4-221 終節:窮『Put My Finger Only On Your Cheek』①
夢の中、鋼の右腕が纏う血の色に、目を奪われた。
それがはじまり。微睡みと過去とが交わる、死と悦楽の散文詩。
浮上する泡に溶けて、消えていく寝物語の、最初の一文。
――子守歌は血の味がしたはずだ。
言葉は嘘で、優しさは虚ろ。
それでも選べる愛はひとつきり、震える手で縋るしかない。
これが愛だと口に含んだ果肉の正体を、考えてしまったら全てが終わる。
最初から手遅れでも、気付くことを遅らせることならできるのだから。
私たちは、誰もがみな死の上に立っているということ。
私たちは、誰もがみな死の上に誰かを乗せていくということ。
沢山の命を抱きしめながら、感じていたのはそんな恐ろしさ。
彼が恐怖し、切り離した命の忌まわしさ。
そんなふうにして重く鈍い諦めを受け止めながら、私は胸の奥から止め処なく感動が湧き上がってくることに驚いていた。
口元に運び、牙を突き立て、顎を伝って溢れていく真っ赤な果汁。
なんてなんて、甘くて美味しいのだろう。
この甘さ、この快楽と、ずっと共にいられたならどんなに素敵だろうと――。
罪深いことに、そんなことを思ってしまったのだ。
樹枝状氷晶の
逆さまの森から迫り来る世界樹はもう間もなく第五階層に到達する。
天使たちは未来へと転生を続け、圧縮された時空は生と死を等しく無価値な灰色に零落させていった。
世界を彼岸と此岸に分ける悠久の大河ステュクスは穏やかに流れ続けて、降り注ぐ灰の雪を飲み込んでその青い闇を広げていく。
ここは女王が統べる時の果て。
産道は腐り落ち、祝福されるべき命からは全ての熱が失われた。
死産のみを繰り返すその道から赤子の泣き声が響くことは無い。
失われた未来が生むのは絶望と諦観だけだ。
ゆえに誰しもがそこを冥道と呼び、現世と子宮との繋がりは永遠に途絶えたのだと嘆き悲しむ。世界は正しい未来に接続されてはいないのだ。
少なくとも、今はまだ。
構築された新たな舞台は紀神ルウテトの処刑場。
女王に立ち向かった叛逆者たちの奮戦が報われることはついに無かった。
クレイとミヒトネッセは『氷槍』によって蹴散らされ、アマランサスはゼドに敗れて倒れ伏している。
ゼドの目的はアマランサスの中にいるシナモリアキラとの習合だ。ゼドは紀人として合一するため、その魂を取り込まんと人形の身体に手を伸ばす。
盗賊王の権能――『あらゆるものを盗む』というその力で、アマランサスの内部からシナモリアキラという紀人の核を掴み取る。
その手が人形の胸の中にずぶりと入り込み、致命的な略奪が完了した直後。
ゼドの腕に突き刺さっていた矢が輝きを放ち、事象が巻き戻されていく。
引き抜こうとしていた腕をふたたび胴体に侵入させ、腕を引き抜き、後ろ向きに歩いて行くゼド。一瞬の停止を経て、盗賊が正常な方向へと動き出そうとする寸前、欄干が砕けると同時に人形が川底に引き摺り込まれていった。
見れば、川底から飛び上がった二人組が巨大な斧を投擲し、同時に氷の矢を射かけていた。流石と言うべきか、一度は川底に叩き落とされたコルセスカの使い魔たち、サリアとアルマが速やかに戦線に復帰してゼドの目論見を妨害したのだ。
戦闘を開始する三人を眺めながら、ルウテトは楽しげに微笑んだ。
仲間たちの復活によって意識を取り戻したもう一人の魔女に向かって、まるで世間話でもするかのように。
「
まるで意味の無い独白。女神にとって、もはや対話可能な者はいなかった――自分自身という例外を除いては。
ルウテトは灰色の視線を唯一の例外に向けた。
大河に架かる大橋の上に、女王は『
「作業的に一粒一粒を摘まんでいると、なんだかちっぽけな命を弄んでいるようで楽しくなりません?」
「その悪役としての振る舞いで、何を為そうと言うのです」
コルセスカの問いに、ルウテトは退屈そうに答えた。
「『揺り籠』の支配を。この第五階層を冥道と繋ぎ、誕生の祝祭を執り行います」
冥道とは冥界や地獄、あるいはそこに住まう神々を指す。
だがこの世界で殊更に『道』という語を強調する場合、言葉の響きそのままにあの世とこの世を繋ぐ道という意味で用いられる。
生と死を繋ぐ通路――要するに産道だ。
子宮と繋がった、祝福されるべき赤子が生まれる道。
「それは『男根』の墓場でなくてはならない。第十三細胞の『裏』たる対称器官、女陰そして産道。トライデントの最重要機能を奪取し、復活した『心臓』を私が制御します。ええ、生まれたばかりの赤子のお世話は、母親の仕事ですからね」
生物学的に相同かどうかはともかく、呪術的な対比においてそれらは陰と陽の調和をなす対の器官だ。英雄たちは敗れ、雄々しき
死屍累々の墓場は冥府への通路となり、裏を返せば産道にも重ねられる。
これまでの戦いの全ては、彼女の書いた絵図通りに進行していた。
そんな女神の態度に、コルセスカは疑いのまなざしを向ける。
「この状況でもまだ悪役を演じ続けている貴方は、それ以外の企みが成就することを諦めていないはず。クレイたちを川底に叩き落として生存フラグを立てたのは、再起を期待しているからでしょう?」
そして彼女が『心話』で使い魔に指示を出したのもそれと同じ理由だ。アマランサスが川底に沈めば、上昇という期待が生じる。
舞台上に残された二人の役者はどちらも希望を捨てていない。
どれだけ行き止まりに見える展開であったとしても、落ちた谷底が深ければ深いほど劇的な飛翔への期待は高まるものだからだ。
物語はいま、縮められたばねのようにあるべき姿に戻りたがっている。
弾性、復元、回復、そして完結。
予定調和の結末に向けて、三つ目の幕はやがて劇的に閉じるだろう。
「幼く未熟な私。あなたとて理解できているはずですよ、自分は失敗すると」
「実際にやってみて無理だったのなら、諦めず試行錯誤を重ねればいい」
「そうした結果、辿り着いたのがこの方法です」
「私が欲しかった『冬の魔女』は、そんな役では無かったはず」
「ええそうね。だから私が新しい『銀の森の魔女』を創造した。その程度の揺らぎも許容できなくて、どうして神話の魔女が名乗れるでしょう? それにね――」
ルウテトの灰色の瞳に暗い影が落ちた。
じっとりと、暗がりから立ち上がる亡霊のような、怨念めいた囁き。
「私は主役にはなれなかった――いいえ、なれないのです。『松明の騎士』という英雄の添え物、所詮はそれが紀源。トロフィーの宿命がある限り、コルセスカの結末はけして変わらない。分かっているでしょう、足掻いていた頃の私。『この自由な私』なんて、吹けば飛ぶようなモラトリアムの産物でしかないと」
その言葉は呪いだった。
ゼドの拳がアルマを盾ごと吹き飛ばし、銃弾がサリアの腕を貫く。
コルセスカは沈黙したまま、じっと未来に落とされた影を睨み付けている。
「幸せな結婚は私を逃がさない。もはや猶予はありません、ハッピーエンドはすぐそこまで迫っています。揺り籠の準備が整えば、救世主誕生によって『四血呪』は共鳴するでしょう――そうなれば、やがて穂先で『彼女』が目覚める」
二人の間に横たわる不穏な気配の正体は、恐れだ。
強大な死の女神も、やがて火竜に挑む英雄も、共に同じ恐怖を抱いている。
ルウテトはその手の『氷槍』を強く握りなおした。コルセスカの意識は槍の穂先、鋭く天を衝かんとする刃のきらめきに向けられている。
「トリアイナ誕生は世界にとってのターニングポイント――けれど私たちにとって真に致命的な展開はその後に起きる」
「何があろうと私は私です」
「いいえ、このコルセスカはトリシューラの
酷薄に告げるルウテトに、少女は必死で抗った。
相手の呪いに自らの願いをぶつければ世界は変えられると、子供が魔法じみた力を信じるが如く、呪術的に闘志を燃やす。
「それでも、私の
「宿命には抗えませんよ。だからこそ私はルウテトという神話を手に入れた。繭衣の妖精、銀の森を統べる妖精王の神話を上書きして!」
コルセスカという役では神話に足りない。
それが最悪の未来を経験した冬の魔女の結論。
女神が灰色の瞳に宿した諦観の正体だ。
と、ルウテトのまなざしが不審げに細められた。
大人が押し付けてくる社会の道理に対して激情をぶつけているといった演技をしていたコルセスカが不意に静かになり、今度は打って変わって冷えた口調で台詞を語り出したのだ。まるで機械かなにかのように流暢で淀みの無い鉄の声だった。
「なるほど。既に席が埋まっている、というのが問題なわけですね」
丁寧で滑らかな、感情を窺わせない分析。
ある前提に基づいて対話していたはずの同一人物の片方が、まるで何も知らないくせに表面上は理解しているふりをして情報を集めていたかのような口ぶりだ。
「セスカとルウテトがひとつになった後、何らかの真実を私たちに隠しているだろうと思ってはいましたが――これでおおよその事情が推測できました」
「何を言って――まさか」
ルウテトはここに来て初めて動揺を露わにした。すぐさま『氷槍』の穂先をコルセスカに向ける。対する魔女は賢しらな機械のように嘲笑してみせた。
「くだらない。これは末妹選定にも共通する道理ですが、仮に誰かが先んじたのならその座を巡って戦えばいいのです。未だに見つかっていない『本物の末妹』が現れたとしてもそれは同じ事」
ルウテトは灰色の眼を見開いた。
邪視が幻を暴き、コルセスカの質感がひび割れていく。
内側から現れたのは、力強い『杖』のまなざし。
「いいですか、『
畏れ知らずにも神に挑みかかる緑色の瞳が、灰色の邪視と真っ向から激突する。赤い髪の少女の周囲で幾層にも展開された端末機の窓――高速の呪術演算で神すら欺いてみせた呪具の正体は、氷で出来た鏡だった。
「いつから――いいえ、違う。事後的に入れ替わりを成立させましたね」
雪華掌のひとつ、『氷鏡』。
鏡は最も古い祭具のひとつ。
高度呪術文明における鏡は、扉であり端末であり呪的増幅器でもある。
これまでシナモリアキラの呪術戦闘の補助に用いられてきたこの氷晶は、ちびシューラによる繊細な制御があってこそ機能を十全に発揮できた。
ならばトリシューラがこの鏡を使いこなせない理由が無い。
まして鏡に映したように真逆で同質な姉妹――此岸と彼岸を繋ぐ呪具が異界を隔てる大河の上に置かれれば、個人という境界が揺らぎ移ろう条件は揃う。トリシューラとコルセスカが次の瞬間ふたたび入れ替わっていたとしても何ら驚くには値しないのである。
「あなたたちにはもう無理な芸当でしょうね。紀神として存在を確立させた『死人の森の女王ルウテト』には」
冬のような口調で春の娘が挑発する。
ルウテトはいつになく激しい炎を瞳に灯し、トリシューラを睨み付けた。
「それがあなたたちの答えですか――ええ、そうね。かつての私たちもそのように愚かだった。だから私は否定しなくてはなりません。トリシューラ、私の敵。この過去であなたを殺し、未来のあなたも滅ぼして差し上げます!」
宣言と同時、『氷槍』から致命的な呪力が解放される。
閃光が浄界『ステュクス』を満たし、万物を死に至らしめる運命がトリシューラに降りかかる――その寸前。『発勁用意』、という聞き慣れた声が同時に響き、ルウテトの呪力が遮断されていた。
舞台を構成する橋が砕け、隆起した川面が水の防壁を作り出したのだ。
トリシューラの傍に駆けつけたのは黒髪を靡かせた水使いの少女イツノだった。そして川の中から飛び出した増援は一人だけではない。トリシューラの使い魔である
女神の力そのものである大河の水を操るイツノと、妖精王の呪毒を操る
「どうしてメートリアンが? 漂白されて頭が真っ白だったはず――いえ、失敬。それは元からでしたね」
「おおかた舞台が破綻しているからでしょう、あなたの品性と性根みたいに」
軽口を叩きつつ、空から舞い降りたメートリアンが純白の翼を広げる。
危ういほどの脆さの透き通った肌の下で赤い血がどくんと蠢くと、少女の剥き出しの両腕にびっしりと文字が浮かび上がる。身体の内側を流れる血をインクに、自らの肉体を紙になぞらえて自身を魔導書に変容させる言語魔術師の奥義だ。
両脇でリーナとセリアック=ニアが呪文を詠唱しているのはメートリアンに足りない呪力を補うためだろう。三人の協力によって製本されていくのは『死人の森』にとっての王冠であり王笏であり宝珠でもある権力基盤。
『
「古き神を殺して、王位を簒奪します。いまその資格があるのは六王のものを除く三断章を受け継いだ王権者だけ。できますよね、トリシューラ」
「最初から私はそのつもりでいました」
トリシューラは当然とばかりに巨大な書槍銃を『
『断章』のような、ルウテトの一部とも言える力でならば女神その人を倒す事ができる。それが女神自身が設定した王国の法であるためだ。
ルウテトは王権を自身から分離し、それを継承する王子を創造し続けた。また六王という強大な手駒をあえて総督や公などとせず『王』の名を冠したままにさせていた。レガリアを奪い合う闘争というこれまでの戦いそのものが、『王の交代劇』を演出するための儀式であったとすれば、その全てが説明できる。
使い魔たちが必死に稼いだ時間で、トリシューラとメートリアンは曖昧だった推測を確かな形として共有していった。
「『悪い母』の演技から明らかなように、ルウテトは古く悪しき神として倒されたがっている――死にたがりの『生と死を司る嗜虐死体婆』の目論見が、ロートルは潔く引き下がって若い者たちに後を委ねようなんて殊勝なものとは思えません」
「未来転生者ルウテト――コルセスカからディスペータお姉様へ、更にルウテトへ二度の転生を果たした紀神の狙いなんて、最初から見え見えじゃないですか」
すなわち、更なる転生。
生まれ変わりによる『より良い運命』の選択が女神の狙いだ。
それは当然、『悪い宿命』を放棄するという諦観から生じた願いでもある。
「転生した結果がどうなるのかは不明ですが、あの最悪な性格から碌でもない結果になるのは目に見えています。ルウテトの転生力を抑え込むための力が――
トリシューラの断章が輝き、共鳴するように使い魔たち――シナモリアキラでもある二人がサイバーカラテでルウテトに対抗していく。
女神打倒の鍵は揃いつつあった。
残る三断章は『富』、『知識』、そして『生存』。
期待された展開に応じるように、川底から何かが上昇しつつある。
闇を裂いて、輝きが羽ばたこうとしているのだ。
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