4-121 醜い野獣③




 【断章】の項がめくられて、溢れ出した呪力が形をなす。

 俺とルバーブの背後で追随するように浮遊している黒い魔導書は原動機のようなものだ。あらゆる呪術を運動させる小規模な儀式場。捧げられた記述が供物となって神秘を構築していく。


「五十五番――釘のナタリエル」


 ルバーブの左腕に異変が起きていた。体毛が急速に伸びているのだ。

 剛毛という域を超えて硬質化した角質の塊。

 それは角のように雄々しく伸びて腕に固定された武装と化した。

 ちびシューラが叫ぶ。


(硬化ケラチン! 体毛の角質を硬くして武器にしてるんだ!)


 ルバーブの武装はある種の獣――たとえばサイなど――が有するものと同じだ。

 キュトスの魔女ナタリエルは地母神キュトスから『獣』と『大地』の属性を色濃く受け継いでおり、その性質は極めて球神ドルネスタンルフに近い。

 同じではない。

 しかし、必然から似てしまっている。

 加護の収斂進化。体毛を棘に、槍に、矢にする大地の民。

 ナタリエルの【釘】は全てを貫く最強の武装である。

 それは爪。それは角。それは破城槌。


「往くぞ」


 猛然とルバーブの左腕が突き込まれる。

 武装を獲得し、間合いが広がった彼の刺突は驚くほどに速い。

 回避が間に合わない。咄嗟に右手で『停止』を命じながらガードする。

 しかし、次の瞬間俺は愕然とすることになる。あらゆる運動を停止させる【氷腕】の絶対防御は、その刺突の前には無力だった。


 尖ったものは邪視を退ける力を持つ。

 邪視の力を宿す右腕の防御を貫通して、氷の義肢に突き刺さる硬質な【釘】。

 砕けこそしなかったが、衝撃と共に吹き飛ばされてしまう。

 転がって受け身をとり、素早く態勢を立て直した。右腕を確認すると全体に亀裂が入っている。コルセスカとの繋がりは健在なので時間経過で修復されるとは思うが、しばらくは機能に制限がかかることだろう。


 【氷腕】の『停止の盾』や『氷による呪的侵入の遮断』といった優れた守りは失われてしまった。【ウィッチオーダー】に頼るしかないということだ。長く戦えば肉体の呪力バランスを崩してしまう恐れもある。長期戦は避けたい。


「こっちもいくぞ、五十五番っ!」


 第五階層という小さな宇宙が呼び声に応え、物質を創造する。

 まず釘が出現し、俺の左掌に突き刺さった。

 そして左手に沿うように出現する、途方もなく巨大な十字架。

 側面に埋め込まれているのは煌めく四種の宝石。中央で妖しく発光しているのはトリシューラを思わせる紅玉髄。


 それはあまりにも無骨な杭打ち機だった。

 巨大な本体パーツを支える為、俺の掌を貫いた釘が手の甲から突きだして、途方もなく巨大な杭打ち機を固定している。圧倒的貫通力を実現するための原動機もまた実用性を無視した巨大さで、俺の肩を覆って背後に飛び出ている『弾倉』は十字架に似ていた。


(呪宝石による代替仏舎利聖釘だいたいぶっしゃりせいてい! 高いんだから、大事に使ってよね!)


 使い手が違えば、同じものを参照していてもその現れ方は異なる。

 肉体の拡張部位としてシンプル極まりない【釘】を生み出したルバーブに対して、山盛りの文脈をぶちこんだ重武装というごてごてした【釘】を生み出した俺。

 その差もまたわかりやすく、手数と速度を重視しているか、一撃の威力を重視しているかの違いだった。


 再生者を聖性によって葬り去る釘が飛び出し、ルバーブの釘と交錯する。

 懐に入ることに成功したのはルバーブ。

 髪の毛に纏わせていた棘球を後頭部で起爆することで加速したのだ。自らの肉体が傷付くことを恐れぬ再生者ならではの無茶な突撃。鋭利な釘が俺の鳩尾に突き刺さる。飛び散る鮮血、燃えるような熱。密着した状態から釘を抉り込もうとするルバーブ。あらゆる苦痛が瞬時に遮断され、相手の動きを膝蹴りで妨げる。逃れようとした相手の髪を右手で掴んだ。【氷腕】の呪力に反応して棘球が炸裂する。氷の腕に入った亀裂が更に深くなるが、それでも離さない。


 ルバーブの長い髪は呪力の源であるが、近接格闘では掴みやすい弱点でしかない。恐らくこの棘球はその対策でもあるのだろうが、ダメージを前提にしていれば多少は耐えられる。そのままルバーブを引き剥がし、喧嘩じみた攻防の後に距離を取る――途端、ルバーブが足からぐらついた。


 髪を掴んだ時、足に蹴りを入れておいたのだ。ルバーブはそのウェイトゆえに足にダメージが蓄積すると崩れやすい。力士と形容したように彼の足腰は強靱だが、ラフディーボールの試合で最も運動量の多い中衛ミッドフィールダーとして走り回った後だ。そして先程の棘球による加速。彼の意思とは無関係に肉体が限界を迎えていたのだ。これは限界を超えて活動できる再生者の弱点でもある。非再生者にある苦痛。サイボーグにあるアラート。限界を認識する能力の欠如こそが明暗を分けた。


 歯を食いしばりながら下半身を白骨化させて筋肉依存の動きではなく霊体と精神に依存した念動に切り替えようとするルバーブ。だがもう遅い。


「貫けぇぇぇ!」


 聖釘による渾身の一撃。

 巨大な質量が再生者を串刺しにして空高く掲げる。

 勢い良く地面に叩きつけ、今度は頭部を叩き潰そうと左腕を振り下ろした。

 寸前、急速に回転したルバーブの身体がごろごろと転がって離れていく。

 丸々とした身体だとは思っていたが、まさか本当に球のように転がるとは。


 さらにルバーブは奇妙な動きに出た。

 自らの釘を胴体の真ん中に空いた大穴に突き刺してぐりぐりと抉り、その釘をフィールドの芝生に突き刺したのだ。

 すると、信じがたい事に傷が見る見るうちに塞がっていく。再生者としても異常な速度だった。ちびシューラによる解説が入る。


(釘を傷付いたり病んだりしている部位に触れさせてから地面に打ち込むことで『穢れ』を地面に転移させて癒すという感染呪術だよ。その地面は踏めば傷と病が足裏から伝わる罠だから気をつけて)


 思わず舌打ちする。

 仕留めたと思ったというのに、これで振り出しだ。

 足の負傷も同じようにして地面に移していた。

 対するこちらは右腕の破損に鳩尾の貫通創と酷い有様で、しきりにアラートのやかましい音が鳴り響いている。視界隅でちびシューラが包帯と松葉杖というスタイルで「痛いよー」と苦痛を訴えていた。危険な状態である証だ。


 優勢だと思っていたのは一瞬の事。

 持久戦が得意な相手との戦いは精神に堪える。

 じりじりと追い詰められている感覚に知らず笑みが溢れた。

 ――あの盤石の態勢を、どう切り崩してやろうか。


 試合中もこんなことを考えていた気がする。

 対峙する相手と長柄武器でぶつかりあい、ボールの行く先をも含めた無数の選択肢を提示し、フェイクを仕掛け、選び取っていく。時に押し時に引き、最適手を模索して勝ちを狙う極限の状況。


 理性を失ったルバーブを、俺は直視した。

 球神だ何だとおかしくなってしまったのだと思っていたが――ぶつかりあってわかった。この男はまだ大丈夫だ。

 何故って、今俺たちは戦えている。


「一番――【路の女王ヘリステラ】」


 ぞっとするほどに、手強い相手として。

 ルバーブが口にしたのは、キュトスの長姉その人の名だった。

 車輪というイメージから『転生』の力を引き出す俺とは違い、ルバーブが見ているヘリステラの姿は『路』という大地に近い側面だ。


 釘を大地に突き刺すと、土が盛り上がり緑が割れていく。

 大量の茶色がルバーブの周りで爆発し、発生した地震が無数の亀裂を生み出していく。幾何学模様を描く地割れは魔法円。円の周囲に輝く呪文が浮かび上がると、その儀式は完了した。


 ルバーブの背後に揺らめく蜃気楼のような幻は巨大な円形。それは車輪であり、太陽であり、太陰であり、王冠であり、同時に全てでもあった。


 獣の如き戦士は回転する円、すなわち車輪を牽いて吠える。


戦車メルカバわざ――信じられない、ルバーブは今、闘争の昂ぶりの中で魂を限りなく球神に接近させている。『ぎょう』によって紀元槍に到達しようとしているんだ)


 それはつまり、半ば以上『紀人』に近付きつつあるということだ。

 早い話、今のルバーブは俺やトリシューラといった『人を外れたもの』を完全に滅ぼし得る高次存在になりかけている。


 猛烈な悪寒。釘を地面に打ち込んだ反動で横っ飛びに回避する。

 直後、疾風が駆け抜けていった。

 大地に刻まれていく『わだち』。

 凄まじい衝撃によって抉られた軌跡が茶色の路を作り出していた。

 その外側には轢き殺された者たちの残骸が撒き散らされ、極彩色の塗料となっている。鮮血という供物を啜って歓喜する大地は飢えた野獣のようだった。


 ルバーブが高速で通り抜けた傷跡は高密度の呪力によって大地色の光を放ち、近付くもの全てを弾き飛ばしていく。広大なフィールドを所狭しと駆け抜けていくルバーブは投げ放たれたラフディーボールのようだ。高速で飛んでいって凄まじい威力を炸裂させる。必死に回避するが、突進の精度が次第に上がっていく上に、彼が一度通過した空間には侵入できない。次第に俺は追い詰められていった。


 ラフディ相撲が日本語として解釈されるに際して、あえて『相撲』という語が選択されている理由が分かった気がした。

 一瞬で勝敗が決するからだ。

 気を抜けば即場外。この世から押し出され、あの世へと足を踏み外すのみ。

 ルバーブのこの上無くシンプルな『押し出し』を、俺はもう真正面から受けるしかない――元より、それが彼との正しい対峙の仕方だった。


「――私は、醜いだろう」


 ルバーブの動きが止まっていた。

 轢殺した者たちの返り血に濡れたルバーブは、もはや全ての退路を断たれた俺の前で身を低くして構えている。

 俺は彼の顔を見た。そして、思わず笑みを深くする。


 悪鬼羅刹の形相。

 闘争と暴力の熱にあてられて、どうしようもないほどに愉しげに歪んだその顔は――『戦う者』の顔だった。

 競技だ。これは競い合いであり比べ合いだ。

 力を技を心を運を、全身全霊をぶつけ合いどちらが生き残るのかを試すという単純極まりない勝負なのだ。


 命を投げ出して殺し合いを楽しめるルバーブにとって、この暴力の激突は競技大会の続きでしかない。

 ああ、ようやくわかった。

 そういう生き方がこの男の『本当』なのだ。

 だからこそ彼は血や暴力の似合わない主を愛する。故にこそ忠誠を捧げる。


 『それしかない』から、『それだけではない』を求めている。

 渇望。

 悪夢のような戦いの微睡みの中、俺たちはもう一つの夢を見ている。

 目を離したら燃え尽きてしまいそうな危なっかしい流星に願いを託している。

 俺たちは、そうなのだ。


「ああ、醜い」


「そうだろう。我が主の美しさとは比べものにならん」


「俺の主も負けてないけどな」


 いつの間にか、ルバーブから球神への狂信が消え去っているように見えた。

 球神のいる高みに近付き、操り糸を断ち切ることに成功したのだろうか。

 ドルネスタンルフの加護によって主への忠誠心を思い出したというのなら、それは妙に皮肉なことであるように思えた。


 互いに小さく笑い、そして身を沈め腰を落とす。

 言葉は不要。

 必殺の武器を構え、ただ次の一撃にだけ全身全霊を注ぎ込む。

 次の瞬間、極限まで膨れあがった力と力が衝突した。




 ――真の『 』を取り戻せ、と大地の民たちが叫んだ。

 血と暴力と狂騒の中、ふらふらと定まらない足取りで長い髪の男が歩く。

 誰かにぶつかって弾き飛ばされる。

 何かを言おうとするが、皆まで言えずに罵声を浴びせられてしまう。


 男には力が無かった。

 かつて全身に漲っていた圧倒的なオーラは影を潜め、線の細い身体はこのような修羅場では頼りない。繊細な顔立ちも表情の薄い今は美しさより人形じみた異物感が目立つ。圧倒的な美しさは、生命の躍動が無ければ異形でしかないのだ。頼りになる護衛たちも今はおらず、彼は孤独に歩く。


 美しい髪だけが、マラードが王であることを証明しているようだった。

 ぼんやりと彷徨う男は、一応は目指す場所があるようだ。

 彼はフィールドの中心に聳え立つ塔を目指していた。しかし、そのおぼつかない足取りで辿り着けるかどうかはあやしいものだ。


 またしても暴徒にぶつかる。体格のいい大地の民だ。

 自らの民に押しのけられても、マラードは注意を払われることなく無視された。

 まるで存在が希薄になったかのように。

 死者よりも死者らしくなってしまったかのように。


 ぐらり、と倒れそうになる身体。

 そんな彼を支える者があった。

 生気を失った美貌に、かすかな色が戻った。


「――おお、アルト王ではないか」


 喜びの色。

 つい先日まで敵対していた相手――いや、今も事の成り行き次第では敵対するかもしれない相手だ。しかし同時に、長い付き合いの友人でもあった。


「マラード王。まさか、ここまで――」


「ああ、心配は不要だ。どうも先程から少し調子が悪いようだが、こういう時がたまにあるのだ。じきに良くなる。いつも、ルバーブが来て治してくれるのだ」


 そう口にするマラードの表情は信頼に満ちていた。

 そんな彼を、痛ましげに見るアルト。

 隻眼の王は友に肩を貸すと、塔への同行を申し出た。快諾するマラード。もとより、これ以上は自力で歩くこともままならなかったのだ。


「これ以上、大地の民たちが荒れ狂うこの場所にいては危険だ。元凶を排除せねば、お前たち二人の全てが手遅れになる」


 アルトは小さく呟いて、塔の中へと足を踏み入れる。

 石造りの中は狭く、延々と天へと螺旋階段が続いていた。

 力無く足を運ぶマラードを気遣いながら、アルトは薄暗い塔の中で視線を彷徨わせた。ひとつきりの目が揺れる燭台に過去の幻影を見出す。


 塔を見ると苦い記憶が甦る。

 失われた赤眼騎士団。恩人であるディルトーワに報いる為になにものにも代えがたい至宝をくれてやったこと。選り抜きの精鋭たちを護衛に付けた。精強なるソムワムンをはじめとする英傑たちならば宝の安全は保証されるはずだった。だというのに、信じて送り出した宝がまさかあんなことに。


 亜竜にとって、宝を失うことは我が身を切られるような苦しみであった。

 心がぎしぎしと音を立てる。

 それでも、行かねばならない。

 王二人、心を、身体を、傷つけながら塔をただ登っていく。

 階段に足を踏み出す。ただそれだけのことが、なによりも困難な試練となって立ちはだかる。少なくとも彼らにとってこの塔は悪夢の具現なのだった。


 マラードの意識は時間の経過につれて曖昧になっていく。過去と現在の区別すら困難になっているのか、混濁した意識が紡ぎ出すのは支離滅裂な思い出話ばかりだった。アルトは静かに相槌を打って、瞳に浮かべた悲しみを深くする。


「なあアルト。あの頃は、楽しかったなあ」


「ああ、そうだな」


「麗しの女王セレスに率いられ、死人の森と最強の六王があらゆる苦難を打倒する。死後も約束された永遠の繁栄。終わらない幸福。笑い合う屍たち」


「ああ。確かにそうであった」


「皆でジャッフハリムの狂怖ホラーどもを打ち倒し、呪祖の軍勢相手に勝利を重ねたものだ――俺は皆のように戦いは得意ではなかったが、ルバーブがいてくれた。激しい戦いの後、体調を崩した俺はあやつに勝利を告げられるとたちどころに元気になったものだった。ああ、きっとまた今回もそうなるだろう」


「――」


 アルトは、口を開こうとした。

 それは言葉にはならず、吐息として消えた。

 塔の外では、ルバーブが激しい戦いを繰り広げていることだろう。

 恐らく、全力を投じなければならない死闘だ。

 余力を割くことすらできない、全身全霊を懸けた魂の激突。


 アルトは、友人たちのことを想い、歯を食いしばって何かに耐えた。

 それは果たして真実の重さにか。

 嘘の罪深さにか。

 もはや過去の思い出を柔らかな表情で語るマラードの存在そのものが、アルトの胸を掻き毟る凶器に他ならなかった。


「ああ、ルバーブ。どこだ、俺は、ここに――」


 虚ろな目付きでうわごとを呟くマラードを見て、アルトは足を速めた。それが友の負担になるとしても、急がなくては手遅れになってしまうだろう。

 もはや一目瞭然だった。マラードの限界は近い。

 ――今にも、糸が切れてしまいそうなほどに。




 やがて、塔の最上階に辿り着く。

 その一室は、驚くほどに煌びやかに彩られていた。

 質の良い調度といい、豪奢な寝台といい、手狭さからは考えられないほどに絢爛で、まるで王族を持てなすために作られたかのよう。


 人形姫は、寝台に腰掛けて退屈そうに髪を弄っていた。

 ちらりと濁った目で二人の王を見ると、つまらなさそうに言う。


「植物神レルプレアっているでしょう。かつて獅子王に仕えた十二賢者の一人。『藍』の亜系統『緑』の色号を極めた大賢者は優れた言語支配者の多くがそうであったように、元々は人間――つまり現人神だった」


 アレッテ・イヴニルは唐突に脈絡の無い話を始めた。

 人差し指を顎に当てて、ちょっとした世間話でもするかのように。


「植物信仰は人の歴史と共に在る――だから彼女は最古の植物神ではない。そもそも彼女はより古い植物神の祭司だった。その古い植物神の名はガリヨンテ。けれどこの女神は植物全般というより、より限定的なものを司っていた」


 必然的にティリビナの民を連想させられる話だが、それが一体今の状況とどう繋がるというのか。アルトの疑念にも構わずに、アレッテは続けていく。


「食物神、あるいは穀物神。『食べられる神』――食用奉仕紀神ガリヨンテ。人のあさましい業が生み出した、最も古い欲望の形。全ての母にして死と再生の循環を司る巡節の女神。不死の果実アンブロシアをつける大樹」


 そこで、人形姫は嗤った。

 ぞっとするような侮蔑を込めて。

 この世の全てを呪うような視線と共に悪意を吐き出す。


「紀人レルプレアはね、自らが信仰を捧げた神を食べて紀神に至ったの。王殺し――神の捕食。食べるというのはつまるところ儀式。聖餐という呪術が崇高さをこの世に引き摺り下ろす。神性を掌握可能にする」


「お前の言う事はわけがわからんな。悪いが、友のために――いや」


 そこでアルトは言葉を、そして態度を改めた。

 マラードを壁際に横たえると、敵意を込めてアレッテを睨み付ける。


「お前は邪悪だ。無関係の者まで巻き込むその所業、断じて許すわけにはいかん」


「あら、じゃあ関係がある者だったら自分の都合で幾らでも巻き込んでいいってことね――なんて傲慢。ひどい男」


 アレッテは、粘つくような憎悪を込めてアルトを見据えた。

 マラードに対する視線にはどこか柔らかさが混じっているのとは異なり、アルトに対する感情はあからさまだった。


「死になさいよ」


 倦怠、諦め、退屈――そうした普段の印象が全て消えて、殺意だけが膨れあがる。純粋な激怒が亜竜のかぎ爪となって具現化した。

 竜爪眼。全てを石化させる束縛と停止の呪いがアルトを襲う。


 対する亜竜王の邪視もまた同じ。こちらは氷の性質を持ったかぎ爪状の視線がアレッテの凝視と激突し、対消滅した。


「互角、だと――?」


 わずかな驚愕を込めてアルトは呟いた。

 亜竜王の邪視は同系統では並ぶ者がいないほどに強大だ。

 それこそ伝説となり、単眼巨人という物語の怪物を生み出すほどに。

 そのアルトと拮抗する同質の邪視を使うアレッテという魔女は一体何者なのか。

 

「いや――そもそも、その名はどういうことだ?」


 アレッテ――アルトの女性形だ。

 偶然と言うには出来過ぎている。あるいは、名前が似ているからこそ性質が似たのか。性質が似ているがゆえに名前を似せたのか。

 人形の魔女は、侮蔑を瞳に乗せて吐き捨てた。


「まだ気付かないのね」


 腕を振る。【線の嵐】が荒れ狂うが、アルトは冷静に回避していく。室内の調度が滅茶苦茶になっていくが、マラードのいる場所だけは斬撃が自ら回避していくように安全地帯となっていた。アレッテが彼だけは傷つけないようにしているのだとアルトは気付き、更に疑惑を深めた。この魔女は一体何者なのか。何を目的としてこのような騒動を起こしたのか。ふと、人形の口が小さく呪文を紡いでいることに気が付く。音の連なりを聞いて愕然とした。


「幼きビテロの樹、古き聖花都の死、天空、大地、稲妻、弑すること三首、メリアスの血槍を重ねること三叉、竜と乙女に穂先を突き立て、王の名に於いて流転と君臨の理を此処に示せ――」


 それは、アルトがよく知る呪文だった。

 他ならぬ彼自身が構築した極大呪文の詠唱である。

 しかし、彼女の呪文には更なる続きがあった。


「――されど奴隷に逃げ場は無し。金枝は遠く、金鎖は砕けず、この身は塔から抜け出せず。天の金鎖に囚われるなら、この身は稲妻と共に地に墜ちよ。タークスターク、落っこちた。王さまの首が落っこちた」


「それは、パーンの?!」


 人形姫の周囲で稲妻が弾ける。

 気象を操作する空の民の秘術。王殺しと奴隷解放の神話に関わる呪文だ。

 その名は『自由』。『失明』『隷属』『再生』に続く四番目の稲妻。

 はじまりクロウサーより四つに分かたれた稲妻の形、その一つがアレッテの周囲で一つの輪郭を形成していく。それは稲妻の大蛇。アルトのものよりも更に強大なオルゴーの滅びの呪文オルガンローデが牙を剥いた。


「さて――王殺しレジサイドのお時間よ」


「舐めるな、小娘」


 隻眼と幻眼が閃光を放ち、アルトの肉体が膨張していく。

 霊長類体という殻を脱ぎ捨て、亜竜形態という真の姿になろうとしているのだ。

 そうなれば狭い塔の一室は崩壊し、ここにいる全ての者は無事では済まないだろう。だがもはやアルトに選択肢は無い。余裕を失った思考に、一つの言葉が差し込まれる。それが亜竜王の思考を真っ白にした。


「名前で呼んではくれないのね――ひどいわ。『お父様』」


 アルトはたった一つの目をこれ以上ないほどに見開き、アレッテを凝視した。

 その全身から全ての力が失われ、全く無抵抗のままアレッテのオルガンローデをその身に受ける。常人ならば消し炭になっているであろう致命的なダメージを負って、アルトは膝をついた。全身から煙を吹き上げ、身体の至る所を炭化させている。それでも彼はただアレッテを愕然と見ていた。震えながら、信じられないものを見るようにして。


 人形姫の細い身体。

 その背後に伸びる影の形にアルトは気付く。

 巨大な顎に獰猛な牙。前傾姿勢の巨体とは不釣り合いなほど小さな手と長大な尾――亜竜そのもののシルエット。


「お前は――まさか、そのようなことが」


「そうよ。だから私には資格があるの。憂鬱なことにね」


 心底から不本意そうにアレッテは言って、それから目を閉じた。

 アルトという王――民に慕われる名君を存在ごと否定するように。

 その世界から消したのだ。


「直視するの、本当に疲れる。まず声が嫌いだわ。それから見た目も。臭いも多分嫌いよ。言動の全てが鼻につく。あなたという存在そのものが厭わしい。殺して誰かに墓でも建てられたら最悪。だからね――いっそ誰からも忘れ去られてしまえばいいと、そう思うのよ。ねえ、ベルグくんもそう思うでしょう?」


 アルトは、頭上に何かがあることに気が付いた。

 影が差す。巨大な質量の気配。

 藍色の血に濡れた全身甲冑が、その巨躯を生かして途方もなく巨大な戦鎚を振り上げている。反応する間も無く、アルトは鉄槌によって押し潰された。


「【忘却オブリヴィオン】――これで終わりね。ああ、ベルグくんは『それ』から竜牙を回収しておいてくれる? 五将軍はこれからの戦いに必要だから――私なら、五大騎士団を掌握できるしね」


 余りにも呆気なく六王の一人を下したアレッテは、ゆっくりと壁際のマラードに歩み寄っていく。優しげに手を伸ばし、こわれ物をあつかうようにして頬を撫でる。どぶの瞳に、アルトに似た悲しみの色が宿る。


「さあ、選択の時よ、マラード。可哀相な、私のマラード」


 目を閉じて、意識を束の間の夢に彷徨わせていた美しき王は、ゆっくりと覚醒した。やがて瞳の焦点が合うと、安心できる顔がすぐ傍にあったことで安心したように表情を和らげた。アレッテは無理矢理に笑顔を作ると、静かに囁く。


「これから、貴方に道を示すわ。一つはこのまま消えていく道。もう一つは、美しきラフディの王として永遠を手にする道」


 マラードは不思議そうにアレッテを見ていた。

 どうして、彼女はこんなにも泣きそうな顔をしているのだろう。

 人形姫は子供のような純粋な眼差しに怯えるように、おっかなびっくりその言葉を口にした。それが、全てを打ち砕くと知っていながら。


「活路はたった一つ。ルバーブを殺せば貴方は永遠を手に入れることができる。本当の意味で、ラフディの王になれるの」




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