4-162 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ0




「――あのね」


 わずかな逡巡を置いたあと、ルリさんの声が優しく届いた。

 この人は、迷うように優しさを紡いでくれる。好ましいと感じている瞬間の自分は、欠落を忘れられる。生と死のどちらにとっても忘却は特効薬になる。もっと声が聴きたかった。キシャルの声を愛おしむように。恋人ルウテトの子守歌で微睡み安らぐように。


「君はこの世界が私の創作だって言われたらどうする?」


「ネタ出しくらいなら手伝いますよ」


 突拍子もない言葉に付き合うのも悪くない。

 だから声を嬉しそうに調整しながらそんなふうに返した。


「嫌じゃない?」


 と少し不安そうな問いかけ。

 何を不安がるというのだろう。


「少なくとも、つまらなくはなさそうですから」


 俺は、こんなに期待で満たされているというのに。

 自然体の言葉を返すと、ルリさんがあらたまったように声を掛けてくる。きっと作業の手を止めて、俺に真正面から向かい合っているのだろう。この人は相手の見えないところでそういうことをする人だ。

 

「あのね品森晶。心的代行者エモーショナルエミュレーターであるきみは『その体の彼』とはほとんど別人だよね。だから、きみを調律して『品森晶』としての人格を維持している私は、きみという架空のキャラクターの作者に等しい――」


「と言えなくもないですけど、俺は俺ですよ。それに、『もうひとつの人格』とか『人工知能』みたいに綺麗に切り分けられるようなものじゃない。もちろん、そのひとつの形態ではありますが」


 人工知能という概念は時代と共に変遷し、拡張され、定着していった。旧時代から現代まで貫かれたイメージ、『人造の知性』というものから、検索結果の記憶と学習、迷惑メールのフィルタリング、予測変換機能、音声検索に画像認識――。

 ニューラルネットワークを使ったメールの自動返信なんて当たり前すぎて今更誰も人工知能なんて呼ばないし、半自律型の義肢に用いられている運動制御プログラムだって似たようなものだ。マニアックな連中が義肢にペット感覚で名前を付けたりランダム行動や情緒機能を持たせたりしているくらい。

 だから『俺』も――俺と重なり合い、補い合い、痛みと感覚を引き受けている『E-E=品森晶』もまた人工知能と呼ぼうと思えば呼べるし、あえて呼ぶのは古臭い。そんな感じだ。


 それでもルリさんは、この『俺』に特別な名前と役割をかぶせたがる。

 品森晶という名前は嫌いじゃない。アイデアを貰って、自分でつけた。この人はいいデザインとバランスだって褒めてくれたし、じっさい悪くないと思う。

 つくりものっぽくて、なんだか落ち着くのだ。

 ルリさんは茶々を入れた俺を無視して言葉を続けることにしたようだ。


「きみは舞台の上に立つ役者であって役であり、物語の中に住まうキャラクターであって語り手ナレーターでもある。きみにとってこの現実は全て架空だし、きみの架空は全て現実に他ならない。だから――」


 だから――なんだというのだろう。

 そんなことが、喜劇の主役にすらなれない傍観者に何の関係が?

 ところがルリさんは、俺の悲観を全否定する。


「きみは、物語を諦めなくてもいい。主人公であることを捨てなくてもいい。死ぬまで――死んでも。たとえ命が尽きても物語は続くと思って演じろ。この私が、きみの滑稽さを保証する。クズでも救いが無くても無価値でも――それは物語になるんだって、歴史上の膨大な物語が赦してるんだから」


 俺はそれを聞いて、胸が締め付けられるような、瞳が声に吸い込まれてしまうような感じを味わった。きっと私の瞳は今、十字に輝いている。この人の言葉はいつだって俺を救ってくれて、だからこの時も私の俺の諦めはブレイスヴァのあぎとの中に吸い込まれるが如く消え去って、


「だから、遡りなさい。ここに来るのはきみには早い――今はまだ」


 『竜』が砕けた。ありえない、と驚愕に打ちのめされる。

 信じがたいことだった。俺は確かに前世に覚醒して、カシュラムの――。

 世界が流転する。

 仮想空間内に広がるのは無限の夜と輝ける星々。

 燦然たる宝珠のごとき煌めきの数々が流れて落ちて世界に軌跡を刻んでいくと、バルブ撮影した景色の如く同心円を描いていく。

 それが既に、呪文の完成だった。

 

「言理の妖精、語りて曰く」


 馬鹿な。

 エル・ア・フィリス、だと――。

 何故その呪文がこの世界にある?

 疑問に答える者はいない。シナモリアキラの時間連続体内部に形成していた干渉結界が完全に砕け散る。因果を辿り、シナモリアキラの前世へと食らいついた時空終端のオルガンローデが前世からの逆干渉により弾かれた。


「シナモリアキラ――お前は、一体」


 『彼』が何者であったのか。

 守護の九槍キロンとの交戦の末に前世の記憶は失われた。

 故に、その詳細は当のシナモリアキラでさえ知りようがない。

 その、はずだった。


 私の干渉は『シナモリアキラの前世は実はオルヴァ・スマダルツォンだった』という事実の確定により完成する。オルヴァとしての前世に覚醒すれば両者は合一し、時系列の整合と共に存在の主導権はこちらに移る。

 手法としてはグレンデルヒが行った乗っ取りに近いが――こちらはほぼ回避不能の攻撃だ。時空を遡ることができない限り抗いようが無い。


 ゼオーティアの私はオルガンローデを構築すると、漂着した墓標船を経由して過去に遡り、シナモリアキラという因果に自らの存在を割り込ませた。

 その後、こちらの世界で覚醒した私はまず今回の事件の発端である墓標船を起動させ、ゼオーティアに向けて出航させたのだった。漂着した墓標船は異界の呪力をばらまき、オルヴァ=シナモリアキラの因子を拡散させる。


 異変の真の発端は『ここ』だ。

 私にとって過去か現在かは重要ではない。

 因果さえ繋がっていればこの身は異世界に渡ることすら可能である。

 しかしその目論見は脆くも崩れ去る。

 正体不明の、『あの人』によって。

 わからない。

 前世として覚醒したにも関わらず、オルヴァとしての私は既に俺と分離し、失われた記憶もまた忘却の中へと沈んでしまっている。それどころか、積極的に前世から突き放されたような感覚すらあった。これは一体どういうことなのか。

 時空の全てを見渡しても、その事実が『未だ存在しない』かのような――。


「シナモリアキラ、お前は一体、何者なのだ――?!」


「それを、お前が知る必要は無い。真のわたしにーさまではないお前には」


 気付けば、闇の中に何者かが立っていた。

 ぬばたまの黒髪、着物のテイストを取り入れた衣装を纏った義肢の乙女。

 『大蛇』の晶。

 女が私に肉薄する。水流を伴った打撃が流れを変える。

 ぐらりと視界が揺れて、仮想空間の中で――否、ここは既に前世ですらない。私は戻ってきている。ここはゼオーティアなのか、世界の狭間なのか、それともどこでもないどこかなのか。


 違う。ここは私の中。

 シナモリアキラの内的世界だ。

 『あの人』の声が聞こえる。


「乱暴は控えて。きみは、女の子なんだから」


 愕然とする。世界が崩れ落ちていく感覚があった。

 黒髪の乙女は私の中にある私の姿だ。

 仮想空間の中に構築された自分の姿をもう一度見る。

 使い慣れた機械義肢、鍛錬を欠かしていない引き締まった肉体、いかにも日本人といった感じの服装、そして長い黒髪にかすかに膨らんだ胸元、理想より少し低めの身長と下駄ヒール、着崩した着物ウェアと黒いインナーが――。


「私は、私が、わたしにーさまで――」


 そうだ、女だ。『大蛇』とは品森晶の前世の姿。

 いいや違う、これは過去の改竄だ。こんな事実は無い。無い筈だ。

 混乱する。困惑する。何なのだこれは。


「この世界は、今なお観測され、参照され続けている。それはシナモリアキラも同じ事。どれだけ拡散させても無駄。過程がどうあれ、最後のわたしにーさまは最初から確定しているのだから――唯一無二の視座によって」


 私の言葉が目の前にいる私の口から発せられている。

 私は、私は、私は――俺は。

 俺が再演を行った結果として戦いの果てにオルヴァが俺の前世に干渉したのだから、発端がどこかと問われればそれは過去へと遡る再演の途中であるのではないだろうか。だとすれば、この前世の光景もまた再演。

 俺が知らないはずの、もう覚えていないはずの景色の再演だ。


「感謝するぞ、オルヴァ」


 断片だけだ。

 それでも、俺は異界転生者である俺という個我を再演により確認出来た。

 恩人であるお前に見届けて欲しい。俺が紀人として、お前と、拡散する俺たちの十二人全てを内包し掌握するこの瞬間を。


「発勁、用意」


 第五階層全体に薄膜のように広がった俺の視座が収斂していく。

 中心は階層の南地区、呪術医院の目の前で繰り広げられる激戦の舞台。

 『炎天使』と『件』、十三人目の俺と降臨したオルヴァが決戦を演じるその時空に、俺は自らの意識を割り込ませる。


 医院の屋上に立つ『大蛇』が強い視線を向ける。

 試されている。そんな気がした。

 受けて立つ。勢いのままトリシューラへと幻肢を伸ばし、感応する。

 彼女は即座に応えてくれた。完璧な解答で。

 赤い魔女は右腕を天に翳してこう叫んだ。


「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒! 鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『髭大夫バルバリッチャ』――終端告げし全痴の賢者!」


 少女の手首から溢れ出す鮮血が世界に痛みを押しつける。

 血の中から豊かな髭を蓄えた老賢者が姿を現し、純白のローブが無惨に染め上げられていく。朽ち果てた肉体は滅びに瀕しており、終端はまさにすぐそこまで迫ってきていた。老人の相――少年の相がヴァージルに、その後アルトに奪われてしまった今、俺たちが選び奪うべきはこのオルヴァに他ならない。

 すなわち、トリシューラが見据える『未来』がこの老オルヴァだ。


「ぽこぽこアキラくんが湧いてくるこの流れは止められない。なら、その全てを髭大夫バルバリッチャとして、私のアキラくんが包括するだけ!」


 『件』が――その内側を仮宿としている若き『現代』のオルヴァが絶叫する。三相を全て打倒するという終端が近付き、頭上で揺れるダモクレスの剣が唸り声を上げた。その形は禍々しい牙を備えた巨大なあぎとへと変貌している。あれこそがカシュラムが恐れるブレイスヴァが『翻訳』された姿なのだ。


 『炎天使』の拳がオルヴァを強かに打ち据えた。激しい衝撃が大気を割り、爆発的な熱量がオルヴァの呪力を削り取っていく。

 墜落していく肉体を下から迎え撃つのは岩石の砲弾。

 次々と命中し、オルヴァの呪術障壁を削っていく。

 乱髪スカルミリオーネことルバーブの援護だった。

 丸い身体が足下から引き剥がした大地を装甲として纏い、土色の全身甲冑を纏った『マレブランケ』最大戦力が凄まじい質量を疾風の速度で叩きつける。

 

 たまらずに、『件』の肉体から飛び出すアストラル体。

 魂魄だけに衝撃を伝える『呪的発勁』――サイバーカラテの奥義に数時間で習熟したルバーブによってオルヴァが精神体として追い出されていく。

 残心の姿勢のまま、ルバーブがオルヴァに語りかけた。


「どうやら、我々はまたしても長い付き合いになるらしい。お互い、思っていたのとは違う在り方になるようだがな」


「ルバーブ、お前は――っ」


 オルヴァが口にしようとした言葉が何だったのか、それが明らかになることはなかった。トリシューラが構成した鮮血呪による包囲網。

 檻となった血の流れがオルヴァを取り巻き、零落が始まろうとしていた。 

 だが、オルヴァとてただでは終わらない。


「シナモリ、アキラ――っ!」


 オルヴァの瞳が輝く。

 十字の閃光、紫の波紋、膨大な時間流。

 圧倒的な呪力を前にして、俺とトリシューラは怯む心を遮断した。

 ここだ。臆せずに挑むべき瞬間が来た。

 オルヴァを蹂躙し、徹底的に辱め、その人格と尊厳を全て俺の支配下に置く。

 叛逆によって王を奴隷に零落させる。

 忌むべき所業に手を染める――カシュラムへの冒涜を、感情を制御することで作業的に実行する。その罪も責任も、全てトリシューラが担って背負う。

 手首から流れる鮮血は、彼女が痛みを引き受けるという意思表示。


「アキラくんのかわりに、私がリストカットをしてあげる。だからアキラくん。私の血を確かめて、私の痛みで安らいで」


 行こう、と意思を伝える。

 行こう、と決断が伝わる。

 俺たちは足を踏み出し、オルヴァを中心に拡大する紫色の世界へと足を踏み入れた。世界が光に染まり、そして全ての音が消え去った。


 



 何かを、幻視するかのような体験。

 俺たちは見知らぬ世界を垣間見る。

 かつて聖婚した時に見た宇宙図とは違う、様々な色の光に満ちた曖昧な世界だ。

 それは部屋のようであり、川の流れのようでもある。

 似た部屋、似た支流が幾つもあり、それぞれが少しずつ変化していく不確定な世界の群――俺たちは直観する。これは、いつか来たる――。


 闇。

 異形の暗黒、歪なる荘厳、忌まわしき呪祖のなれの果て。

 もう一人の形無き『俺』と異形の美をその身に宿すもう一人の聖妃が世界の全てを嘲笑い、死と破壊と欲望の協奏曲を奏でていく。


「心よりお呪い申し上げますわ、醜く愛しいわたくしの悪魔。あなたの恐怖、わたくしの狂気、甘く溶かして味わいましょう?」


 溶けていく二人、重なり合う異形。新郎新婦が悪夢の具現。

 最悪の聖婚を前に挑む勇者は数知れず、しかしそのことごとくは無惨に討ち死にする定め。それでも、失われない希望はあった。

 漆黒の全身鎧を身に纏った英雄が、斧槍を掲げて名乗りを上げる。

 そして、宣言した。


「これより大魔将シナモリアキラの討伐を開始します――みんな、準備はいい?」


 暗転。

 腕を失った男がいる。スミレ色の瞳をした線の細い青年。不思議と老成した雰囲気も漂わせていた。砂色の長髪は前髪から後頭部にかけて編み込まれていて、民芸品のような木彫り細工で飾られているのが印象的だ。

 青年には片腕が無かった。

 腕は失われたばかりで止血されているものの後から後から溢れる血が布を汚していく。痛々しい様子だが、青年は眉一つ動かさず平然としていた。


 トリシューラの声。機械女王は欠落した者に技術と文明で舗装された道を提示できる。義肢を用意するという彼女の申し出を、しかし男は拒絶した。

 たちまち空気が険悪になり、口論が始まる。


「――人形はきらいです。人でなしの機械は、オーファの敵」


 感情の無い憎悪を向けられて、トリシューラは激した。


「うるさいうるさい、このプレヒューマンっ! 貴方たちはそんなふうだからどこに行っても居場所が無くなるんだっ!」


 明らかな失言に、場の空気が凍る。

 周囲の樹木や花々に似たティリビナの民たちが怒りに満ちた目でトリシューラを睨み付ける。致命的な決裂が、トリシューラの限界を露呈させる。


 暗転。

 長い前髪で片目を隠した少年が、歌うように語りかけてくる。


「『かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつ無い』――おにーさんだって、そんなことくらいわかっているだろう?」


 俺たちは幾度も対峙する。『生死と収獲の暦』と名付けられた刈り取りの鎌が、四文字の駒が、大いなる指輪が、割れた鏡が、そして九本の燭台が俺を迎え撃つ。

 矮小なる異形どもが果てしない闘争を嘲り賛美する。最悪の怪物どもを従えるこの少年こそは俺にとっての最強最悪の敵。精神において偉大なる祝福されたる神よ(エール・バルーフ・ガドール・デーアー)。不快な音が響く響く響く。


「悲劇と破滅を繰り返せ。永遠に待ち続けて冬の中で朽ち果てろ。お前に与える絶望が、俺から贈る娘への愛だ」


 掌の上に乗せられた氷の燭台を愛おしむように、そして俺の氷の右腕を憎悪するようにまなざした少年が、戦いの開始を宣言した。

 そして、楽園が復活する。


 暗転。

 戦場跡だった。

 破壊の痕跡がそこかしこに刻まれ、炎と屍とが一帯に広がる凄惨な光景。

 そのただ中で、俺は首筋を掴まれていた。

 鋭い美貌が気色ばむ。後頭部で束ねられた馬の尻尾のような黒髪が激しく揺れた。いつもは手刀を形作る綺麗な手指が、激怒のあまり拳の形を作っている。

 俺への敵意も殺意もいつものことだ。

 だが今回ばかりは――感情制御が必要だった。

 

「英雄? 悪魔? 前世? 貴様らのご大層なご託は聞き飽きた。無様だなシナモリアキラ。貴様のような腑抜けには斬る価値も無い。そこで見ていろ――俺は俺の主をこの手で救い出す。他の誰にも、譲る気は無い」


 去っていく少年の背を眺めながら、俺はいつかのルウテトの言葉を思い出す。

 『さらいにきて、くれなかったくせに』――。


 暗転。

 暗転。

 暗転――。


 いくつもの未来があった。

 無数の可能性があった。

 それは希望、それは絶望、それは試練、それは罪。

 嘆きが連鎖し、夢は引き裂かれる。


「私はもう、私でいたくないよ、サリアちゃん――」


 朱金の天使は鎖に繋がれている。

 逃れがたい前世の業。

 だが、コルセスカは彼女を選んだ。

 他でもない、今の彼女を。


「コアが救われない時空なんて滅べばいいと思ってた。でも、もし次もアルマが泣くのなら、きっと私は耐えられない――ううん、耐えてやらない」


 誰よりも強いはずの女は、誰よりも欲深にそう言い放った。

 狂うほどに優しく強い、情愛の化け物。

 彼女が射貫く時の果ては、いつか未来に向くのだろうか。


「ああ、だめ、堪えられない! トリシューラ、私もう指が射精しそう!」


 侍女服の球体関節人形が恍惚とした表情で叫ぶ――どんな未来なんだこれ。

 

「これが最後だ。構えるがいい、シナモリアキラ――実を言えば、ずっとこの瞬間を待ち焦がれていた」


 もう何度目の対峙になるのだろうか。

 この男と拳を交え、競い合うのが当たり前の日常になっていたような気がする。そんな他愛のないじゃれあいに、堕していたような気がする。

 わかっていた。

 こいつはきっと、そんなぬるま湯じゃ満足できない。

 この結末は、お互いが予感し、望んでいた最悪で最高の未来。

 いつか、第六階層で再戦した時のように。

 彼が見守る決戦の舞台で、俺たちはぶつかりあった。


「アキラさん。世界はきっと、今よりもずっと素敵になります」


 三角耳の少年は俺たちを見守りながら、電気椅子の玉座の上でそう語る。

 正負の王冠と足首飾りは死をもたらす聖なる遺物。

 聖なる存在を処刑したその道具は祈りのシンボルだ。


「だから、僕たちは終わらせるためにここに来た。そうですよね」


 死を身に纏う少年の背後で、巨大な氷塊がゆっくりと溶け出そうとしていた。

 内側で眠る巨大な世界の終焉。

 終わりの竜が目覚める時、全ては重力の中心へ引き寄せられる。

 そして、世界は完結するのだ。


 無数の光を通り過ぎて、どこまでもどこまでも飛翔する。

 幾つもの世界を垣間見て、それでも死までの過程を走り抜けると役者は決めなければならない。脚本は膨大で決まり切っている。だからどうした。演じるのは俺たちだ。その解釈と表現は俺たちの視座が規定する。


 最後に。

 世界の最果て、凍り付いた時の極点で。

 対峙する二人、幻想の対たる魔女姉妹の姿を視た。

 俺は向かい合う彼女たちを見ている。

 それが諦めなのか、信頼なのかはわからない。

 氷と鮮血、視線と鋼鉄を今まさに激突させようとしている二人を止めることも、どちらかに加勢することも、俺は選ぶことができる。

 二人の背後には無数の文脈が、幾つもの物語が積み上がり、もはや彼女たちは片方の心の中にだけ住む妖精ではありえない。

 だからこそ、彼女たちは己が己であるために対峙する。

 その決断を、俺は――。


「答えなら、もう出ているはずだ」


 明転。

 足を踏み出し、拳を握りしめ、先へと進む。

 老人のオルヴァが幻視した世界が次々と流れ込んでくる――だが俺はその先を求めて更なる前進を続けた。

 トリシューラの迷いを俺は肯定した。

 俺の弱さをトリシューラが許容した。

 そして、ここにはいないもう一人の名を俺たち二人は強く呼んだ。


「おおブレイスヴァ! 呪われよ愛し合う恋人ども、不可避の破局に絶望せよ! 女神よ、女神よ、我が女神よ、どうかこの手に掻き抱かせて欲しい、我が愛を受け入れて欲しい。そして見知らぬ男と姦通して陵辱されて我が怒りと制裁の果てに無惨に滅びよルウテト、死ねコルセスカ、絶望しろキシャル――!!」


 狂乱する『寝取られ王』が滅びの未来を悲観して叫ぶ。

 破滅を受容していないこの若き王は、存在として正しい在り方のひとつだ。

 しかし俺たちは、この男を乗り越えなければならない。


 トリシューラの呪文が反撃の合図となった。

 鮮血呪の中に取り込んだ老オルヴァに変化が起きた。蛹が羽化して成虫になるように、朽ち果てた肉体の内側から新たな存在が新生したのだ。

 顕れたのは若々しい姿の男。


「シナモリアキラ、だと?」


 愕然としたオルヴァの声。

 がらんどうのはずの炎天使。

 その内側から現れた『俺』は目を見開いた。

 十字に輝く賢者の瞳を。

 網膜の表面を走る『弾道予報Ver3.0』の文字列。

 オルヴァが行うあらゆる攻撃の予測線が表示されているのは今までと大差無いが――俺はその線に手を伸ばし、未だ到達していない『未来の攻撃』に干渉した。

 遡って、打撃が浸透する。


「な、にっ」


 驚愕の声が遅れて届いた。

 新しい『俺』の姿、その正体は三相のオルヴァを超えた第四のオルヴァだ。

 老人が息絶えても、記憶と叡智は次代に引き継がれる。

 滅びに近しいということは、転生が近いということ。

 転生者シナモリアキラが再臨するための蛹としての形態を『老人』の『髭大夫バルバリッチャ』という形に定めることで、一定の条件を満たすことで老賢者はシナモリアキラに転生する。オルヴァという前世を紀人としての権能として使いこなす――それは俺が目指すコルセスカの在り方そのままだ。


「一緒に追いついて、セスカを取り戻そうね」


 トリシューラの言葉に頷きを返す。

 いい加減、俺たちはあいつを迎えに行くべきだろう。

 随分ともたついたが、もはや俺の存在に揺らぎは無い――揺らぐこの姿こそが俺が俺である証だ。トリシューラとコルセスカの間を行ったり来たりする在り方こそシナモリアキラのふらついた立ち位置だ。


「サイテーだねアキラくん」


「不貞! 姦通魔! そうか、お前こそが我が妻を奪う寝取り男だったか――!」


「発勁用意!」


 とか言っておけば多分それっぽく決着して色々誤魔化せるのがいつもの流れだ!

 トリシューラとオルヴァのゴミクズを見るような視線を浴びながら、俺は渾身の呪的発勁を放った。オルヴァの魂が衝撃に揺れ、波打つ存在が俺の中にいるオルヴァと同化していく。存在を巡る紀人の内的闘争は、ここに決着した。



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