4-160 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ26
混じりものめ。
罵声はいつも密やかに記される。
兎たちは憎悪や侮蔑を囁くのではなく書き記し、ネットの海に放流して悪意を拡散させることが得意だった。今や太陰に真なる純血などおらず、妖精と兎の血は不可分であるにもかかわらず――否、だからこそ切断は行われた。
血塗られた『大破局』『歴史破壊』あるいは『言震』と呼ばれた未曾有の大災害によって太陰の居住区画は機能維持が困難なほどの人口減に見舞われた。当時の月王は人格転写直後の未熟個体ではあったが隣国のアヴロニアに働きかけて大規模な移民受け入れを実行し、国力の回復を成功させた――無数の火種を内側に抱え込みながら。兎と妖精たちの太陰は表向き平和に、しかし裏には亀裂を隠しながら維持され続けていく。王宮でもそれは同じだった。
ヴァージルと呼ばれた美しい王子がいた。
彼は無数の思惑が渦巻く王宮で幼い心を翻弄され、極めて歪んだ形でその精神を成熟させていった。彼が飛び級で入った大学でまず専攻した学問は『優生学』であったという。過激な思想を掲げるインターカレッジサークルに参加し、後に呪術結社を設立。その思想は体制批判に留まらず実践にまで及び、王宮内にすらその影響力は及んでいた。
そしてクーデターが発生する。
現体制に反旗を翻したヴァージルは自らの思想に賛同する者たちを率いて王宮を占拠、妖精たちを一箇所に集めて恐るべき呪術儀式を行おうと試みた。それは一つの種族を根刮ぎ絶滅させる呪いであったと伝えられており、同時に自らが兎たちに及ぼす支配力を絶対のものにする欲深き術であったとも言われている。
しかしながら兎の戦士たちと当時の月王、そして偶然にアヴロニアから視察に訪れていた長命種の光妖精の手によって狂王子の野望は未然に挫かれることとなる。悪は挫かれ、正義が勝つ。物語の筋通りに予定調和の結末を迎え、ヴァージルは永劫の呪いに縛られて地上へと追放された。『地に堕ちて穢れよ』という呪いと共に、高貴な血の王子は流刑の身となったのだ。
――
「穢れきった君に先は無い。その潔癖さで自分の穢れた身を否定するといい!」
ファルの必死の呪詛――いっそ懇願じみた叫び。
言理の妖精が放つ灰色の呪縛帯によって拘束されたヴァージルは虚空を見つめ、焦点の定まらない瞳で何事かを呟いている。
『過去、歴史、再演――そうだ、あれが全ての災厄のはじまりだった。父様の再演呪術。あれのせいで『本体』との接続が。兎風情が、純血種の王であるこの僕に――これじゃあ浄化も統合も思い通りに行えない。僕はただ太陰を、清浄なる天の楽園を素晴らしい理想郷にしたかっただけなのに」
「消えろ、差別主義者! 太陰は兎と妖精とが共存する場所だ! お前のような亡霊は必要ない!」
今の太陰に生きるファルは憎しみを込めてヴァージルを否定する。彼にとってヴァージルは許し難い絶対悪であり、反駁すら許さずに抹消すべき忌むべき過去でしかない。そうでなくてはならなかった。だがヴァージルは向けられた憎悪に負けない――むしろそれを上回るほどの悪意を瞳に込めて返す。
「僕はただ王国をより良い場所にしたかった――あの、汚濁だらけの汚い太陰を。今のこの世界、第五階層、ああ、ガロアンディアンみたいなさあ。そういうのが本当に本当に本当に我慢できなくて、できなくてできなくてできなくてできなくて」
真っ白な肌に、うっすらと浮かぶ黒い血管。
呪紋のように肌を這い回るそれは秘境の部族たちがボディペイントを行うような密度で白い肌を覆い尽くし、漆黒のインクに塗りつぶされた少年の全身が痙攣する。兎の少年は存在全て、血の一滴に至るまで呪われていた。
黒い血。夜闇の如き水。
血管は複雑に蠢き、力ある異界の文字となってヴァージルに苦痛を与えながらも絶大な呪力を与え続けていた。白目を剥いたヴァージルはファルの攻撃ではなく、己の身にかけられた何らかの呪いによって苦しんでいた。
「ああ、母様、母様、どうして、僕を――」
――裏切ったのですか。
そんな言葉を最後に、ヴァージルの意識が途絶える。
反旗を翻したイアテムの斬撃が、ファルが操るベフォニスの拳が、ファルの解体呪文が、そしてパーンのオルガンローデが、嵐となって剥き出しになったヴァージルの表層人格を砕き、再起不能なまでに打ちのめした。
決着と共に戦場の天空に幻の大剣が浮かび上がる。
具現化した僣主殺しの刃は支配者の資格を失った者をその王国諸共に断罪する。
糸がぷつりと切れて、巨大な質量がそのまま堕ちる。
かつて狂王子が地上に失墜したのと同じように。
『ダモクレスの剣』は完膚無きまでにヴァージルの王権を破壊した。
「俺の勝ちだ、ヴァージル」
勝利宣言と共にその力を周囲の有象無象に向けようとするパーン。
その背後から、穏やかな声が響く。
「見事な勝利だったぞパーン。ゆえにお前の役割はここまでだ」
幼い胸が血を吹き出し、細い手が心臓ごとパーンの魂を貫き砕いた。
血塗れの手は球体関節の人形で、返り血に染まった髪はそれでも紅紫の艶やかさを保ったまま。パーンの背後にいつの間にか立っていた何者かは、男とも女ともつかない声で続けた。
「役目を終えた
断末魔の声すら上げられず、不可視の斬撃によってその身を細かな肉片に変えられるパーン。極めて細い糸を操る男は隻眼を眇め、周囲を睥睨する。どぶのように濁った邪視が無造作にヴァージルだったものを襲い、その魂を糸で絡め取った。
「やめろ、これ以上彼を傷つけないでくれ!」
少年の前に立ちはだかったのは三首の番犬サイザクタートだった。主の意思を無視して強引に顕現したことで自己の存在を毀損し、その姿はラグでちらついて今にも消えそうなほど弱々しい。襲撃者は健気な忠犬にも容赦をせず、無造作に糸を手繰って仮想使い魔を引き裂いた。
男根城に降り立ち、瞬く間に場を掌握した者の名をどう呼ぶべきか、誰もが図りかねていた。複数の六王を打倒し、『健康』と『技能』すら略奪して幾つもの断章を背後に従える王ならざる王。アルト・イヴニルと名乗った魔女にして人形、人形にして竜。手繰る糸が呪力を帯びてサイザクタートから、ヴァージルから、パーンから『何か』を吸収していく。不死者たちへの『解答』のひとつ、存在の吸収を行っているのだ。パーンがラクルラールに対してしたように。
アルトの歩みを誰も止められない。
彼は部屋の奥に辿り着くと、巨大な氷塊の前に立った。
氷に突き刺さった骨の剣――クレイと呼ばれていた存在に手をかけると、無造作に引き抜いた。すると同時に氷が砕け散り、力無くコルセスカが床に倒れる。
「ベルグ。女王をお連れしろ。丁重にな」
「わかったよー」
暢気な声と共にアルトの背後から巨大な影が現れる。
血に汚れた古びた全身甲冑。藍色の戦鎚を背負ったその姿は見るものを威圧する純粋な質量の暴力だ。騎士は意識のないコルセスカを抱き上げるとアルトの背後に控えた。隻眼の男は血のような髪を靡かせて周囲を睥睨する。
「断章は得た。門番の権能もまたこの手に――これで冥道は私のもの」
骨の剣を床に突き立てたアルトの傷付いた瞼が震える。
閉ざされた方の目がゆっくりと見開かれ、月色の光と共に解放された。
傷の中から現れたそれは月の宝石。
十字の形をした瞳が黄色く輝き、口元にはどこか少年じみた幼さの笑みが浮かぶ。アルトの魔糸はヴァージルの亡骸から形の無い何かを吸収し続けており、それが彼の変貌を引き起こしているのだと知れた。
気付けばその右腕にも変化が訪れている。人形の腕を『
怒濤の如き展開に誰もが言葉も無い。
海の民たちは突如現れたアルトに警戒の視線を向けて呪術を構成しつつ互いを守ろうと身構える。そんな彼らを十字の瞳が見下ろして一言。
「下らない」
あからさまな侮蔑に気色ばむ戦士たち。
イアテムの刃がアルトに向けられるが、それを一顧だにせず魔糸使いは指先を複雑に動かして何かを手繰り寄せようとしていた。
「家族、絆、英雄像、戦士たる家父長、男根と剣――ああうんざりする。だが儀式の遂行についてはご苦労様だ。劇の中に於けるお前たちの役目は終わった。退場しろ陽根の担い手ども。既にクレイはお前たちの呪力を『覚えた』――三手の副肢を削ぎ落とし、主肢に全ての力を注ぐ時だ」
「わけのわからぬ事を――」
もはや我慢ならぬとイアテムが剣を振るおうとしたその時、アルトの指先が動きを止める。響く呼び声が全てを終わらせた。
「殺せ、ガルラ」
「そうだね、殺そう。皆殺しだ」
いつの間に現れたのか。
朱色のローブを纏った長身の呪術師がアルトの背後から進み出て、同じく朱色の宝玉が嵌められた杖を掲げる。フードに隠された顔は闇に覆われて窺えないが、その内側から放射される殺意はその場にいる全ての者に絶望をもたらした。
ガルラと呼ばれた呪術師が放った絶大な呪力は無数の光線となって中空を走り、海の民たちを次々と殺戮していった。たった一撃でその頭頂部から足下までを貫かれ、そのまま眠るように意識を失って微睡みのままに消えていく。最期の瞬間、彼らは故郷で幸せに暮らす穏やかな夢を具現化し、その景色の中に溶けるようにして消滅していった。
即死の呪いが海の民たちを一瞬にして壊滅させていた。例外はファルに突き飛ばされたセージと、『公社』の部下たちに庇われたイアテムのみ。
ファルはベフォニスを操作してけしかける。だがアルトが腕を一振りすると岩肌の大男の全身は無惨に引き裂かれて倒れ伏した。
同胞を殺されて激怒するイアテムが反撃しようとするが、手も足も出ていない。
自らの分身を使い魔として解き放ち物量攻撃を試みるも、時間稼ぎにしかなっていないのだ。彼我の実力差は圧倒的だった。
しかし、それでもイアテムは撤退を選ばなかった。
無数のイアテムの一人がただ一人残った同胞――セージを見て、それから少女を庇うファルを睨み付ける。
「癪に障るがやむを得まい。そこの中傷者、セージを頼むぞ」
眼鏡の少年はぎょっとして顔を強張らせた。
イアテムは仇敵だ。そんな相手に助けられて逃げる時間を得るということが、ファルの心に躊躇いを生んだ。
そしてそれはセージにとって同じ。
復活したばかりの再生者――ようやく再会がかなった『公社』の仲間たちの無惨な姿を見て、セージは「でも」と何かを言おうとする。イアテムの怒声がそれを遮り、少女は身を竦ませた。
「口答えするな、殴られねばわからんか!」
セージは男の怒声に怯えて縮こまってしまっている。ファルは怒りに打ち震えた。「これは我の戦いだ。女子供はおとなしく守られていろ」などと調子の良いことを言うイアテムが許せなかった。この男は窮地に陥った時にセージを無理矢理に戦わせた卑劣漢だ。それがどの口で「セージを頼む」などと言うのか。
だがファルは苦虫を噛み潰したような表情で「お礼は言いません」と吐き捨てると逃げるようにセージの手を引いた。この場で自らの怒りを露わにすることに意味は無い。未だ迷いを残しているセージを強引に引っ張ってその場から離脱する。
その姿を見送ると、イアテムは生き残った同胞を逃がすためにアルトに立ち向かい、無惨に引き裂かれていく。
夥しい数のイアテムが散り、水となって床を塗らしていく。
そんな中、戦場に乱入する影があった。
稲妻のように壁を走り、倒れ伏したヴァージル――既に物言わぬ骸となった狂王子を抱き上げてその場から離脱を試みる。アルトの邪視とガルラの呪術が追撃するが、そのことごとくが展開された障壁によって遮られた。
ビーグル犬の若者がヴァージルの遺体を抱いて走る。
すでに狂王子は絶命している。再生者に訪れた完全なる滅び。しかしレミルスの目はまだ諦めに染まってはいなかった。
「よし、片方だけだ。『彼』さえ無事ならまだサイザクタートも再現できる。他の『司書』と合流さえ出来れば!」
裂帛の気合いと共に放たれた雷撃がアルトたちの攻撃を一瞬だけ押し退けた。レミルスは訪れたときと同じように稲妻の如き速度で疾走。ヴァージルの屍を抱いたままその場から離脱した。
「逃がしたか。まあ良い。王権を失ったヴァージルは『断章』を巡る戦いに参加する資格を失った。今回の舞台にはもはや奴の居場所は無い」
アルトは十字の瞳を閉じながら言った。
もはや彼に歯向かう者は一人として残っていない。
背後に従える魔導書は合計で六つ。
『技能』『地位』『健康』『道徳』『愛情』『生存』――残りは『杖の座』が保有する『知識』と『呪文の座』が保有する『富』だけだが、アルトはその二つには頓着しない。暗く濁った瞳は足下の影を見据えていた。
「これで儀式が執り行える」
「やったねアルト! あとはカーティスから『尊敬』を奪うだけだよ!」
「そうだね、あと少しだよ。頑張ろう」
左右から騎士と呪術師の人形が声をかけてくる。
アルトは少しだけ表情を柔らかくした。
「残るは一人と一振り。六王の因子は揃いつつある。私の完成は近い」
握りしめた骨の剣とベルグが抱く冬の魔女を交互に見て、アルトはどこか遠い目をした。死闘の末に疲弊した両者を討ち取り、最大勢力となったアルト・イヴニルは今の所もっとも勝利に近い王だ。しかしその表情は陰鬱な諦めに満ちている。
そんな彼の心をまぎらわせるように、左右の従僕たちが明るく騒ぐ。
「全ての権力をアルトの手に集め、冥府の霊廟で儀式を完遂すれば、この世に満ちる支配の呪い、王国の鍵が手に入る!」
「パーンが主だったラクルラールを片付けてくれた今こそが好機。儀式の瞬間が勝負の時だよ、僕たちのレッテ」
二人の言葉に頷いたアルト、あるいはアレッテは、剣を握っていない方の手を翳した。人形の指に絡みつく、透明な青い糸。か細いそれはどこかから絡みつき、その動きを支配している。六人いるラクルラールのうち半数が脱落した今もなお、最上位に君臨するラクルラールの支配は続いている。
第六位であるアルト・イヴニルもまた、その支配から逃れられない。
全ては予定調和であり、運命によって定められた脚本通りの展開に過ぎない。
退屈と諦めに倦んだ暗渠の瞳が揺れる。
出し抜けに骨剣が振るわれた。
青い糸が切断され、束の間だけ人形は糸から解放される。
即座に虚空から出現した青い糸がその身を支配しようとするが、糸が絡みつく直前の一瞬、アレッテは小さく呟いた。
「待ってて、ネッセ。もう少しで」
糸が絡みつき、どぶのような瞳が諦めに染まり切った。
アルト・イヴニルは紅紫の髪を靡かせながらその場を立ち去る。
骨の剣を携え、幾多の魔導書と人形の従僕を従えながら。
氷のような姫君は何故か眠りについたまま、覚醒の時を先延ばしにしていく。
薄い唇がかすかに動き、「あと300秒」と寝言を紡いだ。
男根城と呼ばれていたその場所から命の気配は消えた。
廃墟となったその場所を呪術灯の光だけが照らす。
もはや何の意味も持たない役目を終えた舞台――そこに、黒衣が舞い降りる。
フードの内側には長い髪の青年――あるいは女性。
どちらともつかない中性的な面差しは夜の民特有のものであり、それは男女どちらでもなくどちらでもあるということの証明でもあった。
「動けるか、パーン」
「気配は感じていたが、まさか本当にお前だったとは。変わらないな、ミシャルヒ」
夜の民は死者の名を呼び、死者は当然のようにそれに応じた。
殺害され、存在をアルト・イヴニルによって吸収されたはずのパーンは何事も無かったかのようにミシャルヒの隣に立っている。幼くなった状態のままだが、取り立てて不便は感じていないらしい。失われた腕を『
「余計な手助けだったか?」
「いや、今回ばかりは助けられた。お前相手に謙虚に振る舞う事を惜しむ気も無い。感謝してやる。俺の窮地に駆けつけられた幸運を喜ぶがいい」
あくまでも尊大に振る舞うパーンはその姿も相まってどこか幼い。
ミシャルヒはわずかに目を細めた。
「そうしていると、出会った頃を思い出すな」
「馬鹿を言え。俺がお前と出会ったのはもう少し背が伸びてからだ」
「そうだったか?」
のんびりと昔話に興じる二人。
死を潜り抜けたというのにそんな雰囲気は微塵も感じさせない。
昔なじみと出会って旧交を温めている。ただそれだけの光景だった。
「それにしてもアルトの奴、取り込んだ俺が『
「完全に同一だからな。実際の所、奴の目的が『六王を取り込む』ことであるとすればそれを達成されている。もう一人のお前は確かに死に、奪われたのだ」
確かな形を持った幻想を自在に具現化するその能力によってミシャルヒは『もう一人のパーン』を生み出したのだった。
「それで、パーン。お前はこれからどうするつもりだ? 再び戦いに身を投じるつもりなら、ここで別れることになる。私は私で今の主から別命を帯びていて」
「今の主? おい誰だそれは」
聞き逃せない、という風に険しい顔でミシャルヒを睨み付けるパーン。
夜の民は少し気圧されたように下がって、
「ジャッフハリムの聖妃、レストロオセ様だ」
と言った。たちまちパーンの眉が危険な角度に吊り上がる。
「レストロオセだと? あの穢れた化け物に仕えるとはどういう了見だ、とうとう知能がバグったのかお前は?」
「いや、話せば長くなるのだが今のレストロオセ様はあの頃とは違うのだ。いや、あの頃のおぞましい怪物も名を変えて我らと共に天獄と戦っているのだが」
「もういい。説明下手のお前やオーファの言葉を聞いているとイライラしてくる。カーインがいれば話は早いが、とにかく今はいい。どこか休める場所に案内しろ、話はそこで追々聞くことにする」
肩を怒らせながらその場を立ち去ろうとする幼いパーン。
声にどこか疲れたような気配を感じ取って、ミシャルヒは確かにと納得してその場を移動することに決めた。自然、パーンの一歩後ろをついていくような形になる。背後から近くに用意している隠れ家のマップデータを眼鏡端末に送信。
パーンの眼鏡に表示される『サイバーカラテ道場:道案内アプリ』の文字。拾ってきたベフォニスのアストラル体をナビゲーターのちびシューラと交換してちびベフォニスに変更。アストラル義肢の制御AIとして運用する。
「私からも礼を言おう。ベフォニスはお前が回収してくれなければ完全に消滅していた。アストラル体だけでも生き延びることができたのは幸いだ」
「使えそうだったからな。こいつは俺の右腕と相性がいいようだ。しばらくは使わせてもらうぞ」
あくまでも利己的な理由。
たとえ二重存在が消えたとしても、パーンという絶対なる個我は唯一無二だ。
尊大に振る舞うパーンを見て、ミシャルヒは問う。
「パーン。敵に報復するつもりか?」
「いいや。今回は俺の負けだ。『断章』を奪われたのだから潔く負けを認めて引き下がるのが勝負のルールというもの。しばらく高みの見物と洒落込むつもりだ」
意外と言うべきか、あっさりと第五階層を巡る戦いから身を退くことを宣言するパーン。ミシャルヒは驚きに目を見開くが、パーンは馬鹿馬鹿しそうに手をひらひらとさせて続けた。
「それに、ラクルラールを取り込んだ瞬間にこの『喧嘩』の意味が分かった。付き合うだけ馬鹿らしい上に首を突っ込むのは野暮というものだ」
幼い表情に浮かぶ感情は呆れの色が強い。
もはや興味は無いとばかりに『断章』や『王国』、そして『女王』といった物語の中心に手を伸ばすことを止め、移り気な瞳は次なる獲物を探して期待に光る。
「こんな茶番よりもっとふさわしい舞台で暴れたいものだ。たとえばだ。近々、第五階層の外部まで巻き込んだ派手な祭りがあると聞いた」
「歌姫の来訪か」
ミシャルヒが答える。彼もまたその催しに対して何らかの思惑を秘めているのか、表情に暗い色彩が混じる。それには気付かぬまま、パーンは楽しげに言った。
「地上が絡めばクロウサー本家も動く。子孫どもとの勝負はその時までお預けとしよう。祭りは盛大な方がいい」
そこまで言うと、パーンは糸が切れたようにふらついて前のめりに倒れる。
小さな身体を柔らかく支えたミシャルヒはそっと少年を抱き上げた。
激戦による消耗はパーンの想定以上に『少年であるパーン』に負担をかけていた。目覚めた後、計算違いの昏倒を知ればきっと彼はそれを恥と感じて八つ当たりのようにミシャルヒを詰るだろう。その子供じみた表情を想像して、夜の民は淡く笑った。抱き上げた身体は羽のように軽い。
「おやすみ、パーン」
それから、出会った時もお前はこんな風に小さかったよ。
囁きは影の中に溶け、二人の姿は幻のように消え去った。
廃墟に残るものは、今度こそ何も無い。
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