5-1 枯れ木激して死灰に至り、苗木人立ちて雲路を砕く①




 友人から前世の話を聞かされるたび、ユディーアはとても悲しい気持ちになる。

 決して共有できない思い出、知らない絆、実感の伴わない友情、作り笑いで話を合わせるしかない気まずさ。共有できない記憶にはおよそ彩度というものが無かった。

 これで相手が心の病を患っていれば一種のカウンセリングと割り切ることもできようが、そうはいかないのが厄介なところだ。なにせ友人の語る前世は確定した未来なのだから。

 その友人、クナータ・ティエポロス・ノーグには生まれる前の記憶がある。

 クナータの主観意識は人生を逆行している。彼女にとって記憶とは未来の回想だ。

 それが友人を『先読みの聖女』たらしめる異能であり、宿業でもある。

 

「ああ、とても素敵な思い出だったわ。こんなにも幸せな記憶ってあるのかしら」


 クナータはもうすぐ死ぬ。

 あらゆる生命がそうであるように、個としての終焉を迎える。

 少女は美しい。美しかった。それはやがて過去形になる煌めきの発露。

 十字の輝きを宿す瞳、半妖精の尖り耳、無邪気な笑顔を黒いフードで覆い隠し、けれど生来の可憐さだけはそのままに、小柄な少女が夕暮れの街を歩んでいく。

 両手を広げ、足取りも軽やかに、つま先立ちで舞うように振り返る。

 口ずさむ歌、楽しげな踊りは記憶の再現だろうか。

 これから待ち受ける『見知らぬ記憶』に想いを馳せながら、ユディーアは口を開いた。


「ティエポロスにとってのお祭りって、行進の真ん中で手を振ってるか、高い所に座ってるかだったからね。こうしてお忍びで遊べるのって、凄く貴重な思い出だよ」


「まあ。わたしのこれからってとっても退屈そうね。じゃあやっぱり幸運なんだわ。生まれたばかりのわたしが、こんなにも楽しいお祭りを満喫できたのだもの」


 クナータにとって人生はまだ始まったばかりだ。前世を終えて、新たな生を獲得したばかりの無垢な命。日に日に幼くなっていくかのような幼馴染みの振る舞いを見ながら、ユディーアはずっとそのことについて考えていた。

 親しい相手との別れについて。

 それによって生まれる新たな未来について。

 クナータが語る幸福な記憶を、ユディーアは受け止められずにいた。

 二人の関係は、クナータの『前世』がユディーアと共に歩むことを前提にしたものだ。

 けれど、今を生きるユディーアはどうしても考えてしまう。

 『今のクナータ』はどうなってしまうのか?

 未来から過去へ魂の歩みを逆行させている彼女にとって、この自分との『今』は何なのだろう。クナータにとってのユディーア。ユディーアにとってのクナータ。共有できない未来を、果たして今のクナータと同じように幸福だと感じられるのだろうか。

 わかっている。これは誰もが持つ、ありふれた未来への不安だ。

 ユディーアは未来という名の友人を恐れている。だから彼女は聖女クナータと二人きりの時、もう使われていない古い名前で呼ぶようにしていた。


「ねえティエポロス。あたしはこれでいいんだよね?」


「もちろんよ。いつもわたしとお母様を守ってくれてありがとう。ユディーア」


 二人の声は都市の喧噪に紛れて消えていく。

 どこまでも犇めき続けるかのような雑踏、混沌が交差するその街の名はガロアンディアン。

 天地を貫く世界槍の中心に降り立った二人は、定められた記憶をなぞり始める。

 それは死出の旅路。

 それは揺り籠に至る出産旅行。

 ガロアンディアンは出生地主義だ。その国で生まれることが国籍の取得条件となる。それが何を意味するかと言えば。


「ねえユディーア、今の見た? とても可愛らしい苗木の赤ちゃん!」


 はしゃいだ声がしてから少し経って、ユディーアは街路の端にそれを見つけた。

 樹木の肌をした種族、ティリビナ人が小さな赤子を抱いてあやしている光景。

 その土地に根付くとは、次の世代が生まれるということ。

 冬が終わり、春が始まる。

 見上げれば、第五階層の天は青々と生い茂っていた。

 逆さまの大樹とそれを取り囲む森が不可思議な燐光で世界を照らしている。

 大樹はその梢に小さな幻の太陽を灯し、時の流れを司るかのように昼と夜を順番に入れ替えている。一日の時間経過で光量が変化するあの疑似太陽の正体を、誰も知らない。

 太陽が存在する理由がわからなくても時間は進む。一日は終わっていく。

 日没は近い。やがて世界は夜に沈み、街には人工の光が灯され始めるだろう。

 季節が移ろうように、時代が前に歩みを止めないように、全てのものはずっとそのままではいられない。そんなこと、とっくに理解していたはずなのに。

 胸を締め付ける寂しさに、ユディーアは誰かに縋りたくなった。

 

「しっかりしなきゃ。あたしだって、ちっちゃい子のお世話するんだから」


 両手で頬を挟んで表情を作り直す。柔らかく優しげな、いつもの彼女になるように、表情筋は七色に変幻自在。感情豊かで元気なあたしを取り戻そう、と気合いを入れる。

 泣き言など言っていられない。

 時間は矢のように過ぎ去っていく。子供はあっという間に生まれて大人になっていく。

 その間も自分自身の時間は進んでいるのだ。

 子供に向き合うべき時、人は大人になるという。きっと今がその時だ。ユディーアには救世主トリアイナの旅路を見守り、養育する使命が課せられている。


 この言いようのない寂しさは、きっと捨てきれない子供時代への郷愁のようなもの。

 大丈夫、すぐに慣れる。喪失と獲得、二つはコインの裏と表だから。

 ユディーアとクナータの前日譚は、もうすぐ終わる。

 寂しさは新たな物語の始まりが埋めてくれるだろう。

 期待に胸を躍らせよう、輝ける未来に希望を抱いて歩こう。

 これから始まるのは待望の本編。

 主人公である『未知なる末妹』、トリアイナ・ノーグの物語。

 たとえその未来が、実感の伴わない灰色の記憶であったとしても。

 そこには価値があるはずだから。


 


 硬貨コインを投げる。くるくる回る。

 目まぐるしく入れ替わっていく、表と裏。

 表には女性の横顔。ジャッフハリムの聖妃レストロオセの肖像。

 裏には竜神の威容。竜神信教徒が祈りを捧げる創世竜の想像図。

 光の加減と呪力に反応して、女性の顔は聖と邪の相反する側面を映し出し、竜の姿は九つに入れ替わる。悪神フルグントでさえ偽造できないと謳われるジャッフハリム銀貨は、それ自体が優れた工芸品や美術品として扱われることがあった。


 落ちてきた硬貨をキャッチして指の間で転がしながら弄ぶ。

 『美』を体現する職人芸も傑出したデザイナーのセンスも、ユディーアにはいまひとつぴんとこないものだった。彼女にとってこれは手慰みに遊ぶ玩具程度の価値しかない。

 使わない硬貨の価値なんてそんなものだ。


「器用よね、ユディーアって。私もできたらよかったのに」


 連れの少女は回転しながら手の甲や指の間を動いていく硬貨が物珍しいのか、奇術師にそうするようにぱちぱちと拍手を送ってくる。ユディーアは羨ましそうな視線を送る少女にやり方を教えるが、上手く行かずに硬貨を取り落としてしまう。「やっぱりできなかったわ!」と頬を膨らませる姿が少し可哀相で、もう少し真剣に指南してあげようかと思う。けれど『予定』を大幅に逸脱するような大胆なことはできなかった。

 『できたらよかったのに』とクナータは言った。彼女の思い出を、『できてよかった』にしてはならない。それが未来にどう影響するかわからないからだ。


 ユディーアは裏切り者だ。

 まずはじめに、嘘がある。

 あらゆるものに対する背信。意識するたび、恐れが心臓を責め苛む。

 国家を、信仰を、友情すらも欺いて、彼女はいまここにいる。

 はしゃいだ様子で先を行く護衛対象を心配する素振りを見せながら「もー、あんまり先に行ったら駄目だよー」とやわらかく叱責。バカみたい。遠くから俯瞰で見ている自分がいる。頭の右側で括った亜麻色の髪を揺らして歩く垂れ目がちの女。小さく可憐な聖女を庇護する細身の修道騎士。軽甲冑と腰に提げた折り畳み式短槍で武装した護衛。これは誰? ユディーアって何? あたしに大切な人なんていないのに。友達なんて、全部嘘なのに。


「いちおうあたし、公的には『智神の盾』として調査任務で来てるんだよ。お忍び聖女様の護衛は秘密なんだから、もうちょっと大人しくしててくれると助かるな」


 素性を隠すために、二人は夜の民のように黒衣で身体を覆い隠している。

 傍目からは槍神教の関係者だということはわからない。仮に露見したとしても、それはそれで構わなかった。『お忍び聖女とその護衛』というわかりやすいストーリーで二人を飾るための簡易な変装だからだ。クナータは窮屈そうにフードの中で唇を尖らせた。


「えー。そんなのつまらなかったわ。だからしばらくしたらやっぱり約束を破っちゃうの。ここで私が言うとおりにする必要ってある?」


「いや、約束は破らないでよ。じゃあ何かごちそうするから、もう少し我慢して?」


「ありがとう! やっぱりこう言ったのは正解ね、とても美味しかったわ!」


 ユディーアは首を傾げた。これは騙されたのか、それとも未来の記述が変わったのか。クナータひとりでは変えられない未来回想は、他者の介入で変化することがある。出来事を読み替える呪文使いのわざ。クナータは切り分けた記憶を都合良く物語ることで未来記憶の改変を誘導することがたまにあった。問題は、それが正史なのか誘導の結果なのか周囲からはわからないし本人にもわからなくなってしまうということなのだが。

 まあいいか、どっちでも。ユディーアは気にしないことに決めた。聖女クナータにとって些細な記憶違いはいつものことで、己の都合によってころころ言う事が変わるなんてことも日常茶飯事だとユディーアは知っている。いちいち気にしていたら身が持たない。

 重い息を吐いた。変える勇気を、クナータ本人は持っている。

 こちらの心配など軽やかに飛び越えて、この少女は恐れずに思い出を更新していく。


「さて、その辺にお店はないかな」


 ユディーアは種族特有の感覚器官、頭蓋の内側にある『天眼』を開く。要するに屋台が見つかればいい。が、どのような屋台でもいいわけではなかった。

 調査任務というのは全くの嘘ではない。

 第五階層に新しく生まれつつある『辺境区』。そこで活動している様々な宗教勢力の動向を調査すること。それが『宣教騎士団』である『智神の盾』からの指令だった。

 形式的なものではあるし、アズーリアからは「先に空組と合流してていいからね」とも言われているが、調査で得た情報はチョコレートリリーの仲間たちにとっても意味のあるものになるはずだ。もちろん、チョコレートリリーではない仲間にとっても。


「見つけた」


 第五階層に到着した瞬間から探していたものを見つけて、ユディーアはそちらに足を運ぶ。後をついてくるクナータは既に「クレープ♪ クレープ♪」と美味しいものを食べる直前の満足感でご機嫌だ。もしくは、食べた直後の満腹感で。

 二人が辿り着いたのは移動式の屋台だった。赤い看板には『クレープ』と『占い』という文字が記号付きで大きく記されている。どうやら注文すると簡単な占いもしてくれるらしく、パラソルやメニューボードの下にカードやら水晶玉やらが飾られていた。

 クナータがはしゃいで言った。


「すてきな趣向だったわね!」


「お、意外にも好評だ」


 未来を回想する聖女が占いに好意的なのも妙な感じがするが、クナータの機嫌が良いのはいいことだ。何かの切っ掛けで『暴発』する心配が無いのは安心できる。


「店員さん、焼き肉サラダクリームチーズはとってもとっても美味しかったわ!」


「えっと、あたしはスモークサーモンとヨーグルトの豆乳クレープで」


「かしこまりました。少々お時間いただきますが、その間は水晶占いをお楽しみ下さい」


 『下』のマロゾロンド信徒によく見られる薄いヴェールで顔を覆った店員が涼やかな声でそう言うと、カウンターからふわりと浮き上がった水晶玉が淡く紫色に発光し始めた。水晶玉観照スクライングは夜の民というより月の民の領分だが、全自動で占いを実行してくれるのでこういう店でのちょっとした時間つぶしにはもってこいだ。

 水晶玉に映し出された光景は未来というほど確かなものではなく、光の輪郭が揺らぐ程度のものだった。誰かの姿だと強弁すればそれらしい解釈をでっち上げることも不可能ではないが、暇つぶしの余興としてはまあこんなものだろう。


「おめでとうございますー♪ お二人とも、長く会っていなかった人と再会できそうな気配がしますよ。更に、今週は意外な出会いから新しい友人ができるかも! ずばり、友情の運気がぐいぐい来てます! 星の巡りとか星辰配置とかがそんなふいんきです!」


「あはは。なに言ってんの?」


 ヴェールの奧で微かに輝くのは、クナータとは角度の異なる斜め十字の瞳が放つ光だ。

 寝ぼけてるのかこの女、とうっかり素で考えつつ商品を受け取って、ユディーアは手のひらから一枚の銀貨を落とした。


「支払い、これでいいですよね?」


「はい、もちろん」


 店員は硬貨を渡したユディーアの手を両手で包み込むように挟んでいる。

 ヴェール越しにうっすらと見える柔らかな微笑みは、こちらに好意を抱いているのではないかと勘違いさせるほどに華やかに見えた。ユディーアはそのまま目を閉じて、手の感触を確かめるように少しだけ力を込める。いち、に、さん。心の中で短く数える。


「あの、お客様? そういうことをされると、わたくし困ってしまいます」


 からかい混じりの笑みと共に勘違いした客をやんわり拒絶するようなことを言う店員に軽く殺意を覚えつつ、ユディーアは手を引き抜いた。困るのはこっちだよ。

 クナータがご機嫌な様子で言った。


「仲良しってすてきね」


 友達の性格が良ければね、とユディーアは内心で付け加えた。

 またのお越しをお待ちしております、という声に背を向けて、二人はクレープを手にその場を離れた。あまりこの場所には長居したくない。表向き、二人の身分は『松明の騎士団』に所属する修道騎士だ。この近辺にはふさわしくない。

 行き交う人が身に付けている竜数珠が、店舗の軒先に飾られた紐が、この一帯が竜神信教の勢力圏内であることを示している。蜥蜴人の割合も高めで、ちらほらと角付きの亜竜人も混じっているようだ。

 いつの間にかこの第五階層にも広まりつつある古い宗教。

 竜神信教と槍神教は不倶戴天の敵同士だ。その図式はほぼ『上』と『下』の対立の構図を引き写したものである。


 背後を振り返ると、占いクレープの屋台には新たに男女のカップルが訪れて仲良く恋占いをしていた。例の店員は男性に親しげな接客を行い空気をひりつかせている。きっと瞳の斜め十字は爛々と輝いていることだろう。ひときわ暗く、どす黒く、破滅を期待する色に。

 灰色よりも質が悪い。業深き淫魔ラハブが生み出す災厄の渦からはさっさと距離を置くに限る。といって、商品を投げ捨てるほどうんざりしていないのも事実。

 折角だからとクレープを一口かじる。まあ、味は悪くない。

 性格と性癖はともかくとして。


 


 ユディーアは裏切り者だ。

 背信者には相応の身の処し方がある。そう教えてくれたのは、ユディーアの魔女としての師だった。『星見の塔』と『虹のホルケナウ』で学んだ日々は血肉となって彼女の深いところに刻み込まれている。

 都市に埋没するためにはどうすればいいのか。師である『ポルガーお姉様』はこんなことを言っていたな、とユディーアは思い出す。


 全ての都市には表情がある。感情と言い換えてもいい。

 喜、怒、憂、思、悲、恐、驚。

 小さく口の中で反復する。肉体に染みついた修練の成果。全身の臓腑と神経がそれを生身の感覚で理解している。ユディーアが覚えたのはその『七情』のかたちだ。

 喜び、楽しさ、悲しみ、苦しみ、軽薄さ、生真面目さ、時間と共に移り変わっていく表情を読み、都市に共感してみせることがその場所に溶け込むための第一歩。

 ユディーアから見た第五階層ガロアンディアンは怖いくらいに感情が豊かで、けれど顔をしかめそうになるほどにちぐはぐだった。


「修道騎士会のおしごとで激甚災害後の仮設住宅に救援物資を届けに行ったことがあるんだけど、あれを縦に広げて積み上げて、そのまま発展させたらこんな感じかなあ」


 クナータはそのたとえがよく飲み込めなかったのか、なあにそれ、と首を傾げた。

 実際のところ、第五階層の辺境区は猥雑の極みだった。複数の幼児らが様々な形の積み木をめちゃくちゃに積み上げて作ったような、幼く無計画な独創性の複合体。

 たとえば小さな箱型建造物の上に巨大な逆三角形が屹立し、更にその上に橋が築かれて虚空に開いた『扉』へと繋がっていたり。

 たとえば三段重ねの箱から突如として一番下の箱が消失するも座標が固定されているために上の箱は落下することなく中空に浮いたままだったり。

 無秩序な街の景観は控え目に言って狂っていた。


 第五階層を訪れた人々に付与される管理者権限の一部は簡易的な物質創造を可能にする。『創造クラフト』と呼ばれる力を用いれば、誰でも箱型の住居を即座に組み上げることができるのだ。もちろん、知識や技術があればより複雑なクラフトにも挑める。

 インスタントに作り出され、次の朝には幻のように消え去ることもある、とても忙しない街のかたち。絶えず新生と死滅を繰り返す循環の世界。

 不安定だ。ユディーアは足下の不確かさと頼りなさに言い知れぬ不安を感じていた。


 けれど道行く人たちは誰も自分のような心細さを感じているようには見えない。むしろ活気すら感じる。この街には方向性があるのだ。言ってしまえば『意思』のようなものが。『下』のように平穏に縛られているのではなく、『上』のように恐怖に支配されているのでもない。

 自由であれ。あらゆる意思と情動を駆動させ、混沌とした世界の住人であれ。

 そうした暗黙の強制力がこの空間を支配し、一定の秩序を形作っている。


「みてみてユディーア、あそこの露店で牽牛種アステリオスの錬金術師が牛黄ごおうを売っていたわ! やっぱり自分の胆嚢から取り出したのかしら?」


「やめなよそういう想像するの」


 とはいえ自分産の呪物で小遣い稼ぎをするのは誰でもやっている。友人のアズーリアだってお金に困ったら『ペリュトンの鹿茸ろくじょう』と言って生えかけの袋角を売ろうかなと冗談を言うくらいだ。ミルーニャが真顔で交渉を始めたのを思い出して少し笑う。


 行き交う多種多様な種族、世界各地から集められた技術水準のバラバラな呪具、異なる文化圏同士が接触し、混淆して新しいものに変質していく絶え間ない流れ。

 ユディーアは土地に慣れない新参者としてただそこにいれば良かった。

 新しいものは、常にこの都市に入り込んでくる見慣れたものだからだ。

 『上』や『下』で居場所を失った人々が最後に辿り着くのがこの魔都だ。みな、苛酷な因縁と苦痛に満ちた過去を背負ってここにいる。

 それでも、難民たちが生活を積み重ねて次の世代に希望を繋ごうとするように、今を生きるものたちは未来に向かって歩いている。


「クルックルック、ルックルクック♪ ちいさな鳥が飛んでった♪ 親鳥追って飛んでった♪ クルクル鳴いたら親鳥落ちた、ちいさな鳥も落っこちた♪」


 子供が歌っている。他愛ない風景、と流せない違和感。

 第五階層はどれだけ形を変えようと危険な迷宮区だ。

 他に行き場の無い難民、それくらいしか考えられないが、何かが引っかかる。

 あんなにも楽しそうな笑顔を浮かべているのは、どうしてなのだろう?

 少し悩んだユディーアは、自分の中にある『不幸な難民のステレオタイプ』と現実に生きる人間の強さとの不一致がもたらした混乱なのだろうと結論付けた。

 そう考えてしまう自分の在り方と立ち位置に嫌気がさして、ユディーアは重い溜息を飲み込んだ。クナータの前だから、表情だけは柔らかくしなければならなかった。 


 違和感だらけの二人は致命的なずれをそのままにして歩いて行く。

 ユディーアは明確な目的地を見据えて。

 クナータはアルバムを懐かしむように記憶を辿って。

 到達点はまだ遠い。執行猶予の途上を、惜しむようにゆっくりと噛みしめる。

 一歩一歩が処刑台の手前のように感じられた。


「見て、ユディーア」「あれは何かしら?! 結局わからないままだったわ!」「わあ、お花が飛んでるわ!」「あの大きいのは箒? それとも生き物?」「焼き菓子をご馳走してくれてありがとうユディーア! とっても美味しかったわ!」「あんなにすてきな髪飾りをプレゼントしてくれるなんて、ユディーアは優しいわ!」「平らげておいてなんだけど、幾ら何でもメニューの端から端までなんて、すこし申し訳なかった気がするわ」


 ちょっと待て、とさすがのユディーアも笑顔を保てなくなってきた。

 この聖女様は人の財布をどこまでも軽量化したいらしいが、ユディーアの予算にも限りがあるのだ。もう少し手心を加えて欲しい。ていうかこれ嘘でしょぜったい。欲望のままに未来と記憶を改変するのはやめてほしい。


「ティエポロスさん。調子に乗っていませんか」


「なんてことを言うの? わたし、転生して間も無いのよ? ひどいわ!」


 余命を盾にされてしまえばユディーアに為す術は無くなる。

 その上、主観的には彼女はまだ生まれたばかり。幼い子に辛く当たるのは心理的ハードルが高いし、どうしても甘やかしてあげたくなってしまう。


「それずるい。ティエポロス卑怯だよー」


 涙目になりながらもクナータの無茶な振る舞いに付き合うユディーアだった。

 少女の振る舞いはある意味で気遣いなのだと、本当はわかっている。

 だからユディーアは友人に笑いかけることができるのだ。

 それが最善で正しい距離感で、クナータが望んだ最後の時間の過ごし方。

 わかっている。全部わかっているから、ユディーアはこの時間を楽しいと信じた。この瞬間が遠い過去になった時、美しい思い出として振り返ることができるように。

 たとえその色彩が、灰色だったとしても。


 ふと、ユディーアの視線が護衛対象から離れる。

 見覚えのあるものを見つけた、そういう注意の逸れ方。

 街角をよたよたと歩いて行くのは、小柄なクナータよりも少しだけ小さな背丈の手足の付いたキノコだった。


「あれってマイコニド? ガロアンディアンって本当にどんな種族でも受け入れてるんだ」


 マイコニドは極めて珍しいティリビナ系の少数種族だ。

 ジャッフハリムでも知識がある者は珍しく、直接目にしたことがある者は更に限られているほど馴染みのない種族。ユディーアとて、セインディアの博物城で秩序派の血統術師たちに引き合わされた経験が無ければあれがティリビナ人だとは理解できなかっただろう。

 この階層の住民たちも気付いていない。

 キノコ人は独りに見えた。近くには樹皮の肌を持ったティリビナ人たちもいるが、彼らはマイコニドを遠巻きに眺めている。表情まではわからないが、そこには見えない壁があった。


「ルーシメアは、何をやっているの」


 小さな苛立ちが泡のように浮き上がり、瞬時に弾けて消えた。

 無意味な思考だ。この憤りはあまりに幼い。

 自制はしたものの、胸の中には棘が刺さったままだ。

 善良で純粋な『主君』のことを思う。

 歴史の信奉者たちの空虚な願いが反響するあの異形の城で、少年もまたマイコニドの友人を得ていたはずだ。昔から彼の生来の素直さと人懐っこさはあらゆる壁を取り払ってきた。

 何もかもが理想通りにならないのはわかる。けれど、何か飲み込みがたいものを感じる。

 違う。彼女にとって当たり前だった記憶は、ある瞬間から決定的に変質してしまった。

 いや、させてしまったと言うべきか。

 全ての罪は、ユディーアに帰するのだから。

 思考を振り払う。この後悔はするべきではない。


「どなたか、お金を恵んでいただけませんか。ほんの少しでいいんです」


 マイコニドは明らかに困窮していた。彼は近くにいる他の物乞いたちからも迷惑そうな視線を向けられている。このままだと第五階層における丐幇かいほうの類に目を付けられるのも時間の問題だ。ユディーアはしばし迷った。

 ここもだ。ガロアンディアンもまた、完全な楽園にはほど遠い。


 ジャッフハリムは対外的には理想郷のように喧伝されているが、その門戸は万人に開かれているわけではない。共存共栄の理念と折り合いを付けられなかったものたちは国を去るか、あるいは国内に留まったまま新たな居場所を求め独立を叫ぶことになる。

 第八階層の巨人族、そしてティリビナ人たちがそれだ。

 頭上の世界樹が太陽を隠したことで、夜の民、岩肌種トロル熊人ディスノーマ地精ノームといった暗がりの種族が姿を現し始めていた。

 同じく洞窟を棲家とするマイコニドは同族意識に訴えかけて彼らに縋ろうとしたが誰にも相手にされないままだ。どのコミュニティからも爪弾きにされたマイコニドには救いがない。


「かわいそう」


 クナータの悲しそうな表情。

 泥や砂埃に塗れて薄汚れたキノコ人間は片腕を無くしていた。彼にこれからどんな災難が降りかかるのかはわからない。けれど、それはこの街ではありふれた悲劇だった。

 雑多な街には幸福と不幸が雑多に入り交じっているものだ。

 手足を失った探索者は物乞いに身をやつし、難民たちは身を寄せ合って苛酷に立ち向かい、ならず者たちは酒と麻薬で明日の絶望から目を逸らす。

 行き場の無いものたちが最後に辿り着く最果ての地、第五階層ガロアンディアン。

 そこにすら馴染めなかったものたちが行き着いたのがこの辺境区だ。


 信仰上の理由や生理的嫌悪感から義体化技術を拒絶した者。

 機械女王と異界の紀人という存在を危険視して距離を置いた者。

 『死人の森』の脅威が未だ完全に排除されていないことに恐怖を感じている者。

 そう、ここはきっと『どこでもないどこか』だ。

 ユディーアは矛盾する感情が湧き上がるのを感じた。これは安らぎと苛立ちだ。

 足は自然とある方向へ進む。クナータが優しい顔で微笑んでいる。


「ああ、どうかこの哀れな戦士にわずかの慈悲をお恵み下さい! 勇敢に戦った果てに待つのがこのような惨めな結末だと言うのですか、こんな仕打ちを神はお許しになるでしょうか!」


「これ、どうぞ」


 仰々しく叫んでみせるキノコの物乞いに、ユディーアは銀貨を渡した。周囲に聞こえるように大げさに感謝を口にする男に背を向けて早足にその場を後にする。男が無慈悲な周囲を非難し始めると、舌打ちや苛立ち混じりの怒鳴り声が響く。

 気分が悪い。最低だった。ユディーアはどうして自分はもっと賢く生まれなかったのだろうと両親を恨み、そんな思考に至った己のどうしようもなさに嫌悪感を抱く。

 個人の後悔などとは関係無く、街は全てを押し流す。

 人の声、雑踏の音楽、行き交う噂話、風となって踊る囁きの神エーラマーン。

 ひどい記憶。忘れたい過去。どうせこれも色褪せていくのだろう。

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る