4-224 終節:窮『Put My Finger Only On Your Cheek』④




 あーもう気持ち悪い。

 これだけ言わせて。私はシナモリアキラが嫌いなの。敗者となったからには従属するけど、不用意に近付くと引っ掻くわよ。あと生理的に無理で不快だから戦闘時以外は同期しないで。覗きとセクハラで訴えてやるからね。父親面も絶対やめて。

 私は産声より先に文句を口に出すと、再構成されていく自分自身を認識して安堵の吐息を漏らした。暗い川の水が押し退けられて、私に相応しい空間が『創造クラフト』されていく。建造物は広がり、縦に縦にと伸びていった。


 私は塔の中にいる。生まれた瞬間には既にそうだった。

 名前は変容している。自己は変革されている。

 気がついた時、私は生まれ変わっていた。

 アマランサスの名は二番目に下り、最初の神名にラプンシエルが追加される。


 自分で提案した作戦ながら、これほど上手くいくとは思わなかった。

 視界の隅でマゼシューラがぱちぱちと拍手をしている。

 完璧だ。私は完全な形で女神になっていた。

 ある意味では、末妹選定の候補者たちが目指す究極のゴール。


 レッテを差し置いて正式な姉妹に昇格するなんて――という思いもある。

 上位神格に匹敵する九姉ではなく、結界の六十二妹ではあるけれど、それでも低位から中位紀人程度の神格ではある。私の呪力じゃせいぜい女神見習いだけど、新参紀人のシナモリアキラと同等かそれ以上の『格』を有していた。


 元々この席にはレッテが内定済みだった。最も優秀なトリシルシリーズである彼女は、形の無い伝承タイプの姉妹・五十三番の器として姉妹の継承者になれるはずだったのだ。結局はラクルラールの意向で末妹選定の駒にされてしまったけど、レッテの一部であった私にも姉妹継承の資格はあるというわけだ。


 トリシルシリーズをはじめとした末妹候補たちはみな、『未知なる末妹』という最後の女神に到達可能なポテンシャルを有している。ルウテトという可能性が示す通り、道は『末妹』以外にも開かれているのだ。本来の目的からは逸れるが――それもまた道。独り舞台でない限り、主役以外が活躍する瞬間が必ず訪れる。


 とっておきの座ではないけれど、そこから脱落した魔女たちが再起をかけて目指すこともある『空きポスト』。

 主役になれないからと主役以外の役を狙うなんて、敗北主義者と笑われる?

 それとも、どんな形であれ勝ちに拘る負けず嫌いと嘲られる?


 どっちでもいいか、そんなの適当で。

 視界隅でにこにこ笑うマゼシューラは満足げだ。

 赤と青の小さな妖精が仕掛けたこの一手は私を支配の糸から自由にしたが、それと同時により致命的な運命の中に叩き落とした。

 これでもう、私は『キュトスの姉妹』という不死の宿命から逃げられない。

 永遠にこの諦めを背負い続けるのだ。あーあ。


 思考を、情動からゆっくりと引き剥がす。

 深く息を吸い、断続的に出し続ける呼吸法――人形としての性質を持ちつつも、女神でもある私はサイバーカラテの手法を用いてこんなことができる。

 今は深く考えない。彼女は私をあえて手放した――その恐怖を分離して、目の前の脅威に対応する。私は塔の『創造クラフト』を実行し続けた。


 転生形式は『ラプンツェル』――塔の上に閉じ込められた、長い髪のお姫様。

 シナモリアキラは伝承と神話を異世界から転生させた。

 基幹参照世界から、私という人形におあつらえ向きの神話を召喚したのだ。

 ――厳密に言えば、ぴったりあつらえてあったのは私の方なんだけど。

 マゼシューラは静かに、と指示するように人差し指を唇に当てていた。


 キュトスの姉妹流に翻訳された名は変形した愛称で『ラプンシエル』。

 正式にはラプンツェル・ペトロシネッラ・ヘルズラダーと三つに連なる記号の羅列が私にとってのまことの名だ。

 その性質は黄泉戸喫ヨモツヘグイの母子感染。異界のノヂシャを食べたがために、子供に魔女=小女神の因果を背負わせる物語。

 野萵苣ラプンツェルの名を参照した場合は出産=生の性質を表出させ、香芹パセリの名を参照した場合堕胎=死の性質を表出させるが、どちらも生と死を孕む子宮、すなわち神の家である塔=異界を象徴している。

 

 ルウテトとの決戦の際にミヒトネッセが盗み出し、私が喰らった『何か』。

 あれはルウテトの不死性を具現化した冥界の果実であり、この場合はノヂシャに当て嵌められるものだが――実際の所、彼女は何も盗み出せてなどいない。女神から不死性のみを抽出することなど超高位の言語魔術師でも困難だし、そんな余裕も技術もミヒトネッセは持ち合わせていなかった。


 あれは小道具を使って『何かを盗み出した』ということを示しただけだ。

 演技と類似、見立てさえあれば舞台の上では儀式が成立する。

 私が取り込んだのは彼女が元々持っていた『氷球』。幻像を纏わせて冥界の食べ物に偽装しただけで、私も実際には食べる演技をしただけだ。

 『氷球』は適当に川に捨てておいたけど、まあコルセスカあたりが遠隔操作で回収したんじゃない? 多分だけど。


 冥界の女神から簒奪した不死性の呪力。それが私を小女神たらしめている。

 私はステュクスというルウテトの浄界から呪力を簒奪して、自分の浄界を構成する塔のリソースに変換していく。

 言うなれば私はルウテトの雄しべから花粉を運んできたミヒトネッセ蜂によってシナモリアキラの雌しべで受粉した――いやこの喩え分かりづらい!

 要は系譜としてルウテトの娘神とも言える存在。

 冥府の力、ルウテトの力を奪うことにかけて、私の右に出る者はいないのだ。


 水面を割って、長大な塔が飛び出して行く。

 私にとって塔は肉体に等しい。

 感覚器としての塔の外壁が戦場となった世界を認識する。

 突如として出現した『私』という巨大な構造物に誰もが驚愕しているが、驚いているうちに奇襲を成功させねばならない。


 すかさずルウテトが自らの支配下にある三柱の神に指示を出し、紀神を物質的化身として再解釈した怪物的な使い魔をけしかけてくる。

 恐るべき魔女の追っ手が天に挑まんと積み上げられていく愚者の塔に迫る。

 私は逃げた。ただ逃げるだけでは追いつかれてしまうので、ここはミヒトネッセに倣うとしよう。私は髪の毛の一部を変形させて、全てを呑み込んでしまいそうな巨大なあぎとを形作った。大きな口を『門』であり『冥道』だ。

 ルウテトの呪力を盗んで生み出した空間を歪める回廊。

 そこから私の呪的逃走に必要な力が飛び出してくる。


「悪いけど、子供は神の捧げ物なんて時代はとっくに終わってるの!」


 冥界から押し寄せるおぞましい怪物たちから、私は千切った髪を囮にして逃げていく。最初に『扉』となった髪から飛び出したアルマとサリアがハザーリャ神を足止めする。続いてイツノと蠍尾マラコーダが出てきてアエルガ=ミクニー神を食い止める。最後に現れたメートリアンたち『空組』がペレケテンヌル神に手痛い一撃を喰らわせて、機械の神のカメラアイから潤滑涙が零れて落ちた。


 時間稼ぎは十分。私は塔を『創造クラフト』して空へと向かう。

 やがて天へと突き進む塔はまるで槍のような勢いで逆さまの大樹を迎え撃った。

 ルウテトが第五階層に届かせようとしている世界樹を、この塔で破壊する。

 できるはずだ。異界伝承を直接参照した塔の髪長姫としての権能を解放すれば、生命を司る大樹を冥府の呪いで相殺できるはず。


 私は塔の頂上に飛び出すと、長く伸び続けるフクシャの髪の毛を縄のようにして放り投げた。放物線を描く髪の毛は私の意のままに動く拡張身体。

 けれど私がを伸ばすのは地面じゃ無い。

 あいにくと王子様のために髪を梯子にするなんて私の趣味には合わないから。

 長く伸び上がっていく髪が目指すのは、高い空の向こう。


 髪と共に塔もまた伸び上がっていく。

 屹立する心の表象に、私は呪力の全てを注ぎ込んだ。

 そして、構築し続けていた最上級呪術の維持を解除する――前世では実力が足りずに使えなかったこんな力も、今の私なら使いこなせる!

 オルゴーの滅びの呪文――またの名を人工紀竜オルガンローデ。

 女神流にアレンジした、私だけの極大呪文だ。


「天を喰らえ、塔竜グレイシス=バーガンディア!」


 胸の中で、心臓がどくんと脈打つ。

 魔眼竜の瞳が、まなざしの力を髪の一本一本にまで浸透させていく。

 私の髪が広がって巨大な竜の頭部になり、胴体部分の塔と接続。

 逆さまの森から迫り来る大樹、それを迎え撃つ長大な塔竜。

 天から落ちてくる莫大な命のエネルギーを、私は冥府の呪いで受け止めた。

 生命の力、そのなんと重いことか。

 髪が千切れて頭が砕けそう。

 塔を含めた全身がぺしゃんこに潰れていないのは奇跡としか思えない。


「う、う、うう」


 重い重い重い、ていうかこれすっごく毛根に悪い、禿げたらどうしよ。

 あ、だめ挫けそう。諦めていいかな。

 遠くからシナモリアキラの励ましが聞こえてくるけど、一番やる気を削ぐ声援だから引っ込んでて欲しい。え、何? 約束を守る粘り強い性格が私の名が持つ呪力――これも適当な与太の参照? ていうか誰が決めたのこれ。


 やっぱり女神見習いじゃこれが限界――そんな弱音を吐きそうになった時、遙かな下方から威勢のいい呪力が立ち上ってきた。

 長大な書槍銃を手にした魔女は、強気な表情で赤毛のお下げを揺らす。

 世界樹に照準を合わせ、『知識』の断章から呪力を引き出している。


「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒!」


 女王の名に於いて叙任の儀式が執り行われようとしていた。

 機械女王の使い魔として、私を位置付け、支配し、強化しようというのだ。


「鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『雷喰らいグラッフィアカーネ』――天威に爪立てる塔なる竜!」


 トリシューラの詠唱と銃撃により、赤い呪力が打ち上げられる。

 仰々しい名は前任者の雷獣レミルスを上書きするという意図か、女神ルウテトから権能を奪い、歯向かう邪竜という役割を期待してのものか。

 まあいいや、そんなのどうでも。

 機械女王の呪力が私を取り囲み、正式な使い魔として取り込もうとしてくるが、なんかこう、すごく嫌。あいつの支配下に置かれることへの抵抗感が拭えないし、グレンデルヒみたいに上手に躱しておこうかな。

 私は竜に擬えた髪の一房を身代わりに差し出して、トリシューラが私を支配したと思い込むように仕向けた。その気になればいつでも切り離せるが、髪は髪で私の一部だから彼女に従っているのも嘘じゃない。


 トリシューラのバックアップを受けた私の髪が鮮血に染まっていく。

 鮮やかな赤みを帯びた竜のあぎとが天なる力を零落させ、ただの巨大な樹木に貶めて破壊する。噛み砕かれた大樹はばらばらになり、大地への侵攻を瀬戸際で食い止めることに成功する。天に噛み付いたグレイシスが、咆哮を轟かせた。


 私の勝利に呼応するように、戦場で次々と勝利が連鎖する。

 メートリアンらが機械紀神ペレケテンヌルを、蠍尾マラコーダらが妖精紀神アエルガ=ミクニーを、サリアとアルマが永眠紀神ハザーリャを、化身としての形を破壊して、別の次元に叩き返していく。


 流れが変わっていく。

 不意に、勝ちに近付いているという感覚に水を差すような寒気が背筋を撫でる。

 恐るべき『盗み』の気配を、私は目ざとく感知していた。

 振り向きざまに髪の毛で薙ぎ払う。

 塔の頂上に傷痕が刻まれ、そこから一歩下がった位置に無音で立つ不気味な男。

 完全に気配を消していつの間にか塔内に侵入していた盗賊王ゼドは、私の姿を舐め回すように見ていた。この嫌悪感――シナモリアキラと同質のもの!


「死ね!」


 使い魔グレイシスに命令を下し、髪が牙を剥いてゼドに襲いかかる。

 ゼドは骨犬を象った強化外骨格でそれを軽々と受け止め、にやりと笑った。


「素晴らしい。女神を孕み、転生させるだと? その発想は無かった、最高だ、やはりお前は俺のものになるべき宝だ。欲しい、よこせ、価値ある財は盗賊に奪われてこそ意味がある」


 涎を垂らさんばかりの興奮。フルフェイスの兜の内側で、バイザーごしの目は血走り歯は獣のような牙に変形している。

 ゼドの視線は、私の腹部を貫くような鋭さだった。

 生理的嫌悪感以上に、身の危険を感じた。


「アキラ、俺を喰ってその胎から産め。ああ、逆でもいいぞ。俺がお前を喰い、殺し、犯し、孕み、生み出す! いっそ交互にやろう、延々と生と死を循環させ転生神としての強度を際限なく高めるんだ、俺がお前のパパで、お前が俺のママだ!」


 私は、シナモリアキラの『E-E』という感情制御アプリに深い感謝を捧げた。

 いま確信したけど、これ絶対世の中に必要なツールだ。

 本当に危なかった。

 『E-E』が無ければ気持ち悪過ぎて即死だった。


 私はこれまでで最もおぞましい怪物に対抗すべく、冷静に武力を準備した。

 想像する――私にとって必要な力を。

 私の手に最も馴染む最適な助け。

 シナモリアキラを象徴する左右の義肢――私は機械と氷ではなく、可愛らしいお人形を頼りになる友として定義した。


 『創造クラフト』――人形義肢ベルグ・ベアリスとガルラ・クオール。

 ファンシーなグローブパペット、その姿は勇気ある騎士と、賢い魔法使い。

 私は右手の二頭身のパペットを前に突き出した。

 人形たちは私のお友達。

 自ら意思を持ち、私のためにお話をしてくれる。


「ベルグくんと!」「ガルラくんの!」「なげやり人形劇がはっじまっるよー! わーわー! どんどんぱふぱふー!」


 レッテだけの空想的な友達は、幽閉の退屈を紛らわすために読み耽った古い伝承をヒントにして創り出された。ただのクランテルトハランスとひと味違うのは、人形師でもある私は幻想を確かな形にできるところ。

 物理的クランテルトハランス――それが人形のお友達だ。


「出でよ、忘却の魔王騎士ベルグくん!」


 古代ラフディを脅かした古今無双の妖精王の立体幻像が、私の義肢の動きと連動して目の前に立ち上がる。これは呪力を持つ幻、力あるヴィジョン。

 私が念じれば敵対者を討ち滅ぼす最強の義肢使い魔だ。

 今のベルグくんは私の手に嵌まった可愛い二頭身ではない。


 見上げるように巨大な藍色の呪動装甲リビングアーマー。巨大なピコハン『忘却オブリヴィオン』を振り回すことで人類の集合無意識にアクセスし、あらゆるものを夢の底から忘却させる。紀人であろうと容赦なく存在ごと打ち砕くその猛攻に、さしものゼドも必死で回避せざるを得ない。

 畳みかけるチャンスだ。続けて左手を突き出す。


「おいで、廃都の魔神ガルラくん!」


 祭祀政体の古代ラフディを治めていた球神官である彼は、球神ドルネスタンルフの霊媒にして陪神だ。

 朱色のローブを纏ったガルラくんの腹部が開くと、中には小さな箱庭。浄界『朱色廃園』の美しいお庭では自動機械の女の子が首のない夫や可愛い結合双生児ちゃんと暮らしているが色々あって最後には全員死ぬ。再演された悲劇の結婚が、現実の結婚に破綻を押し付けた。

 統合されていたゼド内部の多様な性質が荒れ狂い、強烈な自我が好き勝手に暴れ狂う。大量の権能を盗み溜め込んできたゼドは体内で暴走しかけている呪力を抑えようと必死だが、その隙を突いてピコハンが直撃。


 一撃、二撃と喰らわせるとゼドの装甲が砕け、勢い良く吹っ飛んでいく。

 塔の屋上をごろごろと転がっていくゼドをふたつの色号呪力が追いかけ、あぎととなって噛み砕く。必殺の念を込めて呪ったが、致命打を与えた実感は無い。

 けれど、今のゼドにとって二つの呪力はある効果をもたらした。


 彼の強靱な意志によって統御されていた女神ルウテトの呪力。

 死神という役割を与えられた彼の権能が、先ほどの攻撃で暴走しているのだ。

 荒れ狂う死の呪いがゼドの全身を蝕み、呪動装甲を突き破った真っ黒な汚泥が男の肉体を変異させていく。砕けた鎧から覗く、奇怪な形の肉塊。

 増殖しながら体積を増していく哀れな死神は、このままいけば意識を奪われてルウテトの忠実な人形と化すだろう。

 多分、ルウテトは最初からこのつもりだったのだ。

 あの女神は自分の手駒に自由意志を認めていない――叛逆する力すら持たない弱い男を、心の底から蔑んでいる。


 ルウテトの呪いに思考を蝕まれていくゼドが、苦しそうに呻く。

 嫌悪感しか湧かない相手だったが、こうなると哀れなものだった。

 嘆くように、もう判別がつかない盗賊王の顔あたりから潰れた音が響く。


「ああ――ルウテトの支配が俺を染め上げていく。消えるのか、俺は、こんな」


 嫌だ、嫌だなあとすすり泣きが聞こえる。

 存在の消滅を待つばかりの半死人は、怯えに満ちた声で続けた。

 それは切実な、命の危機に瀕した者にしか出せない本物の懇願だった。


「頼む、殺してくれ。俺が俺のままでいられるうちに。とても苦しいんだ。このまま紀神に喰われて自由意思の無い道具に成り下がるのは嫌だ」


 私は、自分の後ろで憎悪が燃えさかる音を確かに聞いた。

 制御して打ち消してもなお高まる怒りの熱。

 シナモリアキラにとって、ゼドという男は最悪の敵なのだと理解する。

 よりにもよって、この男は。

 シナモリアキラに歯があれば噛み砕いていただろう。

 邪視に破壊力があれば視線で殺していたはずだ。

 ゼド、ゼド、ゼド。厚かましくも哀れを誘おうとするその作り込まれた表情が心底気持ち悪い。こいつは全てを理解した上でこの台詞を言ったのだ。


「そう。あなた、最初からシナモリアキラに解放させるつもりでルウテトの下僕に成り下がったんだ? 死神の権能だけを手にして逃げるために」


 実際に存在消滅の危機に瀕してシナモリアキラにその罪を突きつけるためだけに、このシチュエーションを演出するためだけに、ここまで辿り着いた。

 滅びを恐れていないのか、それほどまでにシナモリアキラに執着しているのか。いずれにせよ異常な執念だ。こいつはシナモリアキラが絶対に自分を『介錯』しないと踏んでいる。だがルウテトの死神を排除する必要はあるから――


「ベルグくん、『忘却』させて」


 ルウテトの呪力に対して耐性を持つ私は、巨大なハンマーの一振りで女神の支配力だけを取り除いた。黒々とした汚泥が消滅し、中から傷付いたゼドが現れる。

 流石の盗賊王も消滅寸前だったが、その表情は余裕に満ちていた。

 この男はここからでも逃げおおせるのだろう。

 呪的逃走の逸話を持つ私は、逃げる力ではこの盗賊に敵わないことが理解できていた。ここにいるのは既にゼドの残滓でしかない。彼は自分の影を経由してとっくにステュクスの外部に移動している。


「また会おう。次は逃げずにちゃんと殺してくれよ」


 ア、キ、ラ、と一音ずつ区切って言うと、盗賊王の姿は霞のように消え去った。

 強敵を撃退したというのに、私の心は晴れなかった。

 シナモリアキラは、きっと奴を殺せないだろう。

 いや、というよりも。

 あの男だけは、決して殺してはならないのだ。

 その価値を認めてしまったら、彼は。

 『殺し屋』同士の対決はひとまずの終わりを見せた。

 胸の奥にこびり付くような、不快な呪いを残して。



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