4-227 アポテオーズ『シナモリアキラはここにいる』②
階層北西部の『港』に停泊している修復中の巡槍艦に近付いていった俺たちは、そこで見慣れない来客の接近に気付いた。
ノアズアークとは別の巡槍艦だ。
特定世界槍の文明圏内でのみ次元間移動を可能とする大型呪動艦船は、世界槍ごとに大きくその姿や駆動原理が異なるというが、俺たちの目の前で寄港しようとしている船舶は極めて異質な存在感を放っていた。
なにしろ木製だ。
古めかしい帆船どころか、巨大な樹木を枝も切らずに横倒しにして、中を少し切り抜いて居住可能にしている、といった外観。予備知識が無ければただの大樹にしか見えない、あまりにも『自然と親和的です』みたいな主張を押し出した船。人工的さを意図的に排除しようとして、かえって異様に見えている。
「あれ、第八で運用されていた巡槍艦だよ。そうか、ルウテトによって『ここは第八世界槍でもある』という認識が取り戻されたから、第八階層から移動できるようになったんだよ」
「第八階層――そういやそんな話してたな」
港や管制塔を統括するポートシューラが、樹木巡槍艦に各種の指示や誘導を行っている。この船は突然訪れたわけではなく、事前に予定されていた客人なのだ。
現在、第五階層は復興や『呪文の座』との共同イベントの準備を急ピッチで進める必要があるが、そのための物資が不足している状況だ。各種生産プラントやトリシューラが持つ謎の補給ルートもほとんど機能していないようなので、実はこのままだとかなり深刻な事態に陥ってしまう。
「よっし、これで補給物資は確保できそう」
そんなわけでトリシューラが頼りにしたのはコルセスカ――というかその使い魔であるアルマのコネだった。何でも、かつて第八階層の最前線で巨人と戦っていた時に『松明の騎士団』を支援していた商人がいるらしい。
現在もなお戦乱の絶えない第八階層で『神群連合』や『魔将軍』、『ティリビナ解放戦線』や『レルプレア教団』といった勢力全てに武器を流して戦いを煽る死の商人。迷宮区の至る所に出没する死体漁りの行商たち。
俺とヘリシューラが港に降り立つと、巡槍艦と繋がった
共有された情報によって、ヘリシューラの表情も凍り付く。
男は深く腰を折り、臆面も無くこう言ってのけた。
「直接顔を合わせるのはこれが初めてですね。改めて自己紹介を。僕はセロナ・ハーヴェスト。ええ、ゼドが内包する死神が一人、と言っておきましょう」
名乗りと同時に、なんとも朗らかで心温まる風が吹き付けてきた。
うららかな昼下がり、太陽に照らされた一面の畑には鮮やかな色に彩られた大地の恵みが並び、人々は収獲の喜びに満足げな笑みをこぼす。
人類史における最初期の文明が記憶した歓喜の体験――質感を伴った幻が俺たちの前進を走り抜け、感動的な衝撃が心身を揺さぶっていく――強制遮断。
「何だ――今の異質な宣名は」
聞いていた代表者の名前はセロナ・ハーヴェストでは無かったが、まさか騙りではあるまい。その宣名圧は紛れもなく背後の巡槍艦全てを含めた『所属と立場』を知らしめる名乗りだ。俺たちは知らず最悪の敵に縋ろうとしていたのだ。
純白の礼服――肩に下がった薄い布地やふわりと広がった足下、小舟のようにも見える木靴など、やや民族衣装的なテイストを取り入れた装いの男はその見た目を裏切らない穏やかで快い響きを口から発してくる。それはちょっとした恐怖体験だった。油断するとずっと聞き入ってしまいそうになる美声だったのだ。
「今日の糧から明日の槍まで、我々『ガリヨンテの鎌』はどのような商品でも迅速にご用意致します。口さがない者たちはダンジョンの死神、卑しい盗品売りなどと呼びますが、いたって誠実な商売をさせていただいておりますので、どうかご安心下さいね」
よろしく、と眼を細めて微笑む美貌の若者。
相手の脳髄から強制的に信頼を引きずり出すような暴力的な笑顔と柔らかな物腰は俺に最大級の警戒心を抱かせるのに十分だった。絶対に人に悪意を抱いたことが無さそうで暴力を働けそうも無い体格と振る舞い――だからこそ確信した。こいつはこの笑顔のまま拷問と殺人を容易く実行できる。感情制御アプリなど無くとも心を全く動かさずにいられるタイプの人間なのだ、と。
ゼドと言っても、俺やアダスとは対極に位置する存在。
胸の奥に冷たさが広がっていく。
断言できる。こいつがゼドの中で一番やばい。
「アキラくん!」
「ああ、言われるまでも無い!」
召集された『マレブランケ』がセロナの周囲を取り囲む。
近場にいたグレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァといった主力が真っ先に集まり、即座に呪術発動の準備を済ませていた。
剣呑な雰囲気の中で、セロナは全く動じることが無かった。
「紀神ルウテトを退けたことで、氷槍の存在は明らかになりました。本来の世界軸である第八世界槍との接続は強まり、『生ける森』の抵抗は激化するでしょう」
「だから何? あなたを放置する理由にはならないよ」
「これまで『上』と『下』が第五階層の状況を静観し、休戦ごっこをしていたのは紀神ルウテトを警戒していたからという理由以上に、『過去』の異界と戦っていたからです。今回の異変で第五階層だけではなく、各階層の『緑』が本格的に目覚め始めます。第八世界槍ティルブ=ユグドラシルの再生を目指して、ね」
俺たちは言葉に詰まった。
セロナの言うとおり、ティリビナ人たちが団結し、侵略者たちへの抵抗運動や独立を求めて動き始めていることは確かだったから。
問題は――どう考えてもこの地の正統な住人は彼らだということ。
言うまでも無く、彼らが解放を求めている『侵略者』とは俺たちを含めた全ての勢力のことだ。新しく到来した『春』が誰のものなのか――俺たちはその答えから目を逸らすことができない。
「アダスは少し不満そうですが、最初から僕とレナリアはあなたとやりあうつもりはありませんよ。僕たち総体にとっての目的は果たしました。アダスを慕う『盗賊団』――探索者たちは僕にとっても上客だ。第五階層との関係は保ちたい」
「それでこちらが納得すると?」
「杖の魔女は賢明な判断を下すでしょう。これから先の戦い、とりわけ第八階層に挑む際には僕の力が――『ガリヨンテの使徒』の助力が必要になる。当然、『レルプレア教団』の教主オファグリートとはいずれ接触するつもりなのでしょう?」
「否定はしない。けどそれは自力でどうにでもなる問題だよ」
「凍結状態にあるアルメ=アーニスタの前世体――あれを仇敵であるティリビナ人と巨人は血眼になって探していますが、僕はその所在を掴んでいます」
瞬間、トリシューラの表情が硬直した。
二人の会話に出てきた耳慣れない言葉――それは俺が知らない第八階層の情勢に関わる問題なのだろうが、コルセスカの使い魔であるアルマに関係したこととなれば俺も無関心ではいられない。ここにはいないコルセスカはなおさらだろう。
セロナは情報に食い付いてきた俺たちの様子を確認して満足そうに微笑んだが、さすがに即座に餌を与えるような真似はしなかった。
「ただ、少々面倒なことになっていまして――まあ詳細はまたいずれ。どうでしょうね、僕がわりと貴重な情報源に見えてきたんじゃありませんか? 今はまだ仲良くしておくのがお互いにとって得策なんじゃないかな」
セロナはあくまでも敵対する気が無いと言っているが、そんなのはゼドだって同じだったはずだ。正直に言えば、何度か共闘した奴に対して多少の仲間意識が無かったと言えば嘘になる。
信用は全くできない。
だが、最も大きなティリビナ人コミュニティが存在する第八階層と深い繋がりを持ち、ティリビナ人たちの事情に通じたセロナ・ハーヴェストの助力は喉から手が出るほどに欲しいものだ。特に今は、切実に。
ヘリシューラは重々しい口調でセロナに問いかける。
「確認しておくけど。貴方のその動きは魔将マーネロアの差し金なわけ?」
「ウーコンさんとは、ごく個人的な友人というだけですよ」
部分的な否定を含んだ肯定の言葉――恐らく魔将や下方勢力との直接的な繋がりは無いというニュアンスなのだろう。隣に立つトリシューラから、警戒を解かず、しかし決定的な判断を保留にするというメッセージを受け取った。俺にとってゼドが敵であることは変わらないが、今はまだ手を出すべきではないとトリシューラが言うのならそれに従うまでだ。憎悪も敵意も、必要な時に解放すればそれでいい。
「ふふ、どうやら方針は決まったようですね。それでは、今後と――」
セロナの発言が強制中断され、その微笑みが衝撃で歪んでいく。めり込んだ拳が捻りを加えながら青年を仰け反らせ、そのまま吹っ飛ばした。おいおい、せっかくこっちが忸怩たる思いで手出しするのを我慢していたっていうのに、誰だよ先走った阿呆は――と思っていたら、セロナをぶん殴ったのは俺だった。球体ドローンから唐突に生えてきた左腕が勝手に動いていたのだ。
「ふふん、余裕ぶった態度でちゃっかり『第五階層の住人』扱いされようなど百年早いです! 商人であるあなたの狙いはおおかたメートリアンたちの『
こんなにやかましい奴だっけこいつ。
というか遂に無機物にまで生えて来やがった、まじで手に負えない。ヘリシューラがこの器を放棄するようにと叫んでいるが、俺は即断できなかった。というのは、こんな無機物タイプの器にも生えてくるとなるともう逃げ場になりそうな器がありそうに無いことがまずひとつ。
そして更なる問題は、俺が器に宿らず概念的存在として実体世界から離れた場合、第五階層の『左』と認識された方位から巨大な『左腕』が出現するという最悪のケースがあり得ることだ。
あるいは『第五階層の登録済み住人』すべてを俺と認識してありとあらゆる人々の左腕にディスペータが現れる、なんてパターンだったら更に最悪だ。
そんなことになるくらいなら、俺が耐えた方がまだ低リスクと言えるのだ。
現れただけでその場にいた全員の表情を引き攣らせたディスペータは、ルバーブとオルヴァに「元気してましたー?」とにこやかに手を振っていた。正気か。
「ぐ、あなたは、『死人の森の女王』――? 何故そんな姿に、一体これは」
予期せぬ暴力に驚いているセロナに、ディスペータが追い打ちをかける。
「はい黙る。そして傾聴。『生死の誓言』よ刃を研げ。『信仰』の祭司、『誓約』の裁定者、『豊穣』の神官が種を貸し付けを許す――子々孫々、流転する来世、暗き死後の地中までも抵当に定め、未来永劫に奴隷の運命を言祝がん」
ぎょっとするような詠唱だった。ヘリシューラが瞬時に呪文の意味を解説してくれたのだ――それは、古代の経済における信用取引について定めた法。過大な債務によって奴隷を誕生させ、身分制度を固定化して『王の権力』を肥大化させるための呪文。死後や来世での取り立てを前提とした『絶対遵守』の法であるため過去の商人たちはその誘惑に抗えなかったのだとか。『死人の森』はそうやって栄えてきたという歴史的な事実があるらしい。
ディスペータの『絶対遵守』の権能は王国の法にまつわるものだが、とりわけ『富』、すなわち古代においては『信用』を扱う権力だったようだ。
この世界において『呪的権威』『個人の信用』『存在の強度』『承認』『名声』などの形の無いものは交換可能な呪的価値だ。
神の名において発生した債権と債務を相殺して決済に至るまでの流れは石板や賢いまじない使いの保証という名の『帳簿』につけられ、『呪い』による拘束力がリスクを低減させる――貝殻による貨幣経済に先立つ呪術信用経済は、優れた呪術師を多く保有しているほど潤うことになる。
『死人の森』が有する歴史と権威はそれ自体が富の源泉なのだ――セロナやトリシューラはそれを理解した上で『死人の森』を欲したのだろう。
その呪力が、いまセロナに牙を剥いていた。
俺の左手でディスペータの瞳が淡く輝く。邪視、いや灰の色号と言うべきか。
ディスペータの強制誓約呪文と対商人に特化した史実参照の誘惑呪文の連続詠唱に対し、セロナは瞬時に対抗呪文を組み上げて発動。それをディスペータは一睨みで打ち消したのである。それも、わずかに時間を遡って。
「稚拙な対抗呪文。打ち消しに対する私の打ち消しに応じたカウンターを用意しておくこともできないとは、死神が聞いて呆れます。私の最も優秀な教え子は、この程度なら片手で解体し、一言で誓約破棄できますよ」
呪文発動の時系列に割り込みをかける灰の色号は呪文の打ち消し合戦において最も有利な呪術系統である――そんな知識を披露してきたのは、俺の視界の左側にいつの間にか現れていた小さな二頭身キャラクターだ。
右端のちびシューラが俺と一緒に愕然としている。
いやまさか、左腕だけじゃなくこんなところにまで。
「ちびルウですよー」などと言いながら、デフォルメされた冥府の女神が俺とちびシューラの世界に入り込んできていた。
一方、実世界では左腕が楽しそうに言葉を連ねていく。
「大丈夫大丈夫、第五階層が成功して立派になったらちゃんと利子つけて払いますから、死の取り立てと紀元槍の架空帳簿に誓って取りっぱぐれはありませんから、ほーら売上だけが上がっていくー♪ 一億年後が楽しみですねー」
「悪魔! 邪神! 無法者! こんな契約は無効だ!」
「馬鹿ですかあなたは。王か祭司か村の長――立会人が取り持った契約は王国の法に守られた絶対遵守の約束。しかしそれを担保するのは神の権威、神の力です。つまり契約の事実もあなたたちの生殺与奪も王による踏み倒しもこの私の匙加減ひとつ、ということです。処刑しますよ?」
古代の野蛮人かよ。
信用も法も失われてそうな最悪の言動をするディスペータだが、王が商人に対する借金踏み倒しとしてはありふれているといえばありふれている。
ディスペータはその辺を踏まえた上であえて邪悪な言動をしているのだろうし、実際は紀神としての権能を振るう以上、本質から逸脱することはできないはず。
恐らくだが、これはディスペータによる俺たちへの支援呪術だ。
資産も信用もボロボロな俺たちの王国がセロナに支払い可能なほど繁栄しなくてはならない、という誓約。
絶対遵守の呪力が働く以上、俺たちはもはや成功するしかない。
呪的な補正がかかるとすればこの契約は双方にとって都合がいい。
その事に気付いたのか、セロナの眼の色が変わる。
いや、『誘惑』されたのかもしれない。こいつも死神ゼドが内包する紀神ではあるが、同時に『豊穣』を運ぶ商人でもあるのだ。
俺の左腕に新たに宿った力――ディスペータの権能は、紀神にすら通用する。
「どうですか? 流石はディスペータ、とか褒めてもいいですよ? 私さえいればもう安心、にこにこアキラ様を騙そうとする死の商人や、ゆるふわアキラ様を誘惑する毒蛾みたいな概念店員には二度と大きな顔をさせませんからね!」
ふんすふんす、と鼻息荒く仰け反るちびルウと、何故か「しゅっしゅ」とか言いながらシャドウボクシングを始める左腕。周囲の視線が恥ずかしい。ちびシューラがちびルウに殴りかかるも、ちびルウは短い手によるぐるぐるパンチを全てかわして鋭いカウンターを放つ。ちびシューラが吹っ飛ばされてダウン、テンカウント後も立ち上がれない。なんだこいつ強すぎる。
「あっ、ところでアキラ様、慌ただしかった上にアキラ様が逃げ回るので周囲への挨拶が全く出来ていません! 久しぶりに教え子たちともお話したいですし、オルヴァやルバーブとも今後の話をしておきたいですね。いずれは私と六王みんなでアキラ様の中に包括されるのが理想ですが、パーンあたりは嫌がるかしら? そのあたり、どう見ますかオルヴァ?」
セロナ包囲のために集まったが役割を失って立ち尽くしていたオルヴァに話しかけるディスペータ。そこには気安さしかない。王権を巡る叛逆など茶番だったとでも言わんばかりである。この女神、本気で六王を可愛らしいペットか何かだとでも思っているんじゃないだろうな。
「――おお我が麗しの女神よ、終端は遙かに遠く、終わらぬ遊戯もまたいずれはブレイスヴァの貪りからは逃れられぬであろう」
「そうですか、それならしばらく楽しく遊べそうですね。ルバーブも、変わりなくオルヴァと仲良しみたいで良かったです。頑張って一緒にマラードを取り返しましょうね。レッテの存在さえ否定しなければ、ラプンシエルたちとも上手く付き合えるでしょうから、当分は『使い魔の座』との協力態勢を維持しましょう」
「――恐れ多くも偉大なる死の女王よ。いや、今はディスペータ殿とお呼びした方が良いだろうか。ディスペータ殿はもう少々、なんというべきか――」
「あ、人の気持ちなら分かった上で無視していじめるので諫言は結構です!」
苦言を呈するルバーブに、軽やかに言い放つディスペータ。
流石は戦闘決着の直後、遭遇したクレイに「はーいママですよーイメチェンしたんですけど似合います? そしてこのアキラ様が新しいパパ! 左腕ママと一体である身体パパなので、アンドロギュヌス的な『親』を持つクレイはもう母や父には縛られません! おめでとう、ありがとう、巣立ちの日です良かったですね!」などと言い放ち虚脱状態にさせただけはある。
お前分かってんのかクレイに消えない傷を刻み過ぎだぞ。旅に出ようとしたクレイをコルセスカがどんなに苦労して止めたことか。そしてそのコルセスカすら最近は現実逃避気味ですっかり引きこもってしまっている始末だ。
今まで俺はトリシューラのことをさんざん性格が悪いと扱き下ろしてきたが、実はトリシューラは可愛げの塊だったと今なら言える。
性格が悪い、とはこういう邪悪な奴のことを指すのだ。
グレンデルヒを完全に無視しているあたりもこう、何と言うか。
「ディスペータ。せめて普段はもう少し大人しくしていることは出来ないか?」
有効な封印手段も無い現状、せめてウィッチオーダーの別形態を使用できるように交渉してみるのが最適解か――そう思って話しかけてはみたものの、ディスペータの反応は鈍い。というか、こいつは俺の言う事を基本的に聞かない。
――どうして私が、たかがトロフィーの意を汲んでやらねばならぬのでしょう。
彼女は俺を愛している。
自分自身の、拡張身体として。
クレイのように、六王のように、何も望まない、何も期待しない、矮小な存在として――いや、本当にそうか? 彼女はクレイを諦めているようで、実際には期待をかけてはいなかったか。ならば六王や俺に対しても――。
「私も、あなたの拡張身体なのですよ」
どこか寂しそうに、俺にだけ聞こえる声でディスペータが囁く。
俺の義肢、俺の左腕。
俺が最も頼みとする道具――その在り方が、彼女の本当の望みだったのか?
ゼドが俺に求めたような、強引で性急な融合で反感を買ってでも得たかった立場がこれだというのだろうか。
俺はルウテトのクレイに対する態度を非難した。
親が子供を拡張身体として扱い、自分の理想を代行させるための道具として扱う傲慢、家族として振るわれる権力を間違っていると糾弾した。
それは、俺自身が第五階層を拡張身体としているから――共同体そのものが俺を構成するならば、ルウテト的な思想は権力の暴走を招く。俺の手足である第五階層の住人には何をしてもいいという思想がそれだ。例えば独立を求めて抵抗運動をするティリビナ人たちを強制的に従わせるなんてことを俺が実行したらどうなる?
それがサイバーカラテによる暴力の濫用に繋がるとすれば、俺はそう在ってはならない。それは小鬼への道、義にもとる振る舞いだからだ。それはレオのような正しさから最も遠い在り方だ。俺はレオにはなれないが、彼だけに正しさを押し付けてはならないと思っている。プーハニアを救えず、ティリビナ人たちと対峙できない俺は、せめてレオのような正しさの欠片から自らに可能な『最適』を模索し続けなければならない。天才でも達人でもない凡人による答えの追究――それがサイバーカラテの紀人である俺がとるべき態度だ。
ならば、俺のルウテト=ディスペータに対する態度はどうだ?
強引に俺の一部となったとはいえ、既に彼女を切り離すことはできない。
俺に従属する道具であるディスペータに、俺は本体として権力を振るうことができる。彼女は俺が本気で求めればその指示に従って左腕として働くだろう。
制御はすべきだ。俺の左腕は危険な暴力なのだから。
ディスペータは俺の力であり、罪でもある。彼女は俺が罪を犯すことを赦すだろうが、それは俺にとって苦悩の始まりとなるだろう。
彼女は俺を愛している。
俺が罪に怯え、悩み、苦しみ――カインを殺したその瞬間、罪悪感を誤魔化す罪悪感に耐えきれず『E-E』を遮断した弱さを肯定している。
この苦痛と懊悩こそが彼女の望み。
熱病のような加虐、拡散し変容していく俺を俺のまま繋ぎ止めたいという恋が彼女の最初の願い。そしてその願いは、確かに果たされていた。
シナモリアキラとは何か?
その問いの答えこそが、今ここに在る俺たちだ。
――どうか信じて欲しいのです。私は、アキラ様の愛する人の敵かもしれないけれど――けっして、あなたの敵ではありません。それだけは、覚えておいて。
多くを望んだわけではない。
彼女は、ただ俺の心を傷つけたかっただけだ。
痛みと苦しみ、その反射こそが美しい。
世界への反射こそが心の輪郭を形作るのだと、そう信じていただけ。
俺は途轍もなく大きな力を抱え込んでしまった。
グレンデルヒ、ルバーブ、オルヴァ、ラプンシエル、そしてディスペータ。
トリシューラが『女王としての器』を証明したように、俺もまた紀人として自分を律し続けなければいずれ小鬼に堕ちるか邪神と成り果てる。
六王との戦いで直面した権力の悪性――その力は至る所に存在している。
国家をはじめとした共同体、師弟関係から学校まで、更には生命が最初に直面する権力の場としての家族、人と物、創造主と被造物、ありとあらゆる権力関係。
「ディスペータ、俺は」
言葉を遮るように、ちびルウが唇の前で指を立てた。
それから物理的な左手が動き、指先が球体ドローンの上方を軽く叩く。
彼女は俺に言葉を期待していない。
俺に出来るのは、多分これからも行動で示すことだけだ。
そして答えはそこにしかない。
左手が反転し、手の甲が視界に現れた。
死者の顔が露わとなり、深い闇をたたえた口が一方通行の愛を囁き続ける。
「安心して下さいね、アキラ様。第五階層に害をなす全てから、私はあなたを守ってみせる――ラクルラール、未完成の女神。あれは私が必ず否定します」
『死人の森』を巡る戦いはひとまずの決着を見た。
しかし、本質的には何も終わってなどいないのだ。
ルウテトは転生して左腕のディスペータとなり、未だに『第一位』とされるラクルラールが何者だったのかは明らかになっていない。
最大の脅威、最大の敵、最大の味方――全ては曖昧なまま、『今はまだ』とばかりに結論を先送りにされていく。
女神たちのゲームは、まだ始まったばかりだ。
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