4-50 死人の森の断章3 畏怖
緞帳が上がっていく。
開幕の前に、作戦を頭の中で再確認しておこう。
楽屋に戻っての話し合いを回想する。
ミーティングは、ちびシューラによる差別発言から始まった。
「巻きで行こうよ巻きで。っていうかシューラ、カシュラム人キライだからテキトーでいいよね。あの人たちって基本的に話聞かないんだもん」
(いや、人の話を聞かないのはお前も大概――あ、いやなんでもないです暴力はやめて下さい)
上から頭を叩かれて頭部が胴体の中に埋まってしまう俺の身体は一体どうなってしまったというのだろう。柔らかすぎる。そして理不尽な暴力には断固として抗議する。俺が言っても説得力は無いが。
俺がどうにか頭を引っ張り出そうと踏ん張っているのを横目にしながら、ちびシューラがグラの口を借りて言った。
「でもさー、今回はほんと手抜きでもいいよ? カシュラム人の仲間とかはっきり言って要らないし――かえって邪魔なケースもあり得るもの」
そこまで言われるカシュラム人って何なんだ一体。
俺以外の全員はカシュラム人について理解しているらしく、それぞれ何とも言えない表情をしていた。レオですらコメントに困っている。
俺の疑問を置き去りにして、ちびシューラが続けた。
「進行予定を確認するね。次の舞台はカシュラム――正式にはカシュート=ラームだけど、まあどっちでもいいか。主役はカシュラムの王にして、キャカール十二賢者の第一位、オルヴァ・スマダルツォン。『十九の獣による終末の予言』って言えばこの世界の人は大体知ってる感じかな」
(ふむ。ノストラダムス的な奴かな?)
(多分そんなん。ちなみに地獄の十九魔将って形式はこの予言からの引用だよー)
ちびシューラが、グラの口を借りずに俺にだけ補足説明してくれる。
この世界ではわりと常識である昔の話も、俺は知らなかったりすることが多いので、こういうふうに説明してもらえると助かる。
(そのキャカール十二賢者っての、マラードの時にもちょっとだけ出てきたな。良く知らないが、賢者っていうくらいだし優れた人物なんだろう? 味方にできれば心強いんじゃないのか?)
(まさか。ありえないよ)
幾ら何でも、カシュラム人に対して失礼じゃないのか?
そういう偏見を特定集団に抱くのは感心できないが、こういった思考はこの世界の常識にはそぐわないのだろうか。
額に皺を寄せていると、今度は肉声でちびシューラが言う。
「個人的には次とその次が本番じゃないかと思うな。クロウサーとドラトリアね」
そうだろうか。
リーナもリールエルバも、共に呪文の座に属する競争相手であり、同時にいずれトライデントに対抗する時の為の同盟相手でもある。
その祖先を助けても、今の関係性が大きく変わるとも思えない。
「逆だよアキラくん。この二勢力の過去を敵対勢力として改変されると、現在の同盟関係が揺らぎかねない。現段階でハルベルトたちを敵に回すのはちょっとしんどいかな。マレブランケもまだ完全じゃないし」
「僕も同意見です。特にリーナさんの所との繋がりは重要ですから。『上』からの物流が断たれれば、現在の『上』と『下』との均衡が崩れかねません。
レオがちびシューラに同意して言葉を繋いだ。
第五階層とガロアンディアンの立場は依然として危ういままだ。
二つの勢力に挟まれて、一応地獄の魔軍とは休戦協定を結んでいるとはいえ、【松明の騎士団】に関しては『黙認』されている部分が大きい。
特に生産分野が呪術関係以外は脆弱なガロアンディアンは、物流を断たれるとそれだけで危険だ。迷宮探索による狩猟採集に略奪、上下の文化を混淆させ加工して付加価値を付けるなどの強みはあると言えばある。しかし生産プラントの開発は【変異の三手】と【死人の森】が地下を占拠してしまっているために遅れているのが実状で、万全とは言い難い。
武力による恫喝といった手段もあるが、積極的に選ぶべき道ではない。
つまり、今のところはこの均衡状態を維持し続けないとガロアンディアンは早晩瓦解してしまうということだ。
「ここが以前のような【暗黒街】に戻ってしまえば、ハルベルトたちの
少し、疑問に思って問いかける。
(地上から攻め込まれる心配ばっかりしてるけど、地獄の方は本当に大丈夫なのか? あのベアトリーチェとかいう奴、コルセスカに敵意剥き出しだったけど)
「地獄から攻め込まれる心配は、今のところ一切無いよ」
確信に満ちた断定口調だった。
と、ちびシューラの視線がレオに向けられていることに気付く。
そういえば、ベアトリーチェは彼を見て退いたのだった。
『地獄の貴種』とか言っていたが、レオの記憶は一向に戻らないままだ。
そもそも、『下』出身であるはずのグラや、魔将の側近であったというチリアットですらレオを見たのはここに来て始めてのことだという。
【猫の
正体の分からない記憶喪失の少年は、焦げ茶色の猫耳を少しだけ動かして不思議そうに首を傾げた。こうしていると、全く怪しいところは無いのだが。
ちびシューラは更に続けてこう言った。
「そもそもベアトリーチェはトライデントの使い魔――第七細胞の【右足】だから、一応は同じラクルラール派で、第十細胞候補の【左腕】でもあるシューラとは敵対関係には無いんだよ。今のシューラは、他の三人の末妹候補と休戦してるの」
コウモリのようだな。
とはいえ、末妹選定というのは別に最後の一人になるまで争い合うバトルロイヤルというわけではない。他勢力との休戦というのは、各々目的が異なるからこそ可能な選択肢だった。勿論、一時的なものではあるが。
「――ただ、もしラクルラール派から離れる時が来たら、その時はトライデントの勢力と今のままの関係を維持出来るか分からないけど」
かつて俺が勢いで掲げた『ラクルラールの打倒』という目的を念頭に置いた言葉。末妹ではなく、第六位になってしまうという選択肢は、しかし現実的には極めて困難なものだ。
トライデントの支援者でもあるラクルラールは、星見の塔で最大派閥を形成する正真正銘の怪物である。そんな相手と敵対するとなれば、当然トライデント全体と事を構える覚悟が必要になる。
更に、現在のガロアンディアンというのは星見の塔とラクルラールからの支援を受けて成り立っている部分が大きいらしい。
呪術産業界を裏から支配し、特に杖と使い魔の分野においてはクロウサーすら上回るシェアを誇る巨大複合企業体の最高経営責任者。
星見の塔と地上において、『教育』分野での圧倒的な権威として君臨するラクルラールは、塾経営や通信教材のみならず、各国の教科書や指導要綱に手を加えることができる権力を有しているという。
そして、現在の星見の塔における呪術教育カリキュラムを作り上げたのはラクルラールであり、抱えている弟子の数は星の数ほどと言われる。
ある意味で、末妹候補たちはラクルラールの弟子なのだ。
ガロアンディアンが不安定な今、絶対に敵に回せない相手だった。
「とにかく、今はクロウサーとドラトリアとの同盟関係を大事にして、その他の勢力も刺激せずにいたいの。まずはシューラの王国っていう足場を固める。目的の為に動き始めるのはそれからだよ」
いずれにせよ、それがちびシューラの決定なら俺はそれを全力でサポートするだけだった。他の面々も同じ気持ちのようだった。
俺が、レオが、チリアットが、グラが、ラクルラールがそれぞれ頷いて、そこからは次の舞台の話に移る。
ちびシューラはチリアットに裏方としての役割を命じて、レオに付いてくるように言いつけると、グラの肉体を操って楽屋を出ようとする。
足にしがみつく感触。見ると、ラクルラールが両手でグラの足に触れていた。
球体関節を動かしてよじ登ってくる人形は、マラードたちの物語を演じた時と同じように無表情な様子だった。
眼球の材質と光の当たり方の関係で、どこから見ても視線が追いかけてくるような不思議な感覚があるが、あくまで普通の人形である。
グラの手を伸ばして掴み上げると、楽屋の机の上に載せた。
「ごめんね、今は忙しいから、そこで待ってて? 後で相手してあげる」
そうしてグラと俺たちは、レオと一緒に楽屋を出た。
扉を閉めて鍵を掛けるとすぐに舞台袖だ。
すると、今度は幕の陰に隠れるようにしてラクルラールが置いてある。
鍵を掛けたはずなんだが。どこに行ってもついてきてしまうな。
「まあ、ラクルラールのことだから仕方無いですよ。もし舞台にまでついてきたら、小道具として置いときましょう」
グラの言う事ももっともだった。どうせ物言わぬ球体関節人形だ。邪魔になるということもあるまい。最高級の作品なので、調度としては悪くないだろうし、主役が王などの貴人なのでそういった品があっても不自然ではない。
困った人形のことは置いておいて、ちびシューラがレオに指示を出していく。
手持ち無沙汰な俺は、こちらの事を認識出来るラクルラールと視線を交わしたりして暇つぶしをしていた。意識に見えない糸が巻き付いていくのがわかるが、あまり不快ではなく、むしろ気分がいい。ラクルラールは癒しだ。
「まずはこっちから攻めていこう。レオ、こないだ教えたように、チャネリングで伝送路を開いて。【心話】でグレンデルヒに共闘要請と偽の行動予定表を送信」
レオは元気よく応じると、目を閉じて精神を集中させ始めた。彼はトリシューラやセージに呪術の指南を受けている。大変筋がいいらしく、元々素養があったとしか思えないほどに優れた呪文系統の適性を示しているのだとか。
(しかしちびシューラ、そんなことをしたら怪しまれるんじゃないか?)
指摘すると、ちびシューラはグラを頷かせてこう言った。
「うん。だから【冥道の幼姫】にもそれとは別の、これもまた偽の連絡をするよ。グレンデルヒに傍受されることを織り込み済みでね」
それだと、結局両方とも騙すことになるのではないだろうか。
死人の森と手を結ぶという話は一体どこに消えたのだろう。
こきこき、と音がしたのでそちらを見ると、ラクルラールが歩いてきて、グラの身体をよじ登っていた。人形は左腕に取りつくと、指から伸ばした糸をちびシューラの身体に巻き付けていた。
「敵を騙すにはまず味方から! 相手にも利することだから騙しても大丈夫だよ、両方とも得するよ、やったね! 騙されて利用される人も幸せな、高貴な嘘ってやつだよ!」
なんかそれ用法違うんじゃないか?
どちらにせよ最悪だが。
まあいいか。別に問題無いだろう。
「グレンデルヒ宛の情報は一つだけじゃ不十分だから、物量で攻めて。どうせ一つだけじゃ解析されて逆用される。速度と数にまかせて物語をぶちこめば、相手が呪文を使うのをいくらか妨害できるはずだから」
「はい、先生。情報の爆撃を開始します――【
レオは、目を閉じたまま呪文を唱えた。
彼の口から溢れ、黒い三角耳の周囲を取り巻いていく文字列は、独特の形式をしていた。
上に名前や職業といった発言者の名前が表記され、その下に台詞が記される。
いわゆる、戯曲形式とでもいうのだろうか。
始めて見る呪文の形だった。
「あれは演じられる予定の無い劇の台本――役者不在の演劇呪文。膨大な数のダミー演劇をぶつけてやるってわけ。何も、再演するのが一回だけって決められてるわけじゃないよ。劇って期間内は繰り返し上演されるものでしょう?」
なるほど、道理だ。
実際には文字情報のみで相手を撹乱する形になるが、人手も時間も足りないのだから仕方無い。それにこの手法なら同時に複数の戯曲をぶつけられる。
レオが構築した呪文がアストラル界――それともグラマー界だったっけか? とにかく何か呪術的な不思議空間に展開されていく。
飛行する呪文の群は、舞台袖から舞台の上へ。書き割りの背景の中に飲み込まれて、演劇空間へと浸透していく無数の物語。
役者である俺たち本人ではなく、架空の存在としての役者たちが文字情報として舞台の上に立つ。
文字のみの戯曲というのは登場人物と台詞、そしてト書きが基本的な構成要素であるから、即興が挟みづらい。
この戦いが演劇に即興を挟んで筋を歪め、解釈を変えていくという性質である以上、むしろ役者不在のままで劇を行う、というアプローチは効果的となる。
レオが紡ぎ出す呪文が、上手から横殴りの雨のように舞台に降り注ぐ。
しかし、即座に下手側から反応があった。無数の対抗呪文。
「言理の妖精語りて曰く」
グレンデルヒの声がどこからともなく響く。
アズーリアが得意としている語り直しの呪術。全世界に開示されたその無形の呪文を、上級言語魔術師たるグレンデルヒは巧みに使いこなす。
「相手に掌握された呪文には構わないで! 相手に休む暇を与えずに唱えて唱えて唱えまくる! 弾幕張って相手の動きを止めるんだ!」
レオが真剣な表情で呪文を唱え続けるのに合わせるようにして、ちびシューラがグラの身体を借りて機械的に呪文を量産していく。レオの繊細で情感の込められた語り口とは反対に、ちびシューラの呪文はひどく早口で簡素極まりない。
味も素っ気もない、まさしくただの『筋』という感じの台本である。
登場人物名も、職業とか役割ですらなくAとかBとかで、ドラマとしての行為や運動も叙述するというよりは工学的に配列するといった風情だった。
(本質は変わらないからいーの! それに今は質より量と速度!)
ちびシューラの言う事はもっともだが、同時に彼女が杖の座であるということを実感してしまうのも確かだった。
舞台の上には誰一人いないまま、文字列だけが乱舞していく。
激突する物語とその解釈。改変される筋書きと打ち棄てられていく枝葉末節。
架空の登場人物たちがうっすらとした輪郭のまま舞台に現れては消え、また現れて劇を進めていく。異なる筋書きが交錯し、同じ登場人物が重なり合い、主役である王がずらりと並んでいく。
オルヴァ王は絶対的な任命権を有していた。
また神――というか、彼らカシュラム人にとっての神に相当すると思しき存在の『神威』によって王としての権利を与えられているため、彼は宗教の最高権威者でもあった。ゆえに聖職の叙任権も有し、およそカシュラムにあって彼に定められない地位や役職は存在しなかった。
民主主義社会ならば選挙によって行われる事が、この時代では全て王の意思ひとつで決定される。
オルヴァは【権力の選定者】として君臨し、人々から畏怖されていた。
大筋の設定――すなわち史料として残っているため『史実』として動かないこうした部分は残したまま、大胆なアレンジを加えられた物語が展開されていく。
レオ解釈のオルヴァは極めて慎重かつ大胆な人事を行い、良い統治者として振る舞ったが、グレンデルヒ解釈のオルヴァは権力を濫用し、地位という利権を売買するという腐敗を招きカシュラムを衰退させた。
入り乱れる物語の群、登場人物の解釈が波紋を生み出し、次第に舞台の上におぼろげな輪郭を作り上げていく。
呪文使いたちの解釈はそれぞれバラバラだったが、差異はかえって共通点を浮き彫りにしていった。異なる認識がぶつかり合い、互いに消滅した後に残ったもの。そこには、より強固な輪郭を有したオルヴァが立っていた。
「【紀】の抽出に成功。レオ、あのオルヴァを中継点にして呪文を多重展開!」
ちびシューラが鋭く宣言して、再び無数の呪文を解き放つ。
今度はそれらが舞台中央のオルヴァに吸い込まれていき、そこから無数の呪文が広域にばらまかれていく様子が見えた。
解釈とそれらの相互作用が生み出す『神話の結節点』があのオルヴァだと、作業と平行してちびシューラが解説してくれるが、何を言ってるのかわからなかった。
まあいいか。どうせわかったところで俺にできることなんてないし。
(ちびシューラにレオ、頑張れー)
(もう何のためにいるんだかわかりませんね。俺もですけど)
表に出ているちびシューラの後ろで、俺とグラは舞台を眺めながら言った。
基本的にやることがないから暇だ。
男二人、ラクルラールと戯れながら時間を潰す。それにしてもラクルラールは実体のある人形なのにあやふやな存在の俺と接触できるなんて凄いなー。
舞台の上ではレオとちびシューラが掌握したオルヴァが演技を繰り広げている。
グレンデルヒの妨害が入るが、今までのものよりも強固な人物像であるオルヴァは多少の呪文ではイメージが揺らがない。あるいは、解釈を引っ繰り返されても受け入れてしまう許容量があった。
オルヴァは孤独な王だった。
絶大な権力を持つがゆえに、人を信じられず、明日にも世界が滅んでしまうのではないかというほどに毎日怯えながら暮らしていた。
王は祭司としての役割も兼任する。
彼は毎日のように神聖な儀式を執り行った。
それは、俺がイメージするような一神教や多神教の神とは微妙に違う信仰の形態に見えた。宗教学に詳しければ類似した例を挙げられるのだろうが、俺にとってそれはちょっとした驚きだった。
意味を持たない言語が、聖堂に響く。
カシュラムに固有の生物と言われる聖獣、紫色をした
純白の衣に縫い付けられている、特徴的な紫のカシュラム十字が淡く輝いた。
それと共鳴するように、オルヴァの両目の内側にもまた十字の輝きが宿り、星のように瞬く。十字はあらゆる文化圏で聖なるものの象徴とされているが、カシュラムでは特に『事象の始まりと終わり』を象徴するとされ、彼らの『神のようなもの』と結びつけられていた。
オルヴァの両手から灰色の光が放たれ、紫の虎に触れる。
途端、猛獣の全身が急速に朽ち果てていった。
獣を襲っているのは『老い』だ。時間を加速させているかのように、灰色が獣の肉体を急激に衰えさせていく。
灰色の光はやがて強烈な白となり、更には燃えさかる炎となって獣を焼き尽くした。それはおそらく生贄だったのだろう。老いて息絶えた虎に引き寄せられるようにして、『何か』が現れた。
――『何か』としか呼びようがなかった。
その『神のようなもの』をカシュラム人はカシュラム人以外に説明することができない。説明して理解されたとき、その相手は既にカシュラム人であるから、カシュラム人以外がそれを理解することは定義上不可能なのだ。
ゆえに、カシュラム人は彼らの信仰を理解しないものたちを蔑みと哀れみを込めて『マシュラム人』と呼ぶのだとか。全く鼻持ちならない連中である。そりゃ嫌われるわ。グラの解説に、色々と納得した俺であった。
舞台の上の『それ』は、不思議と俺には認識出来なかった。
それが見えてしまえば俺もカシュラム人ということになるのだろうが、とりあえず何か途方もないエネルギーが渦巻いている気配だけは感じる。
それは恐らく『聖なるもの』ではあるのだろう。
だが俺はそれ以上に、その得体の知れない気配から原始的で言いようのない恐怖を感じた。その戦慄するような異質さは、身の毛のよだつような節足動物を見た時の、絶対的に理解不能である性質、そして生理的嫌悪感と同居する有機的な美に対する感動がもたらす感覚に似ていた。
オルヴァは滂沱の涙を流しながら高次の存在に傅いた。
「おお、偉大なるブレイスヴァ! 我らが終端を喰らい給うな! どうか、この救いのない苦痛に満ちた生に、安らかな眠りを!」
訳のわからないことを言いながら、泡を吹いて昏倒してしまう。
周囲で控えていた神官たち(の幻影)も、口々に『ブレイスヴァ』という名を呼びながらある者は床に頭を打ち付けて流血し、ある者は白目を剥いて失神し、またある者たちは狂乱しながらお互いに殺し合った。
カシュラム人は皆、等しく発狂しているのだ。
その場にいる聖職者たちが一人残らず息絶えた後、静謐な聖堂でオルヴァは一人立ち上がると、肩を落として退出していく。
「ああ、新たな神官たちを見繕う必要があるな。疲れた。もう嫌だ。生きることは苦痛だ。死ぬ事しか楽しみがないが、魂の終端をブレイスヴァに喰われたならば、私の苦痛は永劫に続くのか、それともその永劫すら無となってしまうのか。ああ、わからない、恐ろしい、恐ろしい」
余人には理解できない恐怖を抱えながら鬱々とした日々を送るオルヴァ。
暗転の後、チリアットが書き割りの背景を入れ替えたりグラが大道具を運んだりして準備を整え、場面は移り変わっていく。
オルヴァは妻を娶ることになった。
ヒロインの登場シーンである。舞台袖、下手から現れるのは蜂蜜色の髪に灰色の瞳の少女。お馴染みとなった【冥道の幼姫】は、今回『キシャル』という名で配役されているようだ。
優雅に、颯爽と舞台中央に進み出ていくキシャル。
がくんと前につんのめり、そのまま顔から床に激突した。
何かに足を取られ、盛大に転んだのである。
事態が上手くのみ込めず、困惑して周囲を見回すキシャルは、足下の蓄光テープが呪術を発動させて小さな足を束縛していることに気がつく。
少女はその術を解呪して立ち上がるが、そこに襲いかかったのが頭上から落下してきた照明である。かなり重い音がして、舞台の上にごとりと黒いものが転がる。
キシャルは腫れ上がった頭を抱えてわけも分からずに目を白黒させていた。
というかあれで涙目になるくらいで済んでいるのだから、やはり尋常な人間などではないことがよく分かる。普通はあの質量が頭部に直撃したら死ぬ。
勿論、これらは偶然などではない。
(よっし、成功! 指示通りによくやったね、チリアット!)
碌でもない嫌がらせの実行犯にされたチリアットには同情するが、ちびシューラはご満悦であった。更には無数の呪文をキシャルに放って行動を制限していく。
舞台の上の少女は頭を押さえながら眉尻をきっと吊り上げて、ちびシューラが放った呪文を全て跳ね返していく。
戻って来た呪文には、キシャルからのメッセージが添付されていた。
(何をするのですか! グレンデルヒを倒す為に、一時的に同盟を結ぶはずだったのでは?! 謝罪と釈明をするのであれば、今のは赦して差し上げます)
すると、ちびシューラは馬鹿にしたように呪文を投げ返して言った。
(はぁ? セスカを人質にとってる分際で何ふざけた事言ってるわけ? そんなの貴方を陥れるための嘘に決まってるでしょう。そんなこともわからないの?)
(そんな、約束したのに!)
(してませんー、約束してもいいことを仄めかしただけですー)
(卑劣な!)
キシャルは信じられないものを見るような目で舞台袖で待機しているこちらを見た。なんだか申し訳無くなってくる。
(約束はちゃんと守らないとダメなんですよ! 一体どうしてそんな悪いコに育ってしまったんですか! そんなふうだと、いつか誰からも信用されなくなってしまいますよ! ね、今なら謝れば赦してあげますから、今のうちに嘘を吐いたら謝る習慣を身につけておきましょう?)
なんだこのまともっぽい反応。
ちびシューラは何故かこちらの将来を案じるかのような物言いをするキシャルに気圧され、呻いていた。まずい、相手の言動がわりと清らかなせいでこっちの邪悪な主がダメージを受けている。
(同盟を結んで、一緒にグレンデルヒを倒しましょう。その、アキラ様も同じ意見なのですよね?)
恐る恐るという感じで付け加えられたその一言に、ちびシューラははっと目を見開いた。それから、
(この腐れビッチ! アキラくんに色目使うなんて一万年早いっ! 加齢臭のする屍体ババアは式場選びでもしてろ! 結婚式じゃなくて、葬式のね!)
とあんまりにもあんまりな暴言を吐く。
キシャルはそれにかなり傷付いた様子である。
(ううっ、そんなババアだなんて――確かに精神年齢は――でも、転生したから年齢はリセットですし、あ、でも確かにお葬式は一緒に盛大に挙げたいような――)
何言ってるのかわからないけど転生したら年齢リセットには同意である。
俺の年齢は生後八ヶ月。異論は認めない。
ちびシューラは目を大きく見開きながら腕をがくがくと振って喚き散らした。
(同盟なんて知るかー! 三勢力でそれぞれいがみ合って、ひたすら足の引っ張り合いをするんだー! だってラクルラールお姉様がそう仰せなのだもの)
勿論、ちびシューラの言う通りだ。
ミーティングで決めた通り、ラクルラールの言う通りにしておけば間違いは無い。キシャルと手を結ばれては困るとラクルラールが言っている以上、従わないわけにはいかない。大切な仲間の為だ。
「ま、ラクルラールの為です。強敵を同時に相手にするくらいやってみせますよ」
「うむ。このチリアット、未熟ながらラクルラール殿の為に粉骨砕身いたしましょうぞ」
「そうだ、後でカーインを呼んで手伝ってもらいましょう。ラクルラールのことだから、人手が多い方が助かりますよね?」
グラ、チリアット、レオがそれぞれ賛同する。
俺たちの心は一つだった。
グラの左側、俺とちびシューラが宿る左腕の上に乗って、ラクルラールが口を開いた。
カタ、カタ、カタ、カタ、カタ――。
硬質な音が響く。
それはラクルラールが笑う音だった。
俺たちもそれに引きずられるようにして笑い出す。
とても愉快だった。
こちらを凝視する灰色の瞳が、驚愕と絶望に揺れているのが何故か少しだけ気になったが、まあどうでもいいことだ。
キシャルは敵。
グレンデルヒも敵。
世界はシンプルで、ラクルラールの言う通りに動いていればそれで全てが解決するのだ。何も問題は無い。
レオとちびシューラが呪文を舞台上に放って展開を思うように改変し、舞台裏からチリアットがセットを弄ってキシャルを妨害し、グラが操る電流が音響の機材などを狂わせ、舞台演出が滅茶苦茶になっていく。
「そんな、ことが」
迂闊なことに、舞台の上だというのに台詞ではない肉声を出してしまっている。先程から演技も忘れてしまっているし、彼女は役者としては失格だ。
声が震えているのも良くないし、表情が強張っているのもまずい。
あれはいてはいけないものだ。
「――ふざけないで」
何かを言っている。
よくわからないが、異物が何かを呟いている。
排除すべき敵、コルセスカを俺から奪おうとする仇が、潤んだ目でこちらを見ている――なんて、鬱陶しい。
「言ったはずです。全てが貴方の思惑通りに運ぶと思っているのなら、それは間違い――その事を、今から思い知らせて差し上げます」
何故だろう。
煩わしさしか感じない敵の言葉が、どうしてか今だけは、尊く、大切に感じられてしまう。それは、懐かしい冷たさにどこか似ていた。
俺たちの全身に絡みつく感触が、そんな錯覚を忘れさせてくれる。
俺にも、ちびシューラにも、レオにもグラにもチリアットにも同じように巻き付いている糸――それは夥しい量の髪の毛だ。
ラクルラールに包まれているのを感じる。
だからもう、するべきことを迷ったりしない。
俺たちは、力を合わせて強大な敵に立ち向かう。
たとえ一人一人の力が弱くても、結束の力は無限大だということを教えてやる。
いくぞ、【冥道の幼姫】――ここからが本当の戦いだ。
俺たちの絆の強さを思い知れ。
――どろり、と。
髪の毛が溶けて、青い流体と融け合っていく。
とても美しい色だと思った。
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