4-222 終節:窮『Put My Finger Only On Your Cheek』②
揺らぎの中にいる。
まずはじめに、その確信があった。
そこは誰かの意識の底。
闇に包まれた内面世界。
無限に広がる虚空のどこかから、ゆっくりと振動が近付いてくる。
懐かしさを伴った気配に引き摺られて、心地良い目覚めが身体を包む。
遠くから響いてくるのは叱りつけるような、それでいて激励するような声だ。
「いつまで寝ているのです、この軟弱者! それでも『黄金』位の高みに到達した舞い手ですか。しっかりなさい!」
世界の主は、呼び声に規定されるようにして空間に出現した。
気が付けば果ての無い闇の中、どうしてか目の前の人物だけがはっきりとした像を結んでいる。瞑目した少女は羊飼いの服装で、穏やかながらも苛烈な表情で叱咤を続けている。息を呑む。少しして、鮮烈な輝きと共にあったファウナの名を震える声で口にした。盲目の黄金アイドルは、眉を少しだけ下げて言った。
「ここでは師匠とお呼びなさい。私は黄金の継承と共に沈黙したファウナではなく、その残響。その未熟な精神を叩き直すために生じたあなた自身の内側にある闘志の具現なのですから。ご覧なさい、そこの彼も似たような存在ですよ」
ファウナの言葉によって、意識がもう一人の存在に焦点を合わせる。
彼とは言うが、そこにいたのは外見から性別を断定し難い印象の人物だった。
学院の男子制服――舞台衣裳だが――を着ていることから男性と言われればそのように見えるが、実は男装した女性と言われれば納得してしまいそうにもなる。そればかりか『そこに確かにいる』という存在感すら揺らいでいるような、奇妙な気配の薄さも感じられた。トレミー、とおぼろげに記憶している名を口にした。
「俺がちゃんと見えてるね? なら良し、まだ戦える」
満足げに微笑む、誰かの瞳の内側にしか存在できない架空の友人。
トレミーを名乗る人物は人差し指を突き出して、何かを明確にしようとする。
指差された――そんな認識が、曖昧な意識の中に『自己』を立ち上げていった。
「自分が存在の危機に瀕してるってことはわかるよな? ここは死の淵、臨死体験で垣間見る自己の内面とかあの世とこの世の境ってとこ」
「手短に済ませましょう。あなたに多くのお説教はいらない。戦う為の動機は既に設定されている。決意も勇気もあるのなら、必要なのは立ち上がる活力だけ」
トレミーとファウナは交互に言葉を紡ぎ、解けて散ってしまいそうな世界をぎりぎりのところで繋ぎ止めようとしていた。
「だけど足りない。ルウテトには自分の中にある力だけじゃ叶わないんだ」
「剣としてのクレイは、必要なら誰かを頼ることができる子よ。大魔将に対抗するためトリシューラと誓約を交わした時も、イアテムが招いた邪神と戦うためにシナモリアキラやカーインと共闘した時も。コルセスカの計画に乗ると決めた時だってそう。彼はその気になれば群舞だって上手にこなす。ええ、舞台上の『使い魔』とは他の演者と呼吸を合わせるセンスのこと。クレイにはその才能がある」
とても自慢げに弟子について熱く語るファウナ。
対照的に、トレミーは冷静で諭すように語りかけてきた。
「けど、『お前』はそうでもないよな。クルミくんはさ」
内側に遙かな銀河を宿すまなざしが、その姿を明らかにする。
指差されたものは、性別の無いまっさらな人形。
マネキン人形どころか、顔も手足も砕けて失われている剥き出しのトルソーだ。
そこに生命は無い。死すらもあらかじめ排除されている。
美しい顔は無く、しなやかな手足は無く、乳房は無く、生殖器は無く、ゆえにあらゆる欲望の可能性が生じない。
『可能性』と『性質』を排除した人形。
それが、ミヒトネッセという存在が意識の底で願う己の姿だ。
「俺たちがあんたに干渉できるのは、レイちゃんの欲望があんたに投影されたからってだけじゃない。あんたの欲望がレイちゃんに投影されたからでもある」
それはつまり、ミヒトネッセの中にもクレイがいるということだ。
舞と演技、舞台で競い合うこと、戦うこと。
舞台で、戦場で、強敵だと相手を認めてしまったら、それはもう存在の承認だ。
そこにいていいと許し合える唯一無二の関係性――。
ぞわり。トルソーが心底から嫌そうに振動して吐き捨てた。
「やめて、鳥肌立ちそう」
自己像が揺らぐ。
何も無い胴体だけの自分、そこに『嫌悪感』が生まれたのだ。
命の欲、活動する歓喜――その汗臭さをまず疎ましく思う。
剥き出しの身体に、そんな熱量は暑苦しいにも程がある。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
自分の中に誰かがいる。
誰かの中に自分がいる。
なんて素晴らしい、それが愛、それが絆、それが世界。
「いや気持ち悪いでしょ。頭ん中お花畑? 無修正の生殖器とか飽きるほど見せてやろうか、ってか花も花で良く見ればグロテスクで不気味な形してるけど」
端的に言えば――ミヒトネッセはいまいち乗り切れなかったのだ。
クレイという舞い手との共演は、彼女にとってどこか色の無い夢のよう。
命はいつだって気持ち悪かった。
それは自分も同じ。
この無機質な身体の内側にもそんな気持ち悪さがある。
認めるのはとても不愉快だけど、それこそが生きていることそのものの不気味さだと理解はしている。しているけれど。
「最悪。私が誰かに――その、リビドーしただなんて」
嫌悪の次は、羞恥が生じた。
誇り、尊厳、自尊心、そういったありもしないものが損なわれたという感覚。
無い頬を赤く染めて、呟く。
「トリシューラに尻軽だと思われるじゃない」
そして執着が形成された。
自己愛はあくまでも己の生命活動に付随する身体感覚の拡張でしかない。
トリシューラへの感情がそれだ。
「その執着は、宿命に対する反動よ。思い通りにならないという怒り」
ファウナが指差した先に、ミヒトネッセの激怒が生じた。
それは急速に育ち、憎悪のように真っ赤に染まる。
欲望と一体になった憎悪は、『あの女を思うさま私で穢したい』『私の一部、私の手足、私の装飾品、私の従属物にして屈伏させたい』などといった衝動で丁寧にデコレートされてトルソーの上に山積みされていく。
独りよがりの愛は、自由への渇望でもあった。
だってそれはどうせ届かない諦めの恋。
ミヒトネッセはガイノイド。
愛する者ではなく、愛される者なのだから。
情熱的なマウストゥマウス、息吹と融け合う『わたし』の愛を、求めて傷付く運命ならば、はじめから心など要らなかったのに。
初めて得た恋情すら宿命なら、私は従属を選ぶべきなの?
嫌だ、嫌だ、嫌だ、うんざりだ。
「欲望するのも欲望されるのも気持ち悪い。みんな死ね、いなくなれ、漂白されてしまえ。顔も手足も性差も無い無機質なトルソーになって、人類全てが綺麗な機械として踊り続けていればいいのに」
顔の無いトルソーは、わっと泣き出した。
最初から備わっていた不幸の奧から、苦しみが止め処なく溢れ出す。
誰よりも美しく舞い、命の歓びを身体表現によって演じてきたミヒトネッセにとって、身体性はそれ自体が忌まわしく感じられるものだった。
だから舞は呪いだ。
『素晴らしさ』それ自体が傷で、『美しさ』もまた苦しみ。
そんなことに、どうして必死になって取り組まなければならないの?
最低なことに、答えは自動的に浮かび上がってしまう。
だってミヒトネッセは自動的に思考する人形なのだから。
「苦しいから舞うの」
「不幸だから演じるんだ」
人形の内部に仮構された幻が答えを提示する。
それは既にミヒトネッセの中にあったもの。
言われずとも分かっている――これは意識の奧にある破壊衝動。
死ねという恨み声をステップにかえて跳ねる、死の欲動。
壊したいのは自分、それとも世界?
確かなのは、ミヒトネッセにとって舞は戦闘手段だということ。
逃れられないこの身体の気持ち悪さ。
美しく、淫猥で、異性を惹き付ける女の肢体。
全てだ。全てと戦うために、それはある。
「表現は自由だ。たとえその枠組みが狭く、演者が作り手の道具だとしても。真実は観客と表現者の視座がせめぎ合う解釈の狭間、揺らぎの中にある」
トレミーが言った。
何の慰めにもならない、空虚な言葉だった。
「照明が当てられて誰かがまなざすものを、本当の意味で知ることなどできはしないわ。できるのはただ、照らされた部分という限られた姿から空想を膨らませることだけ――表面上の理解こそがこの世界を構成する全て」
ファウナが言った。
だから何だと言うのだろう。
自分以外の誰かのまなざしなど、くだらないにも程がある。
不要な物ばかりが取り付けられたトルソーの上に、従属でも、自由でも、支配でも、愛でも、欲望でも無い、何か判別しがたいものが付け加えられる。
それは記号だった。
それは形式だった。
けれどそれだけが神にすら侵せない聖なる領域。
「表現者という特権だけが、舞台の上であなたを羽ばたかせる」
それで説得しているつもりか。
ミヒトネッセは苛立ちで全身をかきむしられたような気持ちになった。
だがそうした不快感よりも、この勢いに流されて何も言えないままでいることが心底から耐え難いという激情がわき上がる。
何かを罵倒する口も無い。敵を睨む瞳も無い。相手の誇る美に対してマウントを取れる容姿も無ければ誰かを傷つけるための手足も無い。
ああそうか、と納得する。
つまりはこれだ。
破壊のために、表現は創造される。
死ねとひとつ念じると、かつての手足が復活する。
殺してやると叫んで猛ると、美しい容姿が再現される。
生と創造はただあるがままで美しい。
だが忌まわしい死と破壊は表現によって加工されることでやっと昇華される。
美に? それとも醜に?
そんなのどうだっていい。少なくとも何らかの価値に、だ。
「死ね、気持ち悪い、最悪、このクズ、臭くて鼻が曲がりそう、視界から消えてよ目障りだから!」
生き生きとした言葉を口に出すと、ひどくすっきりした。
そしてミヒトネッセは自分の姿をふたたび確認する。
己の美しく醜い本質。多くから欲望され、多くから忌避される人形の顔。
これが私だ、と自己を捉える。
生とか死とか、どちらでもいいのだ。
衝動だ。この衝動だけをぶつけることができればいい。
舞とか、身体とか、宿命とか、自分とか、衝動に比べたら全ては些末事。
全てに先立つ自分の根源的衝動。
それを見つけた。
私は私を見つけてあげられた!
ぞくぞくとする興奮と共に、暗闇の意識が光に包まれる。
どこまでも続く輝きの世界で、トレミーとファウナの姿が薄れていく。
役目を終えた二人は、本来いるべき場所に帰っていくのだろう。
きっと誰かの内面でも、似たような役割を担っているはずだから。
トレミーが頭上を示しながら言った。
「ところで実際のクルミくんは『氷槍』で徹底的に壊されてる。冬の魔女はあんたが持ってる『氷球』を核にして『
トレミーが示す通り、ミヒトネッセの目の前に不意に現れたのは透明なライン。
氷で出来た血管のようにも見えるそれは、虚空に溶けるように消失しているがどこかに繋がって誰かの呪力を送ってきている。呪力のラインは、ミヒトネッセの首筋に触れる手前で静止していた。
逡巡するミヒトネッセに、薄れ行くファウナが助言する。
「ちなみにこのまま消えれば、あなたは私と同じように『クレイの目の前で死んでいった女たち』となってこのように瀕死の彼の意識に現れて叱咤激励する存在になるでしょう。私はクレイ最推しファンなのでこのポジションを楽しんでいますが、あなたはそれでもいいですか?」
「死んでも嫌。こんなに死にたくないと思ったの生まれて初めて」
即答した。
言葉通り、ミヒトネッセはかつてないほど『生きたい』と願っていた。
生き返ることができるのなら、どんな屈辱的な運命に身を落としても構わない。
それがたとえ、認めるのも腹立たしいコルセスカの使い魔であっても。
「生欲が燃えているようでたいへんよろしい――リビドー、してますね」
淡く笑って消えるファウナ。
トレミーもいつの間にか去っており、世界にはミヒトネッセただひとりだけ。
最初からそうだ。
これは自分自身との対話だったのだから。
目の前の細い糸を摘まんで、誰かの支配を選び取る。
生きるため、戦うために。
「私は人形、どこまで行っても運命の奴隷」
けれどそれでも輝きましょう。
その光が私のものではないとしても、回り出した星はもう止まれないのだから。
存在しない私の心。
ありもしない私の個性。
演じ切れたなら、ミヒトネッセには意味があったことになるの?
「いいえ。そんなの、どちらでもいい」
そんなの適当でいいと、彼女のように笑う。
私だって最初から諦めてる。
自由も、尊厳も、心も、痛みも、宿命も、愛情も。
どうせがらくた、壊れて動かなくなった玩具の戯れ言だ。
最初から何も無い私から、死が何も無いことすら奪ったのなら。
私は全てを捨てて踊り狂える、何だって演じられる。
そこに舞台があるのなら。
私にあつらえた最低の役があるのなら。
レッテの――トウコのために、戦えるのなら。
この身を
冬の魔女の操り糸に身を委ね、命が奪われ、同時に与えられる感覚に吐き気を催した。ミヒトネッセにとって最低の体験とも言っていい、自己と他者の交換。
気持ち悪い、気持ち悪い、なんて最悪。
その実感が、死したミヒトネッセを甦らせていく。
私の号は【鉄の踵】、踏みつけるのは矜持と自由。
私の相は【疑似英雄】、嘲り笑うは勇気と慈愛。
胸に刻んだこの傷が、虚ろの愛を求めて回る。
痛む心も無いのに踊る、その身を尽くすは誰のため?
答えはきっとすぐそこに。
浮上する間隔と共に、世界に光と――震えるような嫌悪感が訪れた。
世界よ凍れ、と魔女は祈った。
トリシューラがルウテトを欺いている今しか機会は無い。
冷たい川に飛び込んで、コルセスカは失われていく今を繋ぎ止める。
右の義眼が真っ赤に染まり、禁呪が発動する。
トリシューラのように激しく、感情が迸るままに叫んだ。
開いた口から長い牙が伸びて、『生命吸収』の意思を込めて突き立てる。
二つの牙が侵入していったのは、原形も留めずに破壊されたクレイとミヒトネッセの首元ではない。
ミヒトネッセから奪ったぜんまいばね。
それから、自身で『
それぞれに口づけるように、左右の牙と接続する。
ばらばらになった存在の欠片を、遺品によってかき集めようと言うのだ。
冷たい冥界の激流を裂いて、氷の意思がコルセスカの目の前に結晶する。
「凍れ」
コルセスカの禁呪とは言い換えれば対象の相を固体にする呪術だ。世界観を形作る視座の凝固――『凝視』。
この性質ゆえに氷血呪は万物を融け合わせる融血呪の対とされている。
融け合わない世界――孤立した結晶を創造する邪視の極致。
揺らぐ神話世界のただ中にあって、揺るがぬ自我を確定させる紀源の術理は、しかしながら単一の可能性のみで自己完結してしまうという性質を持つ。
長所であり短所でもあるこの性質は邪視者の結末を一方向に収束させていく。
多くを融け合わせ、どこまでも広がりを見せていく融血呪には『可能性』という点ではけっして叶わない。少なくとも、今はまだ。
「凍れ」
だが氷血呪が氷血呪のまま、融血呪に匹敵する『可能性』を提示する手段が存在する。それこそが他我の確定。かつて自己を欠落させたシナモリアキラの存在を繋ぎ止めた時のように、他者の世界観を、自らの世界観と並び立つほどに強く凍り付かせるのだ。世界を固め、硬質な視座を複数同時に並存させる。
『自己の世界を強固にする』邪視の呪いを、『他者の世界を強固にする』という性質に変革する。それはコルセスカ自身の世界観を拡張するための方法論だ。
コルセスカは見る。
自分が欲しいと願う誰かの世界を。
見続けていたいという欲求を、傲慢にも押し付ける。
「私は、あなたたちの世界を諦めない」
彼女が信じれば、伸ばした牙は必ず届く。
目を凝らし、強く願い、その場に臨む。
コルセスカはそうして、観客として参与する。
「宿命から再演へ、呪いから死へ、
ことばは光そのものとなって、完璧な舞台に歪みをもたらす。
大河が割れる。飛沫を上げる大河の中から、巨大な氷塊が浮上する。
コルセスカの姿は無い。
彼女の視座は壁の向こう。
されど存在は確かに舞台と共にあり、世界に没入を果たしている。
この舞台と役者たちをまなざす瞳。
コルセスカは邪視それ自体と化して役者の存在を確定させていた。
新設された氷の舞台、橋を見下ろすほどの高みから氷の階段が創造されてくる。
接続された舞台と舞台、相対するのは共に凍った視線だ。
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