4-60 奈落
昔々ないところに、大きな闇がありました。
うん? 闇というのは何かが無いということだから、闇があったというのはおかしいって? 確かにその通りだけど、その闇には形があったんだ。そう言うことにしておいて欲しい。じゃないと話が進められないからね。それに最初に前置きしてるじゃないか。ないところに、ってね。
さて、どろどろに溶けた闇の中から、五人兄弟、それか姉妹が生まれました。それを神とよぶか、巨人と呼ぶかは時代によって異なるけれど、ここではとりあえず巨人としておくね。
巨人たちにはそれぞれ名前があって、上から【窮乏】、【疾病】、【無知】、【
ひどい名前だって? もっともな意見だね。でも、我々の神話ではそうなっているんだから、仕方無いじゃないか。ああ、『ろうあい』というのは、不衛生で狭苦しい住まいのことだよ。
続けようか。名前の通り、巨人たちは常に苦しんでいました。それぞれが生まれつき持っていた苦しみがそのまま名前になったから、当然と言えば当然です。巨人たちは、光の射し込まないクォル=ダメルの洞窟の奥深くで、どうして自分たちはこんなにも苦しい思いをしているのかと考えました。
【窮乏】は何もかもが手に入らず、常に飢えていたので、ついには色々な幻が見え始めました。その幻はいつしか確かな質感や匂い、音まで発するようになります。【窮乏】は、幻が確かな形を持ち始めていることに気がつき、幻を自在に現実のものとする術を身につけました。そうして、まじないによって出現した物品は『幻姿』と呼ばれ、【窮乏】とその子らの名前の由来となりました。
【疾病】は常に耐え難い苦痛に苛まれていましたが、いつしか自分が苦痛そのものと一つになっていることに気がつきます。自分を苦しめているものの正体は、実は自分自身だと知った【疾病】は自らの在り方を自在に変化させる術と、暗がりに潜む生き物たちの中に入り込んでその身体を間借りする術を覚えました。穢れた悪い空気として、生きとし生けるものたちの血に入り込む【疾病】の眷族たちは、誰かの命を啜らなければ存在できません。いつしか【疾病】たちは『血を吸う悪いもの』と呼ばれるようになりました。
【無知】はとても賢く、何でも知っていました。この世界がたった五分前に誕生したこと。世界は【無知】が創造したこと。そうした世界の真実を、だれよりも正確に理解できていたのです。朝に見聞きした事だけで昼に出くわした事の全てを簡単に説明できたので、夜になる頃には【無知】の周りで思い通りにならないことなど何もありませんでした。その上、闇の底はいつも夜だったため、【無知】は巨人たちの中で最も強い力を振るうことができました。【無知】に近い範囲になればなるほど当人が絶対の全知全能者として振る舞える度合いは高まり、他の四巨人たちはそんな【無知】を『小さいやつ』とだけ呼んで仲間はずれにしました。
【失業】と【
【失業】は他にも【怠惰】とか【無為】とかいう名前を持っており、【
二人はこのままでは【無知】に殺されてしまうと思い、洞窟の外に出て行くことにしました。泥のような闇を這い上がり、二人は天に浮かぶまあるい光を目指します。そして、光の中に飛び込んだ二人は、闇で満たされた世界から光に満ちた世界に出てきました。けれど余りにもその場所は眩しかったので、【失業】は森の中に隠れ潜み、【
――うん、まあ、ありふれた神話だよ。
どこにでもあるだろう?
この世がどうして今のようにあるのかを説明しようとするお話。
僕にとっては全て変わらない、可愛らしい
ちなみに、僕が五分前に即興で考えたんだ。
何か問題でもあるのかな?
一応僕はスキリシアの神だからね。こういった神話を事実だと言い張ればそれは事実になってしまうんだよ。今の話にも出てきただろう? 【無知】――つまりは
ただ、僕は小鬼や邪神、巨人などとは違う。
手の届く範囲、目に見える箇所でしか神として振る舞えない矮小な存在や、零落して存在を貶められた敗残者たちとは根本的な在り方が異なるんだよ。
【紀】に至るとはそういうことだ。
さて。随分と混沌とした状況に陥っている様子。
このあたりで一つ、僕が介入して色々と整理してみるのもいいだろう。
何と言っても、このスキリシアは僕の領域だからね。
おあつらえ向きに、出来の良い端末が二つも転がっている。
どちらの端末も、世界の流れに干渉できる強い運命を持った個体だ。
残念ながらアズーリアは期待外れだった。暫く
そういうわけで、ラクルにヴィヴィ? 君たちの喧嘩は見ていて中々に微笑ましいけれど、今は少しだけ控えてもらえるかな?
派閥争いは『塔』に戻ってやりたまえ。この場所は君たちの参加するべき舞台じゃない。どうしても干渉したいのなら、適切な駒を揃えてくることだね。ああ、ヴィヴィは舞台裏に残って『劇場』を維持するように。ただしそれ以外の行動は禁止。言いつけを破ったら毎晩夢の中に触手が出てくるからね。
ステラもヴァレリーも、過保護なのは良くないよ。
力のある存在がみだりに人の世に影響を及ぼしてはいけない。
僕はいいんだ。何しろ大神院の格付けでは格は高いけど力は弱いということになっているからね。弱いんだから幾らでも現世に干渉していいんだよ。
はいはい、いいから舞台からさっさと退場しておくれ。早くしないと触手でぐるぐる巻きにして混沌に放り込むよ。
ふう、いなくなったね。これでちょっとはすっきりしたかな。
まあ、やることに変わりは無いんだけどね。元々僕にとっては世界の全てが遊戯盤で、舞台のようなものに過ぎない。
外側から操って、せいぜい望む未来を手繰り寄せてみせるさ。過去であろうと未来であろうと、この夜は常にこのマロゾロンドのものなのだから。
その空間には、漆黒が満ちていた。
黒曜石が用いられた床に赤い絨毯が敷き詰められ、暗い色合いの棚や卓といった調度の類が全体の色調を決定付けている。
その中央で、緑色の波打つ長髪と赤い瞳を持つ人物がゆっくりと口を開く。
「全く、我らが神祖にも困ったものだ。とはいえ、今のあの方を祖と仰ぐのはいささか不本意ではあるが。友情に篤いのは結構だが、神としての器まで貸してやることもなかろうに」
黒曜石の容器で飲料を口にしながら、その人物は気怠げにぼやいた。濃厚な血が血の気の薄い唇から口腔内へと注がれ、ごくりと細い喉が動く。黒革のソファにだらしなく寄りかかって足を組んでいる様子は男性的な粗雑さを感じさせるが、膨らみのない喉から紡がれるのは艶やかなアルトだ。
「不意の来客に時を超えた干渉。これにもあの方の悪戯が関わっているのかな。いずれにせよ、面倒なことだ」
良く通るテノールの声。ソファの後ろに立つ、黒いドレスで着飾った影のような女性が発した音は、その容姿に似つかわしくない男のものだった。
「とはいえ我らがあの方の忠実なる端末――すなわち化身であることに変わりはあるまいて。神託を無視することは許されぬ」
続く声はひどく掠れた金切り声で、耳障りな響きである。いつのまにか、二人の足下に矮躯の禿頭男が現れていた。見窄らしい布一枚を身体に巻き付けたその男の前歯は鋭く尖り、しきりに何かを囓っている。それは、霊長類の頭蓋骨だった。
「そら、我らが帰ってきたぞ。姫君を手土産にした私は上機嫌だが、異邦人を迎えにいった私は少々気疲れしている様子。労ってやらんとな。何なら解剖してやろうかね、ひひっ」
医師が着るような白衣を纏った男が、片手で器用に医療用のメスを回しながら言った。異様なのは、その白衣が陰鬱な印象を醸し出す漆黒であったこと。引きつり笑いを浮かべながら舌の上で何かを転がしている――赤黒い、生肉を。
「ウグ、グルゥ、チ、ホシイ。オレ、イキモノ、オカス。オカシタアト、コロス」
「げひゃひゃひゃ、オンナだ、それも処女の生き血だぜぇ~」
「吾輩としては、執拗な拷問をしてたっぷりと悲鳴を愉しんだ後に味わいたいな。おお、加虐とはこの世でもっとも崇高なる文化的営みである!」
いずれの人物も、血のように赤い瞳を持ち、どこか似通った禍々しい空気を纏っている点で共通している。それぞれかけ離れた容姿ながらも、一見しただけで『血の繋がり』があるのだと思わされる、そんな集団だった。
しかし彼らは家族や親族といった関係性ではない。
彼らを結ぶのは確かに血であり命であり、同質性ではある。
にもかかわらず、全員が赤の他人。
「歓待の準備が必要だね、私」「それでは宴の支度をしようか、我々で」「久方ぶりに客人を持てなすのだ、手抜かりがあってはいけないよ、私たち」「客人だなどと余所余所しい。我らが花嫁は勿論この牙の祝福を受けていただくのだ」「その通り。闇の恩寵を受けた者は血族であり我々である」「そうだな。では、未来の私を持てなす宴としよう」「新たな私たちの生誕を祝して」「乾杯」「乾杯」「乾杯」
むせ返るような血の匂い。杯が傾けられて、濃い色の液体が飲み干されていく。生命の味の芳醇さに、それぞれが恍惚の吐息を漏らした。
いつのまにか漆黒の部屋は、血の杯を掲げて飲み干す者たちで溢れかえっている。次々と黒い靄が集い、その場に新たな個体が出現していく。影の中から這い出してくる。コウモリやネズミたちが集い、一つの生命を形作っていく。
彼らの口からは、等しく鋭い犬歯――長い牙がのぞいていた。
それこそが、その存在たちにとっての血を啜る為の触手。
命を喰らう夜の民、吸血鬼の証である。
「意味がわからない――何だ、これはっ」
剛腕が振り抜かれ、衝撃と共に巨大な肉塊が弾け飛ぶ。
音速を超えた張り手が衝撃波を撒き散らしながら居並ぶ肉の巨体を次々に粉砕していく。血と絶叫が夜の闇を埋め尽くしていく。忌まわしい悪臭と耳障りな音、不快な感触に顔を顰める女が一人。
禿頭に刺青を刻んだ長身の女。ゾーイ・アキラ。肩の辺りに浮遊している半透明のデフォルメされた人体は、相棒のケイト。
戦い続ける二人からは余裕が失われていた。
困惑し、疲労し、憔悴している。
当然だろう。ゾーイが破壊し続けている肉の塊、その正体は――。
「消えろっ、消えろっ」
(なんて数だ、無尽蔵なのか?!)
吹き飛ばされた脂肪の鎧が剥がれてその内側が露わになる。
それは人だった。巨体を誇る女性の屍体。
ゾーイとケイトにとって、馴染み深い顔。
見間違うはずもない。何故ならそれは、
「私のコピーだって?! 誰がやったのかは知らないが、いい度胸だ! 偽物じゃ本物に勝てないってことを教えてやるよ!」
全て、ゾーイ・アキラ本人だったからである。
全身の筋肉を隆起、膨張させて全力を解き放とうとするゾーイ。それを支援するケイト。迫り来る偽力士の集団を一気に片付けようとした彼女に一瞬の隙が生まれる。その直後、彼方から飛来した巨大質量が一撃でその全身を粉砕する。
ゾーイを殺害したのも、またゾーイだった。肩には同じようにケイトが浮遊している。そんな二人の周囲を輝く文字列が包み込み、情報的に解体していく。消滅した二人を見下ろすゾーイとケイト、それを撃墜する力士と行司、さらにそれを仕留めたのは複数人で徒党を組んだゾーイ、ゾーイ、ゾーイ、ケイト、ケイト、ケイト――その数に果ては無い。
スキリシアの黒い荒野を遠目に見ると、その一帯を筋骨逞しい力士が埋め尽くしているのが分かる。絶大な力と質量を誇る力士たちによる、血みどろの殺し合い。
力士は複製されている。
それも、本人の意思とは関係無く、この世界特有の呪術によって。
(落ち着くんだ、ケイト! どうやら敵は君の量子力士としての脆弱性を突いてきたらしい。この世界で得たデータによれば、これは夜の民というコピーアンドペーストが得意な種族によるクラッキングらしい。君の本体権限が一部乗っ取られているぞ! このままでは処理能力の限界が来る。身体の維持を解除するんだ!)
「そんなことしたら、死んじまうだろ!」
(冷静になれ! 最後の一人になれば殺し合いは止まる。僕らが死んだとしても一人残れば総体としてのゾーイは継続する!)
その言葉で、ゾーイは我に帰った。
次の瞬間殺害されてもの言わぬ肉塊と化し、細かい粒子となって消滅するが、他の力士たちも次々にはっと何かに気付き、無防備に殺される個体が増えていく。
死は伝播して、ついにたった一人のゾーイがその場に残された。
「なんてこった。いつの間にか、この世界の価値観に毒されていたのかな」
(そのようだ。おそらくは催眠か、幻術という奴だろう。すまない、言い訳になるが、攻撃を受けていることに気づけなかった。一応僕はこの世界における言語魔術師に相当するはずなんだが、防壁をすり抜けられてしまったよ。相手は相当の手練れだと思う)
「あー、気にしないでいーよ。つーか頭だっるー。同時に複製させられたせいでかなり頭にガタが来てる。こりゃしばらく休ませないと生体部品が死ぬわ」
(力士の機能には複数の自己を並列操作するなんて事態は想定されていない。いかに自己同一性への心理的縛りが無い高適性者でも、処理能力が足りなくなるんだ。現行の力士に搭載されている転移機関の大半は【分身の術】が実用化されるよりも前に製造されたわけだからね)
「へいへい、どうせ力士はニンジャより旧式ですよっと」
熱を持った頭部を手で扇いで風を送るゾーイ。
周囲を見回して、脅威となる存在がいないことを確認する。
訝しげに眉根を寄せた。
「あのカーティスとか言うやつ、どこに消えた?」
二人は、何らかの呪術によって強制的にこの暗闇の大地に連れてこられた。
第五階層での戦い。標的たるシナモリ・アキラの排除。【変異の三手】との共闘。そして完全な勝利。かと思えば、わけも分からずにいつの間にか闇の中を落下し続けている。泥のような、重い空気のような、海のような、一面の影。
その中をひたすら落ちて、降り立った場所で二人はカーティスと名乗る何者かと遭遇した。男とも女ともつかないその人物に言われるまま、二人は後を追いかける。よほどのことが無い限り、現地住民とのいらぬ軋轢を生じさせないというのは二人の基本方針である。
何より、その時にようやく、途絶していた元世界との通信が復旧したのである。
青い糸のようなライン。情報的にのみ存在する、流動する細長いそれが、ゾーイとケイトの頭部に融けるように繋がっている。
二人が所属する、元世界の
勤め人である以上、それに従うのが社員の使命だ。
カーティスと行動を共にして、可能ならば殺害せよ。
ドラトリアの王と名乗る人物に接触し、協力態勢を築こうとする者があれば、それもまた妨害せよ。
意味が分からない指令ではあるが、兵隊は上の命令に疑問を差し挟む必要は無い。表に出せない荒事を一手に片付けるためにゾーイはここにいるのだ。
民間警備会社から転生保険会社に出向しているゾーイ・アキラとケイトの所属は、共にトライデントホールディングス傘下の子会社である。
トライデントジェネラルセキュリティサービスジャパンに、トライデント転生保険。通称をTGSJとTRIというその巨大企業は、昨今の巨大複合企業の大半がそうであるように多世界企業となるべく外世界への進出を目論んでいる。
その過程で発生する複数の課題を解決しなければ、競争に負けて淘汰されるのみ。であれば、あらゆる手段を駆使して成果を勝ち得なければならない。
「細かい事はいい。私はただ何もかも駆逐して終わらせる。それだけだよ」
(それでいいよ、アキラ。上位システムの決定は絶対だ。理不尽でも必ず遂行するんだ。それで僕たちは有用性を証明できる。証明し続けることでしか、存在を許されないんだ――個を捨て、常に総体の為に奉仕せよ。イェツィラー)
「イェツィラー」
唱和して、二人は歩き出した。
やがて力士の前に黒い靄が集まっていく。
闇の中から現れた黒衣は、姿を消していたカーティス本人に他ならない。
「やあ、強いんだね、君たちは」
薄く微笑む端整な顔。
ゾーイは眉根を寄せて相手を睨み付ける。
「今のはアンタがやったの? 何が目的?」
「失礼した。偶然を装って近付いたけれど、実は君たちの存在は最初から知っていた。これから君たちが私を害しようとしていることも。というわけで先に手を打とうとしたのだけれど、どうやら私では力不足だったようだ」
カーティスは言いながら、足下の影を蠢かせた。
本来平面であるはずの闇が、三次元的な質量を持ち、霞のような触手を伸ばし、漆黒の粒子を立ち上らせている。禍々しい漆黒から光が放たれ、近くにあった比較的大きな岩に影絵を映し出す。投影された映像の中で、大柄な影が小柄な影を襲っている。未だ起きていないはずのゾーイによるカーティスの襲撃を予知した映像。呪術による未来予知だと、この世界に慣れ始めた二人は即座に理解した。
「
突然、足下の黒い大地からわき出てくる複数の影。
黒衣を纏ったそれらは、皆一様に同じ顔をしていた。
(同一人物?! まさか、過去のカーティスなのか?)
「その通り。数日前から毎日私を未来に送って君に攻撃を仕掛け続けていた。近い未来に影を投げかける程度のことは造作もないのだよ。流石に時空が離れればその分大掛かりな儀式と供物が必要になるが――立場上、そうしたものには事欠かないのでね。安心して外敵を排除できる」
無数のカーティスの足下から伸びる影が蠢き、夥しい数の触手が殺到する。
屈強な肉体は強固な束縛をものともしないが、足下の影は違った。
力士の影が伸ばされた吸血鬼の影によって束縛され、物理的な実体もそれに引き摺られて停止する。身動きの取れないゾーイ・アキラとケイト。
「さて、これの処遇をどうしようか、私?」「そうだね。処分するのがいいのではないかと、私は思うのだが」「私も昨日まではそう考えていたのだが、明日以降の私と話して気が変わった」「そうだな。複製して使役するのが良いと思うよ。外世界人の従僕だなんて、他の真祖たちに自慢できるよ」「我々の一部にしてしまうのも面白くはないかな?」「この外世界人に、闇の恩寵を与えると?」「それも悪くはないな。複製して両方試して見ればいいのでは?」
複数の自分たちで話し合うという奇妙な光景。
時間を超えて、過去現在未来の同一人物が一堂に会するという異常な事態。
不可解な会話の流れによって自らの運命が決定されてしまうという状況に、ゾーイは怒りを覚えた。自らを構成する情報構造体を離散させ、別の座標で再構成しようと試みるが、正体不明の力によって封じられる。恐らくはカーティスの呪術だろう。この吸血鬼はケイトにも理解不能な力を振るうのだ。
「そういえば、近々クエスドレムの城に赴く機会がある。あの遊びを試して見るのも面白い」「ああ、それがいいね」「それにしてももうそんな時期か」「秩序の更新が近づいている証拠だ」「いずれ大きな災厄が起きる。地脈の乱れも激しい」「まず大地が平面となり、それから二つに引き裂かれることだろう」「些細な未来は変えられても、運命の流れは変えられない」「それが世界というものだ」「それがさだめというものだ」
ゾーイは闇に沈んでいく。
意識を手放す直前、元世界と繋がる青い糸からの通信と、現地で得た協力者からの声、そして頼りにしている相棒の叫びがゾーイの耳朶を打った。
可憐な少女が、漆黒の花嫁衣装を着せられて寝台の上に横たえられている。
蜂蜜色の髪は艶やかで、繊細な顔のつくりは幼いながらも咲き誇る前の蕾としての愛らしさを十分に見るものに感じさせる。意識を失っているため、閉ざされた目蓋の裏はわからない。カーティスはその目が好きだった。見たことは無い、知らないがゆえに、それを愛する。隠されたものこそ美しいのだという、それは夜の民にとっての美徳である。
細い指先が、寝息を立てる少女の顔に触れた。
こわれ物を扱うような手つき。
カーティスは、幼い少女に心を奪われていた。
その影のかたちを知った瞬間、その魂は冥道の幼姫に囚われてしまったのだ。
「私の可愛いペルセフォネ。それともプロセルピナと呼ぼうか。ああ、猫の国から名を引いてくるのは難しいね。候補が沢山ありすぎて、適切なものを上手く選ぶのが難しいよ」
「近頃の流行りだからね、こういうのはしっかりとやらないといけない。クエスドレムの城でお披露目をするのだろう? 田舎くさい名前では彼女が馬鹿にされてしまうよ。それは我々の誇りにも傷をつける」
カーティスは寝台の上にある天蓋から逆さにぶら下がっているコウモリと会話をしている。薄暗い室内では、翼手を畳んでいるとまるで装飾過多な寝台の一部のようにも見えた。部屋の中には地を這う鼠もおり、それらもまた口を利くことができた。いずれもカーティス本人として振る舞い、対等に言葉を交わしあっている。
「それで、宴の準備はいいのかな、
カーティスは複数人で言葉を交わし合う。
その途中、影の中から新たなカーティスが現れる。
「あまり良くない知らせがある。我々の聖なる婚姻を邪魔立てしようとする者たちが現れたようだ」
「ほう? 詳しく話してくれ、私」
全くおなじ顔の二人が向き合う。
片方が赤い瞳を輝かせると、投射された幻影がもう片方の瞳の中に入り込む。
更に二人の影が融け合い、言葉も無く情報がやりとりされていった。
「なるほど。これは私の手落ちだな。花嫁を攫いに行った時に、追跡を許してしまったのか。全員始末しておけば良かった。いや、言い訳になるが、あの時は花嫁以外のものが目に入らなくてね」
「わかるよ。私の気持ちだからね。責めても仕方無い。対処するとしよう。早速適任の私を向かわせたよ」
「ありがとう、私たち。それにしても、再演による過去の改竄か。いつだったか、私たちも影絵芝居でやったことがあったね?」
暗がりの中で、赤い瞳が輝きを放つ。
光を反射しているのではない。瞳それ自体が発光しているのだ。
さながら、深海の底に棲まう生物のように。
「このマロゾロンドの化身を操ろうとは、実に不遜極まりないな」
「では逆に、我らが未来をほしいままにしてみようか」
蠢く影が、無数の触手を伸ばしていく。
遠隔地へと解き放たれた暗い影は、時間と空間を超えて標的へと襲いかかるのだった。群をなす闇は、鼠のように素早く大地を駆けていく。
その数は無限大。
増殖し続ける闇がスキリシアの大地を席巻する。
この影世界における最大規模の『数の力』が振るわれようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます