4-153 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ⑲
アストラル界に存在するオルヴァもまた、激しい演武の真っ最中だった。
虚空に向けてブレイスヴァカラテの型を繰り返す。基本動作である
架空の貫手を躱しつつ掴む。存在しない確かな感触を捉え、もう片方の手が架空の顎を突き上げるように鋭く伸びた。交叉する腕がブレイスヴァへの信仰を増幅。十字の形が呪力を生み出し、アストラル界とマテリアル界の壁を越えて異なる位相に存在するカーインを打撃する。
演武を行うオルヴァとカーインは、互いを仮想敵とすることで実際に死闘を演じているのだ。オルヴァ=シナモリアキラと敵対することでトリシューラ=シナモリアキラと共闘する――カーインの選んだ方法は彼にとって合理的な道だった。
激戦を眺めつつ、ヴァージルは満足げに頷いた。
背中の水晶には地上で荒ぶる『件』と『
「シナモリアキラという生贄がカシュラム王の存在を強固にする。けど、なら十二人がひとりずつ死んでいくという流れを歪めるだけだ」
ヴァージルの腕にいつの間にか髪の長い人形が抱きかかえられていた。
ラクルラールはカタカタと口を開閉させながら青い髪の毛をあちらこちらに伸ばしている。この人形が持つ支配の能力は第五階層全域に及ぶ。
ヴァージルによって隠蔽されていた『文脈操作の糸』が起こり得るあらゆる事象を改竄する。全ては自分の掌の上だったと少年は語った。それが事実であるかどうかはともかく、宣言は他者の現実を押し退けるだけの呪力を有していた。
「君は不完全な形で顕現するんだよ、オルヴァ。そしてシナモリアキラ共々、この僕の使い魔になるんだ」
ヴァージルという少年は、ラクルラールとイアテムを支配下に置き、『百々目鬼』やワルシューラを軍門に加え、更にはオルヴァとシナモリアキラまで従属させようとしている。彼の陣営が完成すれば、他の六王たちが一方的に押し潰されてしまうという展開もあり得るだろう。あるいは、死人の森すべてが少年に呑まれるかだ。
「さて。新しい君は、どんな顔をしているのかな」
狂王子は透明な微笑みを浮かべると無数の仮想使い魔をオルヴァに差し向けた。
オルヴァはカーインとの死闘を演じながら破滅を幻視。知覚した全てを抹消していく。だがヴァージルたちは余裕を持って邪視の射程外に逃れていった。
「きみと純粋な力比べなんてしようとは思わないよ。敵わないし、時代遅れだ」
狂人と賢者の闘争はどこまでも噛み合わない。
歯車がずれたまま、互いにわけのわからぬことを自分勝手にわめくばかり。
オルヴァが破滅と終焉、ブレイスヴァについての未来を語れば、ヴァージルは穏やかな口調で現在から地続きとなった将来へのビジョンを語る。
「人はみなそれぞれに違う。不寛容から生じる争いは止まらない。シナモリアキラがそうであるように。同じ人格、同じ属性を持っていてもこんなふうに争ってしまうんだ」
「四方の三に真芯の一、おおブレイスヴァよ! 全ては虚無に帰るだろう!」
「世界はどうしようもなく失敗している。人類はもう夢を見るには歳をとりすぎた。オルヴァ、君は老人だからそんな風に諦めを語るの? そんなのは嫌だな。なら僕は『
「ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ!」
「アストラルネットの海がこんなにも広がった現代では、制度としての王国はもう古いんだよ。個人はどこまでも分断され、『使い魔』が繋げている共同体は瓦解と再構築を不毛に繰り返すばかり。カシュラムが失敗したように」
「ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ!」
「国家への帰属意識が薄れた現代人に求められているのは「ブレイスヴァ!」利便性、ツールとしての共同体「ブレイスヴァ!」大衆を特権的な
珍しく頬を紅潮させて怒鳴るヴァージル。
常に余裕を崩さない少年にしては珍しいことだった。
幼い表情に癇癪じみた怒りを浮かべて、手を横に一振りする。
半透明の仮想使い魔たちが大挙してオルヴァに殺到し、強大な王の力を完全に押さえ込んだ。やや強引に決着をつけにいったヴァージルは、ふうと息を吐いて後ろに向き直った。視線は下界、トリシューラ=シナモリアキラに向けられている。
「さあ、いっしょに行こう?」
オルヴァに続きシナモリアキラも支配すべく、ヴァージルの圧倒的な呪力がアストラル界を、そしてマテリアル界を席巻する。
ラクルラールの糸が蛇のように宙を這って炎天使を強襲。
それに対し、叫びが二つ。
炎の翼を広げて空を飛ぶ機械天使に続くように、水の大蛇に乗る黒髪の乙女が駆けつけて鋼鉄の義肢を変形させていた。
「ウィッチオーダー起動。五十七番『リーエルノーレス』、木材を創り出せ」
「ウィッチオーダー・プロト/アゴニスト起動。四十八番『ミュリエンティ』、絶対なる偶像を彫り出し無為なる祈りを捧げよ」
ヴァージルに対抗すべく、炎天使のアキラに加勢した『大蛇』の晶。
共闘する二人の気配はひどく似通っている。
とりわけ左腕の呪力はほぼ同一といって良いくらいに相似形だった。
似ているものは呪術的に引かれあい、共鳴する。
並行して発動したウィッチオーダーの力が極限まで高められていった。
「へえ」
興味深げに成り行きを見守るヴァージルは、指先を軽く曲げて数十の呪文を瞬時に構築。小手調べとばかりに投げつける。
対する二人のアキラは左腕の換装を終えていた。
炎天使の左腕がチェーンソー型。生き残っていた狂怖を次々に切断していく。
晶の左腕はレーザー照射装置をはじめとした多機能型の彫刻用義肢。切断されて『材木』となった異獣を『加工』していく。灼けた臭いが立ちこめて、異形の死体を用いた醜悪極まるオブジェが完成。邪神崇拝の偶像じみた死体彫刻。
融血呪の糸は呪力の塊のような彫像に全て吸い寄せられてしまい、支配するはずだった戦場からラクルラールの呪力が消えていく。二人のアキラ、二つのウィッチオーダーによる連携が凄まじい吸引力を持った囮を創りだしたのだ。
直後、ヴァージルによる死の呪文が殺到する。
いずれも中規模なオルガンローデに匹敵するだけの破壊力を有し、直撃すれば二親等以内の祖父母や孫まで巻き添えになって即死するほどの悪質さを持つ呪詛だ。
前に出た晶は顔色一つ変えずに左腕を掲げて呪文を詠唱。
「『
呪文が発動するとほぼ同時、ヴァージルの呪文が全弾直撃する。
真正面から受けた晶は確実に絶命したと思われたが、幻の爆炎が晴れたあと、肩で息をしながらも彼女は五体無事なままでその場に立っていた。
左腕が震えて、表面に彫られた微細な刻印の上を光が走っていく。
象牙じみた白くなめらかな素材。
まるで美術品のようで、戦いの場には相応しくない義肢のようにも見える。
しかし、それが実行している呪術現象は異様の一言に尽きた。
晶の呪文に呼応して、醜悪な彫像が超高速で姿を変えつつあった。
邪神像は薄く引き延ばされたのち、無数に裁断されてから丁寧に重ねられる。屍によって作られたおぞましい魔導書――邪神崇拝の聖典が完成。自動的にめくられていく項が無意味な教えを垂れ流してあらゆる神を否定する。
『ミュリエンティ』の持つ不可思議な機能がヴァージルの呪力に影響を及ぼし、死の運命を覆したのだった。消耗した晶の前に、今度は炎天使が進み出る。
「
「私/俺は、お前の言葉を信用しない」
炎天使が二重になった男女の声を発する。
ヴァージルはラクルラールと共に更に大量の呪文を紡ぐ。
「それは残念。でも安心していいよ。僕の世界にもきみたちの居場所はちゃんとあるから。可愛いワルシューラとして、永遠に遊び続けるといいよ」
呪文の嵐が吹き荒れ、雷撃と暴風が言葉と共に炎天使を襲い、増幅されていく悪意がネットの海を波立たせていった。
狂王子の力は明らかに炎天使を上回っている。
悪足掻きのように、ちびシューラが呪文を拡散させた。ヴァージルの大波に比べればさざ波にも等しいが、それは戦場を迂回して階層の中央へと進んでいく。
「何を?」
訝しげに呟いたヴァージルは遠く離れた彼の拠点、すなわち男根城に異変が起きつつあることに気が付いた。
トリシューラは先程の呪文で
たちまち暇人と愉快犯たちの遊び場と化す男根城。
アストラルネットによって増幅された悪意が絨毯爆撃を行う。
「面倒だな」
不快そうに眉根を寄せるヴァージル。
直後、その表情が凍り付く。
衝撃が第五階層を揺るがした。塔の根本にある二つの半球状のドーム。
左側の球体が不可視の暴力によって脆くも崩れ去っていく。
何者かが『巨人の腕』を振り回して破壊の限りを尽くしているのだ。
「『塗壁』は最強の座を得るためにファルを仕留めることを優先するつもりみたい。上手く生き残ってくれるといいんだけど」
勝利条件はトリシューラの手によって追加された。『
状況を掌握すべくヴァージルは対抗策を講じようとするが、状況は更に激変する。その場に犇めく『王』たちの強大な呪力に加えて、同格かそれ以上の『波動』が第五階層を揺るがしたのだ。聞き覚えのある哄笑が響く。
「ハ! 隙だらけだぞヴァージル!
第五階層南ブロック、呪術医院よりも更に辺境にある階層周辺部に『気象庁』はあった。天候を制御して雪を降らせている事象改変装置にしてトリシューラの『王国』を維持するための拠点、そのひとつ。
要塞の如き巨大な建造物が、轟音を立てて浮上しつつあった。
周辺の岩盤を引き剥がし、地割れを広げながら下部の噴射孔から大量の炎を吹きだし、稲妻を迸らせながらぐんぐんと上昇する。高らかに反響する男の笑い声。
「いいぞ、上出来だトリシューラ。これならば俺が利用するに相応しい。利用されてやる、ありがたく思え。『流星気象庁』、飛翔せよ!」
パーン・ガレニス・クロウサーの増幅された音声が第五階層を震わせ、巨大建造物が彼の意思に呼応するように天上のある一点で制止、それからゆっくりと前進を開始した。角度をつけながら、最高点から斜めに階層中央を目指して。ヴァージルの呪文も、ラクルラールの糸も、全てをはね除けながら巨大質量は空を飛翔する。
「状況は全て自分のコントロール下にあるって思ってた? それとも対処したつもりになっていたの? 私にだって無理だよ、完璧なパーン対策なんて」
だからこそ切り札にもなりうる。そう言って、炎天使は左のチェーンソーで使い魔の群れを切り裂いた。ヴァージルの戒めが破壊され、オルヴァが自由になる。暴れ出したオルヴァは狂犬のように炎天使とヴァージルの双方に襲いかかった。
パーンが起動させた『気象庁』はその宣名の通り流星の如く一直線に突き進み、呪術障壁を突き破って男根城右側ドームに墜落。
激震と爆発、吹き上がる土砂と炎、蒸発していく雪と海水。
アストラルの海が割れて大波と大渦を作りネットワークがかき乱されていく。
制御不能の六王は、『巨人の腕』を解放して右側ドームを完全に崩壊させた。
暴れ狂う二つの『巨人の腕』によって左右の球体を失った塔。
陽根に突き刺さった巨大質量は幾度となく爆発を繰り返し、塔は大規模な火災に見舞われる。ヴァージルは鋭く炎天使を睨み付けた。
「この戦闘は陽動か」
「ううん。両方とも本命だよ。二正面作戦みたいな?」
少年はしばし迷いを見せたが、塔で再び爆発が起きた上にオルヴァと炎天使から挟撃されるに至り、使い魔たちを引き連れて一瞬で姿を消す。
狂王子ヴァージルと言えど、アストラル体をこちらに集中させたままパーンの前に無防備な本体を晒す気にはなれないようだった。何より、確保しておくべき『女王』があの場所に眠っている。
「さて。じゃあこっちはこっちで片を付けようか」
炎天使シナモリアキラは、どこか女性的な仕草で半身になって構える。
アストラル界から大地へと降り立ったオルヴァは、『件』の肉体を完全に支配して現世に再臨を果たす。転生した賢者は十字の目を輝かせて言った。
「戦いの果てにシナモリアキラはこう叫ぶだろう。『ブレイスヴァ』と!」
「はいはいブレイスヴァブレイスヴァ。速攻で
不可避の予言を自らの文脈に取り込んで、炎天使が予言王と激突した。
『大入道』マイカール・チャーラムは、暗闇の中で膝を抱えて蹲っていた。
ごうごうと、何かの駆動音が聞こえている。
熱と重油の臭い。鋼鉄の気配に満ちた胃袋の中。
彼はゆっくりと消化されていた。身の内から生命力を吸い出されているのがわかる。それでもここは暖かい。なにもないが、心地良く微睡んでいられる。
彼は望んで闇の中に身を置いていた。
機械女王との対話の中で得た答え。それがこの選択だったのだ。
「話しづらいなら、ワンクッション置いてみようか。これなんかどう?」
回想の中で、トリシューラは箱庭のようなものを差し出してきた。
過去の罪をいつまでも吐露できないマイカールを急かすでもなく、あくまでも穏和に朗らかに接する。それは機械的な優しさで、だからこそ彼は安堵できた。相手が自分に対して何の感情も抱いていないことが理解できたからだ。
箱庭、あるいは環境のミニチュア。様々な象徴や素材を組み合わせて空間を作っていく、砂場遊びにも似たゲームだった。立体幻像装置も組み込んだ最新式の玩具であり、心理療法用の医療機器でもある。
二人の間で行われたのはごっこ遊び。
当時の光景を再現するために、トリシューラはゲームマスターとして状況と目標を設定する。ミッションを完遂するために、マイカールは部隊を編制し、兵站を整え、異獣たちを殲滅していく。
台詞や身振り手振りも交えて、当時のふるまいを再現した。
段々と演技にも熱が入るようになってくる。
敵を槍で貫き、高く掲げて神の威光を知らしめていく。
それはまさしく神の戦士たちの輝かしい記憶だった。
「うんうん。楽しく、気軽にね。ゲームなんだから」
敵を倒せば経験値が手に入り、ポイントに応じて報酬が獲得できる。
一定数まで経験値が貯まるとレベルアップ。ステータスやスキルが上昇する。
こうすれば効率的、というプレイングを覚えてそのために最善の行動を選択し、ステージごとに変化する環境にも見事に対応していく。
ルーチン化した最適解を求める思考。
ゲームも現実も同じだ。限られたリソースを運用してより良い結果を目指す。
最適な手段は最善の結果を生むに決まっているのだから。
見せしめによる示威行動は多くのケースで有効だ。好戦的な異獣は反撃に出て来るが、それさえ挫いてしまえばあとは楽に進められる。
問題は地域を制圧したあとだった。
辺境に駐屯した部隊が、ゲリラからの報復に怯えてしまうのだ。
地域住民の嫌悪や恐怖に満ちた視線も誇りある戦士たちの自尊心を損ない、慣れない亜大陸の気候や海を越えた南東海諸島の潮風は心身に堪えた。
部隊の士気を維持するために最適な行動を模索していく。
最も良いのはストレスの発散と示威行動を同時に行える略奪だ。
許可をすると、効果は覿面だった。
歯止めのきかない場面も多かったが、異獣相手にすることだから問題は無い。
いつの間にか風紀は乱れ、地域特有の麻薬が部隊内に蔓延するようになっていたが、実際それは大変素晴らしいものだった。マイカールは上司には状況を報告せず、草を咥えて煙を吸い込むことで面倒を忘れた。
「そっか。その時に最善だと思った行動を選んだわけだね?」
頷く。記憶の中で、トリシューラは笑顔のままだった。
海の民たちの戦意を挫くために最も必要なことを行った結果として『このようになった』。ティリビナの民たちの信仰心を破壊するために最善を尽くした結果として『あのようになった』。マイカールたちは一貫している。誰が扇動したわけでもなく、ごく自然に皆がそれを正解だと感じたからそう動いた。
じっさい、それは上手く行った。
上手く行ったではないか。
「どこかで、違う視点に気付いちゃったかな?」
そう、そうかもしれない。
だからこそ、答えを求めた。
気が付くと、彼の前には朱金の鎧が立っていた。
ぼんやりとそこにある神々しい炎天使。
松明の紋章を刻まれた、金鎖に飾られる聖なる乙女。
滂沱と涙を流しながら、マイカールは鎧の女性に手を伸ばす。
「私は、私は正しかったのでしょうか? 我らの聖戦とは、無慈悲な虐殺だったのですか? 正義と信じたあの勇気ある闘争、それは」
そうではない、と彼は叫びたかった。
あの恐るべき戦いの数々!
南東海諸島から大挙してやってきた海の民、とりわけ水の剣を振るう勇者にはさんざん苦しめられ、五十四名という犠牲者が出た。
亜大陸の殲滅戦では、その犠牲者は二百五十にも及び、その後も残党たちによる散発的な襲撃で死者や負傷者が増えていった。
全て尊い犠牲だ。本国では国葬が行われ、松明の騎士団には国民からの非難が殺到した。人が死ぬということ、その重さがマイカールを打ちのめした。
「彼らの犠牲は、正しかったはずだ!」
度重なる襲撃は苛烈を極めた。
同胞の巻き添えすら厭わない狂気の自爆攻撃は修道騎士よりも一般市民に多くの犠牲者を出した程だ。ああ、密林に紛れて襲い来る樹木人の悪意! 水面に引き摺り込まれる善良な信仰者たち! そこは異界だった。平和な都市から遠く離れた未開の地、過酷な異世界。彼らは恐れた。たったひとりの死で新参の修道騎士たちは錯乱し、熟達の戦士たちでさえ悲しみに震えた。だが野蛮な敵は違った。屍を積み上げながら次々と、狂ったように押し寄せる。だから殺し続けるしかなかった。
悪夢のような戦場に修道騎士たちは恐れを抱き、精神を病む者、錯乱する者まで現れ始めた。彼らは身を守らなければ生きていけなかった。
仲間を守らなければ。生死を共にする部隊の同胞たちと生き残らねば。
襲撃に先んじて、異獣共を殲滅する必要がある。
おぞましい異界ごと、徹底的に。
それは祈りだ。マイカールは縋り付くように左右の義肢を組み合わせた。
「その通り。あなたは赦されています」
機械的な音声が朱金の鎧から流れ出した。
かつての総団長、松明の騎士だった聖なる乙女は、あの戦いの日々と変わらずに無感情な声でマイカールを導く。正しい方向を指し示して全てを肯定する。
「父なる槍神により全ては赦されています。神罰を執行し、異獣を殲滅しなさい。あなたは赦されています。あなたは赦されています。あなたは赦されています」
「おお、おお!!」
かつてと同じだ。
あの時も、彼の総団長はこんなふうにして松明の騎士たちを全肯定してくれた。
神々しい微笑みで、全く同じ言葉を繰り返しながら祝福の炎を撒き散らしてあらゆる不浄を迷いと共に焼き払ってくれたのだ。
愚かな不信心者のように懊悩していたのが下らない事に思えてくる。
「あなたは赦されています」
この言葉さえあれば「あなたは赦されています」世界は美「あなたは赦されています」神の「あなたは赦されています」「あなたは」正しさと「赦され」――。
気付けば、両耳を義肢で押さえながら蹲っていた。
そんなマイカールを見下ろしながら、トリシューラは言う。
「肯定を、赦しを求めているということが既にあなたの結論なんだよ。そこがあなたのアキラくんと似たところ。救いを恐れ、疑ってしまうのは弱さかな、それとも愚かさなのかな。ねえ、本当の赦しが欲しい?」
顔を上げる。そんなものが、どこにあるというのだろう。
求めていた救いは、やはり想定していた通りの救いでしかなかった。
マイカールにはどうしようもない予定調和しかない。
過去も未来も、己の命の全てが罪深いもののように感じられる。
「裁きはここにはないよ。赦しもね。それができるのは、私でも彼女でもない」
そう言ってトリシューラは答えを口にした。
マイカールは、それを恐れながらも納得して受け入れる。
行き止まりの中で、その道はとても単純明快で、それしかないと思えるものだったからだ。なにより、そこにしか自分の答えは無いと思えた。
「あなたは戦いの中で生きてきた。戦いの正否は、戦いの中で見つけるんだよ」
記憶の中、その言葉だけが反響する。
熱狂と力の激突。次第に戦いの興奮が甦っていく。
生み出すのは稲妻。
左腕が加熱し、右腕が冷却を行い、巨人としての圧倒的呪力が巨大な質量が飛翔するだけのエネルギーを発生させていく。
トリシューラの思惑に乗せられているだけと知りながらも、マイカール・チャーラムは『気象庁』を一条の流星として目的地へと運んで行った。
凄まじい衝撃と爆圧。だが雲の身体は小揺るぎもしない。
粉塵の中からゆっくりと外へ這い出した。
そこは既に敵地だった。怒号と敵意が一斉にこちらを向く。
それが裁きだ。
判断を下せるのは、結局のところ当事者だけなのだ。
マイカールは口の端を持ち上げた。自然と笑い声が漏れ出す。
同行者は先に奥へ向かったようだ。構いはしない、目的は別々なのだ。
機関室から飛び出した『大入道』は、炎上する世界で雄叫びを上げた。
迷いは消えていた。自分の本質がさらけ出されていくのを感じる。
ここには気配がある。異教徒の、異端者の吐く息がそこら中を穢している。
ならば殺せ。この魂が命ずるままに、全てを焼き尽くせ!
「貴様――きさま、は――」
掠れた声が聞こえた。
そこには、海の民の特徴を備えた上半身裸の男がひとり。
屈強な肉体を誇示し、腰には弓を、背には矢筒を、手には水の剣を携えて、昔語りの英雄のように巨大な『大入道』に立ち向かおうとしている。
だが、勇者として振る舞うはずの男の顔はどす黒い感情で染まっていく。
「何度――夢にまで――許さぬ、許さぬ、貴様だけは――」
「愚かなり。主の慈悲により眷族種に列せられておきながら、再び天に唾を吐くか、海の勇者イアテム! 異端者め、悔い改めよ!」
「死ねええええええ!!」
狂ったような絶叫が炎上する世界に響き、戦場が呪いで埋め尽くされた。
勇者、英雄、虐殺者、敵、悪、それら全てが激情と暴力に飲み込まれて無意味なノイズに成り下がる。両者の間にはただ闘争のみがあった。
戦いに次ぐ戦い。
炎と血の赤が破滅を招き、『それ』は次第に鮮明な姿を取り戻していった。
刃が天から降りてくる。
ひとつ。呪術医院の真上に狙いを定めて先端をきらりと光らせた。
続けてふたつ。異形の塔の直上で、裁きの時を待ち構える。
終わりを待つ二つの巨剣。
王国に破滅をもたらすため、第五階層にその姿を現した。
「ダモクレスの剣。終わりが始まるのですね」
呪術医院の屋上の縁に腰掛けながら、夜の民の魔女はそっと呟いた。
ヴェールの奥で、瞳が濡れたように揺れる。
「誰かの敵であることは、なんと残酷なのでしょう。平凡な人が悪役として生きるのは、とても息苦しいもの。ましてやそれが身の丈に合わない巨悪なら」
遠くで争い憎み合う誰かを見ながら、魔女は悲しそうに言う。
それで何かが変わるということはないけれど、そうせずには居られないというように。その優しさもまた残酷さを孕んでいた。
「勇者だとか英雄だとか、正義が裏返って悪になるなら、それはとても悲惨です。わたくしたち魔女は弱者、悪、そして罪として生まれついたから、その痛みを想像することしかできません。あなたたち英雄はその理を鉄と力で定めました」
つまりは自傷です、と目を伏せる。
涙を零しそうなほどに、ラズリという女は感情を沈ませていた。
憐れみ。弱い相手に、高みから向ける感情だ。
憎悪をぶつけ合い、愚かに戦い続ける人間たち。
その醜悪な有り様を、彼女は愛おしげに、悲しげに見つめる。
「わたくしたちは自ら魔女であることを、悪であることを選びました。在り方を選べない残酷の、なんて悲しいことでしょう」
両手を組み、祈るように瞑目する。
争いと憎しみ、血と炎の絶えない世界を嘆き悲しみながら。
くすり、と小さく笑って。
「悲しい哀しい。でも、それはそれで捗りますね?」
斜め十字の瞳を爛々と輝かせながら、魔女は世界の残酷に絶望しながら歓喜を抱く。増幅され続ける暗い感情の連鎖。それすらも『楽しい』と肯定して。
ラズリ・ジャッフハリム。
彼女もまた、この呪われた第五階層の住人なのだ。
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