4-214 終節:救『Parable of The Barren Fig Blade』③




 侍女の服と人形の身体、腐った豚の頭部を持った異形の屍が、じっとクレイを見つめていた。虚ろな眼窩から覗く底無しの闇と蛆の白を少年は恐れた。

 膨張する腐肉は寄生していた侍女人形の身体に収まらず、ついに豚の頭部は器から溢れ、服を脱ぎ捨てるように天井近くまで伸び上がる。

 がたりと音を立てて捨てられた人形の胴、割れた頭部。

 哀れな敗残者を舞台から押し退けて、腐肉と蛆と蝿と黒々とした瘴気によって構成された異形の怪物がその巨大な全身を明らかにしていく。

 醜い豚の頭部、その右半分の腐肉がごっそりと崩れ落ちて白骨が露出する。

 虚ろな眼窩に、死を象徴する冬の氷雪が結晶して眼球となった。


「松明に蹂躙された不毛の樹木いのち――世界樹の焼失と共に失われた『死人の森』に収獲の春は来ない。ならば実るように育てればいい。無花果の剣よ、裁定の時です。貴方に相応しいのは収獲ですか、それとも剪定ですか?」


 聞く者を蕩けさせるような甘やかな声だった。

 残酷な問いを投げかけているとは思えぬような美声に、クレイは恐怖しながらも興奮を隠しきれない。恍惚とした表情で、彼は愛すべき存在が自分を求めているという幸福を甘受する。母に縋り付く幼子そのままの表情で、クレイは収獲という言葉を繰り返し叫んだ。


 だが、豚は淀んだ視線を子供に向けるばかり。

 退屈に倦んだような溜息を吐くと、そのまま頭を巡らせてここではない何処か、舞台を破壊する槍が飛んできた方向を見据える。

 舞台の中心を貫く、とりわけ巨大な槍。

 豚は腐肉の塊を蠢かせた。すると黒々とした汁液を溢れさせながら肉が爆ぜて内側から真っ白な腕が飛び出す。ほっそりとしてはいるが、サイズ感の狂った巨大な手が柱の如き槍を掴み、一気に引き抜く。

 槍を掲げた怪物は全身に歓喜を漲らせて叫んだ。


「やっと取り戻せた。私の浄界、私の死人の森、私の世界槍、私の力。未だ完全ではありませんが、感慨深いものですね」


「世界槍――? 陛下、それは、どういう」


 クレイの不思議そうな問いかけに、豚の女王はうっとりとした表情で答えた。

 彼女が握る槍は、いつのまにか氷の視線によってその在り方を変質させつつある。いまやそれは氷によって形作られた透明な槍なのだった。


「これこそが私の槍。『心臓』を降臨させるには世界樹との融合深度が足りませんが、力を取り戻した今ならミューブランの地下大空洞から『さかしまの森』を招き寄せることくらいはできるでしょう」


「心臓というのは、トライデントの? ミューブランというのは亜大陸の、聖絶によって燃やされたティリビナ人たちの霊峰のはず。陛下とどのような関係が」


 クレイは何も分からずに戸惑うばかり。

 女王は小さい子供に昔話を語り聞かせるように、未知の言葉を紡いでいく。


「本来の第八世界槍である世界樹ティルブ=ユグドラシルは松明の炎によって死を迎えました。その後、欠落した世界の軸を私の槍が埋めて安定化させた。それが現在の上書きされたこの世界槍というわけです」


「この世界槍――陛下の槍? その、申し訳ありません、俺には何が何だか」


「そうですね。貴方にも色々と教えねばなりませんが、その前に」


 蝿たちの赤い複眼が一斉に打ち棄てられていた侍女人形の残骸を見る。慈母の崩れ落ちそうな微笑みが歓迎の意思を示した。

 突然むくりと起き上がる人形にクレイがびくりと身を震わせるが、直後その表情が驚愕に染まる。侍女の姿は幻のように消え失せて、そこには薄汚れたコートとテンガロンハットの陰気な男が立っていたのだ。

 豚はそれを見て大いに鼻を鳴らした。


「愛しい愛しい私のクレイ。可愛い可愛い私のリル。雄々しい雄々しい私のイアテム。愉快な愉快な私のグレンデルヒ。素敵な素敵な私のゼド、ぶうぶうぶう」


 異形の音にクレイは身を震わせ、ゼドは薄く笑った。

 盗賊王を見下ろす巨大な女王はひとしきり笑ったあとにこう続ける。


「ぶう。私が教育ビルドした生徒ユニットたちの中で、貴方は最も優れていました。ぶひぶひ。過去からの指し手プレイヤーである私の優位性は、手駒ユニットの育成と準備を事前に仕込んでおけることぶう」


「それは光栄だがな、女王。娼館での契約を忘れるな。俺はあんたの同盟者となることを絶対遵守の法に誓ったが、部下にも生徒にも傀儡にもなったつもりはない。俺はゼド、おまえたち過去の永遠の敵である盗掘者だ」


「ぶう。私たちを忘却から救い出し、歪な形に零落させる忌まわしい救い手であり理解者。それが貴方ですぶう。貴方のアキラ様への執着も含めて、これからの働きにとっても期待していますぶう」


「食えない女だ」


「豚だから食べられますぶう」


 言ったそばから豚の肉が腐り落ちた。

 二人のやり取りがまるで理解できずに困惑するクレイ。そんな彼を他所に、女王から盗賊王へと何かが受け渡されようとしていた。

 ぶうぶう鳴きながら豚が口と鼻から垂れ流すのは黒く濁った油だ。

 ゼドは帽子を脱ぎ、頭上から降り注ぐ汚液を頭で受け止める。

 異様な光景に凍り付くクレイの思考。

 そんな彼をゼドは油を浴びながら横目で見やる。面白がるような視線だった。


「権能の譲渡に少し時間がかかる。その間に話でもしてやったらどうだ」


「フゴッ、そうですね。クレイ、貴方の頑張りも称える必要がありますぶう」


「こ、光栄です」


 豚の女王の口と鼻は盗賊王への呪術的行為で塞がっている。

 そのため、巨体の腹を突き破って現れた新しい頭部がクレイに語りかけた。

 子豚のつぶらな瞳がクレイをまなざし、瞬時に腐り落ちる。

 

「ぷぎっ。神話の踏破、ご苦労。さぞ混乱しているでしょうが、クレイにも分かるように簡単に説明しますぶひ。私の目的は、『死人の森』のアップデート。再演によって新たな神話を生み出すことだったのです」


 豚は次々と新たな頭部を誕生させていく。腹を突き破って飛び出す子豚たち、出血を伴う多産の家畜が清らかな声で神話的スケールの企みを明らかにしていった。


「六王内乱からの衰退と滅亡、宝剣の劣化を経て忘却に沈んだ『死人の森ヒュールサス』は最終的に鈴国ジャッフハリムに飲み込まれ、再生者オルクスは抗齢呪術によって生まれた長寿者メトシェラたちに上書きされました。ですが悲観することはありません。当然、私はこの世界槍の中核にバックアップをとっておいたのです。ぶう」


 『当然』――その言葉を強調した途端、ゼドが小さく含み笑いをした。

 クレイは怪訝そうな顔をするが、女王は構わずに続けた。


「ですが再演をしても前と同じではいけませんぶひ。解釈を変え、役者を入れ替えて新鮮さを出して行く必要がありますぶう。そのための貴方です、クレイ。私はあなたという主演俳優を最高の存在に育て上げる必要がありました。ぷぎゅ」


 舞台が震え、姿無きコーラスが一斉にクレイの名を称える。

 世界そのものが彼を必要としている――ここは彼のための世界なのだ。

 クレイは、それを誇らしい表情で受け止めるべきか、驚きの表情で受け止めるべきかを判断しかねている様子だった。


「俺にそこまでの期待をかけて下さっていただなんて――陛下、ありがとうございます。この腕の剣に誓って、どのような役でも演じきってみせましょう」


「うーん、まだちょっと真面目ちゃんですね。ぶう。ミヒトネッセとのフラグ管理が甘かったかもしれません。イベントをもうひとつふたつ挟むべきでした。喪失への怒りも情欲の喚起も足りていない」


「陛下?」


 輝くような視線を向けるクレイを、女王はじっと眺め続けていた。

 それは愛し子に向ける目というよりも、実験動物を観察する時のような冷静なものであり、どこか退屈さと諦観の入り交じった暗い視線だった。


「蠱毒――いえ、星見の塔トーナメントと言った方がわかりやすいでしょうか」


「はい?」


 甘やかだった女王の口調が急激に冷えていく。

 未来への期待に満ちあふれていたつぶらな子豚の瞳は残らず腐り落ち、ぼとぼとと舞台に落ちていく幼い命たち。子供たちの未来は無惨にも潰えていく。


「全ての試練ゲームはレベリングのためにありました。戦闘と捕食による自己強化、槍の理を内面化して殺し、奪い、勝利するハックアンドスラッシュの蛮人ゼノグラシア。六王というステージボスを撃破し、新たなアビリティを獲得していく過程。ええ、『マレブランケ』のスロットに六王の仮面ペルソナを追加していくことで、紀人シナモリアキラはより強くなる。あとはアキラ様とクレイが喰らい合う決戦を残すのみ。どちらが勝利しても私の理想は完成するはず」


「おいおい、俺を忘れてくれるなよ。好きな方とガチで喰らい合わせてくれるんだろう? 俺に負けるようならお前には不要な役者ってことだからな。全く、冷酷な女神様だ、豚ってのは沢山生むから子供への愛情が薄いのか?」


「失礼なことを言わないで欲しいぶう。私は子供たちを信じているのですぶひ」


 クレイを放置して、二人の怪物が忌まわしい話し合いをしている。

 若者にはそのおぞましさがわからない。

 自分が置かれている立場が、ことここに至ってもまだ理解し切れていない。


「なあおい、それで女王よ。そこの新人は使い物になりそうなのか? いいように踊らされて、あてがわれた自分の女をゴミ同然に扱われてもまだ尻尾を振っている可愛い子犬ちゃんに、剣の資格があるのかよ?」


 手酷い侮辱にかっとなって頬を染めるクレイだったが、言い返すだけの言葉を持っていないことに気付き、押し黙る。ゼドの言うとおりだった。この状況は、彼にとって本当に喜ばしいものなのか?

 湧き上がる疑問に、豚の女王が悪意を被せてくる。


「クレイ、可愛いクレイ。貴方が正しく新王の役割をこなせるかを試すため、役の解釈を問います」


「はい、何なりとお答えします」


 背筋を伸ばして豚を仰ぎ見るクレイ。

 自分はまだ試されている段階なのだ、この嫌な空気は気を引き締めるべきだという警告なのだと己に言い聞かせながら、新人俳優として最終面接に臨む。

 そして、手酷い圧迫がその心を打ちのめした。


「日常シーンの解釈ですが、若き王は侍女に手を出していたと思いますか? ていうか正直、自分に傅く美しいセクサロイドにむらむらきませんでした?」


 唖然とするクレイ。げらげらと大笑いするゼド。

 母親が息子にする質問としては最悪の部類だ。クレイがごく普通の家庭の少年であったなら、恥ずかしがって誤魔化すか、「うるせえクソババア」とでも言って自分の部屋にでも閉じこもる所だ。だがクレイにそんな態度がとれるはずもない。


「いいえ! 俺は、そのような――」


「それはおかしいですね。ちゃんと欲情するように設定してあるのに」


 女王の言葉を、クレイはまたも受け止め損ねた。

 理解できない。理解できない。理解したくない。

 何かがおかしかった。それに対してショックを受けてはいけないはずなのに。


「誤作動を防止するため、性的なものに近付くと強いショックを受けるよう貴方の魂にはロックをかけています。『部位』などの記号に惑わされることなく、対象の本質にだけ惹かれ、欲望するように設定しました」


 剥き出しの乳房や裸体との接触による気絶。

 クレイにとって異性との過度の接近は禁忌だった。

 理由はわからない。ただそう定められていたからそうなのだと思っていた。

 だがそうではないと、女王は語る。


「私が入り込んで以降のあの人形は、貴方にとって魅力的だったはず。ええ、かつて私と契約を交わしたファウナも忘れられない人になったでしょう? 試作体の貴方が羊飼いの少女を捕縛してきた時、これだと思ったのです。厳しさの中に柔らかさを感じる、貴方にとって適度に都合の良い年上の異性。私への忠誠と両立しうるだけの好意の萌芽はあったはず。それは当然のこと。私しか愛せない貴方は、私が端末化した恋人役だけをそうと知らずに犯すことができる」


 無自覚のインセスト・タブー。

 クレイの脳裏に浮かぶ、血の記憶。

 舞踏の師ファウナの胸を貫き、王の侍女クルミの胸を貫いた自らの穢れた手。

 自分は知らないうちに母親の影を殺し、捕食し、陵辱していた。

 ファウナを自らの意思で殺したと思っていた。

 クルミを役を演じる形で殺したと思っていた。

 違ったのだ、全ては予定されていた。


「陛下、俺は、何なのですか」


 震える声で問いかけると、豚の顔が醜く歪んだ。

 ありったけの悪意を込めて、わざとらしく敵意を掻き立てるように。

 お前の敵はここにいるぞと煽って見せる。


「妄想妖精クランテルトハランス。古代の妖精王は理想の兵士を創造するためにこの呪術をこぞって研究しました。伝え聞くところによれば帝国最強の夢女子セレネ=フルエルミーナは理想の彼氏を同時に百人以上も具現化・維持できたとか」

 

 私もそうできればよかったんですけど、と少し残念そうに豚の頭が項垂れる。

 邪視には向き不向きがあり、その性質にそぐわない大軍勢を構築することはできない。『死人の森の女王』が統べるのは屍の群れでしかない。


「クレイ、貴方は道具。そして私が切り離した端末」


 肉体の一部、自己愛の対象。シナモリアキラが第五階層を拡張身体として扱うのと全く同じ。自我を持った身体性の延長。それが子供、それが家族。

 女王は腐り落ちた肉を眼差し、邪視によって変容させた。

 死が覆り、再びの生を受けた肉塊がクレイそっくりの顔を形作る。喃語を口から漏らす出来損ないのクレイが女王の腹から次々と湧いて出て来ると、そのままどろどろと腐り落ちて崩壊していった。


「父親は、えーとそうですね。私がこれまでに触れてきた無数のキャラ、数々の彼氏たち――ああ、貴方も夢主である私の亜種彼氏ではあるのですが――しいて言えば、そのへんがクレイの元ネタです。創作ってそういうものでしょう?」


 クレイは女王の息子だ。

 だがその扱われ方はどうだ。造物主としての傲慢な振る舞い、愛を嘲笑い、子供の運命を弄ぶかのような悪辣な所業。

 純粋な心で主君に使える騎士という在り方を信じていた若者の心に嵐が吹き荒れる。天を仰ごうとも祈るべき神は彼を裏切った。ならば彼はどうするべきか。


「復讐だ! 復讐しかない!」


 合唱する声がクレイの背を押していく。

 そうだやっちまえと煽るゼド。己の正体を知って身を震わせるクレイに期待の視線を送る豚の女王。ぶうぶうと鳴き、興奮して叫ぶ。 


「ああついに! 造物主の課した運命に抗うのですねクレイ? やっと反抗期、素晴らしい、それがトゥルーエンドへの分岐です! 憎いですか、私のことが! 暴虐の父権! 支配の母権! 抗いようのない権力で子供をモノとして扱う親を、内心の自由さえも縛る呪いを、断ち切る決意ができたのですね?」 


 女王は今やこの世で最もおぞましい豚の怪物に成り果てていた。

 濁った声、腐り果てた眼球、蝿と蛆に塗れた悪臭まみれの蠢く肉塊。

 黒々とした汁を垂れ流す口には爛々と光る猪じみた牙、豚の鼻を歪に融合させたような触手がクレイを取り囲み、明確な敵意を向けている。

 怪物と対峙した英雄は、しかし俯いたまま動かない。

 女王は首を傾げて顔を近付けた。


「どうしたのです。親殺しを成し遂げなければ真の意味で完成することは――」


「俺には、貴方に刃を向けることなんてできません」


 透き通った視線だった。 

 刃の如き両目の鋭さは、今や見る影も無い。

 潤んだ瞳に宿るのは、どのような事実があったとしても変わらずに向けられる母への、主君への慕情。それが異性への欲望として設定されていたとしても、恋い慕う想いが醜悪と蔑まれる近親相姦の肉欲だったとしても、彼が辿ってきた忠義の道は、剣という形は嘘では無い。


 だからクレイは憎しみと敵意を抱かないし、抱けない。

 かくして望まれた展開、悪意の演出は滑稽な見世物に終わった。

 豚の女王はしばしの沈黙の後、深々と溜息を吐いた。


「あーあ、まーたノーマルエンドですか。どこで分岐間違ったんでしょうね。これではソルダはおろかガドールにも通用しません」


 いつのまにか油を受ける儀式を終えていたゼドは、飽きたと言わんばかりに舞台から降りてがらんとした観客席を横に使って寝転んでいた。見るに値しない舞台だから寝ると無言で主張し、わざとなのかいびきまでかき始める。

 女王もまた、よしと気を取り直した。


「ま、いいでしょう。やり直せばいいことです」


 巨大な手を生やし、腹部に突っ込んで泥のようなものを取り出す。

 粘土だ。舞台の上で、幼児がそうするように一心不乱にこね始める。


「キャラメイク、キャラメイクと――今度はもう少しオスっぽいデザインとか? ぶひっ、ビルドは戦士系スキル主体で、儀式系は紀人ツリーに届かせるための必須分だけ取得する方向で。経験値ポーションと好感度アイテムぽーいっと。ぶう」


 大量の薬瓶とクッキーが虚空から出現し、出来上がった粘土人形に頭上から降り注ぐ。新しい被造物は美しい少年に生まれ変わって造物主に無垢な好意を向けた。


「いいのですか? 俺などにこのような贈り物を――光栄です、陛下。大切に、ずっと大切にします。陛下の真心に応えられる戦士になることを、ここに誓いましょう。ずっとおそばで、陛下を守らせて下さい」


 キラキラと燐光を放つ少年の笑顔。無垢な信頼、無償の好意が瞬間的に高まり、女王に対して向けられる。


「わーいイベントスチル回収ー。好感度ボーナスは体力と器用さですか。敏捷性欲しかったなー。あとは装備だぶー虚無周回頑張りますぷぎゅ」


「あの、陛下?」


 クレイが――クレイとして期待されていた役者が震える声で母を呼ぶ。その視線は恐怖に染まっていた。新しく作り出された泥人形。今まさに生命を獲得し、確固たる自我を確立しようとしている『クレイ』に、『クレイだったもの』はひどく怯えていた。女王は言った。


「ああそうか、まだいたんですね。うーん、じゃあチュートリアルバトルいってみましょう。クレイ。私の可愛いクレイ。練習用のエネミーを倒して、経験値を獲得するのです。前のデータを引き継いで強くなりましょうねー」


 柔らかな慈母の声が命ずるままに、新たなクレイはどこかたどたどしい手つきで手刀を構え、見捨てられたものに斬りかかる。逆らうことを知らない子供は、母親の暴力から逃げる術を持たない。刃は無慈悲な死をもたらす。

 かと思われたその時だった。


 透明な蝿と共に矢が飛来し、クレイだったものの致命傷を瞬く間に巻き戻していく。傷一つ無い『クレイ』を空間を引き裂いて現れた雪のような少女が攫い、豚の邪視を氷の盾が遮った。観客席から飛び上がって快哉を叫ぶ盗賊王の銃弾を、義肢の男が軌道を予測して回避、赤毛のアンドロイドが反撃の号砲を鳴らす。


「これは合図のための射撃なので銃規制セーフ!」


 叫びながら音響呪文を解放、『爆撃』の雨をゼドに浴びせていくトリシューラ。

 シナモリアキラの左右の義肢がゼドの両手の拳銃と激突し、クレイを片手に抱えながら『新しい方のクレイ』を一瞬で凍結させたコルセスカが豚の邪視を防ぐ。三人は敵対する怪物たちと数度の衝突を経て距離をとり、舞台の上で睨み合った。


 どんな仕打ちを受けてもひたむきな信頼を母に寄せていたクレイは、見捨てられ、殺されかけたショックで今度こそ茫然自失となっている。コルセスカとシナモリアキラの視線が強い感情を乗せて豚の女王を貫く。


「――ルウテトッ!」


「はい、アキラ様。貴方のルウですよー」


 女王は可愛らしく小首を傾げて、真っ白な手を振ってみせる。

 死の化身たる醜悪な怪物と、その傍らに侍る陰気な死神。悪辣な再演の舞台を支配していた古き神と新しき神は、因縁の仇敵と遂に直接の相対を果たした。

 死人の森の女王ルウテトは、豚の皮を脱ぎ捨てて真の姿を露わにする。

 左半身は薄翅を広げる美しい光妖精の美貌。

 右半身は骨の翼を突き出した穢れた死者の異形。

 頭蓋骨の仮面が顔の片側に貼りつき、闇のような眼窩から氷の瞳が迫り出す。

 氷の槍を手にした魔貌の女神は、裸身を骨のドレスで覆うと無邪気な笑みを見せてこう言った。


「役者は揃いました。もはやこの期に及んで紀神としての宣名を躊躇う理由はありません。愚かな小娘、失敗に向かうだけの終わった私。誰が真の邪視者であるのかを、今こそ教えて差し上げます」


 ルウテトの敵意ははっきりとコルセスカに向けられていた。

 険しい表情でもうひとりの自分と相対する冬の魔女は、眼前の結末を予想するように覚悟を決めた表情だった。反対にルウテトは勝利を確信した口調で言い放つ。


「この世界槍の名を教えましょう。誰も意識できず、疑問に思う事すらできなかった認識のヴェールを取り払ってね」

 

 シナモリアキラとトリシューラは、その危機を共有できない。

 だからコルセスカは、傍らの炎と影に命じて二人の前に移動させる。

 そして自分は、クレイを背後に庇って強く前を見据えた。

 言葉が来る。最大級の宣名、紀神の名に匹敵するかそれ以上の呪力が解放され、真実の開示が森羅万象の支配権を書き換える。

 女王が握る透明な槍が伸張し、世界を貫いていった。


「ここは第九世界槍、揺籃命宮アイスナイン。私が持つ九氷晶の最後のひとつ、『氷槍』そのものです」


 明かされた真実と共に、貼り付けられていた世界の野蛮が砕け散る。

 舞台に突き刺さっていた幾つもの槍が全て塵と化し、氷細工の透明な槍だけが女神の手に残される。いま、世界は変革の時を迎えたのだ。

 シナモリアキラたちは荒れ狂う呪力の奔流によって為す術も無く舞台から押し流されていく。力ある紀人たちでさえ抗えない、絶対なる理。

 階層の管理権限を完全に奪われたトリシューラは抗うことができず、シナモリアキラもまた自身の身体を縛られてしまっている。

 ただひとり、コルセスカだけが強い視線をルウテトに向ける。

 女王は薄く笑み、強く瞳を輝かせた。


「分かっていますよ。これでようやく始められる――それでも、最後に勝つのはこの私です。第一浄界――『ステュクス』!」


「第二浄界――『コキュートス』!」


 視線が激突し、時空が軋みを上げる。

 世界観同士のぶつかり合いの果て、敗れたのはコルセスカの世界だった。

 この世界は既に冥府であり、死の女王が統べる手のひらの上。

 森羅万象が捩れて虚空の一点に溶け落ちる。誰も彼もが奈落の大穴へ落とされて、生ある全てが落ちた後には存在という存在が死とひとつになっていく。

 全てはまどろみの中に。

 これは完全なる力を取り戻した紀神ルウテトが見る、グロテスクな夢想だ。


「いい子ね、可愛い坊や。さあ、これからもお母さんが守ってあげる。お腹の中にいらっしゃい。素敵な現実から醒めて、悪い夢を楽しみましょう――?」



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