4-145 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ⑪




 小鬼ゴブリンとは、自分とその周囲を丸ごと異世界化させた『神』である。

 独立したひとつの異世界そのものであり、異界転生者でもあるもの。

 いち個体につき固有の種族、世界、物理法則、その他ありとあらゆる『自分だけの秩序』を有する最悪の邪神。特徴は人の話を聞かず、聞いても否認して自分に都合の良いように曲解すること。


「あと不死だ。死を認めん」


 グレンデルヒは一番厄介な特性をわかりやすく説明した。

 『我こそは世界の王にして造物主』という自負と理性、覚悟と信念を持った巨人ネフィリムとは違う。小さな鬼、邪悪な妖精たちに知性はない。

 あるのは幼稚な全能感のみ。

 白痴あるいは愚鈍、盲目あるいは視野狭窄。

 下劣にして冒涜的な罵声を絶え間なく発し、飢えと欲望に悶えて破壊衝動を発散する、粗暴で下等な怪物。溢れる欲動リビドーのままに繁殖を行い、驚くべき速度で増殖と自己複製を繰り返す。


「世界の変貌は奴の『繁殖』が原因だ。奴らは異常な速さでぽこぽこ増えて自分の世界を広げる。個体として次を繋ぐのではない。自己を複製し、世界そのものが繁殖するのだ」


 その結果として小鬼を中心にして徐々に世界が歪んでいく。

 奇声を上げる『絡新婦』が空間を捻じれさせながら徐々に世界そのものを汚染していった。強引な世界槍の改竄を無意識に行っているのだ。悪意と破壊衝動に任せた世界の汚染は最終的には世界そのものを崩壊させてしまう。

 竜の修正力が働くために不可逆変化ではないが、それでも邪視者や巨人よりも改変が世界に与える傷は深い。規模は小さく、汚染度は深刻。それがこの邪妖精の世界改変なのだった。

 めったに人前に姿を現す種族ではない。

 何度か地上に侵攻し、多大な被害をもたらしていく悪夢そのもの。

 そのたびに名高い英傑や修道騎士たちが撃退してきたが――。


「あれ一体によって九槍の一振りが守る堅牢な要塞と階層が丸ごと落とされたことすらある。即座に冬の魔女どもが奪還していたが――奴らをもってしても苦戦するような手強い怪物だ。むろん、私にとっても」


 手を貸せ、とグレンデルヒは言った。

 力を合わせなければ倒せないと、この男をして判断せざるを得ない難敵なのだ。

 仕方ないと舌打ちして『鵺』が叫ぶ。


「どうすれば倒せる?!」


「手は二つある。一定時間あれを殺し続けるか、一定時間内に完結する文脈や体系、歴史といった物語を即興で構築して高速解体するかだ」


「具体的な時間は?!」


「およそ300秒前後だな」


 つまりは五分間。

 それだけの間、持続的にこの強敵を殺し続けるというのか。

 『鵺』はたじろぐ気配を見せた。

 なにしろ致命傷を与えても即座に復活する上、一度試した攻撃は効きづらくなってしまう。『耐性』が付く度に肉体は強靭になっていき、復元の速度も増しているのだ。困難に過ぎる方法だ。後者の方法も、呪文で倒せるのならグレンデルヒが最初からやっているだろう。つまり、後者もまた無理難題なのだ。

 グレンデルヒの解説が続く。


「こいつらは歴史を持たず、世界が一瞬ごとに創造され続けている――あるいは少し前に自分が過去を含めて創造したものだと思い込んでいる。『宇宙300秒前仮説』という世界観を内面化した異形どもだよ。種族的平均値としてはおよそ300秒まで時間を遡って事象を改竄できる。たとえ完全に死んでいてもな」


 小鬼は目に映ったものを逐次的に処理し、自分の内的宇宙にとって都合のいいものに変質させる。邪視者の特性を過剰に拡張して知性と品性を剥奪すればこうなるという『成れの果て』だ。逆に言えば、余計な枷――『呪文』『使い魔』『杖』という人類の知的営為――を取り払った邪視者がどこまで邪悪かつ醜悪に強くなれるのかという問いに対する答えでもある。


 もっとも、進んで小鬼になりたがる者はそういない。

 巨人とは違い、彼らは人間性の根源である知性の大半を喪失している。

 それは自分が自分でなくなるということだ。

 強い『自我』を誇りとする邪視者にとってそれは受け入れがたいことだった。

 小鬼の邪視は機械的で作業的な、惰性と本能の産物である。

 これは既に人ではない。『異獣』でしかない。

 使役している『下』ですら忌むべき『異獣』と見なしているのだから、グレンデルヒが『鵺』の敵だと断言するのも全く根拠の無い話ではなかった。


(だが、墓標船級の異界ミーム――『アウターゴッズ』の力ならば奴らに届く。十二人のシナモリアキラが有する墓標船の呪力、それを利用しない手は無い)


 グレンデルヒの見たところ、『鵺』の英雄観にはこの世界由来ではないものが含まれている。変身する特撮ヒーローは昔からあるフィクションだが、『ベルト』というギミックを組み合わせるのは初めて知った。

 間違い無く、墓標船由来のものだろう。

 その上、何らかの強い『紀』性を感じる。異界の英雄を参照しているのだろう。

 『鵺』の存在圧は当初は一発屋のサイバーカラテ芸人レベルだったが、今や急速に上昇して邪神と渡り合えるまでになっていた。

 使える、とグレンデルヒは確信していた。

 ふざけた文脈で襲ってくる相手には、それを凌駕するほどのふざけた文脈をぶつけてやればいいのだ。複数の文脈を次から次へとぶつけてやれば、耐性が出来たとしてもダメージを与え続けることができる。


「新フォームだ、英雄よ! 英雄に力を授けるのは古来より賢者や博士キャラだと神話的に決まっている! 『博士もしくは先生と呼びたい有名人ランキング』の常連であるこの私が新たな力を授けてやろう!」


 『鵺』を援護しつつ、『絡新婦』の足止めを続ける。

 そうしている間に、レオが期待していた援軍を引き連れてやって来た。

 三角耳の少女と異形の猫が大量の宝石を投げつけると、眩い光が弾けて『絡新婦』が宝石のような障壁に閉じ込められる。閉鎖された異界に一時的に封印されたのだ。チェーンソーが唸るが、切断に時間がかかるらしく手こずっている。やはり異界の呪力――『猫』の力は有効なのだ。


「遅れてすみません」


 レオは律儀に謝ってから背後の援軍を紹介した。


「お待たせしました! とにかく頑張って探そうと思ったら、なんだか偶然会えちゃって、成り行きで来てくれることになったかたです!」


 説明になっていない説明。

 レオの背後から援軍として連れてこられた人物が前に出る。

 薄いヴェールで顔を隠し、黒と紫のローブを身に纏った占い師風の女性。

 グレンデルヒは道化メイクの顔を引き攣らせた。


「あああの、あの、ちょっと自信喪失して引きこもってる間にシナモリアキラ様が新キャララッシュなんですけどこんな燃料を私に投下して大丈夫なんですか?! とりあえずお話はシューラさんに聞きました、『鵺』さんと『火車』さんは宿敵同士、いいですね?! 嫌いですか、憎いですか、それとも気にくわないですかっ」


「おい、待て。もう少し」


「ていうかグレンデルヒさんはすっかり憎まれ口を叩きつつ反乱の機会を窺う油断ならないポジションでありながら頼りにもなる系のおじさまになってしまわれて、ラズリ正直このかたはナシかなーと思ってたのですが己の目が曇っていたことを自覚せざるを得ませんでした今ならおいしくいただけます! 誰をいじめたいですかもしくはいじめられたいですかやっぱりアキラ様ですか増えましたが誰がそそりますかっ」


 興奮した様子で捲し立てる夜の民――ラズリの目が十字に輝く。

 カシュラムの縦十字ではない。左右に聖なる二つの御名を配置する『斜め十字』である。同じ意匠は髪飾りと首飾り、耳飾りにも存在しており、しばらく見ないうちに『修行』をしていたらしいことが窺える。魂の位階が上昇していた。

 グレンデルヒの中で何かが切れる。


「貴様の心は今なお曇りっぱなしだ馬鹿者めぇっ! よりにもよって何故こいつを連れてきた?! そして何故ついてきた?! 正気か?!」


「あ、大丈夫ですわたくし今フリーの請負人なので! 実はシューラさんに雇われているのでこういったお手伝いならできますよー!」


 その一言で、グレンデルヒはトリシューラが秘匿している情報が想像より遙かに多いことを再確認する。もうひとつ重要な事実があった。


(やはりあの魔女は対トライデントを掲げていながら、その実すべてのトライデントを倒すつもりが無い。それどころか、トライデント内の特定派閥と協調している。まさか奴は、本当に『細胞』の――)


 そこまで考えたところで、グレンデルヒはレオが引き連れてきた援軍がひとりだけではなかったことに気付く。

 厳密には直接連れて来られたのはラズリひとりだったが、少年の引力に招かれた『流れ』がこの場所に集いつつあったのだ。


「ニアちゃーんどこー?! ごめんねーわたしが目を離したばっかりにー!」


「仕方無いですね、いざとなったら再召喚しますよ。もう呪宝石がほとんど無いですが、トリシューラにでも頼むことにします。たいへん不本意ですが」


「わたしにーさまがひとり、ふたり、さんにん――どれがわたしのアニムス?」


「先程は不覚をとったけれど、今度こそ潰す! あら、メートリアン」


「げっ、ミヒトネッセ――」


 次から次へと中庭に集結してくる魔女、魔女、魔女――しかも本人たちは示し合わせたわけでもなく、ただ偶然ここに足を運んだだけだ。

 少なくとも、彼女たちはそう思っている。

 自由意思で行動を決定していると。

 因果を紡ぐのは人であると、そう信じて必死に生き足掻いている。

 レオは突然現れた少女たちに目を丸くしていた。

 その邪気の無さときたら。

 グレンデルヒは思わずぞっとして、そんな自分に対して舌打ちした。


「てめーがミヒトネッセかおらあああああ!!!」


 三角帽子の魔女が箒に乗って亜音速で突撃。大気の障壁ごと体当たりすると、侍女人形がバラバラになって吹っ飛ばされていく。

 リーナ・ゾラ・クロウサーはふんと鼻息を鳴らした。


「よしスッキリ! お姉――先輩ぺちゃんこ事件の話聞いた時から一発ぶん殴ってやろうと思ったんだ。もう悪いことすんなよ!」


「いえ、相手がぺちゃんこっていうかバラバラですが」


「りーにゃ! みるーにゃ! にあー!」


「あ、ニアちゃんだ!」


 と黒百合組がかしましく再会する一方で、長い黒髪の晶が水流を操って『鵺』、『絡新婦』、そしてグレンデルヒが捕獲している『火車』の使い魔たちへと攻撃を仕掛けていた。更にラズリが「楽園――ふふ、ここはらくえん――」と涎を垂らしながらお花畑の浄界を構築している。「にぎやかですねー」とレオ。


 グレンデルヒは「もうどうにでもなーれ」と全てを諦める自分を幻視した。直後、自分の中に『潜入』しようとしている何者かの気配を感知。「しっしっ」と追い払うと、遠隔地にいる『火車』の気配と呪符を身代わりにして生存していたミヒトネッセが瓦礫や倒木の後ろに隠れているのが見つかった。油断も隙も無い。グレンデルヒは頭を抱えた。


(しゅ、収拾がつかん! この滅茶苦茶な流れを纏め上げるだけの器が――カリスマがあるというのか、あの少年に?!)


 突然に現れた少女たちにレオは目を丸くするばかり。

 リーダーシップを発揮して全員を統率する気配はなかった。

 思わず舌打ちする。

 猫によって封印されている『絡新婦』だが、じきに障壁を破壊して再び汚染を振りまくだろう。そうすれば、ただでさえ不安定になっている第五階層の崩壊はすぐにでも始まる。トリシューラはこの期に及んで介入する気配がない。


(ならばやるしかない、この私が。状況を俯瞰で把握できているのはこのグレンデルヒのみ! 流れを支配して、『絡新婦』に一極集中させてくれよう!)


 英雄の力を縛っていた拘束具――道化の衣装がはじけ飛ぶ。

 現れたのはスーツに蓬髪、不敵な表情の壮年男性。

 グレンデルヒは己の存在を薄く、広く、曖昧に引き延ばした。

 抽象的で記号的な『共有されたイメージ』を『グレンデルヒ性』として拡張し、類似した点を有する人々に少しずつ影響力を及ぼしていく。

 完全な支配は必要ない。その行動の『グレンデルヒ的』な点を少しだけ後押しすることで流れに干渉し、別の流れを作り出す。


 『火車』による『マレブランケ』への干渉を逆探知してこちらから呪的侵入を仕掛ける。『火車』から『マレブランケ』の制御を奪って『グレンデルヒ化』を実行。三人の即席グレンデルヒが知覚を同期させながら動き出す。

 勝手に戦闘を開始したシナモリアキラたちの攻撃の向きに少しずつ干渉。

 ミヒトネッセの投擲を『サイバーカラテ道場』の『弾道予報』で弾くミルーニャ。『道場』に侵入して反射角度を微調整。結果、ミルーニャは防御に成功しつつもミヒトネッセの攻撃を一方向へと誘導する。

 個々の干渉は小さく、個別の戦闘そのものには影響を与えない。

 しかし、紀人という存在は常に一段階上を見ていなければならない。

 ここにはいない――しかし常に存在するかつての敵に語りかけた。


(これは指導だ、シナモリアキラ。先達が未熟者に見せてやる手本、敗者が勝者に与える餞別だとでも思うがいい。貴様のこの愚かしい状況こそ我らの武器であり、この『流れ』こそ我らが掴むべきより高いレベルの呪力だと知れ)


 各々のプレイヤーは目の前の相手に対処すべく最善を尽くそうとする。

 それは自然と最適手へと収斂していくが、戦況が流動的に変化して行く乱戦、総当たり戦においては『現在の戦い』の外側に目を向ける必要がある。

 手札の隠蔽、戦術や思考をあえて偏らせて周囲に先入観を与える、誰かがそうすることを見越して対処手段を練る、そうした全体を見通した上での戦略。

 そういったものを含めた戦場全体の流れを把握し、少しずつ干渉しながら一点へと誘導していく。それがグレンデルヒがやっていることだった。

 そして封印を破壊した『絡新婦』がチェーンソーを回転させながら暴れ出す。


(ここだ!)


 グレンデルヒはかっと目を見開き、支配していた『流れ』を『絡新婦』へと向けた。混沌とした状況における敵意、ありとあらゆる攻撃の向きを一点に集める。

 猫の宝石呪術が、錬金術の爆薬が、大学ノートから噴出する暴風が、巨大な手裏剣が、水の大蛇が、ベルトから溢れる稲妻を纏った跳び蹴りが、三人のグレンデルヒによるタックル、銃撃、呪毒の針が、一斉に『絡新婦』に襲い掛かった。

 絶命と復活、破壊と再生、消滅と再構築。致命傷を受ける度に死を否定し、「伐採」と機械的に呟きながら動き出そうとする『絡新婦』だが、その暇を与えることなく流れ弾を誘導して殺害。持続的な死を与え続ける。

 

 尋常ではない場の支配能力。この場に集った者たちは異変に気付き始めてはいたが、漠然とした流れに逆らうよりも明らかに危険な『絡新婦』への攻撃を自発的に行い始める。だが攻撃に耐性が付き始めた『絡新婦』は強引に世界を改変してその場を抜け出そうとしていた。そうはさせじと男の足下で影が蠢く。


「手を出すなと厳命しておいたはずですが――この場所は降臨の地。邪魔立ては許しませんよ」


 先ほどの狂態が嘘だったかのような冷え冷えとした声。

 影に潜む魔女は無数の触手で『絡新婦』を縛り、あまたの使い魔たちを至近距離で召喚。『絡新婦』の体内から溢れだした異形の怪物たちがその全身を食い破り、再生する度に貪り屠っていく。

 300秒という時間は戦闘において凄まじく長い。

 持続的に死を与え続けなければならない以上、手を緩めることは許されない。

 自身もまた同時に複数の呪術でダメージを与え続けながら、グレンデルヒはその時を待ち続けた。100秒をやり過ごし、200秒までを騙し通して、全ての呪力を総動員して300秒までどうにか持たせた。

 

(まだか――そろそろ、いやもう少し!)


 相手の時間遡行限界が本当に300秒なのかどうかはわからない。

 もしわずかでも長ければこれまでのお膳立てが全て無駄になる。

 地上最高峰の超人の表情に焦りが生まれた頃、変化が起きた。

 いかなる破壊を与えてもかつての状態に戻ってしまう『絡新婦』が、次第に元に戻りきれなくなってきていた。厳密には、傷ついた状態に戻っているのだ。

 やがてそれは『致命傷を負った状態』への復元に、そして『死亡時』への時間遡行へと変化していった。死の状態から死の状態へ。継続的な死は、『絡新婦』の不死を打ち破ったのだ。


 既にグレンデルヒの統御の下、ひとつの『群れの使い魔』となった攻撃の意思がゆっくりと分裂し、個々の意思へと還元されていく。まったく無関係な個人たちを状況の中で束ね、ひとつのまとまりとして扱う呪術。『使い魔』の極致たる『軍勢』、その応用であった。


(これが『使い魔』的なアプローチだ、シナモリアキラよ。『個我』の強い邪視系の紀人――冬の魔女ならば神話の全てを身の内に飲み込んで好き勝手に取捨選択するであろう。お前はどうだ。『杖』の紀人よ。『サイバーカラテ』よ。お前はツールそのものか。有用性の神話か。制御された身体性か。『シナモリアキラ』とは何だ。答えは既に『シナモリアキラ』どもの中に――)


 ――『そこ』に答えは無い。いつだって、答えの在処は外側だから。


 ふと、グレンデルヒは音無き声を聞いたような気がした。

 幻聴――存在しない応答。

 戦いを終えた英雄は、道化に戻りながら嘆息する。

 

「人が気まぐれに面倒見の良さを発揮してやった結果がこれか。貴様はひどく教え甲斐の無い生徒だな。まったくもって不愉快だ」


 そう言いつつも、声にはさほどの不機嫌さは込められていなかった。

 相変わらずの混乱と乱戦が続く下界を見下ろしつつ、「さてとりあえず全員黙らせるか」と呟いたその時、グレンデルヒは違和感を覚える。

 両腕のチェーンソーが砕かれ、予備の『創造クラフト』素材も無くなり、外側は猛攻撃によって死に体、内側からは内臓を食い荒らされて生命維持不可能という状態の『絡新婦』。

 ラズリが叩き落したレゴンどものエサになっている腕が、活きのいい魚のごとくびちびちと跳ねて、そのまま空高く飛び上がった。


(待て。あれは感染呪術による腕の遠隔操作ではないのか。本体が死亡した状態でまだ動けるというのは一体――『死亡した状態』、だと?)


 グレンデルヒは背筋を冷たいものが走り抜けるのを感じた。

 『絡新婦』の死体が、ゆっくりと前のめりに倒れていこうとしている。

 その直前。前に出した足で踏みとどまり、そのまま前進する。

 歩く死体。筋肉など無く、骨も砕け、脳は存在しない。

 それでも。がらんどうの腕、その輪郭が生まれ始めていた。

 肩から伸びているのは幻影の腕。亡霊の念動義肢。


(前例が無い、『女王』は堕落者を厳しく罰していたはず、記録に残っている限りでは――だがあり得る! 『再生者オルクス』は他の種族と加護を重ねることが可能な種族だ、つまり――)


 小鬼の再生者、という悪夢のような存在もまた成立しうるということだ。

 『絡新婦』に遡行限界まで死を与え続けても意味は無い。

 死が死で無くなれば、既に彼は永遠不変の『不死なる異世界』である。

 グレンデルヒは次の手を打とうとして、自分に打てる手がもはや存在しないことに気付いた。手遅れだ。小鬼の肉体が急速に縮んでいる。

 自己認識に応じて巨大化し、世界を高みから見下ろすようになる巨人の逆。

 矮小化した世界に応じて小さく小さく縮んでいく。

 極小の小鬼ほど手がつけられない。

 優秀に、万能に、全知に近づいていく巨人ならばまだ倒す目がある。

 強靭に、先鋭化し、無知になろうと自分の世界に閉じ籠もる小鬼は無敵だ。

 最終的にはこちらからは一切の干渉ができず、あちらからは一方的に汚染され続けるという事態にまで発展する。そうなればあとは神々や竜が掃除してくれるのを祈るしかない。


(まだ子供のサイズだが、既に射程外だ! おのれ、自分の万能さをこれほど憎く思うことがあろうとは!)


 優秀であればあるほど小鬼への干渉は難しくなる。

 世界観の断絶が両者の間にコミュニケーションの障壁を作るのだ。

 『絡新婦』からあふれ出る汚染された世界観が、中庭を、病院を、更にその外側まで塗りつぶしていく。既存の世界を『森』という異界になぞらえて、それを破壊して新たな地平を切り開く――『鵺』の英雄観に近いが、『絡新婦』はよりラディカルだ。ただ壊す。何の為でもなく、伐採のために伐採する。存在が固定されてしまった純粋な機能。

 邪視者や紀人が人格を失えば、このような単純な現象に成り果ててしまう。

 これは『シナモリアキラ』の最悪の末路に他ならない。


「ばっさい、ばっさい、ばっさぁあぁぁああい!!」

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