4-64 死人の森の断章1 虚像を裂く




 繰り返される再演は、既に拷問に近かった。

 盤面の上で駒を動かし、賽子を振る。

 対面に座る【竜帝】――ガドカレク=クエスドレムは、俺の無駄な足掻きを鼻で嗤った。勝ち目のないゲームが続く。


 まずはじめから。六番目。

 美しき髪のマラードと麗しき翅のハルハハール。どれだけたくさんの愛を奪えるかという勝負により、ついにマラードは最も信頼する配下、ルバーブの妻と娘を虜にしてしまう。ルバーブは主の暴挙を黙って受け入れ、後悔したマラード王は自暴自棄となり命を絶つ。


 悲劇、悲劇、あるいは滑稽な喜劇。

 マラードは愚かだ。ほぼ全ての再演で人狼たちを虐殺する。

 パニックを未然に防ぐためと言いながら、より巨大な悲惨で都を血に染めて、主に人々を魅了して制圧するハルハハールよりも多くの命を奪っていった。


 次に五番目。

 亜竜王アルトは正義に狂っている。

 己が信じる道徳規範に従って、血を流さぬためにより多くの流血を大義のためと許容する。彼は言う。虐げられた者たちに、優しく囁く。


「安心しろ。俺はたとえお前たちがどんな姿かたちをしていても、差別しない」


 その姿を、高潔だと褒め称える者は竜王国の在り方に賛同し。

 そうでないものは、その国を去った。

 竜王国は、高潔な理想郷であるべく、純粋な肯定に支えられて在り続ける。

 もちろんそれは正しいのだ。

 そこには、正しさだけがある。


 四番目。

 ただ、醜悪。

 どうしようもないこの歪みを見ないことにするには、サイザクタートという何も知らない部外者を呼び込むしかなかったのだと、二度目以降の再演でようやく理解する。ああけれど、そんな彼も月へ赴いた後には――。


 健やかに、幸福に、美しい世界を少年は望んだ。祈りと共に、情報の海へと潜る。海底に築き上げた石碑は、冥道を塞ぐ封印だ。鍵が差し込まれたが最後、冥府の門は開かれて、生と死、夢と現の境界は消滅してしまうことだろう。

 それは、既に起きていることなのだ。

 見えていなかっただけで、月の裏側にはびっしりと青い髪が張り付いていた。


 三番目。

 これもまた、手の施しようがない。

 いわゆるゲーム性の無いゲームというものもあるらしい。体験したり、干渉したりすることに特化したものだ。それにしたって、こんな体験は御免被るが。


「おお、全てがブレイスヴァ! これすなわちブレイスヴァ! ブレイスヴァとは何か? 答えは一つ、ブレイスヴァである!」


 オルヴァは叛逆されて十三階段の上で死ぬか、絶望して自殺するか、妻を寝取られたショックで病に倒れて死ぬか、部下に命じて妻を強姦させてほら見たことか裏切り者めと鬼の首を獲ったように相手を責めて自害に追い込んだ後自分も後を追うかしていずれにせよ死んだ。


 二番目。

 白翼海を守護する竜王国の海上保安部、ジヌイービたちの海上警備隊を襲撃するベフォニス海賊団。精鋭として名高い彼らを苦しめる恐るべき海賊たちを、天上から襲撃するものがあった。


「げえっ、パーンじゃねえか!」


「見るがいいお前たち、あんな所に格好の獲物がいるぞ。地べたを這う虫けらも、海で跳ねる魚どもも、等しくこの大空賊パーン様に平伏すがいい! さあ狩りの時間だ! ミシャルヒ、カーイン、降下するぞ、ついてこい!」


 ガレニスの血族が誇る杖の技術と、異界から漂着した墓標船を改造した、空を泳ぐ艦船。世界を股にかける空の王者パーンは悪人からも善人からも平等に略奪を行い、暴虐の限りを尽くした。恐れる者など何も無く、外部からの干渉など無意味でしかない。こいつはいつ見ても楽しそうで羨ましいが、思い通りにならないにも程があるので死ねばいいと思う。これまでの試行でこちらからの干渉は全て無視され、投げた賽子は破壊され、果ては盤面から飛び出してどこかに行ってしまう。自由奔放にもほどがある。


 一番目。ふりだしに戻る。

 カーティスを演じる俺は、無数の俺でないカーティスに包囲されていた。

 複製を司る神マロゾロンドを名乗った、闇そのもののような存在が、厚みのある影の触手を蠢かせて嘲笑を響かせている。


 対面のガドカレクとゲームを続行する。

 勝利しなければ解放されることは無い。

 未来を知りながら、俺はただ敗北を繰り返す。何度も何度も、細部が変化し続けるもののどうにもならないゲームを繰り返しやらされ続ける。


 一方で、ゾーイ・アキラもまた絶望の中に沈んでいた。

 この舞台に辿り着く度に、幕間劇として俺はそれを見せつけられていた。

 ガドカレクが呪文を唱えるように、もう何度目になるかもわからない言葉をゾーイに投げつけていた。


「さて。演じられた幻想世界で上位世界を演じれば、それは下位世界のシミュレートと同じこと。上下は反転し、世界の秘密は今ここに明らかになる。つまりだな、君たち外世界人の勘違いを指摘してやろうということだ」


 理解を拒みたくなる言葉の羅列。

 それだけではとても意味が取れないと、俺と、すぐ傍で倒れ伏すゾーイが掠れた声で呻く。ガドカレクは構わずに続けた。


「シミュレーテッドリアリティ。上位世界が存在し、この世界はその世界によってシミュレートされた現実と区別のつかない下位世界であるという仮説。この類の思考実験には果てが無い。我々の世界には浄界や内世界、あるいは再演による舞台上演という下位世界創造の技術がある。ゆえにそれが可能だと知っている。そこに限界は無く、相互の創造という時系列の矛盾すら許容されてしまうのだよ」


 足下がぐらついたような気がした。

 今ここという現実が、本当に確かなものなのか。

 水槽の脳。考えても仕方が無いことだと知っているが、それでも脳を揺さぶるかのような呪力がその言葉には宿っていた。


「お前たちは自分たちこそ大半の世界に対して上位の世界であると思っているだろう。だが、もし我々の世界によってそのように設計された下位世界であったとしたらどうだろうか。もしくは、だ」


 ガドカレクの掌の上に、動く幻が立ち上がる。

 それは俺や冥道の幼姫、グレンデルヒといった人物が再演をしながら戦う光景――今までの再演だった。彼らは自分たちがガドカレクに作り出された存在だということに気付かずに踊り続ける。


「足下を見たまえ」


 心臓が、爆発したかのように脈打っていた。

 視線を下に向ける。

 巨大な掌が、俺たちを支えていた。

 ここはガドカレクの掌の上で、俺たちはこの竜帝に創造された幻に過ぎない。

 全ては、呪術によって作り出された架空世界の出来事だったのだ。


「だからどうした」


「声が震えているぞ」


 内心で怯えていること、声が震えていること、強がっていることが見え見えの台詞、全てがガドカレクが考えたものだ。

 必死の反論がゾーイに代わって相棒のケイトから繰り出される。


「そんなもの、言ったもの勝ちだ! 同様に、君たちだって創造されたものに過ぎないかもしれないだろう! 僕らの世界ではそういう問答は前世紀に通過して克服済みなんだ! このどうでもいい妄言は、精神攻撃にもなっていないんだよ!」


「そうかね? だが少なくとも、この世界では事実よりも信じたことが力を持つ。疑念を僅かでも抱いてしまったお前たちよりも、世界の在り方を俯瞰で見ているこの私こそがこの場の支配者により近いのは確かだな」


 ガドカレクの言葉は、呪術世界だからこその説得力で俺たちを打ちのめした。

 更に彼は、信じがたい言葉を重ねていく。


「さて、ここから考え方を拡張させてみるとしようじゃないかね――世界が下位の内世界を創造シミュレートするのに対し、世界ゼオーティア当該世界自体ゼオーティアそのものを自己言及的に創造シミュレートし続ける、ということは有り得るのかどうか、といったようなことを」


 咄嗟に意味を掴みかねた。

 この男――この古き竜は何を言っているのだ?


「お前たち杖世界サイバーパンクの住人がゼオーティアの住人に勝てない理由を考えたことはないかね? あるいは、どうしてこの世界にはこうまで強固な杖という視座が存在しているのに、呪術的思考の類が一向に否定されず、杖以外の呪力が世界に満ちているのか、ということを。答えは一つだ――ゼオーティアは幻想で在り続けようとする恒常性を有しているからだ。つまりは自給自足。世界は修正され、秩序の均衡が保たれるようになっている。杖は絶対に勝つことができない。勝ってはならないのだ。そうだろう、我が同胞クルエクローキよ?」


 この世界では銃を使えるのはごく一部の杖適性が高い者だけだ。

 その理由は、もしかするとこの『集い』が作っているのかもしれない。

 いや、十中八九そうなのだ。

 それが彼らが定めた世界の秩序。

 世界そのものを律する法――それが銃規制。

 全ては、銃社会の到来を防ぐ為。ただそれだけの為に、物理法則すら歪めて運命の修正力で銃を呪っている。それが竜の力。


「『存在』とは、『杖的観測』によって『実体』を確定させ、『呪文的参照』によって『幻想』を紡ぐことによって強度を与えられる。基点となるのは邪視であり、維持していくためには使い魔が必要となるが、今は置く。さて、本来は世界全ての存在は孤独なものだ。触れ合うことすらできず、水槽の中に浮かんだ脳内で完結する。しかし、自己参照ならばどうか? 異世界の全てが、本当は全て内世界だとすれば? あらゆる外界は己が作り出した脳内妄想という浄界なのでは? 外部参照などはじめからあり得ないに違いない。いいかね、我ら高次元の存在は思索の果てにこう考えた。『他者などいない』」


 誇大妄想狂の与太話だ。

 神を名乗り、自分の内側だけで全てが完結している真正の屑。ゆえにどこまでもガドカレクは強大な邪視の体現者だった。五番目の紀竜は、そうしたものを司っているのかもしれない。

 寒気がする。俺ですらおぞましいと感じるほど、ガドカレクは人の話を全く聞いていない。俺やゾーイからの反論は全て黙殺され、発言すらなかったことにされてしまう。この思考すらかろうじて見逃されているだけのものだ。ガドカレクは機嫌良くわけのわからない戯言を並べ立て続ける。


「我々はこの世界の根本言理をこう名付けている。【幻想再帰システム】――未知という幻想を、来るべき終端を食らいつくし続ける自己消失オートマトン。消えていくのに既に存在してしまっている幻想」


(待って? あのさ、アキラくん。さっきから気になってたんだけど、このガドカレクってもしかすると――)


(おい、シナモリアキラ! 俺と代われ! さもなくばさっさと陛下をお助けしろこの役立たずが!)


 左腕からちびシューラとクレイの声。

 この二人には繰り返される再演で何度も力を借りたが、結局状況を打開することは出来ずに今に至る。何をやっても、どんな突飛な行動を試しても、結局この場所に辿り着いてしまう。


 ガドカレクは熱に浮かされたように喋り続けている。

 それを、ちびシューラがなにやら神妙な表情で見つめている――といっても、顔はこちらに向いたままなので、俺の視界を通じて見ているということだが。


「――世界の階層構造が不変のものでないのなら、従来の転生植民地主義体制は崩壊する。いずれこちらの世界独自の転生技術が発達すれば、今度はこちら側から向こう側に転生してくる者たちが現れるだろう。また、事実が明らかになればお前たちが下位だと思い込んでいる世界からも大量の転生移民が流れ込んでくるはずだ。因果応報だよ、先進世界気取りの発展途上世界。全ては双方向的なのだ。お前たちは転生という権力に溺れて死んでいけ」


 呪力の濁流が、俺たちを呑み込んでいく。

 闇が世界を埋め尽くし、再び再演の旅が最初から始められようとしていた。

 その直前、俺はちびシューラの声を耳にする。

 何かの確信を得た、その力強い言葉を。


(わかったよ。シューラたちが倒すべき敵が、どこにいるのか!)




 断片的なシーンがつなぎ合わされて、記憶が再構成されていく。

 秩序など何も無い、それは一瞬の走馬燈。

 とある力士が体験した敗北と蹉跌の歴史。


 ゾーイ・アキラは力士であると同時に企業人でもある。所属は、当初は強豪チームを抱える警備会社だったが、諸処の事情があり同じ系列の転生保険会社になっていた。転保てんぽ業に付きまとうリスクを解決する為、警備会社との合併、経営統合といった話も持ち上がっているようだが、そういった細かい事情まではゾーイには分からない。彼女は企業に所属するスポーツ選手――力士スモーレスラーとして勝ち続けていればそれで良かった。プロ入りするまでのゾーイは実業団力士として活動していたのだ。今、かつての縁故を頼って古巣に戻って来ているのは彼女の本意ではない。何もかもが順調なはずだった。あの日、全てを失うまでは。そう、全て、敗北によって失われた。誇り、その証明。堂々たる大銀杏おおいちょう――すなわちまげ。全てを失った。面と向かって痛罵されたこともある。陰口は数え切れないほど。

 

 ――女力士だと? 血のケガレがある女人を神聖な場に立ち入らせるとは不届きな。所詮は相撲のなんたるかもわからぬ日本人ハポネサだろうが。


 ――紛い物には紛い物の名がお似合いだ。


 ――そら、あいつが『YOKOZUNA』だ。『YOKODSUNA』のパチモンだよ。


 ベビーフェイスがYOKODSUNAで、ヒールがYOKOZUNAと呼ばれる風潮を生み出したのは、間違い無くゾーイへのヘイトが関係している。しかしそれは興行側としては好都合だった。禿頭の悪役力士として、ゾーイ・アキラは憎まれ役を演じ続けた。それが人気に繋がり、同時に生活の糧となった。


 ああ、けれど、全てはあの敗北さえなければ。

 それは甘い誘惑だった。お互い、ガチでやってみたくないか。お前も俺も、力士を志した以上、最強の座を目指してここまできたはずだ。ブッカーの指示なんて適当に口裏合わせとけ。お互いの命を賭けよう。


 そう言って、そいつは魂を指し示した。ゾーイにも同じだけの掛け金を要求した。応じたのは、ゾーイが余りにも若すぎたせいだったろう。少女時代の全てを相撲に捧げてきた。思えば、力士を引退した後で『ごく普通の日常』や『少しだけ普通から外れた非日常』といった、若い頃に誰もが通り過ぎるようなフィクションに耽溺したのは失われた過去へのあこがれだったのかも知れない。代償行為としての読書だなんて、もっともらしい分析をしているゾーイに気付きつつ、それを指摘することのなかった相棒のことを、ゾーイは好ましく感じていた。


 ――マスカラ・コントラ・カベジュラだ。負けたらお前はその髷を剃り落とせ。俺はマスクを捨て、土俵を降りる。


 軽々しく言ったものだ。

 軽々しく受けたものだ。

 詳しく語るようなことは何も無い。

 ただ、その戦いは穢された。

 信頼していた整備士は買収されていた。機巧廻しが動作不良を起こしたのだ。テレポートすら失敗する。絶体絶命の危機。サイバネティクスによって強化された機巧力士の力を受け止めきれず、ゾーイはひどい負け方をした。名誉は傷つけられ、人気は大きく落ちた。


 再戦の申し出は、かつて敗北したあの男からのものだった。

 当時最強と呼ばれていた軍人崩れのバイオ力士を下したそいつは、下劣な蔑みを視線に乗せてゾーイに挑戦状を叩きつけた。最後のチャンスをくれてやる。雪辱を果たせばお前はもう一度這い上がれる。罠だと知りつつも、挑むしかなかった。


 高圧電流が流れる金網デスマッチという話は真っ赤な嘘。柵は爆破され、高所に設置された土俵の真下には灼熱の溶岩。そこはお互いの命を賭けた死闘の舞台だった。行司が発生させる超重力により、逃げ出すこと不可能。どちらかが死ぬまで続く、表には出ない地下試合。公然の秘密。


 激闘。機巧廻しの噴射口から爆発的な推進力が放出され、巨体と巨体ががっぷりと四つに組み合う。それは尋常な勝負だった。そこに嘘は無い。今度こそ、失われたものをゾーイは取り戻したのだ。思考のプログラムが稲妻のように脳を駆け巡り、それよりも遙かに早く肉体に刻み込まれた稽古という名のマクロが相手の廻しをとっていた。それはどこまでも当たり前の、上手投げだった。

 死の直前。圧縮された思考通信が、お互いの間を行き交った。


 ――何故。


 ――脳に腫瘍ができちまってよ。つってもインド人みてえにデジタルな脳にしちまうのは御免だ。俺は神を信じている。脳だけはナチュラルなままでいたいのさ。いざ死ぬとなったら、色々後悔ができてることに気付いた。お前と、今度こそガチでやるのもいいかもなって、そう思った。それだけさ。


 溶岩の中に落ちていく因縁の相手を見送りながら、ゾーイは土俵際に立ち尽くした。そして、彼女は力士を辞めた。元力士という経歴を生かして警備会社へ。そこから転保へ。流れに流れて、転生トラブルを解決する掃除屋に。ケイトと出会えたのは小さな僥倖であり大きなお世話だった。鬱陶しくも賑やかな相棒。


 敗残者の余生。

 そんな、ひどくだるくて眠い、どうしようもない道行き。

 ゾーイは怠惰に与えられた役割をなんとなくこなしていく。


 ――本当に、それでいいのか?


 この問いかけも、もう何度目になるのだろう。

 ガドカレクは誘惑する。甘い誘惑は罠だと、ゾーイは知っている。だが、彼女が勝負の誘惑から逃れられないということを、奴らもまた知っているのだ。


 ――勝負をしたまえ。対戦相手は用意しよう、外側を盛り上げて、試合内容も整えてやる。シナリオの出来映えは上々だ。コンセプトは黒衣の外世界人同士によるデスマッチ。どちらが偽物のアキラかを決定するのだよ。


 下らない誘惑。

 けれど、結局の所、自分にはそれしかない。

 どうしてこんなことをやっているのか?

 それは、まだ見ぬ強敵と巡り会いたい。ただそれだけの、単純な欲求が身体の奥底から湧き上がってくるからだ。

 視界の隅に、やれやれと肩を竦めるケイトが見えた。


 ――付き合わせて悪いね。 


 ――オーケー相棒。さっさと行こう、どうせろくでもない汚れ仕事だ。君が納得の行くようにやるといい。僕はそれを全力でサポートするだけさ。


 結局の所、二人にはそのくらいの軽さが性に合っているのだ。

 戦う理由に、大仰なものはいらない。

 軽やかに、重々しく一歩を踏み出す。

 それだけでいい。




「今度こそ、お前を突き崩す道が見えたぞ、【竜帝】。いいや、こう言うべきだな。ガドカレク=クエスドレム=グレンデルヒ」


 歪んだ愛に屈し、軋む道徳にすり潰され、狂える健康に翻弄され、忌まわしい地位から逃れ、獰猛な技能に敗れ、崇高なる尊敬に屈伏する。

 繰り返される再演の牢獄。もう何度目になるかもわからない対戦相手との対峙。

 ゲーム盤を挟んで、俺はその男と対面した。

 そう、対戦相手は最初から最後まで、ずっと変化していない。

 俺は今もなお、グレンデルヒと戦い続けている。


(つまりこういうこと。グレンデルヒは死を偽装したの。未来から持ってきたゲラティウス=グレンデルヒ=ゾーイをこのスキリシアで複製することによって。そして、あたかも自分が本当に【竜帝】ガドカレクであるかのようにふるまった。こちらを絶望させて意思を砕き、存在を完全に掌握するための罠だったというわけ。外世界人であるゾーイと協力したように見せていたのも振りだけ。実際には使い潰して、存在を乗っ取るつもりだったに違いないよ)


 ちびシューラによる冷静な状況分析。

 そう、どうしてその事に思い至らなかったのか。

 ここは過去であると同時に舞台の上。

 ならば、このガドカレクにも演じている役者がいるはずだ。

 それが名もなきヴィヴィ=イヴロスの使い魔か、それとも俺の知る役者の誰かなのかはちびシューラが『仕草』をデータベースに登録して照合することで判別した。口調や発言の抑揚、細かい癖、重心の位置、その他諸々の情報から、高い蓋然性でガドカレクはグレンデルヒでありゾーイである。


 俺の横で倒れているゾーイは、このゾーイよりも以前にこの場所に送られてきたのだとちびシューラは語る。この力士はこれからグレンデルヒに役として身体を乗っ取られ、ラフディでマラード王の物語に介入することになるのだ。


「確かにこの演劇世界ではお前は真の竜なのかもしれない。だが同時にただのグレンデルヒであり、ただのゾーイでしかないのも事実。より強大な存在を偽装しなければならない時点で、お前は自らが無謬の存在ではないと明言したに等しい」


 馬鹿な事を言っている。

 グレンデルヒに、ゾーイ・アキラに、俺が勝利できたことがあっただろうか。

 どちらも劣らず強敵だ。

 しかし、今の俺にはちびシューラがいる。

 呪術によって再現された幻のアプリ群がある。

 あと一つ。

 あと一つだけ、足りないものさえ揃えば、俺は決して負けることは無い。

 かつてキロンと再戦した時にも感じた、借り物の両腕への確信。

 

「愚かな」


 そう嘲るグレンデルヒから、俺は背を向けた。

 そこには、不安そうにこちらを見つめる少女の姿があった。

 大量の影に束縛された、蜂蜜色の髪の幼い子供。

 たった一人だけの異端のカーティスを演じる俺は、大量のマロゾロンド=カーティスに向かって走り出す。無謀な挑戦を、少女が止めようと口を開く。


(走れ! 道は俺が切り開く!)


 クレイが叫ぶ。

 左手が刃を模して一閃される。迫り来る無数の触手が切り裂かれていった。


(アキラくん。きっともうすぐだ。あっちでも、戦いが終わるよ)


 ちびシューラは、俺にはわからない強い繋がりで、そのことを知ることができた。辛抱強く俺に耐えるように言い続け、励ましてくれたのは援軍が来るという確信があったから。俺たちは、それを待てば良かった。

 

 俺は手を伸ばす。

 幻の右手を。

 少女の小さな手が、あちら側からも差し伸べられた。

 指先が微かに触れ合った瞬間。


「アツィルト」


 世界が、そして右腕が凍結した。



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