4-230 転章『それは素朴で純粋な当たり前の』①




 広さも定かならぬ暗い広間の中央に、一筋の光が落とされている。

 そこに少年が立っていた。

 燃えるような赤毛の下で力強く輝く瞳はしかと前に向けられて、これから起きる事を正面から受け止めようとしていた。いつ見ても不思議な光だ。強く深く燃えさかる、輝かしい闇の色。私は、そのさまを見ていた。


 続けて暗闇の中に薄い光が灯る。ひとつ、ふたつ、みっつ――。

 少年の周囲に浮かび上がった幾つもの輪郭は、石板のようだった。

 刻まれているのは槍を象った大神院の紋章――槍神教圏を統べる絶対権力の証。

 少年――『松明の騎士団』を統べるソルダ・アーニスタは槍神教全ての頂点に立つ『教皇機関』の補佐組織・枢機卿団の呼び出しを受けていた。

 原因は第五階層の異変によって明らかになった、この第九世界槍アイスナインの秘密についてだろう。


 ――僕たちが乗り越えるべき旧時代の遺物たちの醜い姿を、しっかりと覚えておくといいよ、アズーリア。


 少年の、そんな言葉を思い出す。

 私は広間の端の方で影と同化するように息を潜めていた。隣にはソルダの従者であるフラベウファがいるが、彼女はじっと主を見つめるばかりで無言のまま。

 彼らは私に――修道騎士アズーリアに何を見せようとしているのだろう。そして何を求めているのだろうか。彼は私に何かの相通じるものを見ている? それか、もっと別の――思考は石板たちから響く声によって遮られた。

 その集まりは糾弾から始まった。


「由々しき事態だな。よもや第八世界槍の認識封鎖を破られるなど。揺り籠の掌握にも失敗し、過日は第一階層に魔将の侵入を許す始末。君が槍の裔でなければ既にその任を解かれているところだぞ」


「左様。完全にして無謬なる我らの計画にはあってはならない失態だよ、君。大いなる聖ポルポフォンの御言葉にはこのような歴史は記されていないのだからな。何のための君、何のための『松明』なのかね?」


「無論、唯一絶対の『普遍史』を紡ぎ続ける教皇機関ファザーシステム』、大聖典『啓示告白』の記述を正しく実現させるためです、猊下」


 石板から響く厳かな老人たちの声。

 ソルダは恭しい態度で彼らに答えるが、石板からはふんと鼻で笑うような音が響くばかり。誰ひとりとしてソルダの態度を信用していないのだ。


「上辺だけの礼節が見え透いているぞ、英雄めが。全くもって喰えない男よ」


「第八聖女を預けているのは君のお遊びのためではないのだぞ、アーニスタ」


「――クナータ・ノーグについて、既に処女懐胎の兆しが現れている事はご報告の通りです。揺り籠の準備さえ整えば、救世主確保は容易かと存じます」


「だといいがな。第一世界槍のように、降臨したはいいものの融血呪の暴走と自壊で計画が白紙に戻るなどということが無いように祈るよ」


 石板たちの声は厳しい。

 だが『松明の騎士団』の不手際、ソルダの責任を追究するにしてはただ叱責を重ねるばかりで、踏み込んで処罰するような雰囲気はまるで無かった。

 それは、代わりとなる人材がいないから?

 代替不可能な存在――唯一無二の英雄を失うわけにはいかない。

 大神院は『記述』からの逸脱を何よりも嫌うからだ。

 遠くからの声が続いていく。


「ただでさえ戦況は芳しくない。第二世界槍は物質の楔を砕かれた上に本体をスキリシアに奪われ、第三世界槍は我らの文明圏から離脱しつつある。そして今回のこれだ。『氷槍』の制御を奪われるとは、君は昼寝をしていたようだ。亜大陸侵攻に関する情報操作、事象改竄に一体どれだけの労力と呪的資源が投入されたことか。それらが全て無為となった」


「我らの中にはあそこで狩りやキャンプファイヤーを楽しんでいた者もいる。万が一にも救世主に裁かれぬよう、また七面倒くさい贖罪儀式に資金を注ぎ込み、身代わりを立てねばならない。全て君の責任なのだぞ、それをわかっているのかね」


「返す言葉もございません。『死人の森の女王』に未だ九氷晶への干渉能力が残っていたのは誤算でした。ですが、これは修正可能な範囲です。二度目の干渉はありえませんし、露呈した第八世界槍とティリビナ人の真実については既に手を打っております」


「お得意の懐柔か? 先代ならば全て灰にして終わりだったろうに」


「殺して奪う征服の誉れを目前にしておきながら闘争に猛りもしないとは、それでも『槍』の体現者かね。いくら御使いや猫のお気に入りとはいえ、目に余る行動が多すぎる。多世界連合からの催促に対応するこちらの身にもなって欲しいものだ」


「しかし勝ち取ること――勝利こそが至上の価値と槍神教は定めているはず。ならば手段は何であろうと正当化されます。どうか今しばらくの猶予を」


「君が勝てるのならそれでいいがな」


 皮肉げに言う老人たち。

 彼らは石板の周囲に幾つもの立体幻像を浮かび上がらせていく。

 世界各地に存在する『世界槍』――そこで起きている様々な事件。

 世間一般に公表されているマスメディアの情報だけではなく、その場に立ち会わなければ知り得ないような詳細な事情が次々と映し出されていった。


 その中には既知の大世界槍だけではなく、私が知る文明圏の外側に広がっている異界の光景――人工的な世界槍での映像も含まれているようだった。

 大神院は世界を裏から支配しようとしている――市井の人々が囁くそんな噂話は誇張でもなんでもなく、ただの事実なのだと理解できた。


 ぞっとする。枢機卿団の語る言葉は壮大すぎて私には理解できない事柄が多すぎたけれど――槍神教の野蛮さを体現した彼らの有り様は、素朴な『当たり前』過ぎて怖かった。彼らは苛酷な世界に放りだされた生物として普通に振る舞っているだけなのに、それでも異様に感じられてしまうのだ。


「守護世界槍の運用開始は遅れる一方だ。本来ならば『蛮照松明』と『鉄願祈手』による文明圏更新はとうに始まっていなくてはならないというのに。速やかに世界樹の問題を解決し、末妹選定の完遂を急ぐのだ。上位紀天使や九尾伽ナインテイルズを待たせるのにも限界がある」


「君が失敗しても第四の嵐や第七の砂時計で進行中の更新計画が残っていることを忘れるな。魔女共の技術さえあればどうにでも辻褄は合わせられるのだから、本来は外聞を取り繕う必要は無いのだ。最悪の場合は真なる『御使い』か『松明』を投入して全てを書き換えるという脚本もあり得る。肝に銘じておくことだな」


「承知しております」


「いずれにせよ、新造世界槍の運用と管理のためにも『星見の塔』の技術供与はこれからも必要だ。幸い末妹選定の鍵たる『子宮』は我らが手中に収めている。この優位を生かさぬ理由は無い」


「左様。トライデントのためにも、新たな英雄アズーリア・ヘレゼクシュと『呪文の座』は有効活用せねば。女王気取りの機械人形も君がご執心の姫君も同じく、全ては救世主完成に必要な細胞たちだ。せいぜいしっかり守ってあげたまえ。その為の都合ならば幾らでもつけてやろう」


 遠大な話の最中に、急に自分の名前が出てきたものだから、私はびっくりして飛び上がりそうになってしまった。

 大神院は私たち『呪文の座』の動きを関知している?

 それどころか彼らの計画に私たちが組み込まれているというのか。

 ソルダは私にこれを聞かせたかったのかもしれない。


「母胎回帰、影槍複写、聖人淘汰、鏖殺機関、創世計画、天層播種、超人武練、そして末妹選定。世界の熱的死、回避不可能な破滅を前にただ諦めることはできん。救世主到来をただ祈り、救済の運命を手繰り寄せるのだ」


「これ以上の計画遅延は許されんぞ。わかっているな、松明の騎士」


「は。この槍に誓って」


「次は良い報告を期待する。全ては聖なる御言葉のままに」


 それを最後に、石板から紋章の輝きが消えていく。

 どうやら大神院の意思は既に去ってしまったようだ。

 ソルダはふうと息を吐くと、お疲れ様でしたと声をかけるフラベウファに向けて肩を竦めて見せた。それから私の方を向いて、暴言を吐いてみせる。


「意識を聖典と同化させ、普遍石板に記され続ける記述と成り果てた老人会。聖職者である必要すら無く、王侯貴族や宰相など国家の要職にある者が金と呪力を積めばなれるお手軽な不老不死の座。何の意味も価値も無い、文字通りの石塊だ」


「ええっと」


「何もしない、何も出来ない連中の繰り言だよ。だが、奴らは君たちを利用してトライデントを私物化し、救済されたいと願っている。俗物はその俗物性ゆえに厄介なこともあるから、一応覚えておくといいよ」


「はあ。あの、ありがとうございます」


 なんだかとんでもない場面を見せられてしまったような気がする。

 ソルダ・アーニスタは明らかに大神院に対して叛意を抱いている様子だが、この人はどうして私をここまで信用しているのだろう? それとも、今の様子を見せれば少なくとも中央の傀儡になることは避けるだろうと判断した?

 ならその目論見は成功だ。少なくとも私が大神院側について彼の敵となることはまず無いだろうから。そもそも、トライデントが末妹になることを前提にしているのが気にくわない。私は、必ずハルベルトを末妹にすると決めているのだから。


「さて。悪いけど退屈な見物に続いて面倒な手続きをしなければ。むしろ今日呼び出した本題はこっちだ。心の準備はいいかな?」


「はい、そのつもりで来ています」


 今の私は夜の民の正装である黒いローブではなく、戦場に赴くような漆黒の神働装甲に身を纏っている。修道騎士としてこの場に立っている事を示すためだ。


「じゃあ行こうか。松明の間で、皆が君を待っている」


 そして私たちは世界槍の上層を移動して、より高い空へと向かって行った。

 階段と昇降機が繰り返される複雑怪奇な、しかし壮麗な塔の内部。

 第一階層――聖女クナータが掌握する『松明の騎士団』にとっての本拠地は、変わらずに美しい在り方を保っている。


 けれど、第五階層で『死人の森の女王』が全てを変えてしまった事実はもはや覆せない。ミルーニャたちからの報告、リールエルバとセリアック=ニアの顛末――全ては変わり続ける。同じように在るものなんて何一つとしてない。

 それは、私も同じだ。


 やがて、その場所に辿り着く。

 遙か雲上、世界槍の穂先にほど近い高み。

 天の威光が最も強く降り注ぐ聖なる場所に、その大広間はあった。

 門を開けば一直線の赤絨毯、壁や床そのものが微かな燐光を放ち、薄暗い状態を維持している。広間の奧には槍と一体化した祭壇があり、それを取り囲むようにして八本の槍が並んでいる。


 いや、良く見れば槍の穂先は少しだけ前方にずれていて、刃の背後には窪みがあった。中には松脂に浸した布きれが詰め込まれており、火を灯すためのものだとわかる。それにしても暗い。私は困らないけれど、ここまで薄ぼんやりしていると夜の民以外は困るんじゃないだろうか。


 けれど、ソルダは迷わずに真っ直ぐに歩みを進めていった。

 私は入ってすぐの入り口に近い槍の手前で足を止め、ソルダは中央の祭壇と一体化した槍の前で立ち止まった。フラベウファもその隣だ。

 まず第一の火が灯された。九槍の第一位、ソルダ・アーニスタの炎だ。

 一本目の槍は情熱的に燃えさかり、彼の髪色さながらに周囲を照らしている。


「では始めよう。『松明の騎士』ソルダ・アーニスタの名において、『松明を掲げる者ピュクティエトの貧しき同胞たち』の頂点たる特任司教、階層掌握の権限を有する守護の九槍をここに召集する」


 ソルダの宣言に応じるように、闇の中に幾つもの気配が生まれる。

 大きな呪力の乱れと共に、小さな次元穴――『扉』が次々と開いていく。

 第一階層の中でのみ可能な、守護の九槍だけに許された『扉』使用の優先権。

 すなわちこれから現れる者たちは、『松明』が誇る最大戦力に他ならない。

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