4-126 王と物乞い③




「結婚?」


 思わず眉を顰めた。

 ある日、陛下に降って湧いた婚約話――勿論、王族である以上は避けては通れぬ『政の一部』ではある。しかし、私はどうしようもなく心を乱されていた。


「お前は結婚というものに対して幻想を抱いていないらしいな、ルバーブよ。お前ほどの勇士が未だに妻も持たずにいるというのが不思議でならなかったが、何か理由でもあるのか?」


 不思議そうな表情の陛下は、瞳に興味を宿しながら首を傾げた。美しい髪が重力に従って滝のように流れ落ちた。

 最近の陛下は、恋愛や結婚というものに関心を示されるようになってきた。

 良い傾向、ではあるのだろう。

 だが、私は結婚という呪術的儀式に対してあまり良い印象を持っていない。


「陛下。結婚をするには、まず相手となる男が必要でございます」


「男? 女ではないのか?」


「いいえ。結婚とは男と男、父と父、家長と家長の『血の交わり』のことにございます。王国や血族を背負った男同士が繋がりを作り、互いの足場を固める為の外交手段が結婚です。それに伴って持参金――財産の贈与や交換が行われる。贈与される財産の中心となるのが娘というだけで、本質的には男同士の儀式なのです」


 少なくとも、当世の価値観ではそうなっている。

 女人禁制の神聖な結婚式で、父と父は向かい合って球神に誓いを立てる。

 裸身となって身を清めた後、互いの胸に己の血で文字を描き、杯を酌み交わす。

 そうすることで血と血を一つに融け合わせる家族の――『使い魔』の儀式。

 家と家が結びつき、男たちは互いを無二の家族として受け入れる。


 つまり――陛下が結婚をするということは、その父親が相手となる父親を見つけなければならないということだ。そしてそれは不可能だった。

 彼の本当の父は不明だし、いたとしてもそれを明らかにはできない。

 私の父はとうにオルヴァが殺して人形にしてしまっている。


 そして一国の王が結婚するとなれば、相手は有力な貴族か異国の王族。

 その中には強い呪力を有する一族もいる――というよりそうした呪術的な強さを目当てに結婚は行われるのだ。見返りもあるが、呪術に長けた者と相対すれば秘密が露見してしまう恐れがあった。危険は冒したくない。


 代理人を立てることもできるが、適当な人材が思い浮かばない。

 秘密を知るものはもはや私とオルヴァくらいのものなのだ。

 とにかく言い訳を並べて時間を稼ごう。思いつくままに言葉を紡いでいく。


「それに陛下、結婚とはある意味で残酷なものでございます。贈り物である娘は陛下の持ち物となりますが、心弱き娘であれば故郷を離れたことで不安を覚え、心身を衰弱させてしまうこともあるのです」


 その果てに待つのは国家繁栄ではなく、忌まわしい死だ。

 会話を交わす部屋の窓に視線を向ける。

 すると、王宮の隅にひっそりと聳え立つ尖塔が目に入った。

 王国を呪縛する忌まわしい遺物。その象徴があの塔だった。


 始祖ディルトーワは亜竜王アルトから娘を下賜されてラフディの王となった。

 バーガンディアは竜王国の文化や思想をこの国に根付かせようと精力的に活動したが、それは彼女が疎まれる原因を作ってしまった。陰湿な仕打ちに始祖王は気づけず、日に日にやつれていく妻にうんざりしはじめたという。


 美貌が翳る様が見ていられないと、ディルトーワはバーガンディアを塔の中に閉じ込めた。何かと国政に口を出してくる妻を黙らせ、自分が竜王国の傀儡ではないと貴族や臣民に証明する意味もあったのだろう。強き夫という自らの在り方を印象づける為、彼はバーガンディアの護衛でありラフディの軍事力の要であった『赤眼騎士団』を残らず処刑した。


 王妃の解放を訴える騎士団長ソムワムンに、残酷なディルトーワ王は王妃と姦通したという疑いをかけて死罪を言い渡した。忠実な処刑者スメーキフはまずソムワムンを拷問して精神を狂わせ、連座で精強なる騎士たちを斬首。その首を塔の天辺に飾った。滴る血の音は王妃を震え上がらせ、以来彼女は抗議の声を上げることもなく部屋に閉じこもりきりになってしまった。


 閉ざされた塔からは、時折『帰りたい』『どうして誰も来てくれないの』という寂しげな声やすすり泣きが聞こえてきたというが、非道な王を恐れて誰も近付く事はできなかった。塔に出入りするのは身の回りの世話をする人形たちだけ。


 一説によると、それは王妃の為に命を落とした騎士の屍で作られた『死骸人形』であったと言われている。余りのおぞましさから、我が国では死体操りの呪術は禁忌とされるようになった。死体の操作は皮肉にも王妃が王国に招いた人狼たちが得意とする闇の呪術であり、彼らが迫害される遠因となった。それすらもディルトーワの思惑通りであったのかどうかは判然としない。


 哀れなバーガンディアは誰からも見捨てられ、哀れ塔の中で一生を終えた。

 その最期は世を儚んでの自害であるとも、衰弱の果ての病死であるとも伝えられている。芝居などでは定番の題材だ。


 しかし、王宮で育った私は事実がそうではないことを知っている。

 かの魔眼竜は、正確には死亡が確定してはいない。

 行方不明なのだ。

 ある日、人形が塔の最上階に食事を運びに行くと、王妃の姿は忽然と消えていたという。以来、バーガンディアの姿を見た者はいない。


 だが、人々が彼女のことを忘れることはなかった。

 時折、幸福そうな夫婦が誰かに引かれるようにして転落死するのは、バーガンディアの魂が未だに彷徨っていて怨霊と化しているからではないかと考える者もいた。祟りである、呪いであると――まことしやかに囁かれている。

 新たな妃を迎えたディルトーワ王の最期が墜落死であったということも、その伝説に一層の信憑性を付加した。


 いずれにせよ、噂が真実味を帯びてくれば呪いは事実と化す。

 王宮では結婚はある種の恐れと共に語られるようになっていった。


 『恋愛』というものがもてはやされるようになったのも『妻から恨まれることへの恐怖』が根底にあるのかもしれなかった。


 若い陛下はそのようなことは知らない。

 ただ楽しさだけを追い求めて女を侍らせる。

 永遠を夢見させてくれる、恍惚の一瞬を探し続けていた。


 退廃的な『女遊び』――人形を並べて侍らせる『ままごと』。

 私が操る、彼を愛する女の振りをした偽りの恋人。

 貴き彼の身に何かが起きてからでは遅い。

 暗殺、籠絡、庶子が生まれた事による王位継承権を巡る争いの勃発、そしてバーガンディアの呪い。

 彼を守る為に、結婚を遠ざけなければならない。


 欺瞞に満ちた答えをどうにか内心で捻り出す。

 必死に自分を誤魔化している。

 自覚していても、途中でやめることはできなかった。

 ふと、声が聞こえた。


 ――さて、どうだったかな。お前は彼を欺くことに耐えられなくなり、それを止めたのでは無かったか。そして、生まれてしまった赤子を一人一人――


 ――黙れオルヴァ。


 気が付くと視界の隅に立っている賢者を一睨みする。

 曖昧に目を細めてオルヴァは消えていった。

 陛下はそんな私を不思議そうに見ながら、政治と切り離せない結婚の面倒さにうんざりとした様子で溜息を吐いた。


「やはりしばらくは自由の身が良いな。恋を楽しむのにも身軽な方が良いだろう。結婚は真実の恋の在処を見つけてからでも遅くない」


 それから話は飛び、何故か私の結婚話となる。

 これ幸いと飛びついた。ひとまずは私が結婚してみせることで彼の興味を代わりに引き受けるのだ。手頃な相手を見繕い、陛下の見守る中で結婚は成立した。卑しい貧民は貴族の身分を得て、名実共に陛下の傍に侍る資格を得たのだ。誰に文句を言われる事も無く、陛下に仕えることができる。そうして私は幸福な結婚をした。




 幸福――そのはずだった。

 時は加速する。全てが色褪せ、老いていく。

 老いが美しさに翳りをもたらす。

 失われていく美しさを救えるのは、別種の美しさだけだ。

 すなわち、滅びの美。


 破局は突然に訪れた。

 恐るべき外敵、霊王フィフウィブレスの襲来。

 死霊を操るという闇の呪術を使いこなす強大な敵を、私たちは賢者の助けを借りてどうにか撃退することに成功した。


 しかし皮肉にも、ラフディの土台が揺らいだのは危機が去った後だった。

 地の底から呼び起こされた亡霊たちは墓の下に封じ込められたが、それらを管理する為に死霊を操る技術者たちが必要とされた。


 夜と死、闇と影――そういったまじないに秀でた人狼たちの力が自然と必要とされ、彼らの発言力が日に日に増していく。

 霊王襲来の混乱の中、『人狼が敵と内通した』『人狼が大地の民を襲っている』などという噂に踊らされた一部の軍人や市民が人狼を殺害したという事件も影響し、ラフディには張り詰めた空気が漂うようになっていた。


 坂を転がる球のように、事態は悪い方へ悪い方へと落ちていく。

 外敵である霊王フィフウィブレスとの戦いで功績を上げた英雄シェボリズ。

 中原でその名を知られた人狼の部族長である。

 英雄の名声は高まり、我々にとっても無視できないほどの存在になっていた。

 人狼たちは陛下に掃き溜めから救って貰った恩を忘れ、調子良く人狼種の英雄とやらを持ち上げている。


 陛下を排除しようとする勢力は全てが滅びたわけではない。

 一切の不満を抱かれない王などいるはずがないのだ。

 その一部に、シェボリズを担ぎ上げて陛下を排除しようとする動きが見られた。

 国は乱れている。

 誰よりも美しい王の素晴らしき統治。

 それを脅かそうとする者を、許すことはできなかった。


 私は――。

 私は、陛下に『進言』した。

 そして、人狼はラフディから姿を消す。

 私が消したのだ。


 最も厄介だった英雄シェボリズは、卑劣な手段で罠にかけて無力化した。

 長らく子に恵まれずにいたというシェボリズは、つい先日このラフディで連れ添いとの間に子をもうけた。シェボリズ自らが『無』から捏ね上げたという子供はまだ目も開かない幼さだったが、躊躇いは無かった。


 私はエスフェイルと名付けられた子供に呪詛をかけた。

 死病の呪いに冒されたエスフェイルは絶えず肉体が腐っていくという苦しみに苛まれ、更には近付く者に死を振りまいていく。シェボリズは子供を救う手立てが国内には無いと知ると、より優れた呪術医を求めて中原に旅立った。


 風の噂では、シェボリズは自らの呪力の大半を子供に注ぎ、死の呪いを中和し続けているのだという。人狼の英雄はラフディを遠く離れ、子供を生かすために弱体化した。もはや私の行動を妨げられる者は国内には皆無だった。


 この手を血に染めて、逃げ惑う人狼たちを追い立てていく。

 恐怖と憎悪が伝播し、流布された噂によって臣民たちも人狼を迫害し、積極的に排除を行った。人狼たちは離散し、あてもなく流浪することとなる。


 これは私の罪だ。

 だが、もし陛下が全てを知ってしまったならば、彼は自らを責めるだろう。

 己の足下で起きていた事実を何も知ることができなかった――知らされていなかったという裏切りを、呪うだろう。


 全ては私の欲望がもたらした災禍。

 彼は私の傲慢に付き合わされただけの被害者でしかない。

 被害者を加害者に仕立て上げるという最も悪辣な手段によって、彼は無自覚に罪深い王として振る舞い続けなくてはならない。


 私は自分自身の邪悪さを自覚していながら、それでも美しい王を見上げることをやめられなかった。

 私の心には一欠片の忠誠も無い。

 偽りの臣下、穢れた寄生虫。

 真実の私は、欲望に塗れた最悪の外道だ。


 第六断章、その名は【愛情】。

 結局の所、それは邪悪な暴力であり、権力でしかないのだ。

 黒々とした欲望によって翻弄された無垢な少年が、操り糸を断ち切って自らの足で立とうとする。それは当然のことでしかない。


「全てに納得していると? 物分かりが良いのだな、我が友よ」


 十字の瞳に理性を宿して、賢者オルヴァが語りかけてくる。

 もはや時間と空間の感覚は定まらず、曖昧な記憶が流転する不可思議な世界で私たちは相対していた。


「私はそれだけの罪を重ねた。彼の意思がそれを望むのなら、受け入れるほかあるまいよ。むしろ、遅すぎたくらいだ」


「その結果があの惨状か」


 オルヴァが虚空のある一点を指で示す。

 そこに広がっていたのは、巨大な怪物が暴れ狂う光景だった。

 舞い降りる炎天使、全てを嘲弄する人形姫――そして慟哭する大地の竜。


「あれが、彼の望んだ『今』だと?」


 オルヴァの言いたいことはわかっている。

 アレッテ・イヴニルを許すことは出来ない。

 しかし、私にはもはやどうすることもできないのだ。

 死者には、敗者には、弱者には、偉大なる王を助ける英雄としての資格は無い。

 もとより私は卑劣な罪人だ。惨めな今こそが似合いの結末だ。


「ならばお前の感情は全て――その罪深い欲望すらも『その程度』だったということなのだな」


「何を、今更」


 十字の瞳は強い邪視で全てを見透かすようだった。

 視線が私の全てを詳らかにしていくようで、ぞっとして身を震わせる。


「彼に注いできた情念、妄執、執着――それらが生み出す呪力。髪に込めた怨念じみた不気味な欲望すらも、つまらないものだったと」


「だからそうだと言っている!」


 苛立つ。この会話は何だ?

 一体何の意味があって、こんな分かりきったやりとりをしなければならない?


「では、彼を輝かせていた呪力もまた偽りで――彼の美貌もまた偽りだったと言う事だ――あの魔女の言うとおり、マラードは本当は不器量な王でしかなかった」


 腰を低く落とし、存在しないはずの大地を踏みしめ、全身の重量を前へと滑り出させる。突き出された掌底がオルヴァの細い身体を突き飛ばした。


「訂正しろ」


 言ってから、乗せられたことに気付く。

 起き上がったオルヴァは珍しく愉快そうに笑っていた。


「それがお前の真実だ――ルバーブ」


 答えは唯一、それだけなのだと。

 言われるまでも無く、頭よりも身体がそれを理解していた。

 何も分からずにいたのは、この不格好な頭だけというわけだ。


「お前は、どうして」


「短い付き合いだったが――これから長い付き合いになるからな。六王同士、敵ではあるが友でもある。それだけだ」


 普段のブレイスヴァの名を呼び続ける狂態がなりを潜めたと思ったら、今度は混乱した時制での物言いが前に出て来る。

 悠久の過去を知り、未来もまた同じように知るオルヴァ。

 生も死も無く、始まりも終わりも全てはブレイスヴァに喰われてしまうという世界観の彼にとって、『これから友人としての時を積み重ねる』私という存在は肩入れするに値するということなのだろう。



「感謝する。ではさようならだ、未来転生者オルヴァよ」


「はじめまして。これからよろしく頼む。何者でも無い我が友よ」


 それは――過去と未来、どちらに向けた『よろしく』だったのか。

 いずれにせよ私はここで終わり――私たちはここで出会ったのだ。

 何もかも、もはや取り返しがつかない。

 それでも私には欲望だけが残っていた。


 ずっと、そうだったのだ。

 ただ『今』の欲望だけを追い求める。

 あさましくも醜い獣が私だ。


 記憶の渦から浮上する。

 泡として世界に保存されていた悪夢が弾け、泡沫の時間は消えていく。

 私の残された長いようで一瞬の猶予は終わりを迎えようとしていた。

 しかし私は、遙か頭上から聞こえてくる声に気付いていた。

 それは黒い書物から響く声。

 直前までは敵対していた、もう一人の魔女の言葉だ。


「力が欲しい? 伸ばすための手、大地を踏みしめるための足、願いを叶える為の心――欠けているものを、私は補ってあげられる」


 それは悪魔の囁き。

 契約を持ちかける、悪辣な詐術の罠。

 応じたが最後、私の全ては『彼』のものではなくなってしまう。

 それはルバーブという存在の完全な死を意味していた。


「魂を対価に捧げる覚悟はある? 名前、存在、そしてあなたにとって最も大切な想いさえも。全てをかなぐり捨ててもう一度戦うことを望む?」


 それでも。

 『美しい王マラードに仕える醜い忠臣ルバーブ』という甘美な嘘を捨ててでも、私はその道を選びたかった。

 あの美しさを、否定させはしない。


 決意は言葉よりも確かに世界を伝わっていった。

 【知識】の断章が輝き、私の死体を解体していく。

 一人の魔女が――否、『女王』が戦場に降り立つ。

 女王は揺らめく鮮血の衣を翻しながら醜悪な球体を手に取った。それは生首。血に濡れた鋼鉄の指が頭部を握りしめ、高々と天に掲げる。


「その欲望、確かに受け取ったよ」


 鮮血の女王トリシューラが、流動する赤を周囲で踊らせながら言い放つ。


「無駄な足掻きを――いいわ、貴方も私のマラードで壊してあげる、がらくた!」


 アレッテ・イヴニルが高みから宣言する。

 炎天使を束ねた糸で追い払い、地竜を操ってこちらにけしかけようとしていた。

 更に、『王』でもある彼女を完璧に滅ぼそうとより強大な呪術を発動させる。


「生ける者も死せる者も、斉しく天を仰ぐが良い! これより王の選定を開始する。真の王には栄冠が、卑しき僣主には刃の裁きが下るであろう!」


 人形姫が叫ぶと天が揺れ、刃が落ちてくる。

 天に揺れるダモクレスの剣。

 罪を切り裂き、悪しき権力を裁く、僣主殺しの大呪術。

 あれが落ちれば、罪深い王たちはまとめて滅び去るだろう。

 だが、その時聞いたことも無い声が割って入った。


「いいえ。王に真も偽もありませんよ――振り下ろされた裁定の剣は、力によって掌握すればいいだけのことです――そうでしょう、トリシューラ!」


 空に尾のような軌跡を残して飛翔するそれは流星――否、箒だ。

 乗っていたのは三人。

 見知らぬ少女たちの一人、眼鏡をかけた少女が私の目を引き付けた。

 背中が開いた衣服から飛び出す巨大な翼、伸び上がる異形の尾。

 白すぎる巻き毛は翼と同色で、瞳は血のように赤い。

 大賢者から伝え聞く古の覇王とそっくりな特徴を持つ少女は、黒い書物を手にしていた。間違い無い。あれこそは所在が不明だった最後の『王の資格』。 

 第七の断章――【富】だ。


「アレッテは私たちが抑えます、貴方はそっちを! 手伝ってあげるんですから、しくじったら許しませんよ!」


「わかってる、ありがとねメートリアン!」


 感謝には舌打ちが返された。

 苛ついたように魔導書を開き、捲られていく項を輝かせながら少女が呪文を世界に刻んでいく。


 文字の群が巨大な剣を取り巻いて束縛し、更には地竜を操っていた糸に絡みついて人形姫の支配に干渉する。


「邪魔をしないで!」


 怒りの声を上げながら、箒に乗った少女たちに糸による斬撃を放つアレッテ・イヴニル。全てを断ち切る死の一閃は、しかし容易く弾かれた。

 箒に乗った一際小さな少女――異形の耳を生やした少女が、爪を長く伸ばして人形姫に対抗しているのだ。


「く、セリアック=ニアには勝てない――おいでなさい、【棘の王カルメダージ】、【処刑者スメーキフ】、【扉の向こうのエントラグイシュ】! 荒ぶる戦王、残虐な処刑者、祝福されなかった赤子たちよ! 猫の足止めを!」


 天上で熾烈な戦いが繰り広げられる一方で、地上では奇妙な呪術儀式が執り行われようとしていた。幾層にも重なる呪術の円と廻る文字列はガロアンディアンの漢字に似ているが、流動する意味は漠然として捉えがたい。


「ごめんね、私は『こういうの』得意じゃないから――メートリアンたちに頼り切りになっちゃうけど。それでも、貴方の大切なものはまだ終わりにはなってない。終わらないって、証明してみせる」


 冷酷なはずの機械女王の、不可解な振る舞い。

 私に肩入れする理由など彼女には無い。

 ならばその思惑は打算尽くだ。この身に残った権威の残骸。

 屍を利用して、アレッテ・イヴニルの支配下に置かれているラフディを打ち崩そうとしているのだ。


 私の決断はラフディに害を為す。

 それでも、あのもの悲しい咆哮をただ聞いていることなどできない。

 トリシューラが言葉を繋ぐ。


「私のペットがね、貴方を――ううん、貴方の信じるものを肯定したがってるの。だからこれは、私がいい飼い主でいるための自己満足なんだよ」


 流れる鮮血が、蠢く文字が、我々の意思に呼応して光輝く。

 『我々』とは誰か――それは鋼の女王、それは死せる大地の王。

 そして、もう一人。


「マラードの拒絶が起きてしまった事実でも、貴方たちの物語はまだ終わってない。語られなかった想いを、切り捨てられた感情を、無かったことになんてしなくていい。残酷な決断とか非情な選択とか、そんなのを強いられるのは絶対に嫌!」


 我が侭な欲望をまっすぐに叫ぶトリシューラ。

 それは罪深さであり、彼女の強さだ。

 私は。

 俺は、既にそれを確信している。


 人形姫に操られて反転した地竜が迫り来る。

 巨大な足が大地を砕き、震える足下は大震災の最中のようだ。

 だが女王は巨大な竜を前にして一歩も退かない。

 敢然と立ち向かい、高々と首を掲げる。


 天上では人形姫と異形の獣が激突し、箒の上で二人の少女が声を揃える。

 それは世界を書き換える呪力。

 白と藍の輝きが第五階層を塗り替えた。 


「言理の妖精――」


「――語りて曰く!」


 確定した事象を覆す、呪文の神秘。

 響き渡る色鮮やかな歌声の下、地上に立つ女王は力強く宣言する。


「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒! 鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『乱髪スカルミリョーネ』――醜き愛を喰らう者!」


 契約の名の下に、私は悪魔のような相手に全てを売り渡す。

 欲しいのは力。死を踏破する確かな足、敵を見据える鋭い目、そして。

 拳を握りしめる為の、鉄と氷の偽りの両腕。

 女王は生首を振りかぶり、勢いをつけて投擲した。

 『私』は回転しながら何かに激突し、そして。


「お待たせ、新しい『アキラくん』だよ!」


 ――『俺』は目を見開いた。


 背後の声を聞きながら、目の前の脅威に立ち向かう。

 全ては主の為。この世で最も美しいと信じたもの、己の欲望の為だけに。

 呼応する思考と鼓動。

 『俺』の歯車と『私』の車輪ががちりと噛み合う。

 腰を落とし、上体を下げ、手を地に着け、視線はまっすぐ前に。

 やることは単純だ。

 地竜を殴ってマラードを取り戻す。


 ならば発する言葉は一つでいい。すなわち――。


「発勁用意――NOKOTTA!!」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る