然と父の意思に呼応して一つの流れに合流していく。

 融け合う藍色は、まるで父が話してくれた大海原のようだった。


 全てを優しく包み込んでしまうような安らぎを感じて、キニスはどこか不安に駆られた。

 その安らぎは博物城に存在していた完璧さだ。

 不完全な父には似合わない。

 異物であった父が、何か別のものに変質してしまったような気がして怖かった。

 けれどそれは、少女が父親を何ひとつとして理解していなかっただけのこと。

 本当に、当たり前の掛け違い。

 噛み合わないまま、父は娘と向かい合う。


「キニス、お前だってもう窮屈な生活をする必要なんてないぞ。ママやジジイどもなんて気にするな。俺は最後の王として博物城に君臨する。俺が定める新しいルールの中でなら、お前たちはみんな自由に外の世界に行っていいんだ。好きな道を歩いていい、好きなことをして遊んでいい、好きな相手を選んで結婚することだってできる」


 そんなはずがない。

 そんなことが許されるわけがない。

 キニスの世界ではそれは『正しくない』ことだった。

 それを父が言うのは『らしい』けれど、その常識が博物城の内側を染め上げていくことは怖かった。少女は確かな足場の上から不確かな世界を歩む父を眺めて楽しむ日々が好きだったのであって、父と同じような不確かな世界に足を踏み出すほど勇敢では無かった。

 それは夢だったかもしれないけれど。

 夢はいつだってあやふやで曖昧で、恐ろしいものなのだ。


「ペラティアの血統なんざ呪いでしか無かったが、お前たちのためなら俺はいくらでも王族をやってやる。博物城は君臨するための王を育てるための揺り籠であり祭壇でもある。俺が竜の冠を被り、トライデントの細胞として威光を振りかざせば、ディスケイムだろうがクロウサーだろうがリーヴァリオンだろうが手出しは出来ない」


 さあ、と父は娘に手を差し伸べる。

 鳥籠に囚われた可哀相な子供を救うため、少年の心を持った不遇な境遇の男は長い長い冒険を続けてきた。その果てに彼は求めていた秘宝を手にして王となり、自分と同じように自由を奪われてきた子供たちを救ってより優れた王国を築き上げた。めでたしめでたし。

 キニスは物語を想像した。

 それはひどく現実感が無く、空虚なものであるように思われた。


「母上が」


「ん?」


「母上が、そこでは幸せになれません」


 完璧な城を体現するかのような存在。キニスにとって整然とした世界を象徴するものが母親だった。厳格な教え、あたたかな抱擁、懐かしい子守歌、全てを見透かす眼差し、その全ては博物城で作り上げられた作品であり、二つは同じものだった。

 愛する母を否定はできない。

 育った家を壊されたくない。

 キニスは大好きな父親に拒絶される恐怖と戦いながら、必死にその言葉を口にした。

 果たして父は、深く息を吐いたあとでこう言った。

 

「お前は優しいな。本当にいい子だ。きっとママのおかげだな」


 そう口にする父のほうこそ、とても優しげな表情で。

 キニスは父のそんな顔を、今でもよく覚えている。

 父は不意に表情を引き締めて、こう続けた。


「けどキニス。それでもこの場所は正しいだけなんだ。世界はけっして完璧なだけじゃない。俺はそれをお前に知って欲しい。だからな。怒られるのは俺が全部引き受ける。そのかわり、一度でいいから俺と一緒に外の世界に出て冒険しよう!」


 キニスは、果たして本当に母親を案じていたのか?

 あとになってこの時のことを思い返すたび、少女は不安に駆られる。

 本当は外の世界が怖かったから、踏み出す不安を誤魔化すために『優しい自分』で正当化を図ろうとしただけではなかったか。


「実は、お前には会わせたい子がいるんだ。ずいぶん前に『上』で『子宮』を見つけた。ノーグの末裔だ。ディスケイムやクロウサーが諦めていたオルヴァ王の最後の血脈がまだ生き残っていたんだよ。ほとんど全ての力を失っていたが、俺は彼女に『次』があると思った。これは博物城のジジイどもに対する切り札であると同時に、お前にとっての新しい居場所になる。そのう、つまりだな。ああくそ、何て説明したらいいんだ俺は」


 口実として使われた母親の存在も、父親による妥協案の提示でうやむやにされてしまった。

 父親は己の感情を誤魔化さなかった。欲望をさらけ出していた。

 彼は彼の都合でキニスを連れ去ろうとしている。

 キニスはたぶん、『そうすべきかどうか』ではなく『そうしたいかどうか』で父親に向き合うべきだった。

 幼い少女は迷い、ためらい、決断を先送りにして。

 そのわずかな時間を選んだ結果、あったかもしれない未来を失った。

 永遠に。


 頬にかかる鮮血の感触を覚えている。

 死にゆく命の温度を覚えている。

 父の瞳から光が失われていく光景が、今も記憶に焼き付いている。

 けれど、色だけが。

 モノトーンの記憶で再生されるあの瞬間には、彩度だけが無かった。

 母の腕が父の心臓を貫いたあの時、キニスは何を感じていたのか、詳しく思い出そうとしてもわからない。少女の胸中は嵐の如く荒れ狂っていたのか。生き物が死に絶えた海のように凪いでいたのか。それがどうしても思い出せない。


「間違いを、認めなければならないでしょう」


 キニスの母は今しがた殺害した男の心臓を素手で抉り出し、握り潰した。

 大量の血が美しい亜麻色の髪房を染め上げていくのにも構わず、母親は娘の目の前で父の頭頂部を砕き、刃のような爪で頭蓋骨を切り開き、脳の一部分を抉り取ってみせた。途端、父に従っていた藍神クリマたちが一斉にその部分に殺到していく。

 酸鼻極まる光景。幼い少女の眼前で、頭蓋から取り出された臓器は奇術のように変形し、流体を放出する手のひら大のバルブとなった。吐き出される水は様々な藍神クリマたちだ。


「失敗作にしては上出来な成果。ですがその身には過ぎた野心でした。ああ、我が娘を犠牲にしてまで求めたのが下らぬ王位とは、吐き気がする」


 母の瞳で燃えさかっていたのは憎悪だった。

 キニスにとって母親は正義の象徴で、その憎しみと殺意が『正しい報復』であることは確実に思われた。母は悪を憎み打ち倒す戦士だし、父は秩序から逸脱した悪だ。これは考えるまでも無く当然の結末だった。聡明なキニスはそれを受け入れた。頭で理解し、母に対する尊敬の念をより一層と高めようとした。

 そして、どうしてか震える身体と流れる涙を隠すように、母から顔を背けた。


「キニス。まずは謝罪を。この男からあなたへの影響を甘く見過ぎていました。結果としてあなたの父親を奪う事になってしまった。残念でなりません」


 母親が本当に言葉通りのことを思っていたのかどうか、キニスは今でもわからない。

 相手の顔を見ることは最後までできなかった。

 想像していた通りの感情が母の顔に浮かんでいるのが、怖かったのかもしれない。

 恐怖。そう、覚えてはいないが推測はできる。

 きっとあの時、キニスの中で一番強かった感情は恐怖に違いない。

 それくらい、母の言葉は冷たかったのだ。


「今から順正化処置を施して修正することもできます。しかしこれがディスケイムには無かった可能性であることも否定できない。クロウサーの真似事をするのは不愉快ですが、このまま先細っていく道を歩ませるよりはいいのかもしれません」


 博物城における正しさとは、すなわち秩序の維持だった。

 整えられた完璧さ。

 父が秩序を乱したことについて、母は怒りながらも思案もしているようだった。

 無謀な挑戦者の試み、身の程知らずな野心は潰えたが、その視点には一考の余地がある。


「キニス。あなたに外の世界に出る許可を与えます。これから指示する場所に赴き、その地の彩域から学ぶべきものを吸収してくるのです。訓練期間中は定期的に報告を行うこと、訓練終了後は博物城に帰還して成果を示すこと。これが守れるならあなたに自由を与えましょう」


 母親はいつだって娘に正しい道を示し、かくあるべきという規範を示してきた。

 今回も同じだ。母が博物城の外を指差したのなら、中でそうするように振る舞うだけ。


「まずはディスケイムの本家。それから中央の王宮区と火竜の神殿。東方の霊山に預けるのもいいかもしれませんね。この男の記憶にある『子宮』の確保も急がせましょう。クロウサーに気取られる前に『塔』の同胞に手を回させましょうか。すぐに話を通してきます。あなたは旅立つ準備をなさい」


 選択肢なんてはじめからない、父の手をとる機会は永遠に失われてしまった。

 自分で招いた結果だと理解していながら、キニスは当惑する自分を止められない。

 だって、いまさらそんなこと言われても。

 キニスにはわからない。

 それが欲しかったものなのか、そこまで欲しくなかったものなのか。

 恐れの中で、それでも彼女は自由に足を踏み出した。

 母から外の世界に行けと言われた。

 ならば行くしか無い。流されるままに、彼女の居場所はいつだってそうだ。


「キニス。あなたは誰で、どうあるべき存在ですか?」


 正解は最初からひとつだけだ。

 抱くべき感情の名前すら、キニスにはもうわからなかった。

 だから頷く。尊敬する母の前で、少女は望まれた在り方を演じてみせる。

 それが正しいことだから。


「あたしは正義を受け継ぐ者。だから、ユディーアとして正しく生きます」


 本当はそれ以外のことができないだけ。消去法でそうするしかなかっただけだ。

 幼いキニスに母殺しは早すぎた。

 復讐譚の主人公となるには、彼女は優しよわすぎたのだ。

 それは歳を重ねても変わらない生来の気質。

 怒りと憎しみと怨恨と復讐と。

 それらにまつわる物語は、少女には向いていなかった。



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