4-138 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ④
老人は退屈な生に倦んでいた。
かつては輝いて見えた滅びへの末路も見慣れてしまえばみな同じように思える。結末は変わらないのだ。全てはむなしい。全ては虚ろだ。
「おお、ブレイスヴァよ――」
畏怖と敬虔な祈り。そうした圧倒的な滅びを目の前にした際に感じていた心の震えも今や色褪せた。それを老いと呼ぶのなら、歳月のなんと残酷なことか。
全てが輝いていた少年期。
目を見開いたあとの青年期は、世界の全てが完璧と思えた。
支配者として秩序を定め、あるべき道筋を整えてきた。
命あるものはその長さに差はあれど、必ず死ぬ。いずれ訪れる滅びがせめて美しくあるよう、『正しき天命』を全うするが人の定めだ。
大いなる流れ、滅びの未来から遡った人生の道筋をなぞる行為――それをカシュラムでは神の召命と呼び、それは職業を割り振ることに等しかった。王国の官吏、貴族、騎士、聖職者たちの役職、その全てを任命し叙任し戴冠する。
人がそうあるべき最善の居場所を見つけ出す偉大なる予言王。
未来を見通し、『助言』によって民に適職という安寧を与える賢者。
人々は自らの生き方に満足を覚え、それゆえに王を信じるという循環。
いつしか神への感謝と信仰に基づく労働、日々の祈りこそが『賢王』という形を定めるようになり、それは王個人と関わりなく普遍化していく。
だが外界の揺らぎ、時空の亀裂から侵入してきた無数の闇によってカシュラムは絶望の底に叩き落された。信仰の基盤が崩れ、迫りくる滅びへの恐れから必然として慌てふためく民草たち。
彼らは既存秩序を覆して自らの手で未来を作り出そうとする。
王を処刑して、新たな『最善』を自分たちで定め、その道を正しいと確信する。
そして、そこに『賢王』は形無き形としてあらわれるのだった。
オルヴァ王は人が前を向いて生きる限り、必ず目指す先にいるのだ。
「ブレイスヴァ――」
老人は飽いていた。
人は同じ歴史を繰り返す。社会の体制は思想の潮流に沿って移り変わっていくが、その大枠は結局のところ変わらない。
前進と変革は間に合わないだろう。『杖』はこの世界にはそぐわない。前に進もうとする間に滅びに辿り着いてしまう。
行き止まりはもうすぐなのだ。
時間はあまりにも少なく、永劫はとても短い。
形の無い老人は、どことも知れぬ虚空を漂いながら、静かに顎鬚を撫でた。
閉じられた目にはもう何も映っていない。
見るべきものなど何も残っていない。
しかし、見たいものならばあった。
輝かしい少年時代のような、激しく燃えて灰に至る、圧倒的な滅びへの道筋。
滅びへと挑む人の儚く残酷な生。
「おお、ブレイスヴァ!!」
諦めと反抗。祈りと弑逆。
両極の行為は共に信仰であり、カシュラムの長い歴史においてその二つの行いは最も尊い紫色で表現される。どちらも終着点は同じ。ならば、どの有り様も大いなるブレイスヴァの前に跪く行為に他ならないのだ。歴史は繰り返す。神に与えられた鎖を愛し、神に与えられた自由を愛するカシュラム人。
オルヴァもまた同じだ。
その両極を繰り返す。この退屈も、やがて恍惚に変わるだろう。
それにすら彼は飽いていた。
因果の全てはかくもむなしい。
ああ、労働の日々よ、享楽の全てよ、我が生と死よ。
玉座に座る王と、宮廷の庭で暮らす隠者。
槍を持ち戦場で身を立てる戦士と、商いでものと人を繋ぐ商人。
稲穂を刈り、獣を狩り、魚を獲り、自然の恵みを糧とする人の世の全て。
定められた舞台を眺めながら、役者たちを物欲しげに眺め続ける。
ふと、傍観者として生まれついた老人は疑問を覚えた。
果たして、生を演じるという経験を今までしたことがあっただろうか。
因果の全てを知っている。だが、それは経験ではない。
自分は見ただけで経験していない。記憶に焼き付けていない。主観の枠で飾って思い出の小部屋に飾っていない。
そう、必要なのは未来を回想し、過去へ旅立つことだったのではないか。
老人は死の淵に至り、ようやくそのことに思い至った。
処刑を免れ、隠者として放浪し、大賢者として名を馳せ――そして老いて死んでいく途上で己の愚かさに思い至る。
まもなく自分は絶対者のあぎとに飲み込まれるだろう。
だが、今からでも遅くは無い。
オルヴァは決めた。思いつきは素晴らしいもののように思われた。
閉ざされていた目蓋がゆっくりと開かれる。十字の輝きが瞳を三千世界の彼方へと誘い、森羅万象の全てがその内に折りたたまれていった。
彼は、長い長い回想を始めた。
世界という記憶、走馬灯のような泡沫の夢。
夢幻の時空を、遡っていく。
ノーグという血脈は、その瞬間に創造された。
「こ、この度は、私の不適切な発言で大変なご迷惑を――」
アストラルネット中に映像を中継している通信水晶の前で、
――ちょっとくらいなら失言してもいいよ。あなたに期待しているのはそういうところでもあるから。
その言葉の意味を、男は咄嗟に掴み切れなかった。今もまだわからない。
ただ、最後に言われたことはわかる。
――『男らしく』責任をとってね。
その言葉自体が問題発言に近く、微妙なニュアンスを孕んでいた。
だが、と元レスラーの男は気付く。
それは彼にとって望むところだった。
『男らしく』あること、力強さの体現者、雄々しきチャンピオン。
それが観客たちの求めるものなら、答えてやろうと思うのだ。
ならばまずは堂々と。興行が不首尾に終わってもふて腐れるな。
アストラルネットを介した遠隔会見は静かに続く。
質疑応答は型通りで、事前に想定していたこと以外を訊かれることはなかった。
Q:このまま『マレブランケ』を続けるのか?
A:辞退することも考えたが、このような情勢下ではかえって周囲に迷惑をかけることになってしまうため、続けさせていただきたいと思っております。
Q:なぜ最初は『言ってない』などと否定したのか?
A:当時は混乱しており、正確な事実を思い出すことができませんでした。
Q:どうしてこのような発言を?
A:『安産型』という発言の意図につきましては、相手方を中傷するような意図があったわけではなく、あくまでも褒め言葉として使用したものです。しかしながら配慮が足りていなかったことは確かであり、深く反省すると共に、今後このようなことが無いように努める所存であります。
Q:骨盤の形と安産との『杖』的な因果関係は無いとされているが、『杖』勢力の幹部としてどう思っているのか。自覚が足りないのでは?
A:全くもって汗顔の至りであります。今後は自覚を持って精進させていただきたいと思っております。
Q:『マレブランケ』は『シナモリアキラ』に相応しくないのでは、という声も出ているが?
A:不適切な発言によって氏のイメージを大きく損ねてしまったことを深くお詫び申し上げます。一刻も早く損なわれたイメージを回復させたいと思います。
Q:誰に対して謝罪しているのか。謝罪しているというパフォーマンスでは?
A:昨日、看護士女性と関係者の皆様にお詫びさせて頂きました。そのことをご報告したいということもあり、このような場を設けさせていただきました。
Q:世の女性一般に対する謝罪は無いのか?
A:配慮を欠いた発言をしてしまったことで、多くの方々に不快な思いをさせてしまったことを深くお詫び申し上げます。
それは時間にしてみれば大したことはなかったが、
時期が時期である。男根城という悪夢が具現化したような光景はもはや当たり前のものとなった。その影響によって拡張された男性性は滑稽な戯画で、過度な露悪の極みだ。人々の性差に関する問題意識は攻撃的な方向へと高まり、不快なものに対する神経を尖らせている。
古代の賢者は、こんな箴言を残している。『炎上はわれわれにとって親しくそして厄介な悪友である。己が振る舞いに注意を払い、悪友の視線にはその三倍の注意を払え』――すぐ傍にある火種の存在を忘れてはならない。既に男の二つ名は『安産型ブルドッグ』やら『安産型』に上書きされてしまって取り返しがつかない。
「関係者一同、重く受け止めております」
巨漢の隣で、対外折衝を担当するスタッフの一人が謝罪を重ねる。
「ジャッフハリムプロレス協会からの除名処分という意味を深く受け止め、今後の指針にしたいと思います。本当に申し訳ありませんでした」
もう『レスラー』では無くなってしまった。
男は、自分が震えていることに気付く。
まさか、そんな。信じられない思いで頬を流れる涙を慌てて拭った。
情けなさと恥ずかしさが今更込み上げてきて、声が裏返る。
しわくちゃの顔が赤く染まる。こんなざまを衆目に晒している。
こんなはずじゃなかった。
現実が遠のく感覚と共に、
プーハニア・トストンスにとって、リングとは夢の世界だった。
リングネームは『地獄の闘犬』、地下闘技場で無敗を誇るチャンピオン。
狆くしゃはブルドッグ氏族にとって褒め言葉で、恐ろしげな面相は
リングの上は、
種族名が意味する通り、レメス神の奉仕種族として生み出された彼らは様々な役割を担わされた。その頃には既に霊長類が使役していた『犬』をベースに、アストラル体を捏ねてマテリアル体を型に嵌める。レメス神は長い時間をかけて虹犬たちを掛け合わせ、様々な犬種を完璧に摸倣していった。
多様な姿形を持つ虹犬種には狩りが得意な者、牧畜が得意な者、戦争が得意な者、競争が得意な者、障害者の補助が得意な者、愛玩されることが得意な者と様々な適性があった。
ブルドッグのプーハニアには適性に加えて幾らかの才能があった。
戦いを
闘犬格闘技――その中でもレスリングと呼ばれる『組み合い、投げ、倒す』というシンプルな競技をプーハニアは好んだ。
幼い頃に父親に連れて行って貰ったプロレス興行。
リングの上で繰り広げられる『夢』に少年は魅せられたのだ。
『上』ではどうなのかプーハニアは知らないが、『下』ではプロレスというのはショウの一種であり、ある定型をなぞる芸術格闘技である。
バレエ、オペラ、そして演劇。
身体性の躍動と格闘の競技性、善悪の多様なバリエーションを演じていくキャラクターコンテンツ。即興性が強く、解釈によって大幅に展開も変化する。
期待に応える。それがその場所の流儀だ。
セオリー通りの展開、逆転に次ぐ逆転、決まると分かっている大技。
大変結構ではないか。正々堂々と全力をぶつけ合い、入場と共にど派手なパフォーマンスをかまし、相手をフォールした後は勝利の雄叫び。新世代が旧世代を乗り越えようと立ち向かい、悪の軍団と正義の軍団が火花を散らす。
レスラーたちが様々な道場に通い必殺技を習得するのも定番にして人気の展開だ。プーハニアも打撃術や合気術の道場に入門した経験がある。サイバーカラテも、その延長線上にある修業の一環という意識でやっていた。自分を打ち負かしたシナモリアキラやカーインが認める強さとはどんなものだろう、と。
いつかはリベンジを。そう思いながら同じ勢力に所属していたら、いつの間にか『カニャッツォ』なんて名前を与えられていた。そしてあれよあれよという間に幹部という立場にされていたのだ。実感は無い。自分がこの勢力の中で重要な立ち位置にあるとは思えない。
自分の居場所は、本当にここなのだろうか。
いまさら故郷には戻れない。
でっかい男になって帰ってくる。そう言って連絡も取ってこなかった。それが、レスラーとしての夢を失って帰ってくる。こんなみじめなことがあるか。
こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのだ。
始まりは所属団体の休止。
そこに舞い込んだ第五階層での違法興業の仕事。地下闘技場でのチャンピオンという役。そこではジャッフハリムではできないことができた。ナショナリズムを昂揚させる演出。外国人を悪、自国民を正義とするようなギミックも可能だった。わかりやすさは盛り上がりを生む。抑圧されていた欲望が噴出し、種族間での対立を前面に押し出したり、『上』の団体に話を通して世界槍を巡る戦いをなぞるかのような展開を演出してみせたりもした。おかしなことに、『上』と『下』の対立を煽りながらも、そこでは両者の共存と協力が実現していた。
元々『下』には少しばかり居心地の悪さを感じていた。田舎だった故郷とは違い、都会は清潔で、常にクリーンな言動を求められた。あの頃の意識のままだったなら、きっとこんな失言で炎上することなどなかっただろう。
自由を求めて第五階層に来て、思い切り羽目を外すことを覚えた。粗野でガサツな言動。そういうキャラクターとして売っていくことが気持ちよかった。
その結果が――これか。
プーハニアは――ただの男は、与えられた自室の寝台の上でうなだれた。
両手で顔を覆う。これからどうなるのか。未来に描くものが何一つないと気づく。怖い。圧倒的な力、巨体の自分が見上げるしかないような巨体を目の前にしても湧き上がらなかった感情。それが今、自分を責め苛んでいる。
逃げたい。逃げられない。
気づけば肉体を改造され、シナモリアキラ用の交換部品にされていた。
強くなったという実感の中では気付けなかったおぞましさに震える。
「嫌だ――もうこんなのは嫌だ」
世間ではシナモリアキラと名乗るのが流行っているという。
だが、プーハニアはそんなものはいらなかった。
俺は俺の名前が欲しい。リングの上で輝く、誇り高いレスラーの名前が欲しい。
ゾーイ・アキラとの戦いを思い出す。
あの力強い女レスラー。異界の技を使う最強の敵。
あの頃は良かった。ああいう戦いなら大歓迎だ。
ばかばかしい盛り上がり、わかりやすい痛快さに満ちた力と技のぶつかり合い。
こういう勝負ができるのなら、ここでやっていくのも悪くない。
そう思っていたのに。
戦いたい。突如として衝動が芽生える。
プーハニアは、ただ体を全力で動かし、思うままに暴力を発散させたいと全身に力を込める。
自室のサンドバッグに拳をぶつけ、タックルをぶちかます。
まるで満足できない。やはり動く相手がいい。意思を持ったファイターとの激突じゃないと熱くなれない。
謹慎など知るか。俺は戦いたい。もう何も考えずに戦うことだけがしたい。
俺の夢を邪魔するな。俺は夢に生きると決めて、ずっとそうしてきたんだ。
そんな時だった。轟音と共に、自室の壁がぶち破られる。
レメス神が願いを聞き届けてくれたのだ。プーハニアはそう思った。
「サイバーカラテマン参上! 女性を心無い言葉で傷つけ、シナモリアキラの名誉を損なう不届き者め! 天と地と人が許しても、この俺が許さんぞ! 成敗してくれる! 発勁用意!!」
仮面の男がマントをばさりと広げて宣言。
プーハニアは、獰猛に笑った。
「上等だアキラァッ! いつかのリベンジ、させてもらうぜぇっ!!」
服を引き裂くと、内側から虹色の
ブルドッグの男は、ただひとつの暴力となって主人公へと襲い掛かる。
元軍人の男は、数秒前まで自分を追いつめていた巨体が稲妻にうたれて倒れる瞬間を見た。
完全な不意打ち。真剣勝負に水を差された。
敗北するはずだった運命を覆された。
命が助かったというのに、男の胸に湧き上がるのは不満と怒りのみ。
「神罰覿面! 地獄の巨人よ、聖なる光で浄化されるがいい!」
しかも邪魔をしたのは『上』で何かと大きな顔をする修道騎士ときた。
軍に所属していた頃、連中には心底うんざりさせられた。
幾度となくこちらの動きに介入し、制限し、口を出し、訓練の邪魔をして、そのくせあの決戦の時には正規軍を捨て石に――。
そうだ、奴らはズタークスタークの戦力を把握していた。それでいて詳細な情報をこちらに伝えなかった。我々があのまま行けば壊滅すると知っていて、肉の盾として使ったのだ!!
憤怒の炎が男のはらわたを、額の血管を、失われた眼球を燃え上がらせる。
闘気によって構成された『心眼』で捉えた新たな敵の姿は途方もなく巨大。
雲の巨人に挑むのは明らかな自殺行為。
しかし、男にためらいは無かった。
「ぬおおおおおっ!」
岩肌の男が吠える。背後に展開された巨人の幻影を埋めるように大地が盛り上がり、右腕だけが無い巨大な人型をとった。それは岩石と家屋、木々を寄せ集めた山の巨人が立ち上がって怒り狂う。
巨大な質量同士がぶつかり合った。
雲の巨人の拳が大気を激震させ、山の巨人の踏み込みによって大地が鳴動した。
神話の決戦さながらの光景。
しかし素早い動きと飛行能力によって高所をとった雲の巨人が一方的に攻め立てると、たまらず山の巨人は倒れてしまう。
轟く雷鳴。閃光が走る。
山の巨人の命運も尽きたかと思われたその時。
跳躍した元軍人の男――シナモリアキラの拳によって膨大な熱量が殴り飛ばされる。大気に散る雷撃。山の巨人の胸に着地した元軍人は天を見上げて言った。
「これぞ秘技・雷破拳――稲妻は俺に効かん!」
わずかに雲の巨人が動揺する。まさかこのような非常識なことを成し遂げる者がいるとは思ってもみなかったのだろう。元軍人の男は厳かに秘技の由来について説明する。心なしか自慢げだ。
「かつて稲妻の大魔将に敗れた俺は、自らの弱さを克服するため四季二巡節を通して嵐の中にあるという帰らずの孤島へと入った。そして俺はその島で最も高い山の頂に登り、自らに避雷針を括り付けて稲妻を待ち続けた。俺めがけて落ちてくる稲妻を、この拳で打ち破るためにな!」
狂気の発想、異常者の修業方法だった。だがそれがはったりなどではないことは、ケロイド状に変化した肌と雷撃を弾いた事実が証明している。このエピソードを披露したくてたまらなかったのか、稲妻使いの敵が現れたことに喜びを隠そうともしていない。同時に、敵への怒りがその形相を笑いながら激怒するという捻じれたものに変化させていた。不気味な笑みに山の巨人が困惑して問いかける。
「なして――」
「ふん、勘違いをするな。お互い不完全燃焼のままで終わっては面白くなかろう。それに、卑劣な横槍で超えるべき壁を奪われるのは我慢がならん」
それを聞き、山の巨人ラウス=ベフォニスにしてシナモリアキラを目指す男は、
「おめさん、おもしぇやつだな」
と破顔した。毒の無い、無邪気な笑みだ。
元軍人のシナモリアキラはにやりと笑みを深くする。
そんな二人の頭上に暗雲が立ち込めた。
「第十八番目の堕天使『ミブレル』に主の赦しあれ! 今こそ更なる雷雲の轟きを! 神意に背く邪悪なる者どもに裁きの鉄槌を!」
『創造』の力が雲の中に光の環を構築していく。
邪視による加速器――荷電粒子砲を放とうとしているのだ。
二人は一時の休戦協定を交わした。
尋常なる決闘はこの敵を退けたあとで。
元軍人が提案する。
「ここは『
「んでまず、三十五番『ギゼリア』でも試してみっぺ」
山の巨人が裂帛の気合いと共に「発勁用意」と叫ぶ。
欠落した右腕を補填するように、建設用重機を歪に組み合わせたような巨大な機械義肢が構築されていく。シャベルとなった手先が高々と振り上げられた。
「二十二番『ディオル』――猛き女戦士の剛力よ、我が腕に宿れ!」
続けて元軍人が「NOKOTTA」と叫んだ。
闘気が鎧となって全身を覆い、両の拳に一際強い輝きが収束。
能力は単純にして明快。身体能力の強化に加え、飛ぶ拳と衝撃波。
山の巨人が元軍人を持ち上げ、砲丸投げの要領で投擲。
天から落ちる雷撃を拳で引き裂いて、神話の闘争が再開される。
その時、元軍人は暗雲の中で悲しげな声を聴いた。
「おお、我らが導きの乙女よ――どこにおられるのか。我らの戦い、我らの聖絶を、神のご意思と――どうか、どうか、力強く宣言してくだされ――あれは神意であり、非道などではなかったと――」
許してくれ。赦してくれと。遠雷のような悲鳴が木霊する。
それすらも闘争の中に消えていった。
神話の決戦を遠くから眺めるものがあった。
とある宿の一室。
使い魔のコウモリを飛ばして監視していた老人は、煙草を咥えながら嘆息する。
「やれやれ。レストロオセ派の妨害ねえ。四十四家の正統を簡単に殺せたら誰も苦労しねえってんだよなあ」
恐るべき巨人、ラウス=ベフォニス。
殺し屋として、ターゲットの一人を監視していたのだが、中々機会が巡ってこない。迂闊に仕掛ければこちらまで巻き添えになる可能性があった。
老人にとって殺しはただの仕事に過ぎない。
リスクとリターンを秤にかけて、見合わなければ違約金を支払って手を引くだけだ。命を繋ぐためだけにやっていることなのだから、死の危険を背負ってまで遂行にこだわる必要は無い。
そう、惰性で殺している。慣れればつまらないものだ。
心は次第に摩耗して、なにも感じなくなっていく。感情を制御するまでもない。老人の心は既に波風一つ立たないがらんどうだった。
感情を失ったプロの殺し屋として闇の世界で名を馳せていた老人はある時、偶然にサイバーカラテ及び異界のアプリケーションに出会った。薬物や催眠などよりも完璧な五感の制御。好奇心の残滓が老人にダウンロードを実行させた。
インストールされた『杖』の秘術はどれも素晴らしく有用だったが、摩耗した精神が回復することはなかった。
吸血鬼である彼の模造脳は、疑似細菌が記憶した最適なニューロンのパターンをなぞるのみ。長大な寿命を誇るはずの吸血鬼に訪れた劣化は魂の老化によるものだと呪術医からは診断を受けていた。既に手遅れなのだ。老人はいかなる手段を使っても瑞々しい感情を取り戻すことはできないのだと。
ならばせめて。
考えた結果、『七色表情筋トレーニング』で強引に表情を取り繕うことにした。
表面上、彼には感情が戻ったように見えた。
表の世界での彼を知る者たちはその変化を喜び、裏の世界での彼を使う者たちは潜入と変装がやりやすくなったなと喜んだ。見せかけのものでしかなかったが、老吸血鬼には感情が戻ったことになった。
ただの表情。
されど表情。
それは周囲を変え、そして彼自身を変化させる。疑似細菌は『最適』が変化したことを鋭敏に察知して、その性質を少しずつ変化させていく。
老人は、ちかごろ殺しのたびに頭痛が酷くなるのを感じていた。
遠い過去、殺し屋を始めたばかりのころに感じていた苦痛。
薬物と自己暗示で誤魔化しても己を苛む罪の意識。
人を『人では無い』として殺すのではなく、同じ痛み苦しみを抱えた人間として殺めることの痛み。それは自らの肉体を痛めつけることと同義だった。
あのままなら、遠からず自分は死んでいただろう。
自殺か、精神を病むか、返り討ちになるか。感情を消して楽になったからこそ、こうして醜く老いながらも殺し屋をやっていけている。
こうならなかった未来もあったのだろうか。
たまに思う。死んでいたら。あるいは、どこか遠くに行けていたら。
もしかしたら、自分はその夢をシナモリアキラに託していたのかもしれない。
転生者という、空想の中の救いに。
ばかばかしい、と苦笑する。
切り替えよう、仕事の時間だ。
吸血鬼としての権能を振るう。
彼が最も得意とするのは夜の秘密を呪文に込めることではなく、サイバーカラテに吸血鬼の身体能力を乗せることでもない。
「来い、レゴン。四十四士最弱の意地ってやつを見せてやろうぜ」
老人の影から這い出してくるのは、凶暴な牙を生やしたグロテスクな心臓。
『大勢』の名を冠する四十四士の残り滓、残骸の怪物だ。
かの始祖の正統な血脈は『上』に残され、四十四家の一つはジャッフハリムからは失われていた。
しかし家畜や軍用使い魔として今も繁殖を続けるレゴンたちは『名ばかり勇士』としてジャッフハリムの影を守り、国防を担っている。
そして、老人もまた遡れば勇士の家に連なる者。
最も、既に何の関係も無い身だ。レストロオセ派と四十四士と敵対したからといってどうということもない。
六王にして四十四士こと『始祖喰いの始祖』はかつて有力な始祖たちを吸収し、未来の時点で六王の一人と激突、過去に向かって始祖を吐き出した。結果として喰われたあたりの年代に戻ってきた始祖は『本来行っていたであろう破壊と殺戮』を撒き散らし、人類史に大量の死を積み重ねた。つまりは、歴史の中にその名を残したのだ。それは吸血鬼が社会に侵入したことを意味する。
『
家を出て、ずるずると堕落し、遂には裏社会の走狗と成り果てた。
暴力の才能は彼を殺し屋へと成長させ――惰性のまま、今に至る。
逆に言えば、惰性で闇社会を生き抜けるほどに老人の殺し屋としての才覚と運は図抜けていた。そして、吸血鬼としての能力も。
「行け。そして見つけろ。ミシャルヒは確実に第五階層に潜伏している。カーインもな。レストロオセ派をこの階層から駆逐するまで、休む暇はねえと思いな」
不快な鳴き声を響かせながら、レゴンたちが影に沈んでいく。
老人もまた立ち上がり、煙草を灰皿に押し付ける。
気負いなく、徒手のまま外に出て行った。
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