4-120 醜い野獣②




 しばしば呪文使いたちは『世界の語り手』を議論の対象にする。

 この『今』は誰に語られているのか。

 『語り手』とは神なのか、それは全知の存在なのか。

 もしそんなものがいるとすれば、きっと部屋の整理整頓が得意だろう。そんなことを『誰か』が言った。世界を整えるとは、物を捨てることが上手いということ。


 語られてしまった事はこの世の全てではない。

 有限で不完全なものだけが世界を形作る。

 『語り手』とは『語らないもの』を指す。

 その視界の外には無造作に残骸が積み重なっているだけだ。


 ――だからここは残骸だらけなんだ。


 走りながら、トリシューラはそんなことを『思った』。

 塔の中には、無数の世界が広がっている。

 墓が並び、霧が立ちこめる。湿った土に幽霊船が座礁して、消波ブロックが怨嗟の波を減衰させていた。死の波打ち際で魂の淡い光が散華して、微生物たちの中に還元される。新たな生命が産声を上げて、死想虫が特徴的な鉤状の翅で生命のスープを啜っていく。墓地と砂浜が融け合った異質な光景だった。

 

 こんな寂しげな世界を幾つも巡ってきた。『寂寥』という観念に適合する外界の情報と『人らしさモデル』を照合して『悲しさ』『寂しさ』という再現性のある神経伝達物質の反応をシミュレート。複数の対案と比較検討した後に実行。表情テクスチャに『人の寂しさを理解しきれないトリシューラがそれでもその再現を試みようとする悲しさと寂しさの入り交じった表情』のパターンを出力。


 トリシューラの光学モニタの隅で、ちびシューラが悄然とうなだれていた。『しょんぼりシューラ』と名付けよう。アキラくんに見せたらどのような感情を抱くだろうか。『憐憫』から生じる去勢された性欲で自己を慰撫するのだとすれば、その毒が回らぬよう露悪的に罵倒してつまらない罪悪感を消してあげなければならない――というような思考の流れが光の速度で巡っていく。

 トリシューラは、走りながら『考えていた』。


 ルバーブとの戦いをアキラたちに任せたトリシューラはアレッテ・イヴニルと雌雄を決するべく塔に突入した。思っていたよりも内部は広い。空間が歪んでいるのか、それともこの塔そのものが一種の異界――アレッテの浄界なのか。

 異界と化した塔はさながら小規模な世界槍だ。


 広大な世界を彷徨い、階段を見つけては登っていく。屋外にぽつんと配置されている階段は異様だったが、そんな不条理は世界槍の迷宮ではありふれたことに過ぎない。鉄屑の荒野を駆け抜け、鯨の腹の中に飛び込んで革靴工場を爆破して脱出。鋼鉄の摩天楼に潜入してデータを盗みだし、侵入者探知用のセキュリティレーザーの網をアクロバティックに突破。古代文明の遺跡から甦ったミュータントたちをヘッドショットで射殺して、大蜥蜴に騎乗して黄金色の草原を制覇する。


 瞬く間に過ぎていく夢のような光景。

 あるいはそれは一瞬のうちに見た幻なのかもしれなかった。

 機械が見る幻――トリシューラの認知機能が人を模しているのなら、夢も幻も見ない理由は無い。勿論それは、彼女自身が望んだ欠陥なのだ。


 真っ直ぐに前進する。かと思えば迷走して行ったり来たり。

 遂には上下の区別すら曖昧になっている。

 いつの間にか、トリシューラは果てしなく続く階段を延々と下り続けていた。

 深く深く沈んでいく。暗い暗い根の国へ。


 この『塔』は、上に向かおうと下に向かおうと必ず『異界』に辿り着く。アンドロイドの魔女にはそんな確信があった。天獄と地獄が共に『おぞましい世界』であるように、トリシューラは奈落に向かって突き進んでいるのだ。

 ここは通路。ここは境界線。ここは暗い隧道トンネル


 冥道みょうどう――そんな言葉が似つかわしい。

 ふと気が付くと、トリシューラは河畔に立っていた。

 深い藍色が流れる幻惑的な川だ。遙かなる源流は更に不可思議な青。大河の向こうには糸杉の森が広がっており、木々の足下には純白が並んでいる。死者の骨が絨毯のように敷き詰められているのだ。


 そこから分岐した支流は氷河だった。寒々しい光景はあらゆる命を否定し、奪い尽くす死神のように恐ろしげだったが、トリシューラはその氷河にたとえようのない美しさを感じた。大河の支流には幾つもの種類があった。燃え盛る血と重油の川、存在しない鳥が昼と夜に羽ばたくことで互いの輪郭を規定する騙し絵じみた双子の川、過去へ過去へと全てを忘却の淵に押し流してしまう時間流、それに逆らうように未来へと機械のがらくたを運ぶベルトコンベアー、源流そっくりな静謐そのものといった小川、今にも氾濫しそうな八又の激流――。


 同じように、彼女が見下ろしている河も森の大河から分かれた支流だった。

 紅紫に濁った河だ。どぶのような汚水。せせらぎは耳障りですらある。

 ステュクス、コキュートス、プレゲトン、アオルニス、レーテー、アケローン――最後の激流は何だろう。思いつく限りの『参照元』をピックアップしてみるが、この光景にどんな寓意が込められているのか判断しかねる。トリシューラは観察を止めて、濁った流れに銃弾を撃ち込んだ。


 この川こそが、彼女の敵であることは明白だったからだ。

 どこかで誰かが苦痛を訴える声と、恨みがましく毒づく声が聞こえた。

 ざまあみろ、とトリシューラは『思った』。

 遠くで、時間軸の先へと向かう鋼鉄の川がその流れを加速させた。

 破滅的なほどの勢いで、どこまでもどこまでも。


 水の匂い、霧がかかった視界。陰鬱な湿潤さにはうんざり。寒さというものは湿気と合わさると途端に詩情を欠いてつまらなくなる。煌めくような冬は遠い。

 『そのように』『トリシューラは』『考えた』――。

 階段を見つけた。世界の果てだ。

 次の世界に進もう。

 薄暗い世界から光差す天へ。それとも、照明に照らされた地下世界だろうか。

 予感を全て覆して、トリシューラは意外な顔ぶれと鉢合わせした。


「――げ、トリシューラ」


「メートリアン?」


 そこにいたのは見慣れた腐れ縁の協力者。眼鏡とスリングショットで武装して、つい先程まで戦っていたのか息を荒げている。その後ろから、ひょいと顔を出したのもよく知った相手だ。


「え、何で何で? らんらんじゃん!」


「ふしゃー! トリシューラ、ねえさまのてき! きらい!」


「リーナとセリアック=ニアまで? 何でこんなところに?」


 墓石が並ぶ不気味な世界で、トリシューラは『呪文の座』の魔女たちと遭遇したのだった。




「ほへー。しゅーらんも色々あったんだねー」


「そうなの。とにかく今はアレッテを倒さないと――」


 アレッテ・イヴニルによって異界に誘い込まれたメートリアン(普段はミルーニャと名乗っているようだがトリシューラにとって彼女はメートリアンだった)、リーナ、セリアック=ニアの三人。ガロアンディアンとラフディの強引な戦いを仕組んだアレッテを追ってここまできたトリシューラ。


 お互いに状況を簡単に説明して情報を共有する。アレッテ・イヴニルを倒すという点で両者の目的は一致していた。『使い魔の座』に対抗する為の同盟は未だ健在である。そもそもメートリアンたちが第五階層に向かっていた目的の一つは、【死人の森】を巡る六王たちの戦乱に介入する為でもあった。


「ここ、時間の流れがおかしくなってるみたいですね。私たちがこの異界に侵入してからまだ半日も経過していない筈なのに、もう外ではそんなに――連絡無しのまま、ハルベルトやアズーリア様に心配をかけてるかも」


 メートリアンはここに来る途中で敵集団の幹部を一人撃破していたらしく、そのせいか消耗が激しかった。トリシューラはメートリアンの前衛としての能力を高く評価していたが、この様子では当てにするのは難しそうだ。

 とにかくこの空間を抜けだそう。話しながら移動していく。

 そんなとき、リーナが脳天気な声で質問する。


「えっとさー、さっきの話でよくわかんないトコあったんだけど」


「なに? 説明するけど」


「六王ってなんだっけ」


 あ、キレた。

 メートリアンの小さな頭を見下ろしながら、トリシューラはちょっと愉快になった。この激しくも冷静な少女からこんなにもあっさり理性を奪えるリーナという存在はトリシューラにとって理解からほど遠く、大変興味深い。ついでにメートリアンが面白い。


「あのですね! さんっざん説明したでしょう! ていうか他人事じゃないんですよ、あなたパーン・ガレニス・クロウサーと勝負することになってるんですよそこの馬鹿のせいで! そこの馬鹿のせいで! そこの馬鹿と馬鹿使い魔のせいで!」


「ごめんね。でもアキラくんを悪く言うと許さないよ。悪いのアキラくんだけど」


 真顔でそんなことを口にするトリシューラを凝視するメートリアン。不気味なものを見るような目だった。そんな二人をよそに、リーナはあくまでも暢気である。


「えー、でもさー、命の奪い合いとかじゃないんでしょ? なら『当代の空使いがどれほどのものか、俺が確かめてやる』『胸をお借りしますっ』『ほう、中々骨のある奴。これならクロウサーを任せてもいいだろう。そしてお前は中々可愛いのでおじいちゃんがお小遣いをあげよう』『ありがとー大好き!』『はははこやつめ』みたいな展開になるんじゃないの?」


「頭の中にお花畑の浄界でも構築してるんですか?」


「ひどい! だってさ、パーン・ガレニスってミブレルお姉様の弟子って話でしょ? じゃあ私にとっては兄弟子じゃん! 可愛い妹分にひどいことしないよ! 仮にしたとしてもそれは妹弟子を鍛えるための愛の鞭だよ!」


 しきりにお気楽な未来予想図を主張するリーナをトリシューラは生温かい目で見守りつつ、やんわりと諭した。


「リーナはパーンがどんな相手か知らないから」


「あっそうだ! らんらんは面識あるんでしょ? 念写画像とか見せて!」


「いいけど。はい立体幻像」


 指先を動かして集合無意識の浅い層から引っ張り出してきたパーンのイメージを幻影として表示する。ノンフレームの眼鏡をかけた、鋭い細身の男が表れた。銀色の右腕はアンバランスだが、容姿そのものはぞっとするほどに整っている。


「うわっ、超イケメンだ! すげえ! そして無闇にえらそう!」


 リーナが大げさに叫ぶ。すると何故か三角帽子の上に乗っていたセリアック=ニアが反応した。


「にあ、パーンきらい!」


「同感ですね。嫌な感じがします。この似合ってない眼鏡が特に不快」


 メートリアンまで同調し始める。

 リーナは意外そうな顔で二人を見た。


「えっ、なんで? ていうか先輩も眼鏡してるじゃーん」


「メートリアンは似合ってるよ?」


「はあ? あなたに褒められてもぜんっぜん嬉しくないんですけど?! ていうか戦闘中だったから使ってるだけです! 普段は別に必要ありませんし!」


 トリシューラはふと思った。

 孤独に迷宮を彷徨っている時は異界の光景ばかり目に入ってきた。

 けれど、こうしていると周囲の声や仕草、反応ばかりを情報として処理している。コルセスカやアキラたちといるときもそうだった。


 ああそうか、とその時すとんと納得が胸に落ちる。

 『寂しい』という意味が、その文脈が理解できたのだ。

 それは、全く『寂しさ』を感じていない時に獲得した理解だった。

 

 この塔は、ひどく寂しい場所だ。

 その天辺にずっといる姫君は、果たして寂しくはないのだろうか?

 そんなことを、トリシューラは『思った』。


 ――余計なお世話よ、がらくた。


 私は――。

 アレッテ・イヴニルとしての私は、【地位の断章】の項をめくって遙かな高みから『下位レイヤーの物語』を観察していた。語り手となって、俯瞰していた。

 内心の独白すら私には筒抜けだ。

 それが私という特権者の立ち位置。


 【地位】という権威はそれほどの権力を有するのだ。

 権力は権力を生み、それ自体が権威となる。

 この【断章】はある意味では無限の力を持っていた。

 その分、最も脆く覆されやすい権威でもあるのだけれど。


 ここは塔の頂。あるいは地獄の底。冥道の果て。

 いずれにせよ隔絶された世界だ。

 少し『ずれた』場所では『物語の繰り手』がパーンと戦っている様子だけれど、あのぶんでは長くは保たないだろう。私も覚悟を決める必要があった。


 ミヒトネッセはきちんとやり遂げた。

 今も必死に戦っている。

 正直億劫だけれど、せめてあの子の頑張りには応えてあげたい、力になってあげたいと思う。それに何の意味も無いのだとしても。


 表舞台に立つ覚悟。

 権力を振りかざし、己の出自を明かし、第五階層という混沌をかき混ぜる。

 できるだろうか。私に――私なんかに。


 ううん、これでは駄目だ。

 気の毒なマラードを思い出す。どんな時も自らを美しいと胸を張る堂々たる姿――あれこそが美しさだ。私は、だから彼が羨ましく、悲しいと思う。


 彼のように、王者らしく振る舞おう。

 面倒でも、虚しくとも。

 内心の怯えを振り払うために糸を手繰った。

 たちまち『ベルグくん』と『ガルラくん』が私を励ましてくれる。


「大丈夫だよレッテ!」「僕たちがついてるよ!」


「ありがとう、二人とも」


 頼もしい、私の騎士様。

 私に忠誠と恋を捧げてくれる、可愛いらしい守護者たち。

 石造りの最上階、埃を被った天蓋付きベッドに色褪せた調度品。

 廃墟のような一室の扉が、吹き飛ばされるようにして開け放たれた。


 ああ、やっと辿り着いたのね。

 トリシューラ、メートリアン、リーナ、セリアック=ニア。

 私と同じ、王権保持者たち。

 女王の器を保つ者よ。


 ゆっくりと勿体を付けて、私は芝居がかかった仕草と共に彼女たちを出迎えた。

 余裕を持って、用意していた台詞を口にする。


「『どんなことが真理とか寓話とか言って、

 数千巻の本に現れて来ようと、

 愛がくさびの役をしなかったら、

 それは皆バベルの塔に過ぎない』

 ――さて、私の塔はどうなのかしら」


 きょとんとする一同。

 一人だけ、三角帽子の上にいた小さなセリアック=ニアが声を上げた。


「にあー、げーて!」


「わ、ニアちゃん物知りだ!」


「またぞろ胡乱な猫語を。こういう手合いはあなたの専門でしょうトリシューラ。何とか適当な解釈こじつけて衒学呪力を貶めてやってくださいよ」


「ええ、困るよそんなの。こういう方面はセスカとかハルベルトの方が得意なんじゃないかなあ――」


 そういう話でもないのだけれど。

 異界の引用とはいえ、これはもっと普遍的な問題だ。

 つまりはとても単純なこと。


「どうやら、ニア姫以外はみんな案外お子様みたいね」


 くすりと笑う。こんな笑い方、演出以外でするはずもないが――それだけに効果的だった。苛ついた二人の顔が愉快で仕方が無い。リーナは思い当たることがあった様子で、少し真顔になっていた。訂正。彼女はちょっぴり大人みたい。



「さあ――【愛情】を巡る断章の戦いを始めましょう?」



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