4-228 アポテオーズ『シナモリアキラはここにいる』③



 かつて悪鬼たちが根城としていた比較的浅い領域を占拠した軍勢はいまや第六階層を完全に掌握していた。狂怖ホラーや呪動兵との激戦を経てもその勢力は衰えていない。新たな階層掌握者による『創造クラフト』が、グロテスクな壁面や血塗れの床を塗り替えていった。


 代わって世界を彩るのは優美な曲線を描く柱や壁、球形屋根の建造物。

 かつて最も美しい王が愛した麗しの故郷、その記憶を純化した誰にも侵されない聖域の光景がそこにあった。

 掌握者アルト・イヴニルの呪力はかつて以上に高まり続けている。

 第五階層の争いから半身アマランサスを分けて撤退したアルトは、第六階層での拠点固めをほぼ完璧に成功させていた。


「『王国』の展開は順調です、陛下」


「ご苦労」


 最も大きな球殿――その中で玉座に腰掛けた王は、軍団長たちの報告を聞きながら、ずらりと並んだ十二の怪物を眺める。紫の天主にとっての『マレブランケ』は彼が引き継いだ王権を証明する力だ。彼はこの軍勢を使って大魔将イェレイドさえも第六階層から追いやることに成功していた。


 この小世界の新たな名はラフディ=ガロアンディアン。

 揺り籠に『心臓』が降臨する日に備えて力を蓄えるアルトにとっての城であり、いずれ救世主を迎えるための自分専用の揺り籠だ。

 しかし一方で、不確定に揺らぐ存在を融け合わせる融血呪の青い呪力が彼を再定義し続けてもいる。彼は絶え間ない苦痛と存在の危機に苛まれていた。


「俺は――私は、誰だ」


「王よ、あなたはマラード」


「王よ、あなたはアルト」


「そしてアレッテ、あるいはバーガンディア」


「新たに第十三の細胞となった、『ファルス』のアルト・イヴニル」


 臣下たちが答えるたび、分裂しそうなアルトの存在が安定し、王の苦痛が和らいでいく。彼は承認を欲していった。それが無くてはその五体はバラバラに千切れ、彼は彼でいられなくなってしまうだろう。

 王の両耳で耳飾りが光る。

 それは車輪十字を象った装飾品だった。十字は男根、円は女陰、円と十字が組み合わさった太陽十字は聖婚の証である。


「おお、終端よ、苦痛にささやかな慰めを! 哀れな友の罪、その罰にわずかばかりの憐れみが与えられんことを――」


 アルトの瞳に十字の光が宿り、その表情に別の顔が重なる。

 老人、青年、あるいは少年。流転する隠者の十字瞳には同情があった。

 またその顔は狂気を宿したウサギのようにも変わり、かと思うと傲岸不遜な覇者の眼鏡越しの鋭い視線を再現したりもした。

 六王の闘争で漁夫の利を狙い、彼らの力を『断章』ごと簒奪しようと目論んだアルトは、最後にはカーティスに敗れ、更にはルウテトやラクルラールの支配力に抗いきれず闘争の渦から身を引いた。

 しかし、得たものもある。


 再演された『役』として、六王たちの力をその身に統合しているのだ。さながらシナモリアキラがルバーブとオルヴァを取り込んだように。

 だが、アルトにとってそれは存在を脅かしかねない試みだった。

 気を抜くと存在を持って行かれそうになる恐怖、常に叛逆の危機に怯え続ける運命――自分の中で六人が相争い続けているからこそ均衡が保たれている。

 一瞬でも調和が乱れれば、六王に比べれば小さな力しか持たないアレッテはあっさりと消滅してしまうだろう。


「王よ、あまり六王の力を再演すべきではありません。御身が完全に掌握できているのは『愛情』と『道徳』――マラード王とアルト王の二つのみ。戦いに際してその二つ以外を用いれば、あなたの自我は損なわれていくでしょう」


 軍団長のひとり、側近である朱色の球神官が王の身を案じて言った。

 馬鹿馬鹿しい、と王は笑う。これは彼の傀儡。自ら創り出した幻想だ。

 彼が自分で自分の身体を労っているに過ぎない――つまりは甘え。

 二つでは駄目だ。それでは足りない、シナモリアキラと同数ではないか。

 危険を冒してでも更なる力を手に入れる必要がある。


 飢えのような衝動は、アルト・イヴニルの精神をじわじわと蝕んでいった。 

 自己を拡張する、存在を変容させるという行為への忌避感、自分が自分で無くなっていくという恐怖。耐え難いストレスがアルト・イヴニルを襲う。

 それでも彼は力を求めた。


「諦めるのは得意――自分の存在だって、諦めようと思えば諦められる。それでもたったひとつだけ、欲しいものがあった」


 巨大な力を手にした魔女は、多くのものとひとつに融け合い――けれどこの第六階層で独りきりだ。遠くて近い、第五階層のことを思う。そこにいるはずの半身たち――ミヒトネッセとアマランサスの顛末は聞いている。彼女たちはきっと大丈夫だ。ラクルラールの人形たち、その運命にとっての希望となる道を示してくれた。


「ならば次は」


 独白は止まらない。彼はずっと寂しかった。彼と彼女はずっと愛を求めていた。だからこそあの瞬間、マラードはアレッテを拒絶しなかったのだ。

 どこかから紙片が舞い降りてくる。

 紅紫の長い髪がどこまでも伸びて、六王が所持していた『断章』の残滓を回収し、再編しているのだ。

 やがて紙片は青い血によって統合され、『王国』の象徴が完成する。


「――私の求める王国、俺が求めた力」


 それはもっとも原初的な『王国』の最小単位にして基本形。

 愛の果てにある共同体のひとつ。

 家族という、最小単位を父と母と子の三要素で構成可能な聖なる形。


「人と人はわかりあえる。繋がれる。そんな夢物語を求めて止まない強い渇望が、都合の良い虚構を生み出す」


 ならば逆も言えるだろう。

 権力を有する王国から辿り、原初的共同体、村、家族と遡った果てにある力とは、権力の根源とは何か。アルト・イヴニルが追究した答えはそこにある。


「それは『善』。それは『正義』。それは『慈悲』。それは――『道徳』」


 正しいもの。素晴らしい真実。美しい理想。尊ばれるべき美徳。

 それは確かにあるのだと、アルト・イヴニルは信じている。

 だがアレッテとマラードは、飢餓で気が狂いそうだった。

 子供たちはそれを信じられず、ゆえに求め、親と家族という権威にどうしようもない恐怖を抱いていた。だからこそ、二人でなら求められるのだ。


「ああ、崇高なるトリアイナ様。その本質こそは『愛』に他ならない」


 欲しいのは『愛の力』だ。

 全ての根源、全ての答え、全ての極点。

 森羅万象は青い海の底、珊瑚色の心臓あいから流れ出す。

 破壊の権力に脅かされたり傷つけられたりしない、ただ与えるだけの心。

 愛がもたらす大いなる権力に触れることで、アルト・イヴニルは救済される。


「『私』だけしか見ていない邪視の座も、嘘で空虚を誤魔化す呪文の座も、孤独な杖の座も、末妹には相応しくない。繋がり合う心が『愛』を形にする」


 最初から失われていたもの。

 生まれた瞬間に約束されているはずだった幸福。

 家族からの愛、世界からの愛、運命からの愛。

 だがそれは与えられなかった。

 誰もそれを勝ち取る方法を教えてくれなかったのだ。


「ああ、そうだ。俺は――私はそれだけを求めていた。愛したい。愛されたい。抱きしめたら抱きしめ返して欲しい。大いなる赦しが、絶対的な抱擁が必要なのだ。俺が、まがいものの私がここにいていいのだという救済が!」


 マラードとアレッテの声が重なり合い、顔が交互に表出する。

 俺は真実の愛が欲しい。マラードが悲鳴を上げる。

 私は本当の愛が欲しい。アレッテが慟哭を響かせる。

 『心臓』の降臨はその願いを成就させる。二人はその為だけに手を結んだ。これまでの愛を裏切ってでも、永遠を求めて。

 十二の軍団長は王の絶叫をただ静かに見守っている。

 その末席で、愛されたことの無い赤子たちが絶望の産声を上げ続けていた。




「死体だ。俺が殺し、俺が糧にし、俺が踏みつけてきた――無数の死体こそが俺の自我の礎に他ならない。俺は死体で出来ている」


 第六階層は占拠された――では大魔将イェレイドたちはどこに行ったのか?

 答えは第七階層――魔将ガドールが支配する領域に身を寄せた大魔将イェレイドは、小鬼が支配する浄界を強引に奪って自分のものにしていた。

 悪趣味で破綻した世界を、より悪趣味で破綻した世界が塗りつぶしていく。

 そんな光景の中で、男は夥しい数の小鬼だった存在の死体を集めていた。

 殺すたびに増殖する小鬼――それらの死体を寄せ集めた継ぎ接ぎの怪物が出来上がっていく。半透明なアストラル体の男は、その継ぎ接ぎ死体を『器』にしようとしている。それが『火車』のシナモリアキラが有する自己像だったのだ。


「んー、物足りないな。よし、これならどうだ」


 深い闇の中に聳える宮殿という形に変容していく世界で、自身もまた変容していく火車。多種多様な死体からめぼしいパーツを選び取って、着飾るように自分を再構築している。頭に猫耳などを乗せてにゃーんと鳴いてみせるが、さてこの小鬼は異界からやってきた猫の成れの果てだったのだろうか? どこかから荷車を持ってきた『火車』は、にゃんにゃんと鳴きながら愉快そうに死体を蒐集していく。


 集めた死体つみを車に乗せて、継ぎ接ぎをした死体のホラー。

 その姿はさながらフランケンシュタインの怪物、アストラル体でしかなかったオリジナルのシナモリアキラはもはや決定的に別人になりつつあった。

 ジュストコールにジレ、膝丈のキュロットという衣服を見繕うと、複雑怪奇な彫刻で不気味に飾られた宮殿に自分の装いが嵌まっていることに満足してにゃあと鳴く。動き出しそうなほど圧倒的な質感の大理石彫刻に背を預け、すぐ近くで浄界の造形を弄っていた少女に声をかける。


「で、結局ガドールって奴から滞在許可は貰えたんだっけ?」


「ええまあ。落ち着いたらあなたをマーネロアさんやセレクティさんに紹介してもいいかもしれませんわね。ああいえ、フィレクティさんの方が面白いかしら?」


「でかい青鹿の妹の方だろ? なら知ってるよ。ダンジョンの至る所でショップ店員やってるからな。盗んだら死ぬまで追い回されたけど」


 大魔将イェレイドは『火車』の方を見る事も無く答える。

 少女の姿は後ろから見ても美しい。

 その装いには思想が感じられた。暗めの色調で全体のトーンを統一し、宝石、ひだ襟、レースのカフス、手袋、上着の縫い目に至るまで、偏執的な細部へのこだわりと曲線の多用で装飾過多な美を表現している。


 何もかもが陰鬱な方向に華美な少女だった。

 黒いリボンに複雑で絢爛な花綱飾り、ヴィラーゴスリーブと呼ばれる肘の上下に二箇所のふくらみを持った袖のあるドレス、絞られたウェストの締め付けから続く膨らんだフープスカートからは牙がちらりと見え、中を覗き込めばグロテスクな口腔に生物骨格が浮かび上がり、鋭利な棘牙がびっしりと並んでいる。


「あら、いやらしい猫さんですこと」


「エグくてエロいな。一発やらせろ。断ったら殺す」


 答える前に拳がイェレイドの頭部を圧壊させる。

 破壊、殺戮、性欲――暴力的衝動と力の行使が直結していた。

 攻撃的な衝動を発散させた『火車』は、潰した肉塊をあーんと開けた口の中に運び、咀嚼する。衝動は食欲とも繋がっていた――死は生と接続されている。

 そんな火車の凶器となった左腕、その手のひらに殺害したイェレイドの顔が浮かび上がり、愉快そうに喋り出す。


「もう、乱暴ですわね。もう少し紳士的に振る舞えませんの? 沢山いるあなたの中には、もっとお上品な殿方もいるかしら」


 イェレイドの冗談めいた苦言を、『火車』は笑い飛ばす。


「あれは全部ゴミだよ。無節操に『俺』を増やそうと無意味だ。ゼロに何をかけてもゼロだろ。無価値は無価値。まがいものはまがいもの――それは『オリジナルの衝動』である俺にしたって同じだ。俺がシナモリアキラのアストラル体であったとしても、その価値は他の有象無象のシナモリアキラ共となんら変わることは無い」


「では、あなたが第五階層と決別したのはどうしてですかしら」


「さあな。大方、直観的にお前に何かを感じたんだろう。あるいはもっと以前から――レオを助けるために狂怖と戦ったあたりから、お前と共感するための素地は整えられていたとかいう理屈はどうだ?」


「まあ、じつは一目惚れだったと後から判明するお話ですのね。素敵ですわ」


「だろ? 超愛してるぜートリシューラとコルセスカの次くらいに。ハーレムの序列三位に加えてやろう。人気のあるサブヒロイン枠だぞ」


「素敵! 屈辱と嫉妬のあまり第五階層を攻め滅ぼしたくなりますわ!」


 うにゃにゃ、と笑った『火車』は手のひらを撫でながら天を仰いだ。

 ここからは見えることも無いが、二階層『上』には彼が欲するものがある。

 だが、と『火車』は吐き捨てる。

 その瞳には、希望など映されてはいない。


「ガロアンディアンはいずれ爆発する。先はそう長くはねーだろうよ。つか、トリシューラもそのへん前提にして動いてるだろうしな」


「私が虐殺するまでもないですかしら? あらあら残念、黄金と白銀、鋼鉄の三都を砕くこのイェレイドの勇姿をご覧に入れられると思いましたのに」


「トリシューラとコルセスカはこの俺が勝たせる――だが第五階層はもう駄目だ。あそこは、俺たち異獣の世界じゃなくなっちまった」


 暗い瞳、陰鬱な失望。

 シナモリアキラは、シナモリアキラを見限っていた。


「俺に相応しいのはこのくそったれな闇の底だけ。明るい方をアルト・イヴニルにくれてやったのはそういうことなんだろ、イェレイド。ここはもう『王国の外』――辺境、いや『周辺』だ。でかい祭の喧噪だって届かない」


 二人は分かり合っていた。通じ合い、赦し合い、そして孤独だった。

 彼にとって理解者はイェレイドただひとり。

 この宮殿は行き止まりの墓場なのだ。


「ええ、全くもってその通り。あなたは理解が早くて助かります。ああでも、笑ってしまいますわよね。『居場所』だの『家族』だの『王国』だの『共同体』だの――我々と最も相容れない幻想に、シナモリアキラが夢を見ていただなんて」


「居場所が無かったろくでなしが居場所を得て、ついには誰かの居場所になる――よかっためでたしクソ喰らえだ。その先は『愛と勇気で俺たちの居場所を守ってみせる』に一直線じゃねーか。『俺たち』『みんな』ってな」


 その拳はどんな正しさのもと振るわれて、その力は誰の為に捧げられるのか――そんな答えは昔からひとつだけに決まっている。

 『俺たちの敵』から『俺たち』を守るための戦いに用いること。守るため、未来のため、正しい戦いは美しい。正しさとは力を制御する為にある規範ではない。力を制御したことにするための言い訳でしかないのだと『火車』は考えている。


「ちげーだろ。気持ち良くぶっ殺すのを楽しむためだろ。ぶち犯してぶち喰らってとくに意味もねーけど気まぐれに尊い命をカジュアル消費。それが俺だろ?」


「ひゅー、さっすがオリアキまじ痺れる、ガチリスペクトだわー」


「てめえはしつけえんだよカス」


 唐突に湧いてきた『鎌鼬』の顔面を裏拳で粉砕する。

 死亡した男の肉が周囲の死体を吸収して自己再生していく。

 イェレイドの呪力がこの殺人鬼を復活させているのだ。第五階層での戦いから離れた『鎌鼬』は、『火車』を追いかけて死亡した末、面白がったイェレイドによって狂怖ホラーにされていた。何度あしらっても変わらぬ尊敬のまなざしを向けてくるこの相手に、さすがの『火車』もうんざりしはじめていた。


「もうシナモリアキラはこりごりだにゃーん」


 吐き気がする、と心底から忌まわしそうに呟く。

 『火車』のシナモリアキラ――その名前すら厭わしいと、彼は過去の自分、そして現在の自分さえも否定しようとしていた。


「もう俺は今の『シナモリアキラ』とは別のものだ。原初にして剥き出しの俺は――ああ、じゃあこう名乗ろう。『セト』と」


 その発現に『鎌鼬』は「お、ついに前世ネーム解禁っすか」と目を輝かせ、イェレイドは可笑しそうに微笑んだ。


「なるほど、なるほど。元ネタ的には私の高祖父ですわね」


「は?」


 首を傾げた『セト』に、手のひらの人面疽が答える。


「いえ、こちらの与太話ですわ。イェレイドという名は、ジャッフハリマータ表記で歪められたイエレド――猫の国から伝わった人類始祖の一人の名前の転訛なのですよ。ああけれど、セトというのは無垢なあなたにぴったりな名前でとても素敵。これならガドールさんもにっこりですわね」


「嘘吐けお前こないだ『イェル』が恐怖の意味とか言ってただろ」


「にゃーん」


「誤魔化すな」


「てかイェレ様ってなにげに教養深いっすね」


 暗い宮殿の内部は陰気ながらもそれなりに賑やかだったが、そこで交わされる会話は常に空虚だ。彼らには仲間同士などという意識は無い。動物的で刹那的な衝動のままに、好いたり嫌ったり殺したり殺さなかったりがあるだけだ。

 ただ、セトは確かにイェレイドに好意を抱いている。


 イェレイドのことを、セトは何も知らない。

 ただその在り方に見惚れただけだ。

 その美しさと醜さに惹かれただけだ。

 トリシューラとコルセスカに出会わず、第六階層に転生していたなら、きっとシナモリアキラはイェレイドに運命を感じていた。

 だからセトもまたイェレイドを知らないまま慕い続けた。

 愚かな恋人の在り方そのままに。

 イェレイドは嘲笑う。光の世界に生きる者たちを侮蔑する。

 セトの手のひらからどろりと溢れた汚泥が、宮殿そのものと同化していく。世界そのものでもある巨大な異形が、輝かしいもの全てに敵意を向けていた。


「理想と夢想が織りなす美しい平和と共存の混沌世界――いずれ彼らは光が落とす影を知るでしょう。『真なる異獣』である我々が示す『周辺』によってね」


 イェレイドが口にした『我々』という単語に、火車セトは顔をくしゃりと歪めた。

 可笑しくて滑稽で、だが声を上げて笑うほど面白くも無かったからだ。




 トリシューラを守るにあたって、最大の敵はラクルラールとルウテトになる。それは『星見の塔』を出立する前から品森晶=イツノに植え付けられた大前提だったが、それを明確に自覚できたのは全ての戦いが終わった後だった。

 偽装設定が剥がれ落ち、本当の記憶が甦っていく。

 イツノは自覚の無いままに実行していた自らの機能、自らの役割を再確認した。


 無意識に動き続けていた彼女にとって最大の問題だったのがラクルラールが多すぎることと、ラクルラールは味方でもあるということだ。ラクルラールを味方にする、というのが密かに彼女に与えられていた目的であると言い換えてもいい。


「存在と伝承の乗っ取り――ディスペータは妖精王ルウテトに転生することでそれを完全に成し遂げていた」


 前回までのゲームにおいて、イツノの宿敵たる蛇蝎王ハジュラフィンは繭衣のルウテトを殺害することに成功していた。『ラクルラールの座』を占めつつ盤面を掌握することに成功したハジュラフィンとその血族は、確かにキュトスの姉妹の第六位代理として君臨する人形師『はじまりのラクルラール』――そのはずだった。


 だが今回のゲームにおいてはルウテトが『英雄に敗北する女神』という役割を演じたことで力関係が引っ繰り返った。蠍尾マラコーダ=フィド・シュガの呪術的な陰陽せいべつが曖昧なのは、それを受けての対策だろう。

 だがその隙をイツノは逃さなかった。


 敵である『はじまりのラクルラール』から座を奪取するのは骨が折れたが、遂に彼女の主人は難業を達成した。第一のラクルラールとその代理人であるフィド・シュガを出し抜き、もう一人の敵であるルウテトとの戦いに千年することが可能となったのだ――その結果がこの勝利。いや、完全な勝利とはいかなかったにせよ、ルウテトが『揺り籠』を掌握することは防げたのだ、少なくとも敗北ではない。


「問題はここから――フィド・シュガをどうする」


 イツノはこの問題を考える時、いつも静謐な心の水面に石を投じられたような気持ちになる。波紋が広がるごとに思い出してしまうのだ。あの優しい微笑み、美しく頼もしい容貌、長い睫毛、心地良い声、長い脚と鋭い蹴り、助けた時に向けてきた信頼は純粋なもので――イツノははっとなって両手で頬を挟む。


「しっかりわたし! わたしにーさまを殺して『わたし』が完全になるまで、浮ついた思考は厳禁! 求めるのは強きアニムス、男か女か曖昧な存在にうつつを抜かしている場合では無いの!」


 自分に言い聞かせるような叱咤激励。イツノはかなり独り言が激しくよく通行人に奇異の目で見られているが、幸いここは彼女が単独で『創造クラフト』した高いビルの上だ。誰にも見られる心配は無い。

 気を取り直して思索を続ける。

 イツノの敵、『元ラクルラール第一位』であったはずのマラコーダとはどのような人物なのか? 彼女は、ずっとその事について考え続けていた。


 地上におけるアヴロノたちは、いくつかの勢力に分かれている。

 『調停者』を自任するティータ氏族は半妖精アヴロノの最大派閥を設立したキュトスの姉妹第四位イストリンの影響下にある。ほぼ全てのアヴロノが『星見の塔』の中庸イストリン派の意向を無視できないわけだが、例外もある。

 中原連合『天秤』と並ぶ勢力である北辺帝国の『貴族』、ドラトリアのカマソッソ氏族や闇社会で妖精武器を売りさばくネビロン氏族から成る犯罪組織『十戒』、辺境を繋ぐネットワークとして存在感を示す『隊商』、そしてそれら全てと敵対している『シュガ王国』。


 地上にあって未だに滅ぼされていない『異獣』勢力であり、現在も北辺帝国の『貴族』と領土を奪い合っているシュガ氏族が、どのような経緯で『塔』の末妹候補と行動を共にするようになったのか? マラコーダの経歴は謎に包まれているが、イツノが調査した限りではトリシューラが『松明』や『第五階層』に干渉し始めた段階で既にこのアヴロノの姿は彼女に近くにあった。

 つまり二人が接触したのはトリシューラが『塔』を出た直後だが、その経緯が全くもって不明だ。それになにより不可解なのは、最初から示し合わせていたとしか思えないほどにスムーズに配下に加わっている。


「接触したのはどちらから――? トリシューラはマラコーダの背後に存在する思惑に気付いていて、利用するつもりで部下にしたの? というよりも、マラコーダの存在はクレアノーズお姉様からの指示があったと考えるのが自然?」


 独り言は誰かに聞かせるための台詞でもある。

 舞台の向こう、あるいは舞台袖、いずれにせよ世界の外側。

 イツノにとってそれは必要なことだったが――その振る舞いは不用意な悪癖でもある。出し抜けに背後から響いた声に、イツノは驚いて振り返った。

 そこに、蠍尾マラコーダがいた。


「いい視点ね。地上のアヴロノなら帝国以外はほぼ例外なく『塔』の派閥争いが関係してくる。『天秤』なら第四位イストリン、『隊商』なら第二位ダーシェンカ、『十戒』なら第五位ディスペータ。『シュガ王国』は第六位ミスカトニカの縄張りよ、妖精王の時代から伝統的にね」


 イストリンがアヴロノたちの庇護者として振る舞うようになったのは妖精王たちの戦争を調停してからのことだ。イストリンの庇護を受けていないシュガ氏族はその代わり、古くからある魔女の知恵を借りてその領土を守り続けてきた。


「蛇蝎王ハジュラフィンの時代には、前六位ミスカトニカが存命だった」


 何かに気付いたように、イツノの表情が強張る。

 対峙するイツノとマラコーダは互いにじっと瞳の中を覗き込み、その中にあるものが何かを探った。イツノは慎重に言葉を放った。


「マラコーダ――フィド・シュガが『私たちの敵である真のラクルラール』というのはもはやダミー情報となったけれど、未だ復権の芽は残されている」


「そうね、イツノちゃんの言うとおり。私は貴方と同じように嘘つきだから」


 この二人は共にトリシューラが無条件で信頼する部下という立ち位置で動き続けてきたが、実のところどのような背景を持ちどのような素性の人物なのか、ほとんど明かされていない謎めいた協力者だ。そして、そんな二人を最も警戒しているのが他ならぬ当人たち同士なのだった。

 イツノは決断した。尻込みしていても結論は出ない。

 ならば迂遠な探り合いより、直裁的に踏み込むべき。


「九姉の六位を巡る椅子取りゲームの監視役。滅びた前六位ミスカトニカの指令で動く代行者ラクルラール、それがマラコーダの正体――違う?」


 沈黙したまま曖昧に微笑むマラコーダ。

 第一位のラクルラールは確かに蠍尾マラコーダである――その情報は間違いではない。間違いでは無かった。かつてトライデントの『尾』でもあったこの人物は、事態を裏で掌握する全ての黒幕――そんな立ち位置を狙っていたのだ。

 しかし、その目論見は挫かれた。

 『星見の塔』の旧六位、かつてのミスカトニカ派は派閥抗争に敗れ、古びた勢力としてゲーム盤のプレイヤーから脱落していった。

 勝ったのはイツノだ。彼女はルウテトにすら勝っている。


「ミスカトニカの不死性は『過去』――既に終わっているから殺せない。劣化や変質はするにせよ、ミスカトニカは再演による過去干渉などでしか手出しできない時空からあなたラクルラールという使い魔を送りこんできた」


 人形師ラクルラールが事実上の六位として振る舞いつつもずっと第六位代理であった理由がそこにある。過去の魔女ミスカトニカは、最初から『前六位である』という性質を有したキュトスの姉妹だったのだ。本人は死しても、その遺志は受け継がれ代理人が役目を代行し続けるという意味での不死――当たり前に過ぎる人類の営みは、それゆえに強度の高い不滅性を有する。


「ミスカトニカは機械女王トリシューラの試みが失敗すると確信している。その動きを監視して、もし危惧通りに破滅に向かったなら――トリシューラの座を奪う。あるいはその毒の尾で一刺しする――役割はそんなところ?」


「陛下が正道を歩む限り、私はあの可愛らしい女王様の味方よ。ミスカトニカ様の正統なる後継者にして新たなる代理人――私たちのトリシューラを脅かすものは全てこのフィド・シュガが倒す」


 そして、王を教え導く教師役は二人もいらない。

 水流の腕が渦を巻き、毒の尾が持ち上げられる。

 剣呑な空気が膨れあがり、やがて萎んでいった。

 イツノは戦闘態勢を解いて、じっと相手を見つめた。


「私はトリシューラに末妹選定から穏便に降りてもらった上で、末妹選定の後を見据えて欲しいと思ってる。『末妹』はトライデントで決まり。なら次に起きるのは当然、内部での勢力争い」


 蠍尾マラコーダは静かにイツノを見つめている。

 イツノは視線を鋭くして言葉を連ねていく。


「『細胞』たちは『心臓』降臨後のポスト争いで必死。出来レースの選定なんて真面目にやってるのは当の候補者たちくらい。なのに、何故あなたはトリシューラに中途半端な忠誠心を向けているの? 貴方は、彼女の無謀な挑戦を本心から支えていくつもりに見える。私にはそれが分からない」


 イツノはトリシューラの味方ではあるが、忠誠心など欠片も抱いていない。

 だからわからないのだ。

 似たような立場であるはずの蠍尾マラコーダが、どうして『マレブランケ』でいられるのか。

 曖昧な性質のアヴロノは、曖昧な微笑みを浮かべて語った。


「私の陛下への忠誠に嘘は無い。私がミスカトニカの代行者ラクルラールであることと、トリシューラの下僕であることは、何ら矛盾しないのだから」


 イツノはそれで理解した。

 多分、トリシューラも事情を理解した上でマラコーダを受け入れている。少なくとも彼女の後見人クレアノーズは全てを把握しているに違いない。だからこそ、今回の盤面に直接介入をしてこなかったのだろう。クレアノーズの嗅覚はより古い香りを捉えるもの。未来と直接対決するには些か分が悪い。


 トリシューラはあれで冷徹に手持ちのリソースを俯瞰している。

 優先度の低いサブ・プランとして、あらゆる状況に適応するための代替品として、使えるものは区別せずに使う――そこに感情や誇りの介在する余地は無い。

 ある意味で『マレブランケ』随一の不忠者、獅子身中の虫となりうる病毒が蠍尾マラコーダであると、イツノははっきりと確信していた。

 つまり、自分たちは同じなのだ。


「そういうこと」


「そういうことよ」


 シナモリアキラは『自らを演じる役者としての一部』をキュトスの姉妹ラプンシエルの座に到達させることに成功した。

 ウィッチオーダーを持つ彼の存在は、ある意味では末妹選定のシミュレーターとして機能している。トリシューラにとってのシナモリアキラは『未来を再演させるための道具』とも呼べる存在なのだ。


 使い魔による実験が成功したのなら、次は本命に向けて調整をすればいい。

 トリシューラをキュトスの姉妹――第六位の『紀』に到達させる。

 両者の思惑は一致していた。

 二人はトリシューラに対して敵意を向けることは無く、時にはその身を砕いてでも彼女を助けようとするだろうが――『未知なる末妹』というゴールにトリシューラを運ぶつもりは一切無かった。


「私はトリシューラを守り、正しい道に導く」


「私もトリシューラを守り、正しい道に導こうと思っているわ。良かった、目的が一緒で――ねえ、私たち、仲良くやっていけそうじゃない?」


 互いに柔らかな表情を見せながらも、瞳はまるで笑っていない。

 目的地は同じで所属する陣営も同じ。味方同士であるならば争う必要も無いだろう――そう言って互いに矛を収める。とりあえず、今はまだ。

 目指す地点は遠いようで近い。

 『末妹』はトライデント――問題は、その後なのだ。

 二人は声を重ね、同一のことなる目的を確認し合う。


「全ては、ラクルラールのために」



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