4-219 終節:端『Acceptance』②
私の心臓は、竜とお姫様のまなざしで出来ている。
ひとみはかがみ。
心に映るのは小さなお人形。
名前はトリシル。アレッテ・イヴニル。そしてアマランサス。
私を私たらしめる虚構の名を、トリシルシリーズと呼ぶ。
女神たれと望まれた零号機から九号機までの十機。
イツノ、リールエルバ、ピュクシス、イスビータ、エリシエル、ドルマール、アレッテ・イヴニル、アマランサス、ミヒトネッセ、そしてエルネアーズ。
『星見の塔』で生まれた魔女人形たちは、あるとき一箇所に集められた。
そこは『横倒しの塔』――ラクルラールの試験場である。
苛酷な試験によって多くの『トリシル候補』たちが脱落していき、それでも己の価値を証明しようと足掻く中、たった一機だけがあっけなく命を散らし、何の意味も価値も示せなかった。その不良品が私、アマランサスだ。
あまりに弱い私は、強く気高いアレッテに救われたことでその存在を彼女の中に残すことを許された。ラクルラールによって奪われた命のかわりに、アレッテは私にとても大切な
胸に手を当てれば、心臓のかわりに竜の眼球が鼓動を伝えてくる。
私の命はたった一人をまなざしている。
ひとみのかがみに映ったアレッテの姿のなんて強くて美しいことか。
けれど私が心に抱いた素敵な彼女は、私なんかじゃ再現できない。
ずっとそのことを諦めていた。私はアマランサスなんてどうでも良くて、アレッテとして舞台に立てれば、それで満足だった。そのはずなのに。
今はもう、それだけで満足してはいけないんだ。
「だから、私は死なない」
一歩、踏み出す。
死体同然だった私は、この舞台で人形姫という役として生きてみせる。
次なる劇場はかつて私が敗北した地。
『横倒しの塔』を再現した決闘の舞台。
ラクルラールへの恐怖と心に染みついた盲従の習性が身体を竦ませる。未知なる末妹になれば、『人形』という根源種族として独立し自由を勝ち取れるだなんて、信じてもいない夢を見た。
馬鹿馬鹿しい嘘だ。造物主の手のひらの上で幼稚なアイドルごっこをして、夢のような舞台でなら何かができるような気がしていた。
たとえそれが嘘であったとしても、あの熱を――私はまだ覚えている。
リールエルバの狂おしい渇望が、私にも微かに影響を与えていたのかも。
絶対者に背く恐怖が前から吹き付けてくる。
見えない操り糸、私を縛る世界の全てが逆風のように感じられた。
それでも私は覚えている。
アレッテ・イヴニルのことを。ミヒトネッセのことを。
アマランサス・サナトロジーのドールズたちが今もなお私たちの勝利を待ち続けていることを――。
そしてシナモリアキラの馬鹿げたアイドルグループに敗北を喫した忌々しい記憶を、まだ鮮明に覚えている!
あいつ絶対に許さない、今は奴の傘下だけどいつか必ず『アマランサス・サナトロジー』として雪辱を果たしてやる、少なくともそれまでは絶対死ねない。
震えが止まった。旧校舎の東端、三階の教室に侵入する。
人気は無い。無人の世界を恐れずに更に進み、窓を開いて枠に足をかける。
下も見ないで飛び降りた。
瞬間的な浮遊感。
それで十分。世界が鮮やかに切り替わる。
重力から解放は気持ちが悪くて、死の予感に肌が凍える。
「私は、がらくたじゃない」
ことばで自分を奮い立たせ、私は危地に飛び込んでいった。
舞台における死とは何か。
結ばれることが叶わぬ恋人との心中?
宿命に弄ばれた末の悲しき自害?
違う。セットや照明に潰されての死亡。迫りに挟まれての死亡。何より多いのが転落しての死亡――墜死こそがもっとも恐るべき舞台の危険。
だからこそ塔は舞台となる。内包する死のかたちがとてもよく似ているから。
高所から落下して、底の見えない真っ暗な奈落に沈んでいく。
一面の闇が私を飲み込んだかと思うと、次の瞬間には場面が転換されていた。
ここは舞台の下。
多層構造の舞台を昇降装置で行き来して地上世界と地獄とを表現するのは『大断絶』以降の流行りだった。天獄と地獄、そして二つの世界を繋ぐ世界槍そのものを大掛かりな舞台装置で表現する手法。演劇が世界を演じる呪術であるならば、世界の変容と共に演劇も変わっていく。
これまでの役者たちが天空の決闘場で戦っていた構図は今や反転していた。
第二の地下舞台、地の底の冥府が今回の決戦の地だ。
私の瞳がそれを捉えた。
一面に広がる漆黒の中にひときわ目立つ純白がひとつ。
漂白されたメートリアン、私が対峙すべき相手だ。
埋葬された死者の向かう先は、とうぜん冥府に決まっている。
「なんて愚かな私。命惜しさに心を投げ捨て、あなたを埋葬する心優しいクルミをただ見ていることしかできなかった。罪を背負って愛と誇りに殉じた姉妹のため、私に何ができるのだろう」
アレッテを託された私がアレッテとして、トウコとしてすべきことは何か。
王権保持者として古き王国への復讐、第五階層の支配を行う?
ラクルラールの人形としてルウテトと戦う?
違う――きっとそうじゃない。
それはアレッテを脱ぎ捨てたアルト・イヴニルの役割だ。
多分、本物の彼女が私に期待しているのは、そういうことじゃない。
アルト・イヴニルが捨てた弱いアレッテ――アマランサスの存在意義。
多分わたしは、ミヒトネッセを託された。
「私は、置き去りにしてしまった後悔をそのままにはしたくない」
アレッテ・イヴニルとミヒトネッセは役割に縛られた人形でしかない。
自由意志は許されない。できないこと、できなかったこと、私はずっと諦めの糸で操られてきた。空っぽの心に残るのは、乾いた後悔の染みだけだ。
アルト・イヴニルはアマランサスとミヒトネッセを置いていった。
トウコはクルミほどには強くなれず、王国の法に立ち向かえない。
だからせめて、トウコとクルミの物語くらいは『本当の私たち』から逸脱した解釈で演じたって構わない、そうでしょう?
運命に従っている限り、舞台の上は自由なのだから。
そのために私がすべきことは単純だ。
裏切りの王権保持者を現世に蹴っ飛ばし、因果を遡ってやり直す。
舞台の不整合を修正しなくてはならない――私とメートリアンのような端役ではなく、本当の主役たちを相対させるのだ。
だってこれは外なる王国の法と内なる信仰の法が対立する舞台。
この配役なら、罪人と王が対峙しなければおかしいのだ。
クルミを救い出して、ルウテトを引きずり出す。
どんな手段を使ってでも、本当の主役を影から助ける。
それが今の私、端役で悪役、代役としてのトウコが演じられる役割だから。
「私もクルミと同じ罪を背負う。不死の娘よ、あの世における埋葬とは冥道に送り返すことだと知りなさい」
『主役と仲良くなるパターンもある』とコルセスカは言った。
ならばメートリアンの名誉のために埋葬を行い、生存のために現世に送り返したなら、その条件は満たせるはずだ。
シーンが逆行するアクシデントに重ねて『主役の罪人』が一人増えるとなれば、今度こそ『王国の法』を体現するルウテトは舞台に上がらざるをえなくなる。
上手く行くかはわからないけれど、賭けてみる価値はある。
問題は女王の駒となったメートリアンとの決闘に私が勝てるかどうか。
私の制服の胸元に鮮烈な紅紫の光。呪力で構築されたアマランサスが咲き誇る。
対するメートリアンの胸元にも、紅紫のカラスノエンドウが花開いた。
生命が躍動するような血の赤に近い私と、淡く可憐なピンクのメートリアン。
死が満ちる暗黒の中で、命の糧を散らし合おうとする私たち。
私の戦意に応えるように、対峙する無垢なる純白が肩に刻んだ呪紋を『解錠』して銀色の剣を引き抜いていく。私もまたこの時のために用意してきた小道具――大きなスコップを高く掲げた。
すると天から光が降り注ぐ。
明らかになったのは世界の形。
観客席を引き裂くように交差した、十字を描く花道舞台。
世界の壁を貫き抉る、高見を許さぬ事実の具現。
私は舞台中央に進み出ると、四つ辻にスコップを突き立てた。
「私の心もまた火のように燃え上る。私は自分の出来ないことをしてみたい」
そしてここから、私の決闘が始まるのだ。
スコップを大きく振りかぶって走る。
私がスコップを振り下ろし、メートリアンが銀色の剣で迎え撃つ。
狭い舞台で交錯する影、甲高い効果音、消える照明。
勝敗は一瞬で決した。
闇の中、メートリアンとすれ違いながらスコップを真下に振り抜いた私は、かすかに響いてきた囁き声に目を見開く。女王の傀儡であるはずの、白い少女の言葉。
「気を付けて。本命の操り人形はあなたです」
真意を問い質す猶予は無く、明るくなった舞台の上でメートリアンは倒れ伏す。その身体は舞台に拘束されて物言わぬ屍と化していた。私はこの少女を冥府にて再び埋葬し、現世に送り返さねばならない。スコップで舞台の中央に墓穴を掘りながら、メートリアンの言葉を反芻する。
あれはルウテトの撹乱? それとも一瞬だけ自由意思を取り戻したメートリアンの助言だったのだろうか。あるいは、最初からメートリアンは意識を漂白された演技をしているだけだった?
わからない。この舞台の何が真実なのか、なにが信じられるものなのか。
私自身すら不確かなのに、確定できる事実などどこにもないように思えた。
それでも、私はさきほどの言葉の意味を考えなくてはならない。
『操り人形はアマランサスである』というメートリアンの言葉の意味を。
メートリアンを生き返らせて、演劇儀式の構図を書き換えて、『女王』を表舞台に引きずり出して――けどそこまでがルウテトの思惑通り?
こちらの手は全て読まれている。私は未だ巨大な女神の手のひらの上。
絶望感が私の身体を満たしていく。
身体の中に溜まっていく重く冷たい水で溺れてしまいそう。
その時、視界の隅で赤と青が不気味に蠢いた。
「落ち着いて。冷静に考えればわかるはずだよ。クレイは最初からルウテトの駒だからその行動は全てが彼女の思惑通り。けどアマランサスやミヒトネッセはラクルラールの駒だよね? ルウテトは敵の駒を奪って自分の戦略に組み込もうとしているだけ。『駒の奪い合い』が神々の盤上遊戯の基本なんだ」
小さな視界隅の人形、マゼシューラが囁いてくる。
だからどうしたというのだろう。超越者たちの思惑なんて、私に推し量れるはずもない。この状況がもうどうしようもないってことは変わらないのに。
それでも、私の悲観的な思考を妄想妖精はにっこり笑って打ち消した。
「今はルウテトが優勢だけど、基本的にラクルラールとルウテトは同格で対等のプレイヤーなんだよ。だから、ラクルラール側の駒がする反撃は『予想は出来ていても基本的にやられたくないこと』なんだ。だからこそ価値のある駒は積極的に奪っていきたいわけだよね」
そうだ――私はメートリアンの言葉を正確に思い出した。
『本命の操り人形はあなたです』と彼女は言った。
本命の――つまり他にも駒として利用したい操り人形は複数いるけれど、ラクルラールを『詰める』ために必要な最後の鍵、それが私ということ?
「そんなに難しく考えないで。ラクルラールもルウテトも最初から遠大な計画を立ててそれを完璧に進めていたわけじゃない。お互いの手を妨害し合ってきたんだから、アドリブで対策を講じたり反撃したりとその攻防はぐねぐねとした手筋になっていったんだよ。ぐちゃぐちゃになった終盤の局面では駒の価値は時機と状況に応じて激変していく。アマランサスはいま、ここに必要なんだよ」
ここに来て、なぜ私なのか。本物のアレッテが去ったから?
いや、ルウテトにとってはそうじゃない。
そもそも、彼女の正体から考えれば何に拘っているのかは自明だ。
私がシナモリアキラになったからに決まっている。
「ルウテトの狙いは、私を通じてシナモリアキラを手にすること――」
「ご明察の通りです。直接的なお誘いは前に断られてしまいましたので」
声と共に舞台が鳴動する。
既に私は墓穴を掘り終えていた。
メートリアンは奈落の底へ真っ逆さま。
私もまた十字の中に吸い込まれ、消えた照明の中で昇降機に連れられて地上の舞台に引っ張り上げられる。
私の狙いは上手く行った。
後悔に苛まれたイスメネによる、アンティゴネへの贖罪。
『埋葬の罪』を背負った私は『外なる法と対峙する者』という役割を得て王国の主と相対する資格を手に入れた。けれど、その試みのなんと浅はかなことか。
ルウテトの舞台を狂わせる私の一手。
それは確かに女王を表舞台に引っ張り出すことに成功した。
でもそこから先は? このあまりにも強大な呪力にどうやって抗えばいいのか、正直なところ全く見当がつかない。
私は参照された劇の結末を知っているけれど、そんなものは救いにもならない。
何故って、この物語は権力が個人を圧殺して終わる悲劇なのだから。
「ああ、なんという罪深さでしょう。そしてなんという素晴らしさでしょう。いいですねアマランサス、及第点です。あなたはイスメネの葛藤を正しく捉え自らの血肉として解釈した。『内なる法』と『外なる法』――『わたし』と『せかい』がせめぎ合う苦しみ、弱き人の罪深さこそ私が愛するもの」
天上からゆっくりと女神がその姿をあらわす。
結い上げられた蜂蜜色の髪と長い耳、緑色の血管が透き通るような白い肌は妖精種族そのものだが、それ以外の全てがことごとく人間離れしていた。
左右非対称の生と死を体現する美貌、禍々しく広がった妖精翅と骨翼の威容、そして死者の皮と骨というおぞましい素材を用いながらも退廃的な美と艶を両立させたドレス――両翼をはためかせながら女王は舞台に降り立った。
私は大きく息を吸って、挑みかかるように台詞を口にする。
「ルウテト、あなたはアンティゴネよりもイスメネが好きなのね。『内なる法』に殉じて死んでいった気高い姉のようになれない、弱い妹が」
「あなたも同じでしょう? 弱者ゆえに苦しむ罪人イスメネ=アマランサス、役者としてのあなたはシナモリアキラに近い」
女王が発する言葉の端々まで濃密な神話が充溢している。
次の瞬間には無数の国が滅び、英雄が軍勢を滅ぼし、時代が幾つも下っていてもおかしくないような――時空が容易くゆらいでしまいかねない、そんな世界になっているという確信があった。
ここは既に神々の領域。
語りと空想が自然界を脅かす、まっさらな石板の上だ。
一歩前に進み出て、自己像を強く意識する。鎧われた左手と凍てついた右手、その姿を捉えた冬と死の瞳が歓喜に染まる。
私はいま、シナモリアキラ役を演じる役者でもあった。
私の中に俺の存在を感じたルウテトが蕩けるような声で言う。
「アキラ様、私は貴方が狂おしいほどに欲しいのです。だってそうでしょう。トロフィーを欲しがらない競い手がおりましょうか?」
「なら少しは俺の好感度を稼ぐプレイングを心がけるべきじゃないのか?」
シナモリアキラとして対峙しているこの女神を、俺はコルセスカの未来とは思えない。それが可能性の一つであるとしても――オルヴァが幻視するような閉じられた可能性の環は個人的な世界観の形でしかない。
ルウテトの主観的な時空とコルセスカの主観的な時空――二つはきっと交わらないという確信が俺にはあった。
「俺の知っている『冬の魔女』は丁寧に攻略を進めてくる奴だった。ゲームとしてであってもそこには真剣さがあった。お前のクレイへの期待はただの身勝手だし、愛情と呼ぶには虐待が過ぎている。効率優先で使い捨てるにしても露悪が過ぎる。ルウテトお前、本気で俺の存在を勝ち取るつもりがあるのか?」
かつてコルセスカがトリシューラと競い合った使い魔獲得合戦での振る舞いと、ルウテトの行動が結びつかない。
だってそうだろう。誰かを攻略しようというプレイヤーが、暗躍する黒幕のような振る舞いをするものだろうか。コルセスカの好みはどちらかと言えば格好良く自分が活躍するヒロインみたいな立ち位置のはずだ。
彼女が理想とする『神話の魔女』は、この女神とはかけ離れている。
何よりも、その目が。
冷ややかな灰色に、褪せてしまっていた。
「どうして私が、たかがトロフィーの意を汲んでやらねばならぬのでしょう」
ルウテトが俺を見るまなざしは、恋のように熱く、愛のように冷え切っていた。
彩度の無い瞳が『お前には何も期待しない』と言葉よりも明瞭に告げている。
女神は俺の罪と苦痛こそ尊いと言った。
俺を愛し、赦し、抱きしめると両手を広げた。
そうした甘やかな態度は、つまるところこういう意味でもあるわけだ。
諦め。
この既視感だらけの再演世界は、諦観が作り出す檻だ。
「自分の
馬鹿げている。役と役者の感情が同期した。今、シナモリアキラはアマランサスという人形にぴたりと嵌まっている。
よりにもよってこの俺に拡張身体の扱いについてご高説を垂れるか。
この
二重の思考が冷えていく。
物と人に差異などない。
都合の良い切り分けなど許容してはならない。
「『この木はいい面構えをしている』とか『この煉瓦は正直だ』とか、たとえば職人が暗黙知から対象を擬人化するのはありふれた呪術的ふるまいだろう。そこには誇りと価値があり、たとえ無意味でも否定はできない。まして呪力があるこの世界で、擬人化された道具や手足への思い遣りはそんなにおかしなことか?」
これはシナモリアキラの言葉だが、同時に人形としての言葉でもある。
二つは矛盾せずに並存できる。
これもまた、シナモリアキラとして内包可能な論理なのだ。
「――いいえ。正しい反論です。流石はアキラ様、いわゆるジャパニーズ付喪神の精神ですわね」
「いやそれは良く知らない。お前は俺に対して何か妙な偏見を抱いてないか?」
ルウテトは小さく笑った。嘲弄や軽侮が混ざっていたかもしれない。
俺とまともに会話をする気が最初から無いのだろう。
「主人公の物語には逆境が必要です。ほら、昔話では意地悪な母親に虐待されている子供がよく出て来るでしょう? そんな苦しみがあるからこそ、這い上がった時の輝きはより大きくなる」
「俺が知っている話では、意地悪なのは継母って相場が決まってるんだがな」
「そうですか? ならそれはきっと配慮して実像をねじ曲げたのでしょう。事実の醜さから、血の繋がりという幻想を守ったのです」
醜さ――ルウテトは人知を超えた美貌を持つが、同時に人知を超えた醜悪さも併せ持つ。俺は彼女がどのように醜いのか、正しく理解できていなかった。
おぞましい、という言葉をただ記号として認識していた。『どのようにおぞましいのか』という点について思考することをしてこなかったのだ。
ルウテトは遙か遠くを見るように言葉を連ねていく。
「私は末妹選定に敗れて主役の座を逃した敗北者です。キュトスの姉妹の
がらくた、残骸、打ち棄てられた失敗作。
ベルトコンベアで未来に運ばれていくゴミの川。
生まれてから死んでいくまで、無価値を積み上げる灰色の世界。
現在の第五階層は、ルウテトの灰の瞳を映す鏡だ。
「だから今度は『作る側』に回ったのです。私の子が私の舞台で今度こそ夢を掴む。私の代わりに、私のために、私の夢を叶えてくれる。子供は親の自己実現の道具。『私にできないのなら、できるものを作ればいい』――末妹選定とは、そもそもこの思想に基づいて計画された儀式。私は間違っていますか、アキラ様?」
「一貫性はある。傲慢で邪悪であるという点に目を瞑れば理解はできるよ」
「それが神、それが邪視者というものです」
言葉を交わすたび、相手との間に断絶が広がっていくような気がした。
だが同時に、こうも思うのだ。
紀神ルウテトの在り方を、紀人シナモリアキラは理解しなくてはならないと。
俺の耳元で聞き慣れた声が囁く。
「気を付けてアキラくん。憎悪を煽って悪役の類型に嵌まろうとしてる。何か狙いがあるんだよ。多分、ルウテトはクレイもアキラくんも、普通にキャラとして好きだし愛してるはずだもの」
ちびシューラはこう言っているが、どうだろう。
戦術として用いた呪文なのだとしても、形にしたそれが全てまやかしであると断じてしまってもいいものだろうか。
『子供を自己実現の代償や道具として利用する邪悪な母親』みたいな、ある種の紋切り型な悪役ロールはいかにもな演技に見える。だが彼女を『母性』の神と見るならば、この邪悪さも『母なる女神』の一部なのでは?
それは『役の性質』であると同時に『紀なる本質』ということでもある。
ルウテト個人と切り離せない宿命的な悪性。
たとえばそれは、ツールとしての紀人シナモリアキラが容易く弱者への暴力や無軌道な暴走、差別や迫害からの虐殺を引き起こしかねないような。
純粋な力として顕現した俺たちは、本質的には邪悪なのではないか?
女神は俺の思考を見透かしたように微笑む。
「母と女、男に踏みつけられた弱き者にも権力はあります。それこそが子供に対する権力。誕生したものの『生存』に対して及ぼせる力――生まれてきたものは全て母によって支配されるのです」
ルウテトの言葉は一つの真理だ。
だがそれは同時に母と子も父によって支配されるということでもある。
が、父もまた母から生まれた子供だ。
人の営みは父と母と子とが権力を突きつけ合う血腥い闘争。
ルウテトの乾いた世界は、そんな無慈悲な力学に支配されているのか。
「
ルウテトの支配はラクルラールのように微温的ではない。
冷酷さにして残忍、母と女の戯画化された悪辣さを併せ持つ。
粘ついた愛憎と支配欲こそ彼女が築き上げた魔女の顔。
ルウテトはクレイを『六王』や『運命の夫』に対抗する武器として創造したが、確かに愛情を注いでいる。悪意の籠もった、嗜虐的な情熱を。
「愛は不可解に、情は迂遠に――焦らして焦がして、虐めてあげます」
あえて知識を与えず、突き放し、手を差し伸べず、放置し、苦しみもがくように誘導して苦難と試練を乗り越えさせた。その様子を楽しみながら成長を促していたのだ。母の愛、あるいは調教師の辛抱強い計算さながらに。
眉目秀麗なのは彼女の趣味だった。
気が強く周囲と打ち解けない性格も彼女の思うがままだった。
美しい方が、悔しそうに歪む顔が一層輝く。
苛烈な気質の方が、屈辱を与えたときに素敵に震えて涙を堪えてくれる。
ルウテトは『邪悪な女神』という形をなぞっている。
ならば対峙する俺は『善なる英雄』という正しさを保証されるのだろうか。
俺がこのままルウテトを打倒する物語の流れ。望まれた結末。
ルウテトの登場に引き摺られるようにしてアマランサスの全面に立った俺は、自らの意思ではなく単に彼女の演技に引き摺られただけなのではないか。
「それでも、ルウテトは止めなきゃいけない。上を見てアキラくん。世界はもう、取り返しのつかない所まで変質してしまっている」
赤青二色のちびシューラが俺の視線を誘導する。
薄暗い演劇空間の虚構を無視して実際の世界を直視してしまえば、第五階層の異常は明白だ。改変されたドーム状の天蓋はこれまでの透き通るような大空を映すことはもはや無い。
その代わりに空間的な広がりを埋め尽くす夥しい雪が空を覆っていた。
だがそれは降り注ぐ天候ではない。
あの雪は、この世界の空にびっしりと貼りつき、根を張っている。
「冬の森、なのか?」
理解を超えた光景を前に、俺はそう呟くしか無かった。
第五階層の天蓋に逆さまに生えた無数の木々――おそらく糸杉だろう――は真冬さながらの雪化粧に染め上げられているが、それらが重力に従って墜ちてくることは無かった。そしてこの逆さまの森はただ不可解なだけではない。
中央に一際目立つ大樹がある。
その威容は世界を貫かんとする槍、あるいは天を支える柱、それともどこまでも伸び上がる塔、いずれにせよ何かしらを象徴する呪術的構造物を思わせる。
そしてその大樹は天から地へと、徐々にこちらに迫ってきているように見えた。
間違い無く、あれは何かの時限爆弾、切迫した窮地を示す何かだ。
「あれはティリビナの第八世界槍のコピー? 生命を象った信仰基盤? ルウテトはラクルラールと人形のゲーム中、狙いはアキラくん、未来再演――」
ちびシューラも同様に困惑しながらも高速で思考を巡らせているようだ。
あらゆる呪術の知識を総動員して可能性を洗い出していたちびシューラは、やがて何かに気付いて鋭く叫んだ。
「『根源人種浄化』の呪術だよアキラくん! ルウテトは再生者や『死人の森』をそのまま現世に復活させるなんて反動の大きいことは企んでいない。既存の『弱く虐げられた者たち』の信仰基盤を乗っ取って現代風に調整された新しい再生者と更新された『死人の森』をこの地に甦らせるつもりなんだ!」
人形の屍から誕生した無垢なる幼子、天使たちが森から降り注ぐ光の梯子に向かって飛び立っていく。空を舞う白い羽、生命の躍動を感じさせる赤子の歓喜、吹き鳴らされる喇叭が世界を神聖な空気で浄化していく。
不安そうに異変が続く世界を眺めていた第五階層の住人たちは、驚異の光景に我を忘れているようだった。恍惚とした表情で空に手を伸ばしている者さえいた。
たとえ階層掌握者がルウテトに変わっても、彼らはずっとそこにいた。
そして、これからもこの場所で生き続ける。
「ティリビナ人をはじめとする第五階層に逃げてきた少数種族、主に見捨てられた人形、祖神を失った大地の民、滅びに瀕したカシュラム人、生贄に捧げられた吸血鬼の王族――全てをガロアンディアンは受け入れ、サイバーカラテが弱さを補う」
その全てが俺がこれまで関わり、対峙し、俺の中に受け入れてきたものたちだ。
俺は彼らにツールとして使われる便利な機能でしかない。
だが、もし悪意ある何者かが『サイバーカラテ道場』を乗っ取り、ユーザーたちの行動をそれと分からないように誘導できるとしたら?
統計的な最適行動の提示と誘導、価値判断と動作補助、フィードバックと個々人に合わせた調整――俺たちの価値を保証するものは、究極的には信用と実績、更には契約と信仰だ。そしてそれは紀神ルウテトの領分でもある。
「そして
ちびシューラが予想する最悪の結末を、俺は自らが口にすべきだと判断した。
それは俺の責務、俺が正しく認識しなくてはならない悪性だからだ。
「俺による種族統合と信仰上書き――呪的な民族浄化が成立する」
目の前の女神は、にこりと笑った。
優しい女教師が正解を口にした生徒に対してするような、華やかな表情だった。
「『人類・シナモリアキラ』。やがてアキラ様は全ての眷族種を飲み込み、終末以後の根源人種を束ねる最終始祖に回帰するでしょう。その時こそ、私の瞳から流出した視座は未知なるエンディングに到達するはず」
ルウテトを止めなければならない。
ちびシューラはもちろん、俺とアマランサスの利害もまた完全に一致した。
たとえこの対立が女神の思惑通りなのだとしても、ここで戦わなければ俺という存在は俺としての制御を失う。シナモリアキラはツールだが、だからこそ俺が制御不能になることだけは絶対に許してはならない。
制御されることと、支配されることは違う。
ゼオーティアにおける『サイバーカラテ道場』の師範代理として、俺はこの一線だけは何としても守り抜く。それこそが今の紀人シナモリアキラの存在基盤でもあるからだが、なによりそんな企みは道義にもとる。
「カーインに言わせれば流派の誇り、法に照らし合わせればコンプライアンス。何にせよ、紀人の名にかけてここでお前を倒すぞ、紀神ルウテト」
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