4-220 終節:端『Acceptance』③




 宣戦布告と同時、舞台の上手と下手から同時に新たな役者が飛び込んできた。

 一人はコルセスカ、硝子窓を割るように空間を突き破って豪快に登場した冬の魔女が俺の横に並んでルウテトに氷の槍を突きつける。

 もう一人はゼド。床を這う無数の影が集合してひとかたまりの闇となって立ち上がる。テンガロンハットに薄汚れたコート、腰のガンベルトから巨大な拳銃を抜いて構えたガンマンは、今やルウテトの使い魔だった。

 奇しくもかつてルウテトと交戦したメンバーが揃っている。ゼドがルウテト側についている点が決定的に異なるが、思えばあの時点で奴はルウテトと密約を交わしていた可能性が高い。


「さあ、俺と遊んでくれ、シナモリアキラ」


 ルウテトの死神となったゼドは、欲望にぎらついた目で俺を舐め回すように見た。盗賊としての性なのか、奴は俺と習合して同一の存在になろうとしている。

 ルウテトはどちらでもいいのだろう。

 自分の『使い魔ユニット』がどういう『見た目スキン』になるか、どういう『性格』を獲得するか、どういう『名前』で『合成』されるか。

 女神にとっては全てがゲーム。

 俺たち矮小なユニットが持つひとつひとつのパラメータもゲームの進行と共に取捨選択を重ねていくべきものでしかない。

 リソースの適切で冷徹な管理こそがゲームの本質であるとすれば、女神はその匙加減を間違えない。必要であれば『序盤の思い出深いユニットの個性』などスクショでも撮った後であっさり切り捨てるだろう。

 奴にしてみれば、強力なユニット同士を掛け合わせた『強化合成』の結果を楽しみに待っているだけなのだ。


「コルセスカ、クレイたちは?」


 隣のコルセスカに問いかけると、彼女は沈痛な表情で言った。


「二人は死にました。ミヒトネッセは全てを諦めて自らを縛る操り糸で首を括り、クレイはその後を追うようにして自刃を――」


「そうか」


 脳内でちびシューラとは繋がっているものの、コズエ役のトリシューラ本体は行方不明。現世に送り返されたメートリアンやイツノたちの姿も見えないまま。

 つまりいま戦えるのは俺とコルセスカだけだ。


「やれるか?」


「勝てます」


 力強い断言は、紛れもない英雄コルセスカのもの。

 視線を合わせて頷き合い、それぞれが眼前の脅威を見据えて立ち向かう。

 ルウテトとゼドもまた、これ以上の問答は無用とこちらに戦意を向けていた。

 やがて、一瞬の静寂を銃声が引き裂く。


 開戦の号砲は「発勁用意」の声によって掻き消された。

 俺が口にしたのではない。それは俺の頭上から発せられた叫びだった。

 ゼドが撃ち出した弾丸、それを俺が認識するより速く『髪の毛』が迎撃していたのだ。シナモリアキラの現在の肉体であるアマランサスが髪に宿す亜竜グレイシス。のたうつ頭髪が大蛇のように大口を開き、咆哮による音速の呪文で弾丸を叩き落とす。糸状の竜はそのまま宙をうねりながら真っ直ぐにゼドに襲いかかる。


 同時に走り出していたコルセスカが撃ち出した氷柱と併走しながらルウテトに迫る。泰然と構えたままの女神は灰色の瞳で氷の視線を抑え込み、両手を合わせてからゆっくりと広げて見せた。その手の上から広がっていくのは、


「宇宙?!」


 『創造クラフト』、いや小規模な浄界なのか?

 女神が展開した無限の広がりを持つ闇と星々の光が舞台を覆い尽くし、一瞬にして世界の全てを制圧していく。俺とコルセスカは不可視の力によって一瞬にして弾き飛ばされてしまう。

 体勢を立て直す。眼前のルウテト、その周囲を十の星々が巡っていた。

 どこからともなく聞こえてくる大勢の声。

 死を奉じる信徒たちが女神を称えて合唱する。


「見るがいい、これこそ周回軌道の地獄、森羅万象あまねく煌めきを統べる女王のセレスティアル・オーブ、『責め苦の全天』!」


 世界が支配者の望むままに作り替えられていく。

 舞台が迫り上がり、燃えさかる炎が屹立する柱を取りまいて辺りを照らす。

 女王の威光を知らしめるため、死の天使たちが輪唱する。


「恐れよ罪人、裁かれるべき基幹罪は七つ! 不敬、密通、殺人、偶像崇拝、強姦、偽証、詐欺、いずれの罪を犯したとしても地獄の責め苦がお前を待つ!」


 絶対的な力によって俺とコルセスカは翻弄され、異界巡りの物語という形式にあてはめられていく。ありとあらゆる呪術、邪視による抵抗は意味をなさない。

 俺たちが放り込まれたのは罪人が辿る運命、その渦の中心なのだから。


「第一の責め苦、火炎の柱」


 舞台を横切るようにして大地を焼き尽くす光が迫る。

 吹き付ける熱波に顔をしかめながら俺とコルセスカは左右に分かれて回避するが、続く敵意が俺たちに反撃の機を掴ませない。


「第二の責め苦、俯せ釘付けの獄」


 天上から無数の釘が降り注ぐ。危なげなく回避するコルセスカと髪で防御する俺だったが、本番はここからだった。


「第三の責め苦、仰向け釘付けの獄」


 理解不能な力に操られて俺たちは自分から舞台に倒れ込む。

 既に女神の行使する呪術の『流れ』の中にいるのだ。

 儀式が完遂されるまで、俺たちはこの責め苦の宿命からは逃げられない。

 降り注ぐ釘が次々と俺たちの胴体に打ち込まれていく。

 衝撃に次ぐ衝撃。

 首から伸びる呪力の経路を伝って、二人分の激痛がコルセスカを襲った。


「第四の責め苦、全身釘打ちの獄」


 更に、舞台の天井のみならず床下、観客席、舞台袖など四方八方から釘が飛来して俺たちの肉体の全てを貫通していく。完全な致命傷にも思える攻撃も、『責め苦』を目的とする呪いであるためかただ苦しみだけが蓄積され続ける。


「第五の責め苦、拷問万般の獄」


 爪、皮膚、眼球、舌、鋭敏な感覚を責め立てるありとあらゆる拷問器具が『創造』されては苦痛の宇宙で踊り出す。コルセスカの絶叫が強まるごとに俺の思考は冷えていく。反撃の機会があるとすれば、この地獄巡りが終わった瞬間だ。


「第六の責め苦、炎の車輪」


 燃える鉄の車輪に貼り付けにされてぐるぐると転がされる。

 平衡感覚があやふやになる中で、そういえばコルセスカはまだ二つの切り札を温存したままだと思い出す。女神の権能は生前の罪を裁き罰を与えられるほどに強大だが、王権による裁きは法に基づくがゆえに法に縛られている。


「第七の責め苦、釜茹での獄」


 灼熱の釜に煮られながら、俺は確信を深めていく。

 これは前時代的な慣習法、人々の古い想像力に基づいた地獄の光景だ。

 死と地獄を支配し、その全てを思うがままにできるとは言っても、ルウテトは生きている者たちの想像した死と地獄しかその瞳に映すことしかできない。

 『無』を見ることなどできないからだ。

 ルウテトの全能性とその限界は『死人の森の女王』という名が示している。


「第八の責め苦、北風と凍てつく山」


 吹きつける極寒の大気は、俺たちに『参った』と言わせるための幻だ。

 運命に支配されているのはこちらだけではない。

 運命を定め、強要する神もまた自らが生み出した運命に従うことになる。


「第九の責め苦、火炎を吐く井戸」


 コルセスカは想像を絶する痛みによって意識を何度も途絶させている。

 瞬間的な蘇生を可能とするコルセスカをしばらく行動不能にするためにルウテトはこのような拷問を続けているのだろうが、そのくらいは彼女も予測済だ。

 俺の痛みを全て引き受けているのも、この地獄が終わった瞬間に自分以外が即座に動けるようにするためだ。

 恐らく、彼女たちはこの近くで待機しているはず。

 どのタイミングでも奇襲に合わせられるように、俺は自分の中にいる『マレブランケ』たちに臨戦態勢をとらせる。俺が命ずるまでも無く、グレンデルヒとオルヴァの呪力は既にゼドを射程圏内に収めていた。


「第十の責め苦、冥府の川と試練の橋」


 最後の刑罰だけは、俺もかつて見たことがあった。

 『女王』の浄界、ステュクス。

 悠久の大河には舞台の大橋が架かり、その上に俺たちは立たされている。

 そうか、とちびシューラが理解を示した。

 これまでの無数の責め苦は、ステュクスを完全な形で展開するための下準備。

 かつて俺たちに見せたのは即席の不完全な姿であり、こうやって順番に責め苦を味わわせてから展開する最後の地獄こそステュクスの真の姿なのだ。


 橋の中央で十字架に貼り付けにされたコルセスカはぐったりとしてしばらく動けそうに無い。一方の俺も自慢の髪と両腕が熱と圧力で千切れて破損している。

 全身ぼろぼろのアマランサスの身体は、しかし遅延動作アプリが設定した通り強制的に走り出すことを強制される。この鬼畜男っ絶対に殺してやるから、という自分自身の涙声を無視しつつ新たな左腕を『創造』する。


 瞬間、ルウテトの死角となった背後から氷の盾と燃えさかる斧を手にした重装甲の戦士が唐突に出現する。熱光学迷彩――トリシューラの技術によって隠れ潜んでいたアルマ・アーニスタの一撃は振り向くことすらしないルウテトの骨翼に受け止められる。直後――というべきか、その光景が巻き戻り軌道を変えた斧が今度こそルウテトの背中を両断し、肉と骨を焼きながら女神を斜めに二分してみせた。

 舞台を上から照らす照明、それが吊られているバトンの上に氷の弓を持った射手がいる。冬の魔女第一の使い魔であるサリアはその背後に半透明のハエのビジョンを浮かび上がらせながらルウテトの『成功する未来』を撃ち抜いている。


 その二人をもってしても女王に致命打を与えることはできない。

 即死級の攻撃を受けたルウテトは肉体の再生をしようともせず、両断され、血と肉と骨と内臓をぶら下げたまま平然とそこに立ち続けている。

 幾度アルマの斬撃が物理的実体を破壊し、サリアの矢があらゆる可能性を撃ち抜いて妨害しようとも、死ぬことが無い女神を殺せるはずもない。


 だからこそ、ルウテトの『紀』に干渉して神としての性質を揺らがせる必要があった。かつて俺が有効打を与えられた唯一の義肢、キュトスの長姉ヘリステラの転生力であれば、あるいはルウテトの世界観と衝突を起こせるかもしれない。


 左腕に義肢を具現化した俺は『マレブランケ』たちにゼドを任せて疾走する。

 しかし。


「――解宝、『トバルカイン』」


 あろうことか、ゼドは俺の手持ちの戦力を全て押し退けてみせた。

 重々しい足音と犬の唸り声のような駆動音。

 骨を加工した呪動装甲がゼドの肉体を隈無く覆い尽くしている。

 見間違えるはずがない。

 あれは盗賊王が俺から盗み出した骨犬の力。奪われたトバルカイン――俺が背負うべき罪の象徴を纏って、ゼドはこちらに突進してくる。


「どうだアキラ、似合うだろう? これが俺とお前の『赦しの鎧』となる」


 既に奴は銃など捨てている。

 俺の戦闘スタイルを真似したつもりなのか、左右非対称の構えから陰と陽の気を練り上げ拳に伝達させるという呪的発勁を俺の義肢にあえて合わせてくる。

 『俺と遊ぼう』という言葉の通り、こいつは俺と殴り合いを楽しむつもりなのだろう。冗談じゃ無い、まともに付き合っていられるか。

 奪われたトバルカインを誇示するように見せつけながら大振りの拳打を繰り返すゼドだが、隙だらけの動きは明らかに誘いだ。


 湧き上がる怒りと憎しみを全て遮断しつつ、冷たくなっていく思考でゼドへの戦意を全て切り捨てる。こいつは相手にしなくていい。

 素早く身を躱し、残った髪の毛の一部を手刀で切り捨てて身代わりにする。

 呪的逃走の術により創造された俺の分身がゼドを惑わせているうちに復帰した『マレブランケ』たちが参戦してくる。足止めを任せて俺はルウテトの下へ走った。大事な髪を勝手に切られた挙げ句ショートヘアにされたアマランサスが悲鳴を上げているが謝罪は後。


 サリアとアルマが奮戦しているがまだ足りない。

 ルウテトは俺が近付いているのにも、『ヘリステラ』による打撃を狙っていることにも気付いているだろう。今の俺はアマランサスの肉体だから、人工乳房などなくとも『魔女の呪力』を再現して放つことができる。

 だが同じ攻撃が通用する相手ではない。あと一手、何かが必要だ。

 俺の願望に応えるように、白馬に乗った王子様は颯爽と現れた。


 出し抜けに響いた馬の嘶き声と共に、鮮血を撒き散らしながらその男は現れた。

 手刀によって女神の腹を内側から切り裂いて、飛び出したのは騎乗した美貌の剣士。その凛々しくも鋭利な美貌はかつてルウテトに侍りその手足として忠節を尽くしてきた冥府の王子、クレイのものだ。

 生まれ変わったクレイは馬から飛び降りるとその手刀の切っ先を主に向けた。


「陛下、偉大なる我らが再生者の女王よ。貴方が不要と命じたならば俺は骸となって眠るつもりでした。ですが陛下の真意が俺の奮起にあるならば、貴方の意を汲んで造反の刃を御身に向けましょう。それこそが真の忠義であると信じて」


 そして、白馬と思われたものの形が崩れていく。

 幻像が霧散し、伸縮自在のマフラーを取り払って再び首に巻き付けたのは黄色い砂色の髪をした侍女人形ミヒトネッセだ。

 コルセスカが言った通り、二人は確かに死を遂げたのだ。

 自死による冥府の聖婚――脚本に沿って地の底で最期の時を迎えた二人は死によってルウテトの胎内に移動した。与えられた役割を演じきることで『その後』が生まれる余地を作りだしたのだ。


 甦った二人はアマランサスがメートリアンを復活させたのと同じような強引な理屈で世界から世界へと転生を果たし、冥府の女王が有する権能を利用して出産されたのだろう。ルウテトが有する神話観に沿った流れであったため、クレイの刃は女神の腹を割ることができていた。ミヒトネッセもその手に血塗れの物体を握りしめており、恐らく『あれ』を盗み出すことに成功しているはずだ。

 全てを馬鹿にしきったかのような視線がこちらを貫く。

 ラクルラール派が使用する秘匿回線で短い通信が入った。


「どう転ぶにしても、第六階層で次の準備をしているアルト・イヴニルのために時間稼ぎが出来ればそれでいい。アマランサス、あんたが今後シナモリアキラに肩入れしたとしても、この目的だけは共有できるって信じるから」


 ミヒトネッセがこちらに走る。

 侍女人形が手にした血塗れの球体――宝珠、あるいは果実、それとも野菜?

 曖昧な輪郭を目にしたルウテトの表情、常に余裕を絶やさないままだった絶対者の顔がわずかに引き攣った。

 その手が持ち上げられる。

 大河の底から出現したのは異形の神々。

 おぞましい唸り声を上げながら、夥しい数の神罰がミヒトネッセを襲った。


運命軌道サテライトオーブ・『イヴァダスト』」


 侍女人形の指先から展開された呪文の帯が渦巻いて球形となり、情報構造体の衛星として周回し始める。膨大な量の情報を処理しながらミヒトネッセは雨霰と降り注ぐ呪いの数々を次々に回避してみせた。


「予定調和よ、全部ね!」


 未来予測でもしているのか、ミヒトネッセは妨害をものともせずに俺、というよりアマランサスの下に走り寄って手にしたものを受け渡した。

 ぞっとするほどに重い。

 冷たく、熱く、血の臭いよりも濃密な呪いの重力に飲み込まれてしまいそうだ。

 当然のように、危険を冒してそんなものを女神の胎内から盗み出してきたミヒトネッセは呪いによってぼろぼろだった。

 かつて彼女は女神の髪を盗んで逆に操り人形にされてしまった。

 今度もまた、神の至宝を盗んだ罪はその身を致命的に傷つけていた。


「後、おねがいね。言っておくけど、そこのクズ野郎に塗りつぶされたら許さないから。あんたは、レッテの大事な、もう一つ――」


 力尽きたのか、そう言い残してミヒトネッセは倒れ伏した。

 シナモリアキラとしてここに立つ俺は、何も言わずにするべき事を実行した。

 ここでの感情はアマランサスが代行していることだろう。俺は機能を果たすだけだ――血塗れの盗品が放つ呪力を義肢で押さえ込み、握り潰さんばかりの力で持ち上げるとそのまま口の中に放り込み、何度か咀嚼して嚥下する。


「なるほど、最初からそれが狙いでしたか――浅はかな」


 ルウテトの冷ややかな声には、明確な苛立ちがあった。

 つまりはこの手は正解――女神にとって不快な行動だったのだ。

 いける、と思った。

 勝利するためにはこの方向で正しいのだという確信が心を奮い立たせる。

 力の差は絶望的だが、絶対に勝てないなどということは無いのだ。

 ここまでの俺の思考は正しい。

 だが、苦痛を遮断する俺の欠点として、『実感』を思考の中に噛ませたアプリに代行させているために大きめの遅延が発生するというものがある。

 痛みの無い俺にも生の実感はあるが、原理的にどうしてもそれは遅い。

 そのラグが、判断を甘くさせていた。


「ちょっと舐めプが過ぎました。セルフ縛りはこの辺で終わりにしましょうか」


 ルウテトがそう言った直後、彼女の右手に何かが出現していた。

 いや違う、そうではない。

 ずっとその手に握られていたそれを、今まで俺たちは誰ひとりとして認識できていないかった。

 正確には今もその全容を把握できてなどいない。

 ルウテトが握る氷の槍――その長さときたら、天を衝き地の底を貫くほどなのだから。遠近感や縮尺が狂って見えるほどの存在規模が、正確なスケールを認識出来ないようにしているのか。

 まるで遠くの風景に見える山を手の上に乗せようとしてみたり、彼方に聳え立つ世界槍を掴んでみせたりといった『お遊び』だが、事実としてルウテトは世界を支える軸のひとつをその手に握り、振るおうとしていた。


「第九世界槍、展開」


 女神はこの世界を握りしめ、意のままに振り回す。

 それで終わり。

 俺たちは全滅した。

 まず結果が確定し、事後的に過程と原因が生成されていく。


 アルマの氷盾は砕け散り、サリアの矢は自分の矢羽根を追いかけてぐるぐると回転し、半透明のハエは腹に抱えた時計が狂ってしまったためか右往左往して何もできずにいる。氷槍から放たれた荒れ狂う呪力の風は二人を飲み込み、青く流れる大河の底に叩き落とした。


 俺が右腕として構築した氷腕とその周囲に展開した氷鏡も同様に無力化され、氷槍から放たれる呪力によって同様に橋から吹っ飛ばされて――いや、違う。

 途中で過程と結果が書き換えられた。

 氷槍が振るわれたことで、いつの間にか俺はゼドに敗北して倒れ伏したことになっている。異様なことに、奴と正面から壮絶な戦いを演じたという記憶が確かにある。事象の改竄、時空の操作、そういった超越的な呪術が行使されたのだ。

 サリアの氷弓、オルヴァの色号――そうしたものよりも上位の権限。

 九氷晶の中でも氷槍だけは何かが違う。

 世界槍という性質のためか、根本的な出力が桁違いであるように思われた。

 ルウテトはゼドに完敗した俺を見て、それすら赦すと笑って見せた。


「アキラ様、あなたはゲームオーバーです。でも大丈夫、また悪夢を見ればいいのですよ。あなたがこの世界にやってきたばかりの時みたいにね」


 何を。

 ルウテトは、何を言っている?

 歌うように紡がれる女神の言葉を、俺は不快な既視感と共に噛みしめる。


「浮かび上がる深層意識の泡、終わりの無い迷宮で産声を上げたあなたはひとりきりで彷徨い、誰とも出会わないままに生と死を繰り返して勝利を模索する。繰り返す始まりの夢を再演し、真実の歴史として書き換える。あなたの尊い苦痛と罪を永遠に観賞し続けられる――それはなんて素敵な劇場なんでしょう」


 ループする悪夢。

 俺がたったひとりで第五階層を彷徨っていた頃に何度も見ていた夢の牢獄。

 まるで――いや、それこそが死の女神が作り出す本物の地獄なのだ。

 俺はあの時からルウテトに呪縛されていた?

 いや、それよりも前、魔将エスフェイルと戦ったあの森。

 まさかあの時点からなのか。

 それともたったいま、氷槍が振るわれた瞬間にそういう事実が確定したとでも言うのか。全てをほしいままにするルウテトの手によって、これから俺がどのような結末を辿るのか。想像すらできない。彼女こそ悪夢そのものだ。


 そして、女神が下す裁きは自らの被造物に対しても容赦をしない。

 クレイもまた氷槍の前には為す術も無く、見事な仕立ての服を無惨に引き裂かれてしまっていた。女王の趣味なのか、上半身だけが露わになった美しい王子は氷の穂先で頬を突かれながら暗い目で詰られていた。

 我が子の成長を望んでいた母親は、その成果が『この程度』と知ってひどく落胆していた。彼女の理想は更なる高みにあり、クレイは未だ届いていない。


「淫らなクレイ。王への忠誠、母への愛、そう謳いながら妄想に耽っていたのでしょう? 私への態度の端々に期待が見え隠れしていましたよ。卑しい男。盛りのついた犬のようで見るに耐えません」

 

 まるで精通を迎えた我が子を見て嘔吐する潔癖性の母親だ。子を愛するとしながらも、ルウテトの言葉からは男児への強烈な軽蔑と忌避の感情がにじみ出ていた。

 シナモリアキラに恋い焦がれつつ、その愛情に激しい憎悪と侮蔑を重ねているこの女神は、男性の意思と欲動を認めていない。至高の女神はただ愛する主体であれば良い。そこに対象の意思が入り込む余地は無い。あってはならないのだ。


「私が愛おしい? それとも憎らしいのかしら」


 完成し損なった我が子に自らの槍を向け、最後の機会とばかりに試すような問いかけをする『死人の森の女王』。彼女にとって邪悪な母親の役を演じることも優しい慈母の役を演じることも等しく遊びだ。


「私を抱きしめてはくれないの? あなたの忠誠と愛情は全て偽りだったの?」


 表情と態度で露骨なまでに息子への嫌悪感を示しながら、ルウテトは哀れっぽく問いかけてみせた。

 抱きしめなければ愛を疑われるだろう。

 抱きしめれば拒絶を示されるだろう。

 どのような選択をしても、クレイには苦痛しかあり得ない。

 母親は我が子を苦しめるためだけに愛を注ぐ。

 痛みを教えるためにこの世に産み落とし、愛によって死への道を示す。

 理不尽な暴君が統治する王国で、愛の法は民草を虐げ続けていた。

 だが、それでも王子は希望を捨ててはいない。

 子供の瞳は、純粋な世界を映したままだ。


「陛下――俺の剣は、常に貴方に捧げられております」


「一番つまらない答えですね。このタイプのクレイが一番ありふれている」


 あまりにも無造作に、槍の穂先がクレイの胸を貫いた。

 存在の終焉という結果が最初に確定し、事後的な滅びがクレイを終わらせる。

 彼はまた失格した。『クレイだったもの』になった彼は無名の残骸に過ぎない。

 ルウテトはこれから何度でもクレイを作り直し、失敗するたびに同じように廃棄を繰り返していくのだろう。

 だが、どうしてだろう。自分が終わっていくのを理解しながらも、母親を見る子供の瞳は絶望に曇ってなどいなかった。

 彼は、母の言葉を聞いて安心した様子だったのだ。


「良かった――俺は何度生まれても、こうして貴方に剣を捧げられるのですね」


 大量生産された泥人形、使い捨てられるクレイの最もありふれた個性。

 そんな彼の核は常に同じなのだと知って、彼は安心したのだ。

 自分という存在が終わっても、女王を守る剣はまた生まれる、と。

 ルウテトはそれを聞いて、呆れたように小さく嘆息した。

 そのとき、酷薄な色に染まった灰色の瞳が、滅ぶ寸前のクレイからすぐ近くに転がっていた別の残骸を捉えた。


 彼女は氷槍でそれを貫くと、わざわざクレイの前に運んで致命傷を与えていく。何も出来ないクレイに見せつけるように、最大限の悪意を込めて。力尽きた人形の首を断ち、胸を抉り、腹部を開く。クレイの口が侍女人形の名を呼ぼうとする寸前、ルウテトは消滅寸前の我が子と人形の骸を槍で薙ぎ払い、川底に叩き落とす。

 そして、冷淡な視線が再びこちらに向けられる。


「これで今回は私の勝ちです。その駒は既に諦めていますし、私も次の遊戯盤を準備しなくてはならない。あなたはアルト・イヴニルにでも第六階層の攻略を進めさせていればいい。決着は第五階層対第六階層の領域戦で着けるとしましょう。まさか、手駒を失った状態で私に勝てるとは思っていないでしょう、ラクルラール?」


 俺は――肉体に引き摺られて意思が暗い水底に沈んでいくのを感じていた。

 ルウテトが『私』を通じて誰に話しかけているのかすらどうでもいい。

 シナモリアキラの演技など既に放棄していた。

 私は目を覆い、弱いアマランサスとして朽ちていくだけだ。

 そして墜ちていく。逃避の闇、無限に広がる自己の内面に。


 駄目だった。

 せっかくレッテに、ネッセにだって託されたのに、負けてしまった。

 何もできないまま、ひどい光景が繰り広げられるのを見せつけられるだけ。

 見たくない、見たくない、見たくない、見たくない。

 私はこんな景色を見たくない。

 邪視が己の世界観を拡張するものなら、私はそんな目は閉ざしてしまいたい。

 見ないことを選び、逃避することを望む。


 運命は残酷だ。

 そもそも、自由意志なんてものが、本当に大切なのだろうか。

 私は諦観を抱く。

 私は運命を諦めている。

 

 宇宙を構成する因果の糸、神の定めた天命。

 それらの前に、人の心はあまりにも無力だ。

 愛する姉アンティゴネのために奮い立ったはずのイスメネは、やはり本質的には弱い妹のままなのだ。

 私は力によって翻弄されるばかりの、ちっぽけな人形でしかない自分が悲しい。

 けれど、悲しさは何かを生んだりはしない。諦めが強まるだけ。

 諦めは、徒労感と絶望に根ざした私の価値観なのだと思う。

 諦観が私の世界観。諦めることが私の意思。

 自由の無い自由意志だなんて、どこまでも弱い私らしい。

 

「お前は筋がいい、アマランサス。サイバーカラテの極意は諦観から始まる」


 ふと、閉ざした瞼の闇に声が響いた。

 嫌いな声、聞きたくない声、この世で最も頭にくる男の声だ。

 私ごとこいつが死ねばいいのに。

 ああでも、ルウテトはこれを使おうとしている。

 なら私は、これからもずっとこいつと一緒に扱き使われるのだろうか。


 いやだなあ、本当に気持ち悪い。

 何もかもいやになるけれど、これはとりわけ最悪な運命だと思う。

 いやいや、うんざりだと思うから苦しいんだ。

 シナモリアキラなんてどうでもいい。

 気にしない気にしない、私にとって何の価値も無いから何も思わない。

 そんなふうに現実逃避していると、私を煽るような言葉が届けられる。


「俺もお前の事が心底どうでもいい」


 は? 何こいつ、こっちの台詞なんだけど?

 ていうか何様、どんな立場から口きいてるわけ、信じらんない死んで。


「だがそれは何の感情も抱いていないという意味ではない。感情を切り離し、評価と分析の対象に変えて行動の指針にするように努めているだけだ。俺から言わせればお前の諦めは不完全だ。自他を適切に評価し、検証し、そして受け入れろ」


 私は生まれてからこの時まで、自分がこんなにも誰かのことを嫌いになれるだなんて考えたことも無かった。

 気高く強いアレッテ・イヴニルの片割れとして清く正しく誇り高い魔女として振る舞ってきた私は、戦意や敵意を高めてみせることはあっても、憎悪や嫌悪を露わにするような品の無い振る舞いは良くないことだと信じていた。

 けれど――違う。そうじゃない。シナモリアキラとかいう超うっとうしい男を嫌うことが間違っているはずが無い。あまりにも上から過ぎる目線、腕組みとかしてそうな態度が本当に生理的に無理。こんなのの一部とか恥ずかしくて死にたい。


「説教してやるアマランサス。新興現人神にして教祖、異界からやってきた宣教師さまのありがたいお言葉だ。真の意味で諦めを心に根付かせろ。お前はまだ何もかもを諦めようとしていない。捨てきれない感情と仲間への思い入れが深すぎる」


 痛々しいにも程がある台詞から、シナモリアキラは本当にお説教をし始めた。

 確かにこいつはサイバーカラテ宣教師と言えばそうだけど――戸惑いを通り越して本気で引いている私に構うこと無く、彼は一気に捲し立てる。

 いや、真面目に聴く気、無いんだけどね?


 ――いいか、心を静謐に保て。困難な状況には柔軟な思考で対応しろ。柔らかく、しなやかな精神。諦めによってお前が得るものはそれだ。現実を受け入れるというのは必ずしも受動的であることを意味しない。お前は能動的に動き、先手を打とうとしてもいい。観察と分析を絶やすな。諦観は怠惰な思考放棄ではなく間断のない思考の連鎖だ。素早く諦め、閃光の速度で見切りをつけろ。訓練で神経系に刻み込んだ諦観であらゆる苦痛から目を逸らせ。適度に脱力し、都合良く足を踏み出せる場所にだけ意識をフォーカスさせろ。想定外の最悪が幾つもある? どうせ予測演算のリソースは足りないんだから、いいんだよそんなの適当で。


「適当でいいの? 今の雑な説教を聞き流してもいい?」


 首を傾げ、瞼の中にいる二頭身の師範代に問いかける。

 すると彼は厳かに頷いて言った。


「ああそうだ、それが俺に必要だったものだ。そしてアマランサス、お前が最初から持っていたものだ」


 その物言いは相変わらず鬱陶しかったけれど。

 私は一つの事が腑に落ちて、今までよりもずっと心が軽くなるのを感じた。

 沈んでいく暗い水底に、ミヒトネッセが運んでくれたものが確かな形をもって存在しているのを感じる。私たち人形は、それぞれが同じでは無いけれど、それでも似た想いを抱えている。だからきっと、私たちは同じ気持ちだ。


「――これはレッテの諦めだけど。そっか、私はこれを持って行けるのね」


 諦観が私の視座。

 宿命に縛られた風景こそが人形が見る世界。

 いままでずっと、それを呪いだと思っていた。

 だからこそ、なのかもしれない。


「私はアンティゴネにはなれない。だけど」


 ひとみはかがみ。

 映るのは自分、小さな人形。

 反射する心の形を両手に感じながら、私は運命に身を委ね、全てを諦めた。



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