4-130 ガロアンディアンの真竜王②
追いかけてくる人形の軍勢から逃げる、逃げる、ひたすら逃げる。
ここは異形、奇形、死と退廃と醜悪と薄暗い美が融け合う世界。都市が融ける。戦場が歪む。ねじれて狂って吐瀉物を固めたような構造物が塔となって乱立する。あまりに大きな異常を許容できなかった都市が嘔吐しているかのよう。
ガロアンディアンは混沌を許容する。
この光景はその醜悪さに着目して描き上げた戯画だとでもいうのだろうか。
「不快だな」
青天の霹靂。彼は前触れもなく現れた。
雷撃が宙を走り抜け、まず人形の軍勢を、そして地の底から湧いてくる狂怖の群れを一掃した。稲妻を操る呪術師は重力を無視するかのような跳躍をすると、狂怖たちの中核であるイェレイドの頭部に軽やかに着地。
赤い眼が酷薄に揺らめいた。
「やっぱり混沌の温床であるジャッフハリムは敵だよ。ああもう、うんざり! 結局この時代でもこれの駆除をしなくちゃならないんだもの」
少年は軽く頬を膨らませ、兎耳を軽く動かした。
その背後で、半透明の三頭犬が牙を剥いて世界を虹色に染め上げる。
多彩な呪力を帯びた光の矢が乱舞してイェレイドを貫通、蹂躙して塵にした。
狂怖という名は彼の前では安っぽい言葉に過ぎず、あれほど恐ろしげだった化け物たちは珍しいだけの動物に堕する。
真に恐るべきは理性を持ちながら正常に狂っている存在だ――そんなことを思わされるほどに、ヴァージルという少年が纏う雰囲気は異様なものだった。
俺たちには見向きもしない。トリシューラを敵として見ていないのか、ヴァージルは錯乱から回復してこちらを追いかけてきた同格の王を睨め付ける。
「不快なのはあなたもだよ、アルトおじさん。いや、アルトおばさんかな?」
言ってからおかしそうに小さく笑う。
「むかし言ったよね。ガロアンディアンは、いずれ
「それを防ぐための予防局、そして精神加工だ。マラードの力が手に入ったいま、ガロアンディアンが崩れる要因は無い」
「へえ? ほんとに?」
向かい合う二人の間には奇妙な緊張が漂っていた。
舞台の上では知ることのできなかった因縁。
長い年月を死人の王として過ごし、女神の下で戦い抜いてきた二人の対話が何を巡るものなのか、咄嗟には理解し難い。
ヴァージルは両手を広げて身体全体で感情を表現していく。
「人々が引き裂かれ、怯え、理不尽に全てが狂い、美しい世界が崩れていくあの光景。なんてひどいんだろう。僕はそんな混沌を否定する。世界にふさわしいのは秩序と完全なる統合だ」
ヴァージルは右手に漆黒の『断章』を、左手に青い髪のラクルラール人形を乗せてまっすぐな言葉を紡いだ。魔導書が夥しい量の呪文の列を吐き出し、ラクルラールがカタカタと口を開閉してアルトが支配する人形たちの制御を乗っ取っていく。驚くべき事に、ラクルラール人形はヴァージルによってクラッキングされたことにより管理者権限を完全に明け渡してしまっている。
「誰もが健やかに人生を歩める優しい世界。人と人とを繋いでくれる古く絶対なる『ことば』の力で、僕は王国に平和をもたらす」
(絶対言語の探究が目的ってことかな? あらゆる言語魔術師の悲願だけど、ヴァージルはそんな典型的な目的で動いてるのかな?)
ちびシューラは不審がっている。美しい少年が真剣に口にする美辞麗句を素直に受け取れない彼女は心がねじ曲がっている。当然、俺も同じ意見だが。
ヴァージルは、レオではないのだ。
真っ赤な目は血のような光を湛えて世界を映している。
俺は彼の物語を知らない。
サイザクタートを通したヴァージルというフィルター越し、しかも核心となる本人の物語にはその断片に関わったに過ぎない。
他の王たちも似たようなものだが、ヴァージルのそれは他にも増して焦点がぼやけているというか、本人に焦点を当てることを拒まれているような感じがあった。
彼がどんな王なのか、俺は全く知らないと言っていいのだ。
「世界が平和になって、みんなが手と手を取り合えればいい」
美しい言葉は呪文だ。醜いものを退ける聖なる祈りでもある。
ヴァージルの理想に満ちた言葉が狂怖によって汚染された一帯を浄化していき、穢れた異形たちは次々と消滅していく。全ては少年の純粋さがなせる業だ。
心が綺麗なものが聞けば、あるいは発言者と心の距離が近ければ、響きもするのだろう。あいにくと、俺たちは違う。
「『不変なる言語』――唯一無二の呪文によって創造される王国の法。僕は、それが見たい。ヴァージル・エリーワァ・イルディアンサの望みはそれだけなんだ」
「下らない妄想は終わったか」
「あなたが邪魔だ、はりぼての王」
「全軍、前へ」
アルトとヴァージルが激突する。
呪文と呪文が空中で炸裂し、仮想使い魔と人形が破壊を撒き散らした。
異形の軍勢に対抗するように、幾何学的な水晶の板が幾つも飛来して雷撃の呪文を放つ。整然とヴァージルの前に並ぶ秩序だった砲列にアルト側が押されていく。
「人形使いが王さま気取り? トライデントだっけ。センスが無さ過ぎる細胞名じゃない?
「お前もまた過去の遺物だと教えてやる。『
対抗するように異形の人形たちを前進させるアルト。
球体を奇形的、グロテスクに組み合わせた異様な人形たち。
二つの下半身を持つ人形。眼球の関節。複数の乳房が関節部分に嵌った胴体。結合双生児。捻れたり膨らんだりした異形の人形。切開された傷口から黄色い胆汁が流れて膿となる。包帯からは饐えた匂い。
『健康』というミームを否定するかのようなドールたち。これはデザインによる思想攻撃。両者はお互いに決して相容れない敵同士だった。
苛烈さを増していく王たちの戦い。
混乱に拍車をかけたのは再起動した炎の天使。
自己修復を完了した意思無き破壊者は、新たな敵を殲滅すべく呪力反応を追ってここまでやってきたのだ。
聖なる炎が呪文の雷とぶつかり合って、金色の鎖がヴァージルの腕に絡みつく。
あらゆる呪文を無効化する炎天使に少年の攻撃は全く通用しない。
「――へえ?」
何故か、ヴァージルは愉快そうに笑みを浮かべた。
次々と有利不利が入れ替わる戦場では、もはやアルトも逃げていく勢力を気にかけている余裕は無い。いくらかの手勢を追っ手として割くことはしたが、その程度ならば十分対処可能だった。
激戦に背を向けて、俺たちは逃走を続ける。
ヴァージルがあの場面で介入してきた意図はわからない。
勢力の均衡を考えてのことかもしれないし、全く別の目的があるのかもしれない。いずれにせよ、油断して良い相手ではなかった。
「じき別働隊と合流できる! みんな、もうちょっとだから頑張って!」
トリシューラが後続を励ましの声をかけた。
続く説明によれば、なんでもレオや
しばらく移動を続ける。
トリシューラとルバーブの身体に宿る俺、地上から来た三人の魔女、それから負傷しながらも逃げ隠れしつつしぶとく生き残っていた
敷地を覆う鋼鉄の外壁は上空にまで呪術障壁を張り巡らせ、電子的・呪術的な監視網を完備。対呪術戦用の妨害装置まで揃っている上に完全な生体・霊体認証により内側から崩れるリスクも低減させている。
城砦の如き門を潜り抜け、幾重にも張り巡らされた認証の網を通過して敷地の中に入る。広大な敷地が狭苦しいほど大きな白亜の病院が俺たちを中に誘う。
一目でルバーブが俺であると理解したレオと互いの無事を喜び合い、当然のように五体満足で生きていたカーインが俺を胡乱げな目で見ながら「紀人というやつは――」などと嘆息する。マレブランケの別働隊がトリシューラに改めて対面で状況を報告し、トリシューラもまた矢継ぎ早に行動を指示していく。
怪我人の収容と治療、避難者への対応、物資の確保、戦況の把握。
やることは山積みで、おそらくはこれから更に増えていくだろう。
「女王陛下。お耳に入れたいことが」
そんなふうにトリシューラに耳打ちしたのは
知らせを聞いて、トリシューラと俺は首を傾げつつある病室に向かう。
理由はわからないが、優先順位が高い問題であると判断可能だったからだ。
その個室には簡素な病人着を身につけた一人の男がいるのみだった。
知っている男だ。多分。そのはずだ。
「瓦礫の下から救助ドローンが救い出してきたのですが」
困惑したように
寝台の上で上体のみを起こしている屈強な体格の男は、隻眼だった。右目には爪で引っ掻いたような傷痕がある。ふと、マラードとアレッテが融合した真竜王アルトを思い出す。六王の一人にして今や俺たちガロアンディアンの名前と存在を上書きしようとしている最大の敵。
――やはり、何かがひっかかる。
ぼんやりと窓の外を見つめる隻眼の男を知っているような気がして、俺は声をかけた――かけようとした。そして失敗する。
「『 』?」
口を開いた瞬間までは、名前を知っているような気がしたのだ。
記憶はある。再演の舞台で演じたことも、グレンデルヒやゾーイとの激戦も、愉快な食事会も、その後のブウテトを中心とした騒がしい日々も。
しかし、その中から『 』の名前だけが欠落している。
そして、何度見てもこう思ってしまう。
『これは誰だ?』と。
男はこちらに気付き、困惑したように呟く。
「ああ、もしや、この病院のかただろうか」
トリシューラが肯定して、電子カルテを見つつ直接の症状を訊ねた。
どうやら外傷は無いようだが、トリシューラの表情は険しい。
「どう説明すればいいのかわからないのだが――その、まずはここがどこなのか教えてもらえないだろうか。それから、いったい何が起こっていて、何があったのかも教えて欲しい。何しろ何も思い出せなくてな。もしや、『 』の――」
そこで男は口をぱくぱくとさせてもどかしそうな表情を作った。
それから諦めた様に首を振り、
「ああ――だめだ、駄目だ! 考えようとすると、視界がぼやけて意思が強く持てなくなる。いったい誰がこの世界を見ている? ここはどこだ。わ、わた――『 』とは、誰なのだ?」
隻眼の男は――『 』は、何もかもを失っていた。
過去を、立場を、同胞を、そして己自身を。
残ったのは、何者でもない空っぽの残骸だけ。
そこには、荒廃した設定群があった。
打ち捨てられた物語、最初から最後まで死んでいる登場しない登場人物。
画期的な舞台装置は死蔵され、小道具たちは一度も舞台に上がらない。
舞台裏では音響機材が軒並み機能を停止し、破壊の嵐が豪奢な衣装を無残な布きれに変えてしまっていた。
パーン・ガレニス・クロウサーが仰向けのまま虚空を漂っている。
機械の右腕は肩口から失われ、義肢の破片は周囲に散らばり、傷だらけの肉体が力なく宙に浮遊しながら倒れている。
彼の前には片足で立ち、両手を互い違いに頭上に持ち上げた奇妙なポーズをとる男性型の球体関節人形がいた。四番目のラクルラールと名乗った存在は無傷のまま口を開く。
「
人形の指が目に見えない糸を手繰った。特に物語に関わることのない設定の群れが淡い輪郭を形作り、幻影の人形となって男の周囲を踊る。
狼の魔将を倒すためにそれぞれの野望を抱えて集まった三人の探索者それぞれの来歴、草の民社会における因習と次期族長を巡る暗闘に巻き込まれた青年の苦闘、亜大陸の闇を這いながら癒しと救いを求める治療師の巡礼、盗賊王の庇護を離れて神敵との戦いに身を投じるようになった拳士の戦歴、魂無き少女が色の無い部屋で生まれて育つようになった顛末、平和を訴えていた学生が弾圧と絶望を経て教会を破壊しながらツアーライブを行う悪魔崇拝メタルバンドを結成する長い旅路、迫害の歴史を背負う隠れ人狼の少女が恋をして愛を失い老いたのち義理の娘と激動の世界を生き抜いていく記録――。
それらは亡霊となって糸の導きに従う。
死せる設定だけの人形たち。形無き亡霊を操り、語られざる物語を支配する。
それが第四のラクルラールが展開する物語空間であった。
ゆらぎ重なり合う神話の中には生かされることなく、生まれただけで放置され、そのまま忘却された設定と言葉の群れが幾らでも存在する。
その物量。いかに万夫不当の六王といえど、そう抗えるものではない。
ラクルラールはパーンから関心を失ったように真下を――位置関係としてではなく、観念的な下位の世界を――見下ろした。
「虐殺には文法がある――人間集団の傾向や性質が一定の枠内に収まるのなら、その振る舞いを理解することで新しい虐殺の呪文を唱える事ができる筈」
彼が見ているのはラフディという王国の顛末。
滅び行くさだめの夢の王国。
丸い大地に神を見出す、堕ちてきらめく流星の国。
その美しさと醜悪さ。
王が創り出す都市の栄華と場当たり的な愚かさの正義が生み出す虐殺の零落。
ラクルラールは実験室でマウスを眺める研究者のようにそれらを眺める。
「サイバーカラテ、集合知の幻想、叡智の妖精、混沌の申し子。毒と薬は違う角度から見た別の顔に過ぎん。敵を駆逐する武力は容易く暴力に――虐殺に堕するということを、そろそろあれらも正しく理解できただろうか」
くるくると踊る。
手首を折り曲げ、肘で弧を描き、片足立ちのまま奇妙なバランスを維持し続ける。狙って妙な姿勢を維持しているようにも見え、それに纏わる裏話もまた表には出ない死んだ設定として彼の操り人形となって具現化していく。
「既に幾人かの『シナモリアキラ』たちは目覚め、サイバーカラテの真なる最適を模索し始めている――プロメテウスはじき役目を終える。次世代へと椅子を明け渡す時が来たということだ」
視線の先の下界にいくつかの光が灯る。
ミニチュアの箱庭、第五階層に蠢く無数のサイバーカラテユーザー。
理論派のインドアユーザー、実践派のアクティブユーザー、議論トピックにおいて存在感を示すユーザー、粘着と迷言を次々と繰り出す名物ユーザー、劇的な演出や巧みな話術を用いた配信で人気を高めるアイドル的ユーザー、そしてランキング上位で切磋琢磨する真の強者たち。
そうした多様なサイバーカラテ、シナモリアキラ性を有するあらゆる存在に付与されていく属性がある。それは虐殺者。それは殺人鬼。それは破壊者。
「終末。末世。致命的な破局――すなわち
誰かに確認するかのように、男は神妙な口調を作る。
「過日の地上での騒乱――魔将復活によってこの世界槍の秩序には確実に亀裂が入った。あと数手で世界を砕ける。戦乱、暴動、虐殺、それら全てが終わりを加速させていく。そして救世の紀人は現れる。世に求められるが故に、必然として」
あるいは、誰かに説明するように。
誰に? この独り舞台を見ているものに。
「下位の『細胞』を幾つか失ったが、彼らの犠牲は無駄にはならない。流血と屍がトリアイナ様の降臨を促すのだ。そう、無力な奴隷どもは神の運命には抗えぬ。流れに従い、全てをゆだねるのみ」
そして瞑目する。
遺言のように言い残した。
「
直後、遥かな天上より途方もなく巨大な構造物が落下してラクルラールを叩き潰した。ありとあらゆる機械の残骸を寄せ集めて際限なく質量を付け足していったかのような塔、ビルディング、あるいは墓標のような何か。
底部から延びるカーボン製チューブが触手のようにうねって残骸を捕獲。人形だったものを構造の中に取り込み、ゆっくりと本体の下へ戻っていく。宙に浮かび気を失っているパーンの肩口へと。
それは塔などではなく、巨大な義肢だったのだ。
自己改良型の杖式オルガンローデ。
『残心プリセット』によって予め起動準備がされていた逆転の切り札。
かつてパーンの義肢はマッスルコントロール方式――筋肉の微弱な電位差を感知して動く筋電義肢だった。加えて電波による命令を飛ばすことで規定の動きをスムーズにこなすことのできるロボットアームでもあったから、これは古代の義肢としては常識外れなオーバーテクノロジーだ。とはいえ、ブレインコントロール方式のガロアンディアン製義肢に比べるとどうしても見劣りしてしまう。
パーンは現代に甦ったあと、『サイバーカラテ道場』経由で『残心プリセット』を義肢に組み込み、仮想使い魔を義肢内部に常駐させることで半自律的に作動するドローンアームを完成させた。パーンにとって義肢とは体の一部であると同時に使い魔でもあった。古代と現代、呪術と異界の技術、それらが渾然一体となったサイバーカラテの力を十二分に使いこなしているパーンに隙は無い。
付け加えれば、パーンは生前にトロルの王ベフォニスを倒し、紀人ラウスの右腕を強奪している。彼の代名詞でもある『右腕』は紀人にも届き得る。
そして拡張と自己改良を繰り返す機械義肢とはサイバーカラテの産物に他ならず、それはシナモリアキラの属性を有する。万人に開かれたサイバーカラテ=シナモリアキラという存在は、誰であろうと紀人に挑み打倒する機会とその土台を作りだしているのだった。
静寂に満ちた空間で、パーンが緩慢に目を開く。
わざとらしく欠伸をしながらひとりごちた。
「なんだ、寝ている間に終わったのか――ふん、相手が弱すぎるというのも困りものだな。退屈過ぎて寝てしまった」
たとえ実際にはそれなりの激闘を繰り広げ満身創痍に追い込まれるも起死回生の布石が機能したことによって勝ちを拾ったという事実があったのだとしても、そのような現実そのものを否定して無かったことにしようという強い意思を感じさせる呟きだった。自分自身に向けた呪文。認識が肉体を変革させ、邪視が『我』という宇宙を変容させていく。
圧勝だった。
傷一つ無いまま、パーン・ガレニス・クロウサーはラクルラールという羽虫を一瞬で叩き潰した。敵の姿は塵一つ残っておらず、紀人として普遍化した存在も矮小化している。僅かに残った『名前』という存在を、青い流体が取り囲んだ。
禁呪とも呼ばれるクロウサーの秘術の一つ。
融け合う呪いは共有の呪い。
与えることと奪うことを同時に行うが、パーンという圧倒的に強固な『我』がそれを使えば、与えようが奪おうが結果は同じだ。
パーンが全てを塗りつぶす。
融血呪で一つになれば、『強い方が残る』という単純な結果だけが残る。
それは『個々の強い部分だけが残る』ということにも繋がり、歪に融合した結果として個体としてのバランスを欠いた異形をも生み出しかねないのだが――。
「我が名はパーン。『全て』である者。下らん端役が、俺の覇道を妨げるな」
内側から自我を侵食しようと蠢動するラクルラールを、パーンは強引にねじ伏せた。ギリシア語あるいは英語由来の名はこの世界でも確かに力を有し、彼に己の力に対する確信を与える。とはいえパーンは己の名が何に由来するかなど知らず、
「全ての生命の起源、パンゲオンに由来する名だ。俺の宣名圧は他の六王を圧倒し、女神たるフェロニアのそれに迫る。羽虫に抗えるはずもない」
と常識的な解釈をしている。神話における万物の祖パンゲオンに由来する名前は彼の生きていた時代にはそれこそ五人に一人という割合で存在していた。
そしてその意味もおおよそ『全て』ということになっているので、特に問題は発生していない。来歴が消え、結果だけが同じものとして残っていた。
完全な勝利を収めたパーンだが、その表情は険しかった。
アストラルの腕を伸ばして巨大な機械腕から部品を引き抜く。スクラップ同然のそれらがパズルを組み合わせるかのようにごく普通のサイズの義肢を構築した。
「勝ったな――勝ったように思える。だが、この下らぬ戦いで得たものは何だ? 消耗と禁呪からの侵食。そしてトライデントとやらの因子の吸収。結果として俺が連中に近付いただけだ」
トライデントは使い魔の魔女。関わりが広がり、深まり、強い個体と繋がるほどその力を増す。たとえばパーンのような。
彼は無意識のうちにトライデントという総体に奉仕している。
パーンはパーンのまま、存在を許容されながら飲み込まれつつあるのだ。
ここに至って、彼もまた漠然と大いなる意思を感じていた。
安らげる胎内に回帰してよいのだと囁かれるような心地。
あるいは、融血呪という禁戒の代償とは――。
「クロウサーの奴隷、ラクルラールの奴隷、トライデントの奴隷。そんなものに甘んじる俺ではない。ならば『俺』を固定化する中和剤が必要だ――なるほど、それが氷血呪というわけか」
一瞬の閃きのみで結論に辿り着いたパーンは独り芝居を続ける。
誰もいない彼だけの空間は、彼の脳内世界のようなものだ。
整理された思考が台詞という形で彼の周囲を巡っていく。
遠く、下界を見つめる。
第五階層の中央にそそり立つ、品の無い形の巨塔を睨め付けた。
「俺の『
鋭い眼光が敵を見据え、青い睥睨が獲物を貫いた。
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