4-56 死人の森の断章2 パーン・ガレニス・クロウサー



 絶句。

 あまりの事態に、俺もクレイも、役者として動いているグラも言葉を失っていた。ちびシューラでさえ表情から余裕が消えている。


 不敵な表情を作るパーン――そしてそれを演じているグラッフィアカーネ。彼は自分の口が勝手に台詞を紡いでいるという事態に動揺して精神の均衡を失いかけていた。ラクルラールの蒼い糸がグラの精神を支配しようとするが、


「目障りな。これは髪の毛か?」


 眼鏡越しの威圧的な眼光と共に、その全てが吹き散らされた。

 グラのビークル犬の頭部が輪郭を失い、パーンのそれに取って代わられようとしている。役に飲み込まれようとしているのだ。余りに強大な存在が、時空を超えて役者の自我を消失させようとしていた。


 危険な状況だ。咄嗟に俺はグラの制御を奪った。グラに演じられている俺という役がパーンという役に支配されることで、俺はグラの緩衝材となったのだ。自由が奪われる感覚に怖気が走る。が、この場でビークル犬の少年を失うよりはマシだ。幸いなことに俺の感情制御はまだ生きている。精神が凍り付き、均衡を保とうとしているのがわかった。まだ俺はコルセスカと繋がっている。


『イェツィラー』


 どこからともなく響いてくる融血呪の詠唱。使い魔の呪力が青い流体を形成していき、無数の細い髪の毛となってパーンに殺到する。しかし。


「ほう、この力はこう使うのか――『イェツィラー』」


 操り糸となった髪の毛、数千にも及ぶ青い融血呪が、一瞬で吹き散らされる。

 パーンの詠唱によって生み出された、圧倒的な量の流体によって。それは量と流れの速さこそ比較にすらならないものの、紛れもなく呪力によって生み出された血液――融血呪だった。


「【血脈】と、ダウザールの奴は呼んでいたが――まさか同系統の術を未来人が使うとは。今日は随分と驚かされる」


 驚いているのはこちらも同じだ。パーンは融血呪を操りながらもそれを【血脈】と別の名で呼んでいる。無関係とは思えないが、一体どういう事なのだろうか。


 同じ青い流体であっても、その性質ははっきりと違う。

 『精密性』では【髪の毛】が上回り、『強度』と『量』では比較にならない程【血脈】の圧勝だった。そして、なによりもはっきりと差異を際立たせているのはその色彩である。空のようなセルリアンブルーの【髪の毛】とは違い、パーンの纏う【血脈】は明るい藍色なのだ。それはラクルラールの支配すら受け付けない無敵の護りとして機能していた。


「ふん、本家から奪えたのは力の四分の一ほどだったが、意外な所で役に立つものだ。というか、それはクロウサーの血統呪術に連なる業だな? もしや貴様ら、クロウサーの系譜に連なる者どもか?」


 首を捻ったパーンは自分で問いを否定して思案を始める。余人には理解の出来ない思考の流れが口の端から流れていく。


「いや違うな。似てはいるが質が異なる。俺が操っているのは血族という概念だが、この糸は教導――指南――技能――獲得形質? なるほど、こういうやり方が――ほほう? こうすればいいわけか?」


 パーンの操る滝のような藍色の流体が、恐ろしい事に細く繊細な流れに枝分かれしていく。寒気のするような事実だが、この男は初見の呪術を摸倣して我がものにしようとしているのだ。


 理解を絶した状況が続く中、凍り付く思考が相手の言葉を自動的に分析していく。パーンは融血呪を同じ融血呪で無効化した。つまり、この男もまたトライデントの使い魔という可能性がある。


 奇妙な話だった。パーン・ガレニス・クロウサーは過去の人物だ。その彼が当時からトライデントの使い魔だったということがあり得るのか?

 また、彼は今の強力な融血呪がクロウサー家に関係しているような事を言っていた。つまり、彼個人というよりもクロウサー家という血族そのものがトライデントに関係しているというケースが考えられる。


 文書の上での友人――そしてガロアンディアンの協力者であるリーナ・ゾラ・クロウサーのことを思い出す。

 彼女は呪文の座、つまりハルベルトやアズーリアの勢力に所属しているはずだ。

 そのクロウサーと、トライデントに繋がりがあるのではないかという疑惑。


 これは、あちら側に伝えるべきなのだろうか?

 状況はまだ不透明で、情報は断片的だ。

 予断は厳禁だが、かといって無視できるほど軽い事実ではない。

 この場合、リーナに伝えるべきか?

 それとも、他の人物――ハルベルトやアズーリアに伝えるべきなのだろうか。


(ん――アキラくん、それちょっと保留で。とりあえず、この状況が終わったら、ひとまずリールエルバと――あとメートリアンあたりと情報共有しておきたい。ハルベルトとは別に、ね)


 うん? と首を捻った。

 ハルベルトに伝えないという判断がよく分からなかったのだ。

 一時的な共闘だから、純粋な味方ではないというのはわかるのだが。どうもちびシューラは、ハルベルト勢力の中でもリールエルバとメートリアンの二人については別枠で考えているふしがあった。


(――にしても、信じられない。役が自律的に意思を持って叛逆してるの? ううん、これは違うかな。改変した過去から未来に逆干渉されてるんだ)


 ちびシューラによれば、現在俺たちが演じているパーン・ガレニス・クロウサーという男は『自分が演じられている』ということを過去の時点で察知して未来へ干渉しているらしい。極限まで研ぎ澄まされた自尊心と肥大化の果てに巨人の如き規模となった自意識が可能とする、超高位呪術師の本領だった。


「この俺を操ろうなどという身の程知らず、本来ならば万死に値する――が、偉大なる俺に挑もうという意気に免じ、機会を与えても――おい」


 パーンの言葉が不意に途切れる。

 眼鏡ごしに輝く瞳が威圧していたのは、俺たちだけではなかった。

 虫を踏み潰すように冷ややかに告げる。


「一つ、二つ――動くなと言ったぞ未来人ども」


 大気を穿孔して、不可視の腕が時空を駆け抜けていった。

 余りにも呆気なく、偉大なる古代人を操作しようとした身の程知らずの命が弾けて散った。未来から響く断末魔が過去の空に消えていく。俺たちを内包する左腕を掠めた幻肢が異なる時空に存在する何かを蹂躙していくのが確かに感じられた。


 ここでも、今でもない。どこかのいつかで――俺たちとは別口の過去干渉者が、術の行使に失敗して殺されたのだ。この再演の呪術が途方もない危険を伴ったものだという事実を、今更になって実感する。


 存在しない肌がちりつく。命を脅かされているという危機感に全身の感覚が冷えていく。今、目の前の男は『過去を改変する目的で自分を演じている未来の役者たち』を過去から手を伸ばして排除したのだ。こちらから触れられるということはあちらからも触れ返せる。理屈として言ってしまえばそれだけのことだが、実際にその状況に直面すると身体が凍り付くようだ。


(舐めるなっ)


 止める間も無く、クレイの手刀が閃く。

 肉体言語魔術による不可視の斬撃が飛んでいき、パーンの首に直撃。

 当然のように、傷一つ無い。


(馬鹿な――俺の天則剣が)


 愕然とするクレイが次の一撃を放とうとするのを俺は強引に止めた。

 危険過ぎる行為だった。先程の一幕を見てなお抵抗を続けようとするのならそれは無謀を通り越して愚かと言うしか無い。


(やめておけ、無駄なのは今のでわかっただろう! 普通の呪術じゃ通用しないんだよ、多分あの融血呪を上回る禁呪とかが必要な筈だ!)


(黙れ、素人が知ったような口を! 俺の天則剣は刑を執行する神罰の剣だ。野蛮な槍や棍のように、秩序無き暴力とは品格からして異なる。そこらの程度の低い呪術と一緒にしないでもらおう)


(刑を執行――ってことは、相手が無罪なら斬れないって理屈にならないか?)


 クレイが沈黙する。

 まあ俺とかロドウィに通用するのは間違いないだろうし、第五階層でなら割と普通に使える剣だと思うが、あんまり便利ではないな、それ。

 パーンは確かに恐るべき敵だが、状況だけ見れば未来から干渉してきて理不尽に運命を操作されそうになったから反撃したってだけだからな。この世界の法にもよるが、正当防衛が成立することも――いや過剰か?


「今の気配、ティーアードゥあたりの呪力か? 言っておくが無駄だ。偉大なる俺は降りかかる火の粉は自分で払える。法とは弱者が身を守る為にある呪術であり、俺のような強者は自力救済によって身を守れるのだよ。よって法と罰の権能ではこの俺を掌握することはできん」


 パーンの言葉は無法者のそれだったが、時代を考えれば理解の範疇だ。というか、つい最近までの第五階層がそういうルールで動いていたのだから俺に理解できるのは当然だった。権利を侵害されたら実力でどうにかする。盗まれたら盗み返し、殺されそうになったら殺し返す。法治国家においては原則的に禁じられていることだが、司法制度が不十分な社会ではこうした実力行使による自衛手段が認められていなければ悪党の跳梁を許すことになってしまう。


「俺の偉大さが理解できたか? 馬鹿でないのなら下らない足掻きはやめろ。無論、この俺に比べればあらゆる存在は愚かだがな」


 その尊大さが相応しいと思えるほどにパーンという男の実力は隔絶していた。キロンと相対した時にも感じた『本物』の空気。歴史に名を残すほどの男なのだから当然と言えば当然だが。


「貴様ら未来人がどのような心算つもりでこの俺に干渉してきたのか――まずはそれを話すがいい。要点を押さえて素早く説明しろ」


 相手はこちらと対話をしようとしている。これは考えようによってはチャンスだった。上手く説得できれば今までで一番効率的に再演が行える可能性がある。なにしろパーンにはラクルラールの支配が通用しない。グレンデルヒの妨害を無視するように言い含めておけばほぼ万全の態勢で過去を改変できる。


 ちびシューラが俺たちを代表して今までの経緯を簡単に説明した。未来でグレンデルヒに敗北したこと。その状況を覆すために、古の時代に生きた六王の力を借りようとしていること。グレンデルヒやラクルラールといった別の勢力も同じように六王の力を奪おうとしているらしいことも含めて、伝えるべきことは全て。


「なるほどなるほど。遠い未来で窮状に陥り、偉大なるこの俺の庇護を求めにきたというわけか――」


 パーンは得心したように数度頷いた。

 瞬間、眼鏡の奥で切れ長の目がすっと細くなる。


「――弱者というのは、常に度し難いな」


 声の温度が氷点下まで低下して、藍色の瞳に一瞬だけ苛立ちが宿る。

 俺たちに緊張が走るが、幸いパーンは即座に張り詰めた空気を弛緩させた。


「まあ良い。身の程を弁え、絶対的強者たるこの俺に縋り付くその浅ましさと小狡さに免じて許そう。惰弱な本家のクロウサーどものような『群れる弱者ども』に比べればいくらかマシと言えるからな」


 パーンの言動にちびシューラとクレイが爆発しそうになっているのをどうにかなだめすかして、俺は適当に調子を合わせておく。相手の性格は割とわかりやすい。


「良かろう、貴様らの事情はおおむね理解した。協力してやろうではないか――その代わり、俺の要求を呑んで貰う」


 ――来た。

 問題はここからだ。この傲岸不遜な男が、どのような要求を突きつけてくるのか。場合によってはここから拗れる可能性がある。

 俺は、パーンという男についての知識を頭から引っ張り出した。


 聞いた話によると、パーン・ガレニス・クロウサーはクロウサー家という巨大な血族の在り方に反発した男らしい。彼は血族の長であることを示す【空使い】の称号を勝手に名乗り、当時のクロウサー家当主であったダウザールに追放されて各地を彷徨ったのだという。


 当時からクロウサー家は人類社会において絶大な権力を有していた。クロウサー家から追放されたパーンは平和喪失アハト刑を受けた生ける死体リビングデッド――つまり異獣として排斥された。


 しかしパーンはそのような状況を良しとしなかったという。

 彼を排斥する社会秩序そのものを、自ら定める秩序の外側と位置付け、今まで身を置いてきた社会全てを『法の外』に置いたのである。

 たった一人、『我こそは王にして国土』であると規定し、建国を行った男。

 それは事実上、クロウサーが統べる世界全てを敵に回すということだった。


 クロウサーに刃向かった男は、当然のように敗北し、【僣主】や【盗賊王】といった不名誉な蔑称を付けられて歴史の中に消えていったと言われている。クロウサー家で最も有力だった四つの血族の一つ、ガレニスの血族は当主パーンの叛逆の咎により断絶の運びとなった。


 パーンの評価はせいぜいこんな所だ。クロウサーに刃向かい敗れた愚か者であり、自ら王を自称して好き勝手に振る舞った盗賊崩れ。しかし判官贔屓というやつなのか、フィクションなどでは奇妙なほどに人気があるとか。コルセスカとやったゲームでも、やたら優遇されていたようが覚えがある。あとこいつが何かするたびにコルセスカが「可愛い」を連呼するのが理解不能だった。


 フィクションでは『腐った権力者を叩き潰す悪漢』として描かれる彼が、実際にはどのような男だったのか。

 そして、クロウサー家への叛逆の意思が消えていない場合、あるケースが考えられる。それはつまり――。


「俺はこれから転生の術を習得するつもりだ。未来で蘇った後、貴様らの力になってやっても良いだろう。その後で、俺がクロウサーを打倒し【空使い】となるのに協力するならば、という条件付きでな」


 まずリーナ・ゾラ・クロウサーの事が頭に浮かび、俺は拒絶の言葉を口にしようとして、息を吸い込んだ。

 声が口の中で静止した。駄目だ。迂闊な発言は身を滅ぼす。

 リーナは裏切れないが、今のところ選択肢が無いのも事実。だが安易な嘘をこの男に対して吐くのは危険過ぎるような気がする。どうするべきかと視線をちびシューラに向けると、彼女は一瞬だけ目を伏せて、決然と答えを口にした。


(断る。クロウサーはシューラのガロアンディアンにとって最も重要な同盟相手。失えばシューラたちは一緒に破滅する。たとえ勝利しても、その後が続かないのなら貴方の協力を得る意味は無くなる)


 あくまでも合理的に、ちびシューラは裏切りを拒絶した。

 地上との架け橋であるクロウサー家との繋がりが途切れれば、ガロアンディアンはすぐにでも破綻するだろう。目先の勝利を取ってその先の破滅を確定させても仕方が無いのだ。


 パーンはその答えを聞いても表情を変えなかった。「なるほどな」と小さく呟いて、即座に要求の中身を修正してくる。ぞっとするほど完璧に。


「では、俺がクロウサー家を掌握した後に貴様らへの支援を確約すれば問題は無いわけだ。それとも未来のクロウサー家当主と個人的な繋がりでもあるのか? ならばこうするのはどうだ。俺はその当主を殺さずに地位を簒奪する――正々堂々たる決闘によって。武力、知力、呪力の競い合いにて雌雄を決し、【空使い】に相応しいのがどちらなのかをはっきりとさせる。それで未来の当主が勝てば貴様らにとっては問題が無いし、俺が勝てばそれは貴様らにとってもクロウサー家にとっても正しいことであろう。無能が長であっていいなどという道理があるはずもない」


 同盟者を裏切れと言われている筈なのに、思わず頷かされそうになるほどパーンの論理には隙が無かった。決闘と過去の人間らしい物言いをしてはいるが、恐らくこの男は現代の法に適応できるだろう。それだけの理性と知力がパーンにはある。そしてその上で、厳正なる競争によって能力を示してクロウサー家当主を追い落とすという自信があるのだ。パーンは無法者だが、彼は法を知った上で無視している。それは必要なら法を遵守することもできるということでもある。


「ああ、殺さぬだけでは不服か? では俺が勝利した後、そいつに適切な地位を与えてやっても良いぞ。そうだな、貴様らの王国――ガロアンディアンと言ったか。その渉外を担当させるのが収まりが良いのではないか? 貴様らとしても連携が密に取れるようになってやりやすくなるだろう。その未来の当主にとっても、己の器量に見合った地位に収まるのが分相応というものだ。誰もが納得する妙案ではないか。どうだ、これでも俺の要求を拒絶するのか?」


 むしろ、それが俺たちに利する可能性があることに気付いて愕然とする。呪文の座勢力を弱体化させつつ、クロウサー家の協力は引き続き得ることができるからだ。案の定、ちびシューラはパーンの申し出を受け入れた。相手の大幅な譲歩を引き出したのだ、ここで手を打っておくしか無いというのはわかる。


 俺も現時点ではこれしか道が無いのだと理解している。

 だが――取り返しのつかない事をしてしまったという罪悪感が消えない。

 棘となって心を苛むのは、恩人を裏切ったという意識だ。

 リーナは殺さないとパーンは言った。しかし、それによって何も失わないわけではない。俺の恩人は俺のせいで何か大切なものを失うことになるかもしれない。


 寒い――際限なく心が冷え切っていく。

 失ったのは、協力者の信頼という、途方もなく大きなもの。

 得たものと失ったもの。価値の総量は差し引きで幾らになった?

 果たしてこの取引、俺たちにとって有益なものだったのだろうか。


 俺たちの選択は裁かれることの無いまま、未来へと持ち越される。

 罪科の重さが明らかになる事は無い。

 今はまだ。


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