4-161 青嶺瑠璃
この世界は舞台のようなものだとオルヴァは思う。
十字の瞳が示す時空の全ては積み上げられた膨大な脚本で、誰も彼もが定められた流れに沿って演技を続けていく。
過去と未来とが交差する現在の一点で許されているのは即興と解釈で、演技を通して表現される役者の顔こそが個性を形作る。だから人生と言う名の演劇は全てが決まりきっているようで、意外と驚きに満ちている。
話の筋など破綻しているくらいでちょうどいい。自分がひいきにしている役者たちは、それよりずっとでたらめでめちゃくちゃだ。
ひとつ、不平を述べるならば。
オルヴァにとっての演劇は、もっぱら観るばかりで参加する機会があまりないということだった。
あるいは観客や傍観者が彼の役だと考えることもできる。
実際、主役たちに道を示す老賢者の役が回ってくることもある。
だがそれすら本来は彼ではなく友人の役回り。
欲しいのはこの肉体が得る実感だ。
身振りと手振り、朗々たる長広舌、お定まりの掛け合い、迫真の殺陣による活劇に伸びやかな舞踏、そして劇場に響き渡る麗しの歌声。
肉体と精神を躍動させる人生の参加者たちがオルヴァは羨ましかった。
どれだけ舞台に干渉しようとしても、オルヴァが主宰する劇団の十二人はオルヴァであってオルヴァでない。オルヴァがオルヴァであるがゆえのジレンマがその心を苛んでいた。未来を知り得てしまうがゆえの退屈と絶望があるとすれば、それはもどかしさの中にある。
――誰かが私を演じている。
そんなことを、ふと思った。
未来から過去へ、過去から未来へと環を描く回想の途中のことだ。
オルヴァは未知の事実に震えた。永劫の繰り返し、回帰する人生。再演される舞台の上で、オルヴァという傍観者は遂に役者という位置を与えられたのだ!
青年期、最も力強い王としての時代。
オルヴァは衝動に突き動かされるまま舞台を躍動し、自分と重なり合った誰かの存在を感じようとした。
役者が自らと重なったと確信できた時、オルヴァは深い興奮と落胆を同時に覚えた。この演技は型に嵌ったもので、新鮮な驚きをもたらしてはくれない。破綻はあったが期待はそこから生まれない。今回もまた予定調和の定めに倦んでいくのか、それとも――。
試さねばならない。
胸の底から湧き上がってくるこの衝動は、紛れもなく未知への喜び。
「見極めさせてもらおう、シナモリアキラ。お前が諦める者なのか。それとも挑む者なのか」
願いは純粋なまま。
選定者は油を手に価値を問う。
シナモリアキラが立つその場所が、神の意志に沿うものであるのか。
それとも、神を否定するものであるのか。
いずれにせよ、終着点はブレイスヴァの口の中。
「お前はいかにしてブレイスヴァと向き合うのか、異界転生者よ」
永劫の命を持つ者とは違う。
死から蘇る再生者とも違う。
ブレイスヴァを受け入れながらも抗いを示す者。
猫と輪廻の運命を背負う、シナモリアキラの示す答えとはいかに。
果てが見たいと、オルヴァは強く願う。
そしてオルヴァは、自らの『竜』を呼び起こした。
この世界は欠落していると俺は思う。
古ぼけた『のぞみ』の車窓から望む景色は褪せた屋根で彩られた家々と嫌になるくらいの晴天、そして雄壮に聳える富士山の威容。東京駅に着くまでの退屈な時間を東海道新幹線の車中でぼんやりしていると妙な思考が混ざり込む。
がたり、とかすかな振動。
右の機械義肢が自動的に重心のバランスをとろうとして小さな駆動音を鳴らす。普段は気にならない程度の音だが、『仕事』の後はしばらく感覚を鋭敏に保つ事にしていたものだから、それがやけに気になった。
馬鹿みたいに糖分とミルクをぶちこんだGABA入り缶コーヒーを喉に流し込む。甘い液体はだいぶぬるくなっていて、確かなリラックス効果があるのかどうかはともかく、習慣で愛飲しているこの液体を飲むとなんとなく落ち着く。視界ディスプレイにはモニタリング中の俺の体内の様子がデフォルメされた映像で表現されている。
感覚は調整すればいい。痛みも、干渉も。
死も欠落も、慣れれば感情ごと鈍化してしまうものだ。
胸に広がるこの空白も、時間が忘却で埋めてくれるだろう。
息を吐こうとして止めた。流石に辛気くさすぎる。
思考を切り替えよう。窓の外には素敵な世界が広がっている。たとえば世界的観光資源とか。莫大な金を生むと言う事はそれだけ価値があるということだ。金で左右される人命があるくらいだし、人間換算だと富士山はどれくらい――ああまた碌でもない事を考えている。やっぱり一回だけアプリを
詩に絵画に写真に――ありとあらゆる作品の主題に選ばれてきた富士山の霊妙不可思議なさまを俺ごときの表現力で語りきれるとはとても思えないが、それでも感じ入るところはある。たとえばそう、コストかかってそうだな、とか。
こういう思考をしてしまう時だ。
世界が――俺が欠けていると感じるのは。
両親がまだ小さかった頃、富士山はまだ欠けていたのだと言う。
俺はなだらかな稜線を描くこの作り物めいた霊峰しか見たことが無いから、ネット上の画像や歴史の教科書で確認出来るような無惨に抉れた富士山というものを知らない。ものの本によれば、復興――つまり世界遺産の修復作業が完了するまであの山の巨大な傷痕は日本そのものの欠落の象徴であったとか何とか。
では今のこの国は満たされているのだろうかとも思うが、確かに満たされてはいるのだろう。人工物が、技術が欠落を埋めてくれる。
どんな巨大な悲しみも絶望も、代替物を作りだして補填すればいい。
それが災いと大量死に対しての人の抗いであり、唯一の祈りだ。
幸福は作れる。幸せの名はドーパミン、健康の名をセロトニン、胸躍る嬉しさをベータエンドルフィンと呼び、ハイな気持ちでエンケファリンを分泌、安らかな眠りをガンマ-アミノ酪酸が提供。網膜に投影されるありとあらゆる娯楽と骨伝導が響かせる素晴らしい音楽が文化的な充足を与えてくれる。
外側がどうあれ人間は幸福になった。
前世紀までのどの時代よりも、確実に。
俺もまた、幸せだ。
戦争も大災害も直接は知らない。
悲惨の当事者ではない俺はどこまでも満たされている。
満たされ過ぎている程に、充たされてしまっている。
どこまでも美しく広がる俺の世界。
だからこそ俺は――この世界は欠落していると感じてしまう。
カシュラムの諺に曰く、『穴と山の総和は等しく、ブレイスヴァにとっては零である』――終端こそが俺の世界を満たす死なのだろうか。おお貪りあれ。
東京駅から中央本線に乗り換える。途中、列車が一時停止したがいつものことなので誰も気に止めない。それは慣例行事化した挙げ句に呪術的意味合いを持ってしまった悪しき伝統のようなもので、ホームに転落防止用の自動扉が設置された後も身を投げる者は結局後を絶たないままだった。
拡張現実視界を『ゴースト』が横切っていく。また増えたわけだ。共有空間に放たれた浮遊霊とか地縛霊とかいう設定が付いた無害な映像。それらしい死者の残影を漂わせるだけのプログラムはもはやこの空間の風物詩とも言える。
悪趣味な誰かが作りだしたこの亡霊たちが未だに削除されないのは、うっかり有名になった挙げ句各種メディアが取り上げたせいで広告収入が馬鹿にならなくなったからだとか金持ちの遺族が墓標として残して欲しがったからだとか色々噂されているが真相は不明。とりあえず亡霊の身体に死者の名と追悼の文字と
列車に揺られて西へ西へと進んでいくと、煌びやかな首都とはいえ生活臭のする郊外に辿り着く。惰性と習慣で三鷹に向かおうとするが、その前に中野に用事があったのを思い出してそのまま下車。中央・総武線各停に乗り換えて東中野で降りる。改札、駅内のショーウィンドウ、目を引く菓子パン、交差点、次々と入れ替わるカフェやファーストフードなどを通り過ぎて大型食品店の手前にある心療内科に向かう。予約制のその医院は地下にある静かな場所で、この手の場所としては驚くべき事にまるで混み合っていない。
そのかわり、この上無く迅速に診療が終わる。
受付で端末をかざしてそのまま診察室に。
ゆったりとした音楽、柔らかくしっかりとしたつくりの椅子、各種資料で散らかった部屋の隅にはお約束じみた箱庭。タブレットを持った壮年の医師は端末経由で送られてきた情報と俺の状態とを見比べつつ「はい、はい、はい、うん」とひとりで呟いて診察を終了する。俺はこの人からこれ以上丁寧な対応を受けたことは無かった。ちなみに「はい(今回は睡眠時間が安定しているから薬は前と同じでいいね)、はい(何か日常生活で気になる事はあれば備考欄に記録してね)、はい(それじゃあ後はカウンセラーアプリの指示に従って適切に投薬と情動制御を行うように)、うん(終わりです。次の予約を受付でどうぞ)」という意味が込められているのだが非常に分かりづらい。まあこんなもんである。あとは薬局でベンゾジアゼピン系の睡眠薬を受け取って終わり。
いつも通りに流れ作業で出て行こうとすると、いつもとは違うイベントが発生した――そういえば『来てる』けど、どうする? 医師の問いに俺は即答した。頷いただけだったかもしれないが、とにかく診察室から出て行くのをやめて方向転換。医師の背後にある扉を開いて奥に進むことを選択した。普通に受診するだけの目的なら用は無いような空間。狭い通路を抜けると右手にトイレ、左手に更なる部屋。
ノックをすると、しばしの沈黙。
じらすような時間、期待が胸で鼓動を刻む。
ここで会えるのは久しぶりだ。担当医が俺と『あの人』の双方の事情に通じており、この奥の部屋は事実上『あの人』が使うためのものだったから、こういう機会はしばらくなかった。
音信不通だったから、自分がわずかに緊張しているのがわかる。
『あの人』と会うのはいつ以来だろう。
あれはそう――路上にうずくまる、右腕の欠落した――。
何もできないまま、彼がいなくなってしまって以来のことだったように記憶している。そんなに会っていないのだなと、胸の中に満ち足り無さを感じた。
埋めることはできる――だがアプリは使用しない。
部屋の前の監視カメラが小さく動いて、扉のロックが外れた音がした。許可が出たことを確認してそのまま室内に入ると、呆れたような声がかかる。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
懐かしい調律、澄んだ声。
流行りの中性感が透き通るようで、女性的でありながらも少年のような雰囲気も漂う当世風のユニセックスボイス。実年齢がいつなのかも性別がどちらなのかも不明瞭な少年的で少女的な容貌はつまり反年齢・反性差別を掲げたポリティカルな遺伝子工学的ファッションであり、ティーンエイジャーみたいなだぼだぼの黒いパーカーに目深に被った黒いフードまで含めて文脈の塊みたいな人だった(たぶん年上だとは思う)。金から深い青まで様々に変動する虹彩が妖しく光り、耳をこえて顎のあたりまでかかる黒髪がさらりと揺れている。ぬいぐるみなどが置かれたファンシーな内装の隅には長い木机と凝った装飾の揺り椅子、趣味的な空間にゆったりと構えるその人物は子供を叱りつけるように口を開いた。
「君は感情制御をあえて解除することがあるよね。表情が凄く沈んでるよ。それって、リストカットみたいなものだってわかってる?」
「すみません。こんな場所ですることではないですよね」
申し訳なさそうな顔を作って言うが、選んだのは俺だ。
痛みが――欠落が実感であるという思考は、危険だろうか。
これが病的だと言うのならそうなのだろう。
血の流れないリスカなんて臆病者にはお似合いで、こうして叱られるためにこれ見よがしに見せびらかすのも一種のメッセージでコミュニケーション。だから実際、あまり反省していない。
「反省して改善する。すみませんとか言うな」
頬を膨らませる。大人がする子供じみた表情だった。
そんな顔が懐かしくて――今度は作らない感情のままに笑えた。
リハビリみたいなやり取り。感情の運動不足は予防できたみたいだ。
俺はきっとこのためにアプリの機能を一時制限したのだろう。
「相変わらずですね――ルリさんは」
「きみもだよ、アキラ・シナモリ・プロタゴニスト。さ、横になって。メンテナンスを始めよう。久しぶりだから念入りにね」
「なんですかその名前」
「腕利きのハッカーでピザ配達人で剣士みたいな」
「――ドローンが無い時代の人?」
「パソコン通信時代の想像力だよ」
相変わらずルリさんの言うことはよくわからない。
わからせてくれないなりに、何らかの意味はあるらしいのだが。
寝台に横たわるとすぐに古臭いヘッドマウントディスプレイを巨大化させたような機器を取り付けられる。各種センサーが血圧や心拍をモニタリングしながら俺の身体を精査していく。
「プロタゴニストっていうのはね、演劇とかの物語における主人公って意味。さっきのは昔の小説の話で、主人公がそういう名前なんだよ」
「主人公に主人公って名前付けるのどうなんですかそれ」
「わかりやすいよ? pro-は前にって意味だけど、敵対者であるアンタゴニストとかならきみにとってもなじみ深い言葉じゃないかな」
ああ、と納得する。拮抗薬あるいは拮抗物質。体の中の受容体分子に働きかけて神経伝達物質などの働きを阻害するブロッカー。受容体と結合するものの情報を細胞内部に伝達しないため、神経伝達物質の働きは抑制されるとか、そんなことがこの心療内科で配布された資料に書かれていた。
ルリさんの語りは止まらない。何かの作業をしている様子だが、視界が遮られているために声だけが響いてくる。心地良いBGMのように。
「アンタゴニストはプロタゴニストと対立して葛藤のドラマを生み出す。あるシーンにおける阻害が、劇全体では役者の働きを助けたりもするんだ。現在主流となっているタイプの感覚・情動制御アプリを開発した学者の一人は感覚制御技術を演劇に喩えているね」
「ヤク漬けになってるお陰で主役を張れるっていうのは親近感湧くなあ」
「『E-E』なら脳への負荷も最小限で済むけどね――うん、今のところ問題なし。『仕事』を続けてるみたいだから心配だったけど、これなら大丈夫そう。さっきみたいにわざと切ったりしなければ、だけど」
ちくちくと刺すような言葉。『E-E』の点検と調整にはある程度の時間がかかる。頭部を覆うフルマウントのディスプレイ内に仮想空間が広がり、幾つもの点検項目にチェックが付いていった。つかの間の沈黙があって、かすかに息を吸う音が聞こえた。鋭敏な感覚は見えなくてもあの人の一挙一動を捉え続けている。この気配には覚えがあった。嫌な感じ。
「まだ『仕事』を続けるつもり?」
「あちこち契約社員として回ってるだけですよ。気楽なフリーターです」
誤魔化した。嘘ではない。
俺はごく普通の一般市民だ。違法に入手した不正侵入プログラムを足が付かないように車に仕込んで自動操縦システムを暴走させたりは『していない』し、車両監督者の仕事をしていたら『偶然』暴走した車が『たまたまそこにいた』
クズなので仕事が長続きしない。全国津々浦々を渡り歩いて短期の仕事をこなしては止めこなしては止め――それでもなんとか生活して肉体を侵襲する義体を維持するだけの金額は用意できている。ずっしりとした右半身の確かさは俺にとっての枷であり、寄る辺でもあった。
惰性で人生を演じるだけ――俺はいつ終わるのだろう。
カシュラムの希望と絶望は共に終端にある。死は救いだ。
それでも、とこの身を引きとめる衝動がある。
きっと俺は、『E-E』を正しく使えていないのだと思った。
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