4-55 死人の森の断章2 睥睨する藍色




 破綻を繰り返しつつも劇による過去の再演は続く。

 始まりはヒュールサス、さらにそこから劇中劇が演じられて舞台はラフディに移り、そこからまた劇中劇中の人形劇という体裁で竜王国へ。そこからはもう出鱈目もいいところで、より古い時代のヒュールサス、さらにカシュラムと時間と空間を越えていく。


「たとえ破綻していたとしても、これは確かに劇中劇の繰り返しなんです。だって、そういうことにしておけば、順番に幕を閉じていけばいつかは元の場所にきちんと帰れるでしょう?」


 蒼い猫耳の少年レオはそんなふうに言うが、それが彼自身の意思なのかそれともラクルラールに操られて言わされている台詞なのかはわからない。依然としてヴィヴィ=イヴロスも冥道の幼姫も姿が見えないままだ。おまけにグレンデルヒの動向も不明と状況は悪い。


(問題無い。このまま六王を我らが死人の森の軍勢に取り戻すことができれば、グレンデルヒ如きものの数にも入らん。陛下が真のお力を取り戻されれば、女王の称号が最も相応しいのが誰なのか、自ずからはっきりとするだろう)


 不遜な言葉を吐くのは、黒髪を後頭部で括った青年、クレイ。灰色の瞳は刃のように鋭い眼光で、風を切って閃く両腕は迫り来る支配の繰り糸を悉く断ち切っていた。ラクルラールの支配から俺とちびシューラが逃れられているのは彼のお陰である。即席の同盟を死人の森と結んだことは、唯一の明るい材料であると同時にコルセスカの安否を危うくする不安材料でもある。


(きっと大丈夫。グレンデルヒにも、外世界からの追っ手にも、死人の森にも、そしてラクルラールお姉様にも、シューラたちは負けないよ。三人でなら、どんな相手にだって負けないもの)


 隣に立つちびシューラの言葉は、今の俺にとって唯一の支えだった。

 見渡せば、周囲には敵だらけだ。

 俺たちが歩むのは茨の道だと知っていたはずだ。知っていて、俺はそれを選んだ。キロンをトリシューラとコルセスカの二人と共に退けたあの時から、俺は自分たちが勝ち続けるだろうという確信を抱いていたからだ。


 ――それが、慢心であるとも気付かずに。


 そもそもの問題として。

 俺たちを取り囲む敵がたったこれだけだと、どうして俺は決めてかかっていたのだろうか。『まさかこれ以上増えはしないだろう』などという甘い見通しでは足下を掬われるのは必然というもの。


 再演も終盤となったこの舞台で、俺は思い知らされる事になる。

 クロウサーという血族が、いかに強大なのか。

 そして、パーン・ガレニス・クロウサーという男が、どれほど条理から逸脱しているかということを。




 広場の中央に設えられた木の壇上に、小さな少女が進み出た。

 蜂蜜色の髪に灰色の瞳。白樺にたとえられる肌色と鋭角の耳は、この世でもっとも美しいとされる光妖精リョースアールヴに特有のものだ。

 美しい、つまりは価値あるものとされる要因。


 幼い少女が現れた途端、広場に集まっていた人々が一斉に歓声を上げる。

 小さな顔がわずかに俯く。その灰色の視線が、両腕を拘束する手枷と片足に繋がった鎖と鉄球に向かい、諦観に染まっていく。背後に立ったのはでっぷりと太った中年の男。粗末な布一枚で体を隠している少女とは対照的に仕立ての良い服を身に纏った男は、大音声で商品の説明を始める。競りの開始が待ちきれないとばかりに人々が足を踏みならした。


 喧騒と熱狂。どろりとした欲望と冷ややかな計算とが行き交うその空間は、奴隷市と呼ばれていた。

 悄然とうなだれる少女は奴隷なのだ。


 種族的に総じて美しいとされる妖精種ということを差し引いても格段に美しかった。それはもう、伝説の彫刻家サーク・ア・ムントが造形した美術品であると言われれば信じてしまいそうになるほどに。そして、そんな喩えがしっくりときてしまうほど、少女の顔にはおよそ生気というものがなかった。


 白熱する奴隷市場。

 道を行く者たちは興味深げに競売の様子をのぞき込んでは少女の美しさにため息をつき、口々に叫ばれている金額の大きさに恐れおののいて立ち去っていくか、野次馬に加わるかしていった。大金持ちたちは欲望に目をギラつかせ、あるいは競争相手に浪費させようと冷たい計算を表情という仮面の裏に潜ませながら手を高く掲げながら金額を口にしていく。


 そんな時、一人の男が立ち止まった。

 男は中空で急停止すると、ふわりと浮き上がって群衆の上から広場の中心を見た。両足は大気を踏んでいるかのように動かないままだ。

 すらりとした長身と見えて、実は男性としてはそこまで背が高くはない。

 だが、彼の目線は道行く群衆の中で文字通り頭一つ抜けていた。


 同じように浮遊しながら移動する者たちと比べて、圧倒的に高く浮いている。

 ちょっとした段差なら気づかずに通り越してしまいそうなほどの高みから、男は眼下を睥睨するのだった。フレームの無い眼鏡越しに冷ややかな視線が奴隷市に向く。見ているのは、小さくなっている幼い奴隷のようだ。


「どうした、パーン。何か、お前の興味を惹くようなものでも見つけたか」


 隣で、これもまた浮遊している人影が言葉を発した。

 男とも女ともつかない落ち着いた響きの声。黒衣に身を包んだ細目の体躯、フードの内側に見える繊細な容貌。

 それには、中性的ながらもどこか引き込まれるような妖しい色香があった。

 

「そうだな。ミシャルヒ、俺には嫌いなものが一つある。何か判るか?」


「そもそも一つだけというのが初耳だ。お前はそこらじゅうのもの全てが気にくわないのだとばかり思っていたのだが」


 高く浮遊する男は舌打ちをした。

 腕を組みながら、威圧的に黒衣の存在を睥睨する。


「話を混ぜ返すなよ、貴様のそう云う所が嫌いだ。まあ良い。正解は、弱い奴と無気力な奴、それから意志薄弱な奴だ。なにより、自分の運命を自分で掴めない惰弱な奴が一番嫌いだな。吐き気がする。そういう腐った奴はな、人として既に死んでいるのだ」


 眼鏡の男はそう言ったが、黒衣の彼ないし彼女は気のない風に「そうか」と返しただけで、長い髪を指に巻き付けながら聞き流した。

 とびきり高く浮遊しているだけあって、頭の中も軽いのかもしれない。黒衣がそんなことを考えていたかどうかはともかく、居丈高な眼鏡は奴隷市の方へと向かっていく。黒衣が短く訊ねた。


「それは、楽しめそうか?」


 浮遊する男は右手の人差し指と薬指で眼鏡の金縁をくい、と持ち上げて答えた。


「暇潰しにはなる。暇など無いがな」


 加熱する競り。庶民が目を剥くような金額と共に腕が振り上げられる。

 価格は吊り上げられ、世にも稀な美しさを持つ少女奴隷の価値はごく普通の平民が一生遊んで暮らせる額を軽々と超えていく。

 遊び人が四人から五人、五人から六人に増えたあたりで、ついに残った富豪はたった一人だけとなった。


 奴隷商人が他に声を上げる者がいないかと問い、沈黙が返る。

 少女はより一層縮こまり、富豪は快哉を叫ぶ。

 買い手が決まったと見た商人が競りの終わりを宣言しようとしたその時。

 富豪が提示した倍額が叫ばれ、右腕が高らかに掲げられた。

 

 その場にいる全員が、正気とは思えぬ額を聞いて耳を疑い、続いて誰よりも高く伸ばされたその腕を見て我が目を疑った。

 歯車が擦れるような音と共に、右腕が伸張していく。

 否、むしろ展開されていく、と言った方がより正確だろうか。


 どこまでも高く伸び上がる、四つの関節を持った右腕。

 その右腕は、折り畳まれた状態から段々と肘を伸ばしていき、ついには二階建ての建物の半ばに届くほどの長さになったのである。

 二頭立ての飛行馬車や浮遊する敷布といった交通手段用の空路を行く人々が驚きの声を上げて腕を避けていく。


 人々はそれを見て、嫌悪感に顔を歪めた。

 常識はずれの長腕が金属質の光沢を持った義肢であったからだ。

 男の右肩に食い込む鋼と、あたかも肉体の一部のようになめらかに動く異形。

 更に男がかけている眼鏡、纏っている外套の各所にちりばめられた不可思議な絡繰り仕掛けを恐ろしげに注視して、一瞬後に目をそらす。


 いかに杖の技術が人々の生活を豊かにしようとも、それを極端に自らの肉体に適合させることは忌避されてきた。自分の肉体は自分のもの。三本目の手足として増やすのならまだしも、失った部位を補うために杖を用いるなど正気の沙汰ではない。よほど杖と親和的な世界観を有していなければ、義肢を使いこなすことはできないのである。


 四つの関節を持つ長大な右腕がゆっくりと下ろされる。なめらかな動きは現行の杖技術では実現不可能なものだ。それだけで旧世界か異世界に由来するものだと知れた。腕が人々の真ん中に振り下ろされていくと、悲鳴が上がって群衆が割れていく。鋼の指先が、幼い少女を示していた。


「女、顔を上げろ」


 高みから少女を見下ろす男には蜂蜜色の頭しか見えない。声に反応して灰色の瞳が眼鏡越しに男の視線と絡み合う。

 男が、明るい藍色の目をかすかに見開いた。

 それからまた威圧的な口調で続ける。


「貴様、どうしてそのような惨めな状況に陥っているか判るか?」


「私は、気づいたら、縄で縛られていて、それで」


「間抜け。過去など誰が訊ねた? 肝心なのは今より先だ。そして答えは貴様が状況を打開しようとしていないからだ。自由とは与えられるものではない。口を開けて誰かが今よりマシな状況を持ってきてくれるのをただ待っているのは楽だろうな。だがそれは人の行いではない。貴様は生きながらにして死んでいるのだ」


 長広舌を聞いて、恐れおののいたのは少女よりもむしろ周囲で様子をうかがっていた群衆だった。彼らはひそかにしかし雄弁にささやき交わす。


「おい、見ろよあの異様な浮遊高度」「関節が四つある長い義肢」「それになんて威圧感のある眼鏡」「その上あの長い筋肉質な説教」「間違いねえ、あれは――【鎧の腕】だ!」「狂犬野郎が出やがった!」


 ぎろり、と噂し合う人々を睨む藍色の瞳。

 群衆はさっと散っていった。


「みんな逃げろぉー! ガレニスだ! パーン・ガレニスが出たぞぉー!」


「クロウサーの鬼子だ! 誰か衛兵呼んでこい!」


 途端に、周囲から制服を身に纏った衛兵たちが集まってくる。彼らは画一的な長い杖を構え、一斉に呪文を唱える。空気の衝撃波による鎮圧は速やかに行われた。騒ぎの元凶である男に衛兵たちが呪術を放つと、衝撃によって吹き飛ばされた衛兵たちが倒れていく。同士討ちだった。無論、眼鏡の男には傷一つ無い。


「悪いな、ミシャルヒ」


「本気で悪いと思っているのならその突飛な行動を改めろ」


 浮遊する男の背後で、黒衣の人物が嘆息した。性別不詳のほっそりとした指先がぱちりと鳴ると、遠巻きに様子を窺っていた人々の目がとろんとして焦点を失い、次の瞬間には何事もなかったかのように日常に戻っていく。衛兵たちもまた不思議そうに周囲を見回して、自分たちの持ち場に戻る。


 ミシャルヒと呼ばれた人物はそんなふうに平穏を取り戻した周辺を見渡して、それから広場の中央で未だに腰を抜かしている奴隷商人と奴隷の少女を見た。


「流石に事象の中心であるその二人を幻影で誤魔化すのは難しい。あとは自分でなんとかするんだな――まったく、余計な荷物を増やしてくれるなよ。鬱陶しいのはカーインだけで充分だというのに」


 ぶつぶつと呟くミシャルヒに、眼鏡の男は応じない。既にその関心は少女の方へと向かっている。


「さて、どこまで話したか。そうだ、自分の意志で自由を掴めぬ者は生ける死体だという話だったな。いいか女。弱いことはそれだけで悪だ。己の運命の悲惨、降りかかった理不尽は自力救済によってのみ解消される。加害者には血の復讐を行わなくてはならない。これは義務だ。義務を果たせぬのならその者は『法の外アウトロー』に堕ちるしかない」


「そんな――そんなのは、あまりにも」


 少女は弱々しく抗弁しようとしたが、男はそれを言葉で切って捨てた。


「今は混沌の乱世。絶えざる恐怖と暴力による危険から己の権利を守るには、自力で抵抗する他ない。あらゆる者は、己以外のあらゆる者に対して戦わなくてはならないのだ」


「でも、そうじゃない方法だって」


「それができないのならば、その身を俺に託すがいい」


 威圧的に、浮遊する男は言った。

 藍色の目が妖しく輝き、複数の関節を持った右腕が蛇のようにうねり少女を取り巻いていく。


「己の全てを力ある者――すなわち王に譲り渡すのだ。然る後、その絶対なる権力によって庇護されるのが弱者に残された唯一の道。その代償として王はその身の全てを支配する。力が支配するこの世界において、それこそが唯一の法なのだから」


「お、おいおいおい! ちょっと待ってくれ! こいつは売り物なんだぞ! 勝手に話を進められちゃ困る!」


 奴隷商人が立ち上がって叫んだ。浮遊する男は面倒くさそうに視線だけをそちらに向けて、冷ややかに言い放った。


「先程云っただろうが。俺がこの女を買うと」


「あんな滅茶苦茶な金額を支払えると?」


「これから用立てる」


 そう言うや否や、男の長大な右腕が蠢いて奴隷商人の太い胴体をがっしりと掴んだ。鋼の指先がぎりぎりと肉に食い込んで、野太い悲鳴が上がった。


「貴様を人質に取り、身代金を要求する」

 

 奴隷商人と少女が揃って目を剥いた。男の言い様が余りにも無茶だったからだ。

 しかし、眼鏡の奥に光る藍色の瞳が本気だと雄弁に物語っているのを見て、哀れなる奴隷商人は身も世もなく泣き崩れてしまう。


「順序が前後するが、これから貴様の家に決闘状を送ろう。決闘の理由はこうだ。『この男の息が大変臭く、危うく死ぬところであった。報復は必然である。明日の明朝にこの広場にて決闘を行うが、回避したくば指定の身代金を用意せよ』とな。どうだ、申し分ないだろうが」


「ひ、酷すぎる――各地で『肩がぶつかった』だの『視線が侮辱的で名誉を傷つけられた』だのと言い掛かりをつけて決闘を仕掛けては身代金をせしめているという噂は本当だったのか」


「言い掛かりではない。事実として、俺は下等な屑どもによって損なわれた名誉を回復しなければならなかったのだ。今も、貴様の吐く息が臭くてたまらん。空の民として、大気を汚染する存在は耐え難いのだよ」


「ふざけるな、野蛮人が! この盗賊王めっ」


 口角泡を飛ばして叫ぶ奴隷商人。

 いくら罵声を浴びても眼鏡の男は涼しい顔だ。


「金が惜しくば決闘で俺に勝てば良い。できないのは貴様とその血族が弱いからだ。弱さは罪悪と知るがいい、屑め。自力で自らの身を守れぬような者に、生きる資格など無い。理不尽と思うか?」


 最後の問いは、奴隷の少女に向けられていた。

 小さく頷く少女を鼻で嗤って、男は続ける。


「力だ。力だけが全てを支配する。強者が弱者に打ち勝つという自然の理は、より強い力によってのみ変える事ができる。文句があるのなら力を示すがいい」


「――ですが」


 男の眉が僅かに上がる。

 はじめて少女の声に力が宿ったからだ。

 灰色の瞳は不可思議な光を湛えて高みに浮かぶ男を見つめていた。

 怯えているだけに見えた少女の気配が、わずかに、だが確実に変貌する。


「どう取り繕った所で、それは『無法』です。貴方は決闘という体裁だけを整えて、営利誘拐を強引に合法であると言い張っている様子。ですが、ならばこそ先に決闘状を送るのが筋というものではないでしょうか。規範を守るようでいて都合の良い部分だけは逸脱し、自分勝手な理屈を語る。それが力ある者の正しい振る舞いでしょうか? 私はそうは思いません」


 奴隷商人も、近くで聞いていたミシャルヒも、そして長い腕の男も揃って驚愕の眼差しを少女に送っていた。弱々しく俯いているばかりだと思っていた奴隷が、突如として立て板に水を流すように相手を非難していく様子に度肝を抜かれたのである。それも、一応は自分を救い出そうとしているように見えなくもない相手を。


「女。貴様、この俺が救い出してやろうと云うのに――」


「貴方のような方に買われるくらいなら、欲望だけで寄ってくる方の慰み物にでもなる方が遙かにましです。貴方のそれは獣欲よりもたちが悪い」


 眼鏡の奥の表情が引きつり、鋼鉄の義肢が震えて指先に力が込められる。奴隷商人が激痛に泣き叫び、少女は強い眼差しで威圧をはね除けた。

 しばし睨み合う二人。やがて男は短く息を吐き出し、瞑目した。

 それから、口の端に小さな笑みを浮かべる。


「この俺にそのような事を抜かしたのは貴様が初めてだ――面白い。女よ、名はなんと云う?」


「まず、ご自分から名乗られてはいかが?」


「生意気な女め。だが良い、許してやろう。俺の名はパーン・ガレニス・クロウサー。当代の【空使い】にしてクロウサー当主ダウザールを超える最強の男だ」


 宣名によって発生した暴風が辺りに吹き荒れたが、悲鳴を上げたのは奴隷商人だけだった。後の者たちは表情一つ動かさず、荒れ狂う大気の中で平然としていた。


「後半は自称だろうに」


 後ろでミシャルヒがぼそりと呟いたが、パーンは黙殺した。

 代わりに少女がパーンを見る目が一層冷ややかになる。

 素っ気なく告げた。


「フェロニア」


 パーンはその響きを確かめるように一度口の中で呟くと、変わらぬ居丈高な態度で言葉を連ねていく。


「そうか。ではフェロニア。貴様の云う通り、俺は間違っていたようだ。許せ。よって今から正式に支払いを済ませよう。それで良いな?」


 長い腕が奴隷商人から離れていく。安堵の吐息を吐く商人は、我に帰るとパーンの言葉に食らいついた。


「で、では先程の金額を用意できると?」


「ああ。といっても、手持ちの資産では足りぬ。よって、俺の『右腕』で支払う」


 商人は目の色を変え、歓喜の声を上げる。

 背後でミシャルヒが止めるのも聞かず、パーンは右肩のあたりに左手を添え、ぐっと力を入れた。長大な腕が投げ出される。この上なく貴重な義肢に商人が縋り付き、涎を垂らして頬ずりを始める。


「喜べ。クロウサーの至宝、この世ならざる【猫の国】よりもたらされたという叡智の結晶だ。売れば中原を丸ごと買い占められよう」


 奴隷商人はパーンの言う事などもはや聞いていなかった。鍵を取り出して少女の拘束を解くと、手で追い払うような仕草をする。視線は義肢に釘付けである。

 売買が成立した証としてパーンは証文を受け取ると、右腕を失ったままその場を離れていく。呆然と切り離された義肢とパーンとを見比べていたフェロニアは、慌てて彼を追いかけた。


「どうしてあんなことを。貴方にとって、大切な腕なのではないのですか」


「もはや不要な物だったからな。それに、俺はあれが無くとも困らん」


 パーンがそう言うと、何も無い筈の空間に風が渦を巻いていく。

 丁度、失われた右腕があるはずの場所である。

 見るものが見れば、そこには霊的な腕が存在していることが理解できたであろう。不可視の腕が伸びていき、道行く人々の足下を攫っていった。


 突風が巻き起こり、この時代のこの地域で普通の着衣であったスカートが翻っていく。男女を問わぬ悲鳴が巻き起こった。

 フェロニアは虫を見るような目で、ミシャルヒは何もかも諦めきった目で、それぞれパーンを見た。男は得意げに不可視の人差し指と薬指で眼鏡を持ち上げた。


「アストラル投射を極めればこのように幻肢によって物質世界に干渉することも容易い。無論、これは俺が空の民でありながら物質世界への干渉に秀でたガレニスの血族であるからこそ出来る芸当だがな」


「つまり、貴方は馬鹿なのですか」


「いつの世も、傑出した存在は大衆には理解されないものだ。俺の偉大さが理解できずとも恥じることは無いぞ、フェロニア」


 パーンは不敵に笑う。先程の狼藉を霊視できたまじない使いたちが通報し、衛兵たちが駆けつける。ミシャルヒは頭痛を堪えるように端整な顔を歪め、パーンとフェロニアの手を引いてその場を逃げ出した。

 

「大変なのですね、貴方も」


 フェロニアが同情を込めて言うと、ミシャルヒは苦々しげに眉根を寄せて、


「言いにくいことだが、実は馬鹿がもう一人いる。頼むから、君は馬鹿であってくれるなよ」


 と言った。フェロニアはそれを聞いて何とも言えない表情をした。

「待て。止まれ、ミシャルヒ」


 先程の場所からある程度離れた場所で、パーンが言った。

 パーンとミシャルヒは共に浮遊して移動する身だが、少女はそうではない。駆け足で二人についていくのだが、素足で地面を踏んでいたために小石などで足裏を傷つけてしまっていた。


「済まない、気がつかなかった」


「いいえ。このくらい、なんでもありません」


 強がる少女の足を手当てするミシャルヒ。

 その横で、パーンが左手を額にあてて何事か思案している。

 ぶつぶつと呟きながら、焦点の合わぬ視線を虚空に彷徨わせていた。


「妙だな――流れがおかしい。何故俺はああも容易く右腕を捨てた?」


「何を今更。もはやダウザールを討つことが叶わぬからだろう。奴に挑み、クロウサーの長となるより先にかのジャッフハリムに仇を奪われた。戦うべき相手がいないのでは自慢の右腕も意味が無いということだ」


 呆れたようにミシャルヒが言うが、それでもパーンは不可解そうに唸る。


「そう、その通りだ。忌まわしいダウザールめがジャッフハリムに討たれた今、俺の復讐は道を閉ざされた。クロウサーの『血脈』が四血族に引き継がれている以上、いずれ転生者として蘇るだろうが、その時すでに俺は生きていまい。せめて、俺がお前ほどの長命種族であればな」


「無いものねだりをしても仕方あるまい。それか、今から輪廻転生の術を会得してみるか? 使い手に一人心当たりがいるが――いや、セレクティの奴はお前とは相性が悪そうだな。止めておくとしよう」


 ミシャルヒの言葉にもパーンは表情を暗くしたまま。

 フェロニアが気遣わしげに彼の顔を覗き込む。

 すると、ぞっとするようなものに出くわした。

 藍色の目が、どろりとした怒りで煮えたぎっているのであった。


「妙だ。妙だな。これは異常だ。俺がダウザールに挑み、正式に【空使い】の称号を奪うよりも先にジャッフハリムがクロウサーに打ち勝つだと? それはどういった流れが生み出した現実だ? そんなことはありえん。俺はおかしな流れの中にいるぞ、ミシャルヒ」


「おかしいのはお前の頭ではないのか」


 パーンが奇妙な言動を繰り返すのはいつものことであるらしく、相手にしないミシャルヒ。しかしフェロニアはどうしてか僅かに困惑するように、何かを恐れるようにパーンを注視し続けた。やがて、パーンの瞳の中に渦巻く熱が限界を超えて爆発した。


「これは正しい流れではない。違うな、違うぞ。俺はあんな場所で『ガレニス』を手放すはずではなかった。誰だ、こんな運命を俺に押しつけたのは。一体誰の許しを得て、この偉大なる俺を見下ろしている?」


 膨れあがったのは、途方もなく巨大な『自尊心』だった。

 大気が膨張し、風が吹き荒れ、ただでさえ高く浮遊していたパーンが更に上昇していく。際限なく上がっていく目線。他者を見下ろしていなければ気が済まない気質が、巨人すらも超える頭の高さを実現し続ける。


「こんなはずではなかった。俺はこんな所で失われた栄光を悔やみ続けるような男ではない。ここは本来俺がいるべき場所ではない」


 ぶつぶつと呟き続けるパーンの瞳が藍色に輝き、壮絶な呪力を放つ。不可視の右腕が燐光を放って物質世界に顕現しかけていた。

 フェロニアが絶叫した。


「駄目です! それ以上は、それ以上は人として言ってはいけません!」


「間違っているのは俺じゃない――」


「駄目ぇぇっ!」


 甲高い悲鳴。

 虚空を睥睨する瞳。

 渦巻く風の中心で、透明な腕が何かを掴んだ。

 パーンが口を開く。


「この台本は、整合性を欠いている。時代考証がなっていないのではないか?」


 瞬間、世界が停止した。

 フェロニアの目が見開かれ、ミシャルヒの動きが止まり、ありとあらゆる事象が完全に活動を中断したのである。

 時が凍り付いたかのような瞬間。


「摸倣――動作が媒介なのか? だとすれば記録に残るような歴史の転換点や著名な人物に狙いを定めれば改変も可能か――確か再演によって神を降ろす古代の儀式があったな。あれはヒュールサスだったか――」


 パーンはひとり言葉を続けた。

 ぶつぶつ、ぶつぶつと。虚ろな目を中空に彷徨わせながら。


「呪術があらゆる事を可能にするならば、たとえば未来からアストラル体を投射し、俺という過去を操作して未来を改変する、といったような事も可能だろう。とすればだ。同じ呪術の体系によってそのアストラル体に干渉し、こちらから未来を改変することも可能なのではないか? あちらからこちらに接触できるということはその逆も然り、ということだ」


 視線が、虚空のある一点に固定される。

 どこも見ていないかに思われたパーンの目であったが、実際には何か目に見えないものを見定めようと目を凝らしていたに過ぎない。

 彼は、誰にも認識出来ない『それ』を確かに知覚していた。


「――そこに、いるな?」


 ぎょろりと藍色の目がそれを見据えた。

 不可視の右腕が、同じように不可視であった左腕――パーンの左腕の外側に括り付けられるようにして『非存在』していたそれを鷲掴みにする。

 引き千切られた左腕が、あり得ないと絶叫し、抵抗する。


「落ち着けよ未来人――だがまあ、まずは度を超した無礼の報いを受けるが良い」

 右手に力が込められると、鷲掴みにされた左腕の輪郭が曖昧になった。その内部から次々に小さな刃が投射され、更には無数の糸が伸びてくるが、その全てをパーンは意にも介さなかった。藍色の眼光が閃くと、あらゆる敵意は悉く平伏すのみ。


 威圧的に、パーンは宣言する。


「この俺を見下ろす事は、たとえ神であろうと許さぬ。故に俺はクロウサーを引きずり降ろし、この世の高みへと上り詰めなくてはならないのだ――さて、そこで相談なのだがな、未来人よ」


 高みに立つ男は、未来を睥睨しながら傲慢にも言い放つ。

 眼鏡の奥に、嗜虐的な色がちらついていた。


「貴様らの望む行動をしてやろう――その代わり、俺に力を貸す事を許す。光栄に思えよ? この俺が真なる【空使い】に至るための手助けができるのだからな」


 不敵に笑うその男は、ただ未来だけを見据えている。

 何もかも、自らが至上の高みに立つためだけに。



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