4-213 終節:救『Parable of The Barren Fig Blade』②
多分、夢だった。
これはどこかで演じられた些細な一幕。
目覚めたら忘れている、まどろみに溶けてしまうだけの嘘。
学院を騒がせた六王たちは退学となり、学生たちは楽しい青春を謳歌していた。試練を経た若き王、無花果レイの表情は柔らかくなり、傍らの友人と軽口を叩き合う姿がよく目撃された。
学院は平和で、日常は穏やかに過ぎていく。幼い人形の若者たちは遠い未来を夢見ていた。孤島の外、海の向こうに広がる世界で輝ける星にきっとなってみせる。夜空の星を見上げて願うように、彼らは意思を抱く。
それは学院の王に据えられた無花果レイにとっても同じ事。漠然と思い描く未来はまだ形になっていなくとも、舞踏を学び、研鑽を重ねる日々はきっと無駄ではないと信じている。授業と部活で汗をかいた時間は、成果となって帰ってくる。積み重ねは必ず実を結ぶと、根拠の無い確信だけを頼りに進み続けていた。
「楽しそうね」
ふと、冷えた口調の言葉が投げかけられる。
日暮れを迎えた時刻の練習場、他の部員たちが帰った後でもレイは未だに舞い続けていた。そんな彼を壁際に寄りかかって眺めるクルミ。練習着を身に纏った現在の彼女はトロフィーとしての侍女ではない。女子部員のひとりでしかないお前はそのように振る舞え、というレイの命令を忠実に守っている。
「舞なんて神に奉納するためのごっこ遊びでしょ。祭司王としての責務を熱心にこなすのは責任感から? それとも他にやることが無いの?」
嘲るような口ぶりだが、込められていたのは真剣な問いかけの意思だった。
動きを止め、クルミの瞳をまっすぐに見てレイは言った。
「そうだな。俺はこれの他にできることもやりたいことも知らない。ただ惰性で、形をなぞっているだけかもしれない」
「空っぽね。あんたに王としての中身なんて無いんだわ」
「そうかもな。それでも、『形』を研ぎ澄ましていくのは楽しい」
レイの口から自然に出てきた『楽しい』という言葉に、クルミの表情が凍る。瞳が震え、何かを言おうとして失敗する人形。そんな彼女の動揺を露知らず、レイは遠くに想いを馳せるように練習場の天井を見上げた。
「転校してくる前、俺に舞を指導してくれた先輩にも言われた。俺の才能ならこれから先、いくらでも尊敬を勝ち取ることができるだろうと。その時の俺は尊敬など欲しくは無いと言ったが、今はそうでもない」
先輩――ここにはいない誰かを懐かしむ男の口調は少し寂しげで、けれど誇らしげだった。楽しいというのなら、その思い出こそ楽しさに満ちているのだろうと思わせるほどに。
「称賛を受け取るのも、そう悪いものではない。何も無い俺だが、積み重ねたこの技術と見目が良いという外側の形だけで『ここにいても良い』というゆるしを得られるなら、それに報いる道を選んでもいいのかもしれない」
クルミは言葉も無く、独白するレイを見つめていた。
人形の端整な顔には少しの驚きとわずかな落胆、そして苛立ちと憧憬が入り交じり、やがてそれは強い感情へと変わっていった。レイの言葉は続いていく。
「先輩と約束したんだ。独りよがりの狭い舞ではなく、周りを見て踊る広い舞を見つけると。だから――そうだな。たぶん俺は卒業後もこうして練習して、ステージに立っていたいんだ。だからいま、こうしている」
不意の問いかけから、自分自身の望みについての答えを導き出したレイの表情は晴れやかだった。クルミは何かを言おうとして飲み込み、重い溜息を吐く。
ややあって、低い声で吐き捨てた。
「――そう。マザコンじゃモテないし、よかったんじゃない?」
怪訝そうな顔をするレイだが、クルミは口をかたく引き結んでそれ以上の言葉を繋げようとはしなかった。レイは奇妙に思いつつも人形に語りかける。
「学院の平和を脅かす敵もいなくなったことだし、お前も先々のことを考えておけよ、クルミ。お前の腕ならこの先も続けていくことが――」
最後まで聞かず、クルミは無言のまま練習場を去って行く。
レイの呼びかけは虚しく響き、どこにも届かないまま消えた。
暗転。世界は闇に包まれる。
「不思議なんだけどさー。六王を取り込んでも平然としてた君が盗賊王が入った途端好き勝手にされてるの、なんか変じゃない? 許容量の問題? 盗賊王がそれだけヤバいのかな。でもさ、今って中身も完全に『ミヒトネッセ』だよね」
場面転換のために暗転した世界に星々の輝きが灯っていく。場面と場面の狭間、暗転した時空間を引き延ばして割り込んだ少年トレミーが侍女人形の顔を覗き込みながら問いかける。
「君が一番見えない。振られたとこ悪いけど、強引にでも探らせて貰うよ」
伸ばされた手を、ミヒトネッセは意にも介さず舞台袖へと向かう。
侍女人形はトレミーを認識していない。瞳には何も映らず、映さない。
少年の手のひらに展開された呪術の構成が解かれ、光の帯となって人形の中に入り込もうとする。だが、それらは人形の体表面に触れる直前に見えない壁に遮られたかのように弾かれてしまう。
「うお、なんつー見ないフリの上手さ。どうしたもんかなこれ」
「やり方が手緩いんですよ。こういうのは、こうです」
トレミーは愕然と声のする方向を見た。ここは彼が支配する時空の狭間だ。誰にも気付かれないように一秒未満の瞬間に作り上げたこの場所に足を踏み入れることなど、たとえグレンデルヒ級の呪術師でも不可能なはず。
「えい」
トレミーの常識とミヒトネッセの無視を問答無用のグーパンチが粉砕した。侍女人形は鼻を潰さぬように顔を傾けたために頬に拳をめり込ませ、そのまま吹っ飛んでいく。腰の入った力強い右ストレートを放ったのは雪のような冬の化身、冷たくも明るい光を巨眼に宿す魔女、コルセスカだった。
「はい打撃に反応いただきました。あれれー見えてないんじゃなかったんですかー、時間が停止した空間で存在しないはずの相手に殴られてるのに演技が徹底されてないですねー、とう」
仰向けに倒れたミヒトネッセ目掛け、コルセスカは両足を揃えて跳躍。魔女の全体重が人形の腹部にのし掛かり、衝撃のあまり呻き声が漏れる。それでもどうにか平然を装って立ち上がろうとするミヒトネッセの足が凍結。コルセスカは無造作に足払いをすると、そのままマウントを取ってグーパンチの雨を浴びせかけた。
「あの、ちょっとやり過ぎじゃない。女の子の顔をそこまでフルボッコにするのはどうかなーって思うんだけど、いやマジで。ていうかどっから出てきたの。ええ、嘘でしょ、何この空気」
「どこのどなたかは存じませんが、ちょうど良い空間だったので使わせて貰います。それからご心配無く、痕が残るような殴り方はしませんよ」
突然現れた闖入者の暴挙に戸惑うトレミーと、他人の領域だろうと構わずに拳を振るい続けるコルセスカ。奇しくも時空間に干渉可能な『イマジナリーフレンド由来』とされる存在が顔を合わせた瞬間だったが、そうと知らないコルセスカはそのままミヒトネッセを痛めつけることに専心した。
ボロボロになっていくミヒトネッセだったが、彼女は頑として目の前の事実を認めようとしない。ただ小さな呻き声が漏れていた。うわごとのような『認めない』という呟き。彼女の瞳は幻想を見ていない。そんな人形に拳を叩きつけながら、コルセスカは淡々と語りかけていく。
「『塔』時代、かつて私が何度こうやってボッコボコにしてもあなたは何も無かったかのように振る舞っていましたね。どんな痛みも強がりで乗り越えて、幼い男児のような頑なさであの子にちょっかいを出し続けた」
言いながら拳を振り下ろす手は止めず、容赦の無い暴力は的確な痛みと衝撃を人形に与えていく。コルセスカの怜悧な瞳はいつになく寒々しく、見られた者の心胆を寒からしめるような冷気を発していた。彼女がそのような視線を向けている時点でミヒトネッセに抗う術は無い。至近距離からの邪視が人形を震えさせる。
「貴方のトリシューラに対する言動を私は絶対に許せませんし、許すつもりもありません。ですが先ほどのクレイとのやりとりで確信しました。私は貴方の行為を憎みますが、ミヒトネッセというキャラのことはわりと好ましいと感じています」
瞬間、はじめて人形の表情が崩れた。
瞳が動揺に惑い、必死に隠そうとしていた呻き声を隠せなくなっている。
その隙を狙ってコルセスカの手が素早くミヒトネッセの頭部に伸ばされた。触れたのは人形のぜんまいばね。髪飾りのようにも見えるそれを、魔女はぐるりと無造作に回すと、強引に抜き取った。
「あ、取れるんですねこれ」
「ちょっ、やめっ、返しなさいよ!」
思わず出てしまった声にしまったという表情になるミヒトネッセ。
コルセスカはそれを見て満足そうな微笑を浮かべた。
「返して欲しいですか?」
「あ、それは、けど」
無視しなければミヒトネッセの中で何かが壊れてしまう。
自分に課したルールを破らされていることへの恐れと戸惑いが人形の言葉を途切れさせる。だがコルセスカは容赦をしない。
「ならまずトリシューラにこれまでの事を謝罪し、ラクルラール派の企みを残らず吐き出し、ついでに私に豪華ディナーと新作ゲーム代を奢り、更に私の言う事を何でも聞くメイドさんになってもらいましょうか。あと私が指パッチンしたら影から現れてスカートの中からナイフ投げるやつやって下さい」
「要求が多い! てか人をキャラ呼ばわりとか、あんた頭おかしいんじゃないの? これは現実なのよ、あんたみたいな幻影のお遊戯に私を付き合わせないで。偽物のくせに、自由さを演出するな!」
「なんだ出来ないんですか? はー、メイド忍者といってもその程度ですか。期待外れもいいところですね」
「余裕で出来るっての! 馬鹿にするのもいい加減にっ」
気色ばむミヒトネッセには取り合わず、急に立ち上がるコルセスカ。
見下ろす視線は冷え冷えとしている。そこには遊びも冗談も無く、ミヒトネッセは口を閉ざすほか無かった。
「貴方の現状はある意味で自業自得なので同情はしません。ですが根本的には私の責任であり、私が解決すべき問題でもあります。だからこそ、今ここで布石を置いておきましょう。この先に繋げるために」
そう言って、コルセスカは制服の中に奪ったぜんまいばねを仕舞い込む。ここで返す気は無いという意思表示に、ミヒトネッセは異を唱えることができなかった。 氷の視線は、人形の身体を完全に凍てつかせている。
「あなたみたいないじめっ子の末路は大別して二つ。いじめていた相手に見返されて鼻っ柱をへし折られた後そのまま悪役に堕ちてバッドエンドか、なんだかんだで謝罪や和解があり互いの力を認め合う仲間となるかです」
「最悪の二択ね。どっちも願い下げよ」
吐き捨てるミヒトネッセ。そんな彼女に降り注ぐ冷気が、微かに和らいだ。
「私は、どちらかと言えば都合のいいハッピーエンドが好きですね」
そう言ってコルセスカは倒れたミヒトネッセを両手でひょいと持ち上げてえいやとばかりに遠くに投げ捨てた。闇の彼方に消えていく侍女人形。手で庇を作ったコルセスカは投げたものが舞台袖の向こうに落下したことを確認してからさてそれでは、とばかりに振り向いた。
「ところで、初めて見る顔ですが貴方はもしかしてクレイの――おや?」
隔離された時空間の支配者はいつの間にかどこかに消えていた。
コルセスカは訝しげに眉根を寄せて少し考えを巡らせている様子だったが、しばらくしてまあいいかとその場を離れていく。
誰もいない闇の中で、コルセスカは微かな声で呟いた。
「ではサリア、アルマ、打ち合わせ通りにお願いします。残念なことに、今回のバッドエンドは回避不能ですが――せいぜい痕跡を残してやりましょう」
強気に微笑む魔女の背後でほんの一瞬だけ炎と影が揺らめき、かき消えた。
平和な学院が揺れていた。
孤島に打ち寄せる波は荒れ、風は不吉を運ぶようにごうごうと啼いている。
曇天から軋んだ空気が押し寄せ、生徒たちの日常に病と不作の影が忍び寄りつつあった。民衆は口々に災いの再来を嘆く。
王は全ての敵対者を退けたはず。どうしてこのようなことに?
試練は終わってなどいなかった。
若き王が立ち向かうべき、最後の試練がまだ存在していたのだ。
ぶん、ぶん、ぶん、ぶん。
耳障りな羽音が死体にたかっている。
侵略者という外敵を倒し、六王という内部の敵を倒し、王の目の前にはうずたかく屍が積み上がっていた。ハエがたかった人形の山を前にして、泣き叫ぶ者たちがいた。六王を慕う、彼らの部下や血族たちだ。
しかし、旧生徒会執行部の残党に対して王が命じたのは冷たい裁定だった。
彼は学院内部の秩序を引き締めるために、敵に容赦をすることはできなかった。
甘さを見せれば次なる反乱を招く。
平和を維持するためにこそ、厳しさは求められていた。
「この糞にも劣る畜生連中、不遜にもこの俺の父親を僭称した虫けらどもの死を嘆くことを禁ずる。その屍は野晒しとし、鳥に啄まれるに任せよ」
肉親を葬るという家族の情が打ち砕かれ、生徒のひとりが海に身を投げた。
レイはそれでも表情を動かさなかった。
屍の尊厳を守るという埋葬の倫理を穢されたとして、墓守が首を吊った。
レイはそれでも心を揺らさなかった。
永遠の眠りを尊ぶというハザーリャ神への信仰に反すると先住民が毒を飲んだ。
レイは沈黙を貫いた。
若き王は冷酷だと民は恐れた。
校庭に集った生徒たちは、全校集会の場で学院の王に訴えかける。
嘆願する人々の言葉を、神殿の祭壇じみた壇上で王は無言で受け止めていた。
「どうか私に死者たちを葬る資格を与えて下さい、王よ! 何故あなたの法はかくも苛烈なのですか。私たちの内なる法と慈悲の心は嘆き叫んでおります」
「屍の尊厳を損なう事は埋葬の倫理にもとります。安らかなる眠りを妨げる事はハザーリャ神への冒涜に当たります。どうか、私たちに慈悲を」
どこまでも厳しく、レイは民たちに命じた。
人々は彼を恐れた。だが恐らく彼以外の誰が王であっても同じことであったろう、なぜならば国家の敵対者を貶める律法は彼がこの島を訪れるより前に定められたもの。急造でこしらえた王に嘆願するなど、はじめからナンセンスなのだ。
「ならん! 古き邪神の法など捨てよ、さもなくばこの国を去れ!」
「肉親を葬るは家族の情、それすらも捨てよと仰せですか」
「それは」
レイは食い下がる人々の強い感情を向けられて言葉を詰まらせた。彼を責める
「いいや、いいや! 我ら死後の民、冥府より蘇りし再生者はあの世の裁きを待つことの無い身。冥府神ティーアードゥの裁定を恐れ、国家の法と内なる法を遵守する他の眷族種とは事情が異なるのだ。我らにとって
「王よ、それは逆でございます。内心の法、神々が魂にお授けになった天与の法が裁かれぬからこそ、我らはそれを守り通すべきなのです!」
「形無きもの、裁くことのできぬものは幻と同じだ」
「ならば貴方は愛を捨てたのだ」
強い非難の言葉がレイを突き刺した。捨てた、捨てたと唱和される声。その声が響くたび、若き王の表情が苦しみに歪む。世界の苦しみが頂点に達したか、ついに荒れ狂う天に雷鳴が轟き、黒く濁った穢れの雨が大地を汚すようになった。
民衆の大合唱が王を切り刻む。
「父との愛を拒絶し、母との愛までも捨てるというなら、その証を法の剣で示せ」
民衆が王の前に担ぎ出したのは、濡れ鼠となった侍女人形。
侍女服のあちこちがすり切れ、顔は幾度となく殴られたかのように傷付いている。暴行を受けたらしきクルミの無惨な姿にレイは息を飲んだ。人形は己の運命を諦めたように息を吐いて、台詞を口にする。
「どうぞ、貴方が葬るべき屍を野晒しになさいませ」
言われるがままに、王は鞘から剣を引き抜いた。
レイが握るのは屍蝋の腕、誰かから奪われた筈の右腕。彼は存在しないはずの右腕で自らの右腕を握り、剣に見立てて人形に突き立てた。
「駄目だレイちゃん、その剣は違う!」
誰かの叫びは間に合わず、鋭い影と人形の影が交叉する。
雷鳴が轟き、閃光が舞台を覆った。
クルミの口から血が溢れ、命が失われていく。それと共に彼女から彼女のものでない男の声が吐き出され、壊れたような哄笑が響き渡った。
「さあ約束の時だ女王よ、俺を死神にしてみせろ! 殺し屋の異名などではなく、『紀』に刻まれた理において死の執行者として承認しろ。血に汚れたこの手を濯ぎ、全ての罪と苦痛と死者どもの呪いから俺を自由にしてくれ!」
侍女人形の影が幾つもに分かたれ、六人分の影が両手を広げて笑い続ける。
王の剣に倒れた侍女人形、その遺体がどろりと崩れていった。
腐り落ちた人形の肉、美しかった容貌は無惨な畜生のものと成り果てる。
その面相はさながら腐った豚。
「ぶう、ぶう、ぶう、ぶう」
ぶんぶんぶんぶん。屍にハエがたかり、不快な羽音が響く。
王国に腐臭が蔓延していく。
埋葬は許されない。忌まわしき敵に安らかな眠りは許されない。
外なる法の体現者である若き新王は、いかなる内なる法の叫びもこれを黙殺すると定めている。ゆえに、屍とそれに縋り付く者たちの心には安寧は訪れず。
「なんということだ。女王は外敵との戦いに倒れ、今また新王の冷酷な裁定により二度目の死を迎えた! 埋葬も許されずに打ち棄てられた女王の骸、そのなんと哀れなことか! おお槍の神々よ、願わくばこの暴挙を見過ごし給え、さもなくばどうか怒りを収め給え!」
コーラスの恐れおののく声、音とシルエットだけの民衆たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。彼方から投擲され、島を貫く巨大な質量。幾つもの槍が王国を襲っていた。女神の死を嘆いた槍の神が荒ぶっているのだ。
降り注ぐ穢れと槍の雨、蔓延する病、不作、荒天、不運。
災いは王国の未来を閉ざし、若き王の表情を絶望に曇らせていく。
民衆たちの姿無き声が無慈悲に響いた。
「豚こそ多産の象徴、命と性を司る獣。祭壇に祀られた女神の聖性が淫欲の仮面を被るとき、巫女は死と無垢なる愛の役割を担う。反転したのだ、女神と巫女が!」
侍女人形の遺体、蝿まみれの豚の屍がゆっくりと立ち上がる。
蘇りの過程でその腐肉は崩れ、しかして不気味に蠢き膨張し続ける。
砂と泥にまみれた女の髪の毛に、きらりと光るのは質の異なる髪。
彼女が掠め取った蜂蜜色の一房。
「人形に盗まれた女神の髪、呪いを伝えるそれこそが操り糸」
六王を取り込んでさえ自我を保っていたミヒトネッセが、ゼドを取り込んだ途端に存在を支配されてしまったのは何故か。ゼドが六王を上回る紀人であったからか、それとも人形の許容量を超えたからか。
どちらでもないと、蜂蜜色の操り糸が語る。
ミヒトネッセという存在の支配権など、既に彼女には無かったのだ。
クレイは、崩壊した舞台の上で役目を失っただけのただの若者は、目の前の少女の変わり果てた姿を見て、悟った。
自分が貫いたものの正体を。
「無垢なる巫女を穢したな、死せる愛を貫いたな。それこそが王の罪、母との姦通である! 慣習法で定められた家族の禁忌、知らなかったでは済まされぬ!」
幾つもの声がクレイを責め立てる。
彼はただ運ばれてきただけだ。そこに彼の意思は無く、そこに彼の決断は無い。
クレイは剣だ。自らの意思と決断を主君に委ねた純粋な道具。
だから何も考えない、だから何も懊悩しない。
そうであったはずなのに。
「おお、見よ! 若き王は遂に破滅の予言を成就させた。それと知らずに六人の父を殺し、それと知らずに母を愛したのだ! インセストの禁忌、情交の咎、近親者と寝所を共にすること罷り成らぬと法に定め置きながら、王が自らそれを破るとは、なんと嘆かわしいことか!」
よろめくように後退り、舞台の端まで追い詰められるクレイ。
手には血に染まった剣。いや、血塗れの右腕。
彼の右手は何も握ってなどいない。
舞台に上がった時点で彼は自分自身の腕を取り戻していた。
王は自らの腕を汚して女を貫いたのだ。
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