4-69 死人の森の断章4 コキュートス/ROUND4




 周囲の光景も、広大な暗黒の宇宙空間、そこに浮かぶ無数の石碑というものに変化している。文字が刻まれた滑らかな石の数々は、兎たちが用いる呪文を唱える杖――すなわち魔導書である。古のイルディアンサでは、魔導書とはすなわち石版のことだったのだ。現在のような紙の書物は、アヴロニアの大地から森の民こと妖精たちが持ち込んだものである。


 兎と妖精の耳を半分ずつ持つという極めて特徴的な容姿を持った少年が、土俵の上に帰還する。通り過ぎた歴史の中でオルヴァ王がどうなったのか、気になる所ではあるが、今は目の前の戦いに集中するしかない。第四ラウンドだ。

 出し抜けに、ゾーイが静かな口調で話し始めた。


「今までのは関脇クラスの出力だったけど、ここからは大関クラスだ。分かりづらいかもしれないけどね。私は今うれしいんだよ。あの時からずっと、全力で戦うことには躊躇いがあった。でも、あんたたちにならまだまだ力を出しても良さそうだ――七十パーセント」


 何度でもその肉体を再構成できる不死身の力士は、全身を更に禍々しく変貌させていった。肩は鋭角に尖り、背中から突きだした管は排気用のものなのか陽炎が揺らめいている。しなやかな生体外骨格を太い筋肉が盛り上げて、顔のペイントが青白い稲妻を走らせた。大関クラスとはすなわち、多脚歩行戦車の砲撃を正面から耐え抜く装甲と重装甲の車輌を圧壊させる膂力を兼ね備えた生きた兵器のことを指し示している。


 こうなれば、もう相手の体勢を崩すことは不可能だ。加えて、力士としての経験に裏打ちされた絶妙な取り口が隙を消している。立ち会いの圧力は迷宮で巨大石像と対峙した時を上回るほどで、あらゆる点で厄介と言う他無い。

 そして始まった戦いは、どっしりと構えた相手をこちらが機敏な動きで翻弄して少しずつダメージを与えていく――という流れにはならなかった。細かく隙の少ない打撃で相手の動きを固めていくような手、このレベルの相手に通用する筈も無い。ゲームパッドの機能を駆使したターボ連射が神速の連撃を実現するが、ゾーイの防御は鉄壁の一言である。


 状況は、力士がその重い腰を上げて攻めに転じた瞬間に一気にひっくり返った。言葉通り、アキラの身体が引っ繰り返されていた。土俵の上に叩きつけられ、凄まじい激痛が熱となって私の中を駆け巡る。アキラの痛みを肩代わりしているという実感に安堵しながら、起き上がりに追撃されないようにタイミングを見計らいつつ転がってその場を離れる。アキラの肉体が悲鳴を上げた。


 ゾーイはその圧倒的質量から繰り出される張り手の威力も危険だが、より怖いのは投げだ。アキラが多用する打撃技は、下手をすれば投げに吸い込まれてしまう。間合いを正確に測っているにも関わらず、打撃で投げを潰すことができない。ゾーイの手は確かに届いていないように見えるが、一体何故このようなことが起きるのか。その秘密は、ゾーイの瞬間転移能力にあった。普段は両の脚を動かして移動しているため分かりづらいのだが、ここぞという時に小さく転移を行って間合いを微調整しているのだ。


 高威力の張り手によって防御や回避を意識させたところに必殺の投げ狙い。ゾーイが厄介なのは、前段の張り手が既に必殺の威力を有している点である。防御してもダメージが蓄積していく。一度引いたが最後、怒濤の寄り身で一気に押し切られてしまうのだ。


 このままでは負ける、と焦りが不用意な動きを生んだ。相手を牽制する為に放った顔面への突きは届かない筈だったが、力士の腕が一瞬だけぶれて、アキラの身体が一気に引き込まれる。吸引されるように腰を掴まれ、豪快に投げられた。追撃の踏みつけを回避しながら蹴り上げるが、同じ攻めが二度通じるような相手ではない。


 蹴りは正確な防御で防がれ、一瞬の隙が生じる。ここは既に投げの間合いだ。

 浮遊した身体がまたしても掴まれて、そのまま頭から叩き落とされる。幻影の頭部が霧のように散っていく。ちびシューラによる必死の修復作業によってアキラが再構成されていく。ヴァージルという役への影響も甚大だ。

 

 まだかろうじて幻影の身体を維持出来ているが、たとえガード越しにでもあと一撃ダメージをもらえばしばらくアキラという幻脳を休止させなくてはならなくなる。そうなればこのラウンドはこちらの敗北だ。


 グレンデルヒと力士が突きつけてくるのは二択。

 張り手か投げか。防御を選べばダメージは貫通して蓄積され、間合いを詰められれば一瞬で投げられる。かといって回避を続けていれば土俵際に追い詰められてそのまま押し出されるだろう。隙の小さい小技で攻めても力士の巨体はびくともせず、かといって大振りの一撃を繰り出せば相応の隙が生まれる。それを見逃してくれる相手ではない。


 まず張り手で相手の行動を誘導し、そこから投げるという力士の王道とも言うべき戦法。これにいかに対処すべきか。

 ちびシューラが提示する推奨行動リストには得られるリターン、すなわちどれだけこちらに有利な隙を作れるか、またその行動によってどの程度のリスクがあるかという注釈が付けられている。それぞれにこれまでに得られたデータから弾き出された行動期待値が紐付けされているが、万能の選択肢は無い。どこかでリスクをとって決断しなければならなかった。


 そして、その決断はアキラにはできない――してはならない。

 それはサイバーカラテ道場というツールが行うべき判断であり、これまではちびシューラが、そして今この瞬間だけは私がやるべきことだ。

 ちびシューラは左右へと素早く回避して横合いから打撃を加える変化を推奨しているが、私はそれとは異なる意見だった。


 それは選択肢の中で最もリターンが少ない消極的な回避行動。相手の腕がこちらの廻しに伸びる。アキラは廻しを締めていないが、存在するかのような力士の振るまいによって実際にあることになってしまうのがこの世界だ。何も無い腰の辺りを掴まれれば廻しを掴まれたのと同じ事になる。


 力士が空気を掴もうとした瞬間、相手の腕の下にこちらの手を差し入れる。脇を上げさせて廻しを取ろうとする動きだ。無論、アキラが力士に対して組み付くのは危険過ぎるためフェイクでしかないが、突き上げるような掌底に相手の重心が一瞬だけ高くなる。

 

 投げを仕掛けられた瞬間、こちらから投げを狙うことで投げから抜けるという防御手段。僅かな遅れも許されない瞬間的な回避行動は成功し、両者が共に後退していく。ゾーイの巨体に小さな、だが致命的な隙が生じる。しかしアキラの背後は土俵際、これより下がればただ落ちていくのみだ。


 私はアキラの動きを止めず、そのまま跳躍させた。真後ろにある壁に向かって。瞬間的に生成されたその構造物は、彼が得意とする足場の生成。第五階層の物体創造能力を応用したものだ。そう、これが使用できるということは、つまりこの【世界劇場】は第五階層の中に存在しているということを意味する。


 空中に足場を生成することにより、上方向に跳躍して逃れる。壁のように垂直に生成した足場も併用して跳躍の軌道を修正、三角跳びの要領で相手の頭上へと飛び上がる。上空からの強襲。兎の跳躍力と俊敏さで跳び蹴りを繰り出す。


 無論、即座に対空の打撃を放たれる。力士にとって飛び技は基本だ。土俵によってはロープや金網を利用してのアクロバティックな空中殺法が乱れ飛ぶことになる。転移能力で空中に移動できるゾーイにとっては、三次元的な視野を持つ事は当然なのだ。


 こちらの足裏を掴もうとする力士。絶体絶命の状況だが、そこでアキラを――彼が演じるヴァージルを救い出すものがいた。

 雷光が閃き、輝く文字列と稲妻によって構成された獣が力士に食らいついていた。青白い雷獣の頭部は三つ。呪文によって生まれた三首の犬がヴァージルの敵を猛然と攻撃していく。


「ありがとうサイザクタート。君はいつでも僕の傍にいてくれるね」


 優しく仮想使い魔の頭を撫でるヴァージルは、赤い眼を禍々しい月のように輝かせて瞬時に呪文を構成。土俵の至る所から鋭利な剣のような水晶が迫り出して、力士の巨体をずたずたに引き裂く。さらに透明な結晶構造の内側に刻まれた膨大な情報量が文字列となって溢れ出し、雷撃呪文となってケイトの防壁を突破、ゾーイ諸共に焼き尽くしていく。


 格闘戦は不得手だが、ヴァージルは言語魔術師として信じがたい技量を有していた。現代の基準で言えば、上級言語魔術師に匹敵する程だ。そもそも、太陰が実施するあの試験の基礎はヴァージルが築いたものなのだから当然と言えば当然だった。


 必殺の雷撃呪文が凄まじい光と熱を生み出して、焦げ付いた臭気と煙が辺りに立ちこめる。その内側ではさすがの力士も無事では済まないだろう。

 ――という思考が、まさかの敗北に直結するのはキロンとの戦いで十分に理解しているので、念には念を入れて駄目押しの雷撃を間断なく放つ。土俵全域にわたって降り注ぐ雷撃が、三首犬の口から次々に吐き出されていった。

 しかし、予定外の事態が起きてしまう。


(やったか!?)


 左腕に宿るクレイが、痛恨のミス。やったと思ったらやってないのは強敵との戦いでは当たり前に起きる出来事だ。当然のように、煙の中から無傷で現れるゾーイ。クレイの不用意な発言が無ければ、手傷くらいは負わせられた可能性があるというのに。


 ちびシューラが無表情で激怒しながらクレイを蹴り飛ばしているのを横目に見つつ、私は対抗策を模索する。しかしそれよりも力士の方が速い。仮想使い魔を前に出してガードを行うが、突き出された突っ張りから呪力が迸る。あちら側からの呪的発勁。それも、ケイトによるものではない。


「流石は偉大なる狂王子の仮想使い魔。美しい呪文構成だ――古典的で無駄がない。ゆえに、手に取るように理解できるよ」


 グレンデルヒの言葉と同時に、ゾーイが退いていく。これまでに無かった動きを奇妙に感じたが、その狙いはすぐに明らかになった。力士は合掌するように両手を近づけていく。虚空にある目に見えない『何か』を保持するように双掌が静止。次の瞬間、ぐるりと両手が動いた。『何か』を回転させるかのように。


 力士の手の動きに連動して、巨大な仮想使い魔の姿が変貌する。

 三首の犬サイザクタートの全身が細かく分割され、丸みを残した立方体となったのだ。三掛ける三の九個からなる色の付いた正方形。各列ごとに自由に回転させることで色を揃えるという立方体パズルと化した仮想使い魔が、全身の構造を出鱈目に入れ替えられてしまう。


「サイザクタート?!」


 悲鳴を上げるヴァージルの目の前に、回転してきた犬の頭が現れる。


 表情を緩めた少年に向かって、制御を奪われた使い魔による無慈悲な一撃。

 雷の吐息によってその身を灼かれ、兎の少年は場外へと落下していった。哀れな主従は共に姿を消していく。

 第四ラウンドはこちらの敗北。太陰の王子の物語は、グレンデルヒの手中に収められてしまった。悔しさに歯噛みする思いだ。

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