4-61 死人の森の断章1 熱病のような加虐が彼女の望み




 見渡す限り、無限の黒。重たい色の木々は海草のようにも見える。滑らかな形の岩石は生きているかのように柔らかい。黒い荒野は気がつくと灰色の沼地に変貌し、その中から悪霊や深海魚が顔を出して共に牙を突き立てあっている。空は星一つ無い暗い天幕で、ただひとつの光源である夜月がこのスキリシアという内世界と親世界ゼオーティアとを繋いでいる。


 本来は静謐な世界であるそこに、凄まじい轟音が響き渡っていた。

 不可視の巨腕が振るわれる。

 浮遊する眼鏡の男が雄叫びを上げながら群をなす影を薙ぎ払っているのだ。大地が砕け、影の動植物たちを死滅させ、破壊の嵐を巻き起こす。


 千にも及ぶ数の黒衣が千々に裂かれて絶命した。それらは瞬時に霞と化して大地に広がった影の中に沈んでいく。

 だが、圧倒的な戦果にも関わらず隻腕の男は舌打ちをした。


「きりが無いな。雑魚とはいえ、殺しても殺しても這い出してくるとは、厄介な」


 パーン・ガレニス・クロウサーは、不快さを露わにして無造作に幻肢を操る。巨人ラウスの右腕と同化したその呪術的な腕は襲いかかってくる黒衣を容易く引き裂いていく。しかし、一人倒しても勝利には至らず、二人三人と屍を積み上げようとも何の意味も無い。


「吸血鬼は眷族の支配を得手とするというが、ここまでのものか――おい、ミシャルヒ、カーイン! 無事だろうな?!」


「ここにいる」


「どうにか無事だ。上で見た奇妙な連中は見当たらないが」


 呼びかけに応えて現れたのは、パーンの仲間たちだ。

 彼らも迫り来る大群に応戦していたが、次第に消耗しつつあった。

 黒衣を纏った吸血鬼。

 その全てが、全く同一の気配を有するという異様な光景。


「二人とも、あれは恐らくカーティスという吸血鬼だ。墓の下の王国ドラトリアを統べる軍勢にして王でもあるものたち。個にして群れ、支配者にして従僕という、集団で一つの生命を構成している吸血鬼の真祖が一人」


 同じ夜の民であるミシャルヒが敵の正体を明かす。

 スキリシアでは暗黒神マロゾロンドの加護を最も強く受けたと言われる存在が強い権力を握っており、各地を支配している。


 クォル=ダメルの洞窟に潜む九人の幽鬼レイスたち、影世界においては神にも等しい青い鳥ペリュトンの古老たち、それぞれの部族を束ねる古き大人狼リュカオンたち、そして王侯貴族として所領を持つ始祖吸血鬼ルートヴァンパイアたち。真祖とも呼ばれる存在は、この地クォル=ダメルにほど近いドラトリアにも所領を構えている。それがカーティスという王だった。


 直接の面識は無いようだったが、同じ世界で生を受けたものとして噂を耳にしたことはあったのだろう。群となって蠢くカーティスもまた、ミシャルヒの存在を認識したのかわずかに表情を変えた。


「なるほど真祖か、面白い。この俺が高みに立つための踏み台にしてくれる」


「一応、攫われたお嬢さんを取り戻すのが目的だってことを忘れないでくれよ?」


 目の前の脅威についての危険性を知らされながらもパーンは不敵に笑みを作り、カーインもまた余裕を崩さない。

 彼らを取り囲む黒衣の影たちは、カーインの言葉に反応して口を開く。


「させない。姫君は我々のものだ」


「主張するのは勝手だが、妄想を口にするのは貴様らの頭の中だけにしておくがいい。いいか愚物。この世の全ては俺のものだ。貴様も、あの奴隷女も、ありとあらゆる栄光と勝利、時空と運命のことごとく、俺を愉しませるためだけに存在するのだ。わかったらさっさと俺と死力を尽くして争うがいい」


 睨み合うパーンとカーティス。

 藍色の視線と血色の視線がぶつかり合い、衝突した呪力がスキリシアの重い大気を引き裂いて風を巻き起こす。

 カーティスたちは代わる代わる口を開いて、幻惑するかのように妖しい声音で囁いた。それは語りに偽装した呪いにして力ある言葉。抵抗すべくカーインが黒薔薇を大地に突き立てて周囲に魔除けの障壁を張り巡らせる。大地から生えた茨が半球状の屋根となった。


「我々の影占いによれば、『正史』では我々は【死人の森】という王国に組み入れられるのだという」


 パーンは防戦に周りながらも冷静に相手の戦力を分析する。相手の呪術の正体は知れた。占影術師プシュコマンサー。霊通術、影占いなどと呼ばれる、古代の死霊術使いである。その形態は現代の死霊術師ネクロマンサーよりも原始的かつ包括的で、曖昧な霊的現象全般を取り扱う。


「確かに私は彼女と結ばれたいのだが、女王の夫という形式では困る。あの美しい少女を娶るのはあくまでも私でなくてはならない」


「カーティスが上位でなくては我々という形は維持出来ないのだ」


「女王の下に従属してしまえば、『我々』はカーティスというただの『私』に貶められてしまうということだよ」


「私は我々で在り続けたい」


「ゆえに私は我が愛しの花嫁を攫ったのだ」


「奪い、犯し、牙を突き立て血を啜り、その魂を我々の影に引き込むために」


「これは存在を賭けた闘争なのだよ。我々が我々として在り続けるか、それとも我が愛しの君が我々を卑しい下僕として従えるのか。どちらが支配者になるのか、という主導権争いというわけだ」


 パーンたちの周囲を巡る黒衣の影は、次第に厚みを失って影絵の群れとなっていく。それはさながら光が見せる錯覚、幻のように内側の者たちを惑わしていく。

 ふと、パーンが怪訝そうな表情をした。

 隣にカーインが立っていることを確認し、次いでミシャルヒの方を見る。

 黒衣の幽鬼は、どこにもいなかった。


「ミシャルヒ、どこにいる?」


 愕然と仲間の名を呼ぶパーンは、周囲の幻影がいつの間にか自分の見当識を失わせている事に気がついた。

 それが幻姿霊スペクターが得意とする幻術であると気付いた瞬間、怒りに我を失って絶叫する。


「貴様っ、この俺に牙を剥くかっ」


 カーインが築いた茨の障壁を破壊して、影の群が殺到する。

 パーンは飛び上がって襲撃を逃れるが、そこに飛来する黒衣が一つ。

 幻肢で貫くが、それは残像だった。

 遅いように錯覚させられてしまう特殊な浮遊法により、幻の如き残像で相手を幻惑しつつ掌打を繰り出す武術。

 ミシャルヒの連撃を捌くパーンは、苛立ちを隠しきれずに舌打ちする。

 フードの内側に見えた端整な表情が、苦悩に歪められていたからだ。


「私を殺せ、パーン」


「何があった」


「我が神の勅命だ。逆らえん。これより私は大いなるマロゾロンドの手足として、このカーティスと共に動くことになる。全ては、我らの神こそが紀元槍を手に入れるために」


 カーティスと並んで立つミシャルヒ。

 パーンは一呼吸の間、微かな迷いを吐息に混ぜたが、次に息を吸い込む時には藍色の瞳に殺意を宿してかつての仲間を見据えていた。


「そうか。では死ね」


 莫大な呪力が右の幻肢に収束して、膨れあがった破壊の波が幻影や影の群れごとあらゆる敵を薙ぎ払おうとしたその時。パーンが唐突に顔を仰け反らせた。直後、パーンの目の前を通り過ぎていく薔薇が一輪。


「貴様もか、カーイン」


「勘違いしないで欲しい。私は君に失望したくないだけだ。頼むからつまらない振る舞いはしてくれるなよ」


 茨の鞭を手に、仲間を手にかけようとする暴挙を諫めるカーインを、パーンは忌々しそうに睨み付けた。

 一触即発の空気を引き裂いて、吸血鬼の軍勢が奇襲をかける。

 今度こそ、パーンたちは圧倒的物量に抗えなかった。

 敗北は、劇的なものではなくやむを得ない撤退という形で決定付けられた。

 疲労と消耗、終わりの無い抗戦、殺戮と勝利の終わりの無い繰り返しに、さしものパーンもこれ以上は戦い続けることは不可能だと判断したのである。


 カーインが呼び出した大輪の花に乗って、空を飛んでいく二人。

 遙か上空から、大地を埋め尽くす黒い群れが地平線の向こうまで続いているのが見えた。幻姿霊の棲まうクォル=ダメルから広大なドラトリアまで、見渡す限り全ての空間をカーティスが埋め尽くしている。


 ゼオーティアの東方、ヘレゼクシュの一地方の地底には、根の国が広がっているという。人々が築き上げた墳墓の下に広がる異界は影の世界スキリシアと繋がっている。影世界に収まり切らなくなった吸血鬼の群れは横ではなく縦に広がり、天高く塔となり、地上へと溢れ出す。それは墓の下から起き上がり、世に災厄をもたらす疫病のごとき悪夢。夜の貴族は、物質世界においては無限の増殖を象徴する魔獣の姿となって暴威を振るう。

 すなわち、その名は――。


「ちゅー!」「ちゅうちゅう」「ちー!」「チュッチュ」「キーキー」「イーク、イーク」「スクィーク、スクィーク!」


「目障りな連中め! いずれ全て駆除してくれる!」


 夥しい数のネズミの群れに向かって、パーンが絶叫した。

 どこまでも伸びる巨大幻肢が数千、数万にも及ぶネズミを一撃で殺戮していくが、それは大海に向けて拳を繰り出すのに等しい行為だった。

 万を殺す間に、カーティスは億、あるいは兆に達する数だけ増えている。

 この真祖を殺すことは、尋常な手段では不可能なのだ。


「私はカーティス」「俺の名はイウワァバイ」「またの名をリールエルブス」


 黒い群れが一斉に唱和する。

 圧倒的な数の宣名により、スキリシアそのものが激震した。


 ――すなわち我らは【大勢リィキ・ギェズ】なり。


 絶対的物量に対しての敗北。

 かつてパーンは同じようにクロウサー家という巨大さに敗れた。

 今もまた、カーティスという莫大さに膝を屈し、仲間の一人を奪われている。

 飛行する花弁の上から、遠くで立ちつくすミシャルヒを見る。

 ひととき視線が絡み合ったが、やがて溢れかえるネズミに遮られてしまう。

 パーンは、屈辱に震えながら、遠ざかっていく吸血鬼の王を睨み付けた。


「ふざけるなよ。何がマロゾロンドだ。何がカーティスだ。神ごときが、この俺を見下ろすなど許されんぞ」


 形の無い右腕を握りしめ、拳を形作る。

 怒りに震えて輪郭を失いつつあった神の腕が、決意によって安定した形態に落ち着きつつあった。


「取り戻すぞカーイン。手伝え」


 それを聞いて、カーインはパーンに向けていた厳しい視線をようやく和らげた。


「最初からそう言ってくれ」


 パーンはカーインの方を見ないまま、強く鼻を鳴らす。

 それから、大輪の花の上で立ち上がり、腕を組んで胸を張り、背を反らすようにして眼下を睥睨した。


「ミシャルヒもフェロニアも、俺のものは全て奪い返す。下らぬ神め、足蹴にして身の程をわきまえさせてくれる」


 影の世界での戦いが、マロゾロンドのしもべたるカーティス、そしてミシャルヒの勝利に終わった後。

 自らの居城に帰還したカーティスの一人が、用意された一室で寝台に横たえられている蜂蜜色の髪をした少女に近付いていく。

 そのカーティスは、戦いに赴いている群れから離れて独自の動きをとるという、通常では考えられないことをしていた。


 カーティスが、左腕で少女の額に触れる。

 すると、閉じられた目蓋が開いて、灰色の目が黒衣の吸血鬼をとらえた。

 フードの中に隠されたその容貌を見て、囚われの少女が掠れた声で呟く。


「ああ、私を、攫いに来て下さったのね?」


 はぐれもののカーティスは、小さく頷くと、少女の手をとって言った。

 

「待っていてくれ。この舞台が最後だ。ここで決着をつけて、俺と六王を加えた死人の森が未来のヒュールサスを、そして更に未来のガロアンディアンを救う。そこまでが俺たちの協力できる――」


「ねえ、アキラ様」


 言葉を遮るように、口にしてはならない名を唱えて、少女は柔らかく微笑んだ。力の無い表情。小さな声量。その肉体から、いつの間にか力が失われているのは、度重なる戦いで消耗したためだろうか。何のために。誰の為に?


「どうか信じて欲しいのです。私は、アキラ様の愛する人の敵かもしれないけれど――けっして、あなたの敵ではありません。それだけは、覚えておいて」


 真摯に、切実に訴える少女の言葉を聞いて、左腕が僅かに震える。

 狼狽えたように、一歩後退る。


「私は死人の森を復活させるでしょう。来るべき大きな戦い、巨大な運命に、きっとガロアンディアンでは抗えません。今のままの、弱く不完全なあなたたちでは、これから先を勝ち抜いて、生き残ることは難しい」


「死人の森なら、それができるのか?」


「その通りです。だから、どうか私に守られて下さい。私は第五階層を掌握した後、新たなる秩序によって一つの内世界を治め、あらゆる困難から第五階層を守護してみせましょう。その中には今のガロアンディアンの住人や、貴方の大切な人たちも含まれているから」


 黒衣の内側で、何かを言おうとして失敗し、沈黙を吐き出す気配があった。

 ややあって、躊躇いがちな言葉。


「どうして、俺を?」


「――だって」


 不意に、少女が頬を朱に染めて視線を逸らした。

 下唇を噛んで、片手がぎゅっと敷布を掴んで皺にする。

 おずおずと、何かを恐れるように。

 小さな子供がするように、上目遣いで甘えるように口にする。


「あなたは、罪の苦痛を望んだでしょう?」


 瞬間、世界が闇に沈む。

 暗転した舞台。

 背景に映し出されるのは、横たわる狼の死骸。

 血塗られた『鎧の腕』。


「あの小さな子に書き換えられて、救われてしまったけれど」


「やめろ」


「それでも一度だけ、それを切り捨てずに、感情を誤魔化したままにせずに、殺人を邪悪として己の中に受け入れた。耐えられないことを知りながら、弱いままで現実に立ち向かった貴方が、私の目にはとても哀れで醜く映りました」


「やめてくれ」


 一方の声に熱が込められる一方で、もう片方の声は掠れて力を失っていく。

 怯えるように、頭を振って下がろうとする黒衣。その左手を、少女の小さな手が掴んだ。精一杯の力で引き留めようとする。


「私は、貴方にあのままであって欲しかった」


 切実に、なりふり構わずに縋り付く。余裕も何も無い。

 まっすぐな言葉をぶつけるだけ。


「だから、いらないのです。色のない呪文も。心を奪い取る邪視も。全てを委ねて寄りかかれる杖も。貴方という純粋な心に寄り添えるのは、苦痛を苦痛として、罪を罪として糾弾する私だけでいい」


 灰色の瞳に宿るのは、熱情。

 狂おしいほどの、欲望のかがやきだった。


「お願いだから、他の誰も視界に入れないで」


 妄執を、偏愛を、狂信を。

 露わになってしまえば、見苦しいだけのそれを、取り繕うこともできずに溢れ出させてしまう。それはさながら決壊した堤防のように。

 濡れた瞳が、真情を告げた。


「私だけを見て」


 狂おしく。

 狂的に、歪んだ殺意を吐き出していく。


「アズーリアを消して、トリシューラを壊して、コルセスカを消し去って。全ての邪魔者を排除したら――そうしたら、私だけを見てくれますよね?」


 純化された熱情は、言葉にすればあまりにも単純で。

 多数の勢力が入り乱れて混沌としたこの状況が、全てたった一言で片付けられてしまうという事実に、黒衣の内側で誰かが震える。


 劇の題材としてはひどくありきたり。

 世にそれはありふれている。氾濫しすぎているにも関わらず、あらゆる時代を通じて価値が変わることのないそれこそは、この世で最も古いまじないの一つ。


 ――つまるところ、これは恋の物語だ。



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