4-49 食い千切られた左腕



(もう、だから暑苦しいってば。ていやっ)


 俺がしがみついて離れないのに業を煮やしたちびシューラは、棒のような腕でこちらのずんぐりとした腰と肩を掴み、膝のない真っ直ぐな足を素早く払った。

 いつもとは違う人体の構造に慣れていない俺は、踏ん張ることも受け身をとることもできずに見事に転倒してしまう。


 俺たちが立っていることになっている架空の床に思い切り後頭部をぶつける。凄まじく痛い。見事に腫れ上がって俺の頭そのものよりも巨大になっているが、大丈夫なのかこれ。


(いくらシューラたちの間柄でも、セクハラはダメだよ、アキラくん)


 両手で頭部を掴まれて、ぐりぐりと押し込まれる。

 凄まじい剛力に身体が浮き上がった。


(い、痛い痛いなんかこれ痛覚カットできてないんだけどどういう事だ?!)


(えっへん。これはね、スタンドアロンシューラ、別名左腕シューラだけが使える裏技だよ。アキラくんの原初の記憶を呪術的に想起させてるから、セスカの感覚吸収でも奪えないんだなー)

 

 何を言っているのか分からない。スタンドアロンとか左腕とか、そもそもどうしてちびシューラがここにいるのかとか、色々と謎だらけだ。

 いずれにせよ、小さくなった俺はちびシューラに手も足も出せない。


 デフォルメ人体の動かし方に関しては、ちびシューラの方が圧倒的にベテランなのだ。同じ土俵に上がった今、俺が素手でちびシューラに敵うはずもなかった。

 明白な力関係に、俺は戦慄して震える。

 腕力差の前に、人は無力だ。圧倒的権力に平伏した。


(えいえい、ご主人様のお帰りだぞー。三つ指突いて出迎えろやー)


 ちびシューラの無体な要求。

 そんなこと言っても手に指とか無いし、と言おうとしたら頭をぺちぺちと叩かれた。痛い。


(いじめには断固反対する!)


(そんなこと言って、身体の反応はそうは言ってないけどなー? 本当はもっとぶってほしいんでしょう?)


 いつものにこやかな表情に、嗜虐的な色を含ませて、ちびシューラは俺を追いかけ回してくる。勝手にこちらの内心を決めつけないで欲しい。

 まあ、こういった彼女の理不尽さに安堵していることは確かなのだが。


「あの、人の目の前でべたべたするの止めてもらえませんか。いい加減しんどいんですが」


 しらっとした口調で呟いたのは、グラッフィアカーネことグラ。

 現在俺の左腕を保有している、『俺を演じている役者』にしてトリシューラ配下の精鋭集団【マレブランケ】の新しいメンバーである。

 が、奇妙な事にちびシューラは首を傾げてこう言った。


(誰? このコ)


 その反応に、逃げ回っていた俺は思わず足を止めてしまう。

 ちびシューラが、グラを知らないだと?


(いや、だからマレブランケの新しい一員だろ。お前が加入を認めたんじゃないのか? カニャッツォの奴も把握していたぞ?)


 そう説明すると、ちびシューラは奇妙な事を言い出した。

 

(あれー? 一応シューラが参照できるデータはトリシューラ本体が太陰に向かう直前までなんだけど、知らないよ? カニャッツォの紹介なんだよね? なら試験中に遠隔で面接して、採用したのかなあ?)


「ええ、太陰からの通信だったので、若干手間取りましたけど。確か、一次試験が終わった直後だとか言ってました」


 グラの言葉が正しいのなら、彼の採用が決まったのはトリシューラが出立した後のことだ。普通に考えれば加入が唐突に過ぎるが、トリシューラのやることだからと周囲は納得していたように思う。俺もそうだ。

 更に彼は付け加えるように、


「一応、最初はあっちから連絡が来たんですよ? カニャッツォさんの紹介もあったんで、俺は仇が討てるならってことでここまで来たんです。いい加減、独りだけで第四階層を攻略するのにも限界を感じてましたし」


(下の探索者だったのか)


「ええまあ。半年くらい前に第四階層の一番奥まで辿り着きました――ただ、悔しいですけど、階層掌握者の第七位には手も足も出ませんでした。守護の九槍が全員あんな怪物だとしたら、今の俺じゃあサイザクタートの仇討ちは無理だ」


 グラの言葉、そしてその中に含まれている感情に嘘は無いように思える。

 しかしちびシューラは彼に対して不審を感じている様子だった。

 小さなデフォルメの少女が、すっと目を細めて言った。


(それ多分私じゃないや。カニャッツォだけじゃなくて、リーダーのマラコーダにも話は通ってるんだよね――全員まるごと騙されたのかな。じゃ敵か)


 突如として左腕がグラの左目に向かって突き出され、鋭く伸ばされた人差し指が眼球目掛けて矢のように進んでいく。

 完全な不意打ちに、グラは反応ができない。呆然と目の前に迫り来る指を凝視して、直前で目蓋を閉じる。


 目蓋に軽く触れて、左腕の動きが止まった。

 眼球を上から押し潰すようなことはなく、グラの目は無事なままだ。

 ちびシューラは首を捻った。


(違うか。悪意があったらレオが気付くよね。なら知らずに駒にされているパターンかなー。いずれにせよ有害な気がする。アキラくん、予防的に、念のため殺しておく? シューラとしてはここで始末してもいいんだけどー)


 グラの左腕に括り付けられた俺の左腕。

 その断端から、夥しい量の鮮血が流れだし、半ば呪術的な存在となった俺の知覚を揺るがすほどの呪力を発していた。

 赤く輝く不可思議な鮮血。この呪術には覚えがある。


(『切り札』の無駄使いはしたくないな。何だったら『針』の一本で痛みもなく終わらせてあげるよ)


 ちびシューラが俺の左腕を介して操る鮮血が、凝固して細長い針となる。

 いつか、キロンと戦った時にも見せた術だ。

 あのキロンが危険視するほどに強力な呪術で狙われて、グラの顔が引きつる。逃れようとしているのだが、彼の全身は呪縛されて動けなくなっていた。


(やめてくれ、ちびシューラ)


 俺は、考えるよりも先に彼女に頭を下げて頼んでいた。

 思い出すのは、直前の舞台。

 誰かの為に、未来のリスクを減らす為に、予防的に人を殺すとウォゾマ=グレンデルヒは言い放った。


 グラが敵であるかどうか、有害であるかどうかはわからない。

 少し前、俺は【変異の三手】の副長クレイを同じ理屈で殺そうとした。

 クレイは明らかに敵だったので少々事情が異なるが、それでも俺の行動を制止したリールエルバの配下、バルの気持ちが、今は少しだけわかる。

 

 ここは呪術の世界で、共感しやすさの閾値が低い世界だ。

 呪術そのものである『役』となってしまっている俺は、『役者』であるグラに感情移入してしまっているのかもしれなかった。

 何か、順序が逆のような気もするが。


(グラは多分、親友が大事ってだけの、わかりやすい価値観の奴だ。そういうタイプのほうが、手駒としては扱いやすいんじゃないか?)


 そうして、俺はいつの間にか、恩人であるアズーリアの命を狙う相手の味方をしてしまっていた。

 自分が泥沼に足を踏み入れていることを自覚しつつも、言葉は止まらない。


(ここでグラを手にかけたら、俺はグレンデルヒの敵で居続けることが出来なくなるような気がする。それに、『疑わしきは罰する』なんていうやり方は、例えお前が専制君主であってもかなりやばい。俺たちは多分、第五階層のやり方に慣れすぎてて、暴力が制御出来てないんだと思う)


(ふうん。ま、そうだね。ガロアンディアンには『法』が足りない。手が回ってないっていうのもあるし、それ以上にまだ形が定まっていない王国だから、それを構築するだけの力が無いんだ。うん。アキラくんの判断が正しい。よくできたね。じゃあやめようか)


 ちびシューラはあっさりと矛を収めてくれた。

 グラの肉体に自由が戻り、夥しい量の血液が左腕の中に戻っていく。

 というか、まさか今、俺は試されたのか?


(うん。あと、アキラくんの目から見てグラがどうなのか確かめたかった)


 あっけらかんと言ってのけるちびシューラの表情は、いつも通りの感情の無い朗らかな微笑みである。

 絶句するグラと嘆息する俺。


「――あの、本当に俺、裏とかないです。間諜とか、そういうことは」


(わかったよ。また落ち着いたらちゃんと面接しようね。とりあえずは臨時採用ってことでいいかな?)


「ええ。信じてもらえて助かりました。あらためて、よろしくお願いします」


 直前まで危険に晒されていたというのに、殺意を向けてきた相手に平然と対応できるのは探索者ゆえのメンタリティだろうか。

 グラはそれから、ちらりと俺の方を見て、


「どうも」


 と素っ気なく言った。なんというか、対応に困る。

 緊張した場面が終わって、空気が弛緩していく瞬間を見計らったように、横合いから声がかかった。


「あの、グラさん。さっきから誰と話してるんです? もしかして、アキラさんじゃない相手ですか?」


 レオが不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 その後ろからは、裏方として動いていたらしいチリアットがやってくる。

 俺とちびシューラの姿は『左腕』の所有者であるグラにしか見えない。

 傍目からはわけがわからないだろう。


 グラの口を借りて、俺とちびシューラが交互に喋って状況を説明する。

 ちびシューラが現れたということを聞いて、レオは目を見開いてかなり驚いた様子を見せたが、すぐに笑顔になって「先生!」と呼びかけていた。よく懐いていることだ。ちょっと羨ましい。


「あの、ちょっと気になるんですけど。バックアップでスタンドアロンってことは、今のちびシューラ先生は、アキラさんの左腕の中に、あらかじめいたということなんですか?」


(そうだよ。いざという時の為に仕込んでおいたんだ。バックアップのアキラくんと一緒でね。だから私たちはバックアップ同士ってことになるね)


 ちびシューラの説明によれば、今の俺たちは切り離された左腕を核にして存在しているかりそめの存在らしい。

 腕の内部には無数の呪術的な精密機器が詰め込まれており、本体に致命的な危機が訪れた際に復旧できるようになっているのだとか。


 俺は転生によってこの世界に再構成された瞬間に左腕を人狼に食い千切られてしまった。その左腕の行方は長いこと不明だったわけだが、どうやらトリシューラが回収してくれていたようだ。まったく彼女には感謝してもし切れない。


(そうでしょうそうでしょう。もっと褒めてもいいよ?)


(本当にありがとうちびシューラ。ちびシューラと出会えて無かったら、今の俺は存在しなかったんだな)


(うーん、もう一声欲しいなー。アキラくんからのちやほや度が足りなーい♪)


 ちびシューラは上機嫌で両足を広げてぺたんと座り込んでいる。両手を垂らして、尻尾をぱたぱたと動かしている様は子犬のようだ。

 笑顔と情動が一致していることを示すように、頭頂部の耳もまた微かに動いていた。僅かに外側を向いた三角形の耳で、全体にふさふさとした毛が生えている。


 犬というか、狼の耳と尻尾がいつの間にかちびシューラに付け加えられていた。

 俺はちびシューラを褒めそやしながら、それとなく探りを入れてみる。


(流石ちびシューラはなにをやらせても最高だな。その耳と尻尾も良く似合ってる。なんだか馴染み過ぎてて、ずっと前からそうだった気すらしてくるよ)


(えー、そうかなー? もう、今日はなんだか沢山褒めてくれて照れるなー)


(それだけ精巧な耳と尻尾を作れるってことは、全身人狼のきぐるみとかも作れるんだろ? 牙の鋭さとか身体能力とかも完璧に再現する感じで)


(余裕余裕! これはシェルを追加してるだけだけどー、実際に本体シューラベースで追加パーツ作ったり生体強化外骨格作ったりとかもできるよー)


(そっかー。薄々そうじゃないかとは思ってたけど、俺の左腕を食い千切ったのはトリシューラだよな?)


(うん! 別に隠すようなことじゃ無いから言っちゃうけど、泣き喚くアキラくんごちそうさまでした!)


(てめえ)


 俺じゃなかったら、というかキロンとの戦いの前だったら関係が破綻しているような事実をさらりと明かしやがって。

 聞いていたグラは思いっきり引いていた。普通はこうだ。

 ちびシューラは満面の笑顔で続けていく。


(アキラくんをこの世界で最初に傷つけたのはシューラ! アキラくんが最初に触れて傷つけて身体的なコミュニケーションをとったのもシューラ! 圧倒的にシューラこそがアキラくんのご主人様だよ! 雛鳥の刷り込みってやつだよ!)


 元気一杯に言葉を連ねるちびシューラは、本体だろうとバックアップだろうと全く変わらずに最悪な魔女のままだ。

 

(まだ何か隠してないだろうな)


(さーどうでしょう)


(ったく。まあ、結果的に今こうしていられるんだからいいけどな)


 それに、左の義肢というトリシューラとの繋がりは、左腕の欠損が無ければ得られなかったものだ。その真実が放火して自分で火を消す消防隊員のような碌でもないものだったとしても、それによって生じた現在は俺にとってかけがえのないものなのだ。


 今の俺は、『真実の過去』にはあまり興味が無い。

 それが俺たちにとってより良い未来に繋がってくれるのなら、聞こえの良い、捏造された過去の一つや二つ、いや六つくらいはいくらでも『良し』としよう。


 それが正しくない行いだとしても。

 何だったら、今この場でかつての第五階層を再演して、俺がトリシューラに襲われた一幕を血塗られた惨劇から面白おかしいコメディに仕立て上げたっていいくらいだった。改変された過去は、俺たちの繋がりを一層強固にすることだろう。


(がおー! 食べちゃうぞー! どう? 怖くてうんち漏らしそうじゃない?)


 ふざけてちびシューラが言うと、左腕が勝手にぶるりと震え始めた。驚くべき事に鳥肌が立っている。まさか、恐怖を覚え込まされているのか。

 やり取りを聞いていたグラが呆れた様子で言った。


「いくらなんでも、大の男がびびって脱糞するなんざありえないでしょう」


(そうだな。全くその通りだ。ちなみに俺は生まれてから今までそういった粗相をしたことは一度も無い)


 何度も頷いて、激しく同意した。

 俺の言葉は完全な真実であり、真実はすなわち俺の言葉である。

 俺は脱糞してない。ほんとだよ。そんなくそったれな事実は無かったよ。


「何でそんな必死なんです?」


(必死じゃない全然必死じゃない。普通だって。これっぽっちも怖くないから)


(がるるるる)


(ひっ)


 俺が怯えているのは、単純な腕力の差からであって別に人狼シューラが怖いとかそういうことではない。この点をはっきりさせておきたいところだ。

 二人でまたじゃれあっていると、グラが白けた目で俺たちを見て、レオに向かって言った。


「あの、この人らがトップって、ガロアンディアン大丈夫なんですか? 相当イカレてませんか?」


「え? えっと、何を話しているのか分からないですけど、殺伐ほのぼのしてるのはいつものことですよ? 先生とアキラさん、いつも楽しそうで羨ましいです」


「――とんでもないところに来てしまった」


「まあ慣れだ慣れ。しばらくここで過ごせばお前もじき馴染むだろう」


 チリアットが右腕を後輩の肩に置いて言うと、グラは嫌そうな顔をした。

 その後、現状についてちびシューラに詳しく説明していく。

 状況は混迷を極め、既に後半戦に入ろうとしている。

 次に幕が上がる前に、作戦を立てておくべきだった。


(ヴィヴィ=イヴロスお姉様?)


 と、ちびシューラが不思議そうに言った。

 協力者であるキュトスの魔女のことが、どうやら彼女には不可解に感じられるらしい。確かに不審な動きが多すぎるので俺も疑問に思っていた。

 だが、ちびシューラが明らかにした事実はより疑問を深めていく。


(あの人――ラクルラール派だよ?)


(何?)


 それは確か、末妹選定におけるトリシューラの対立候補、トライデントが所属する派閥ではなかったか。

 そして、いずれトリシューラが乗り越えなくてはならない壁の一つ。


(といっても、私もラクルラール派といえばラクルラール派なんだけどね。ヴィヴィ=イヴロスお姉様は前第六位のミスカトニカ様の直弟子であったアップリカ様の派閥に属していて――)


(待て待て待てわかんなくなってきた)


 星見の塔とか俺には想像もつかない場所なので、詳しく説明されてもぱっとイメージができない。もうちょっとゆっくり教えて欲しい。

 聞くところによると、星見の塔における最大派閥ラクルラール派というのは巨大すぎて内部で更に幾つの派閥に分かれているとか。


 第六位代理のラクルラールを正統とは認めず、自分たちこそが前第六位の遺志を継ぐものである、と主張しているのが、今名前が出たアップリカやヴィヴィ=イヴロスといった魔女なんだとか。


(つまり、敵ではない?)


(味方とも限らないけど、ラクルラールお姉様に立ち向かうという点では協調できる、かな。それと、ただ単に中立のヘリステラお姉様の要請に従って動いているだけで、派閥争いとは関係無いってことも考えられるし)


 敵の敵は味方というが、今の俺たちの状況に少し似ていた。

 グレンデルヒを共通の敵とする俺たちと死人の森は手を取り合えるのだろうか。

 これまでもそんな感じだったような気がするが、敵、味方がひどく曖昧な状況が続いている。


 敵かも知れないし味方かも知れない。状況次第でいくらでも立場が入れ替わり、勢力の均衡は流動的。こんな状況でどう判断してどう振る舞うべきか、正解など俺には見つけられない。誰か不特定多数に相談して、集まった意見を優れた知性の持ち主に選別して欲しい。


(それサイバーカラテだよね)


(はい。なので、新生サイバーカラテ道場の超高度AIであるちびシューラ様にご指示を仰ぎたいのです。お願いします、師範!)


(ふむ。よいじゃろう)


 ちびシューラは立派な白い髭を撫でさすりながら言った。

 瞬時に道着姿の老爺っぽい格好になったちびシューラは、何となく武術の達人っぽい威厳を醸し出している。


「じゃあ、方針を言うね」


 ちびシューラはグラの口を借りてその場にいる全員に向かって言った。

 彼女はガロアンディアンの女王。つまり俺たちに指示を出す立場にある存在だ。

 勢力のトップがいる限り、ガロアンディアンはまだ死んでいない。


「私は、グレンデルヒを倒す為に死人の森と一時的に共闘しようと思う」


 俺はコルセスカのことを言おうとしたが、それくらいは彼女もわかっているのか、すぐに手で止められた。

 【死人の森の女王】に見せられた幻影を思い出す。コルセスカの無数の前世。更に、今までの三つの舞台で演じられた、異なる名前と役割の前世の姿。


 再演がされる旅に、コルセスカが違う存在によって浸食されていくような、そんな不安が広がっていく。

 この過去を巡り行く旅の果ては、彼女の喪失なのではないのか。

 そんな不安が、付きまとって離れない。


「【死人の森の女王】やヴィヴィ=イヴロスお姉様への対応はその後。まずはこちらの陣容が万全にならないと始まらないよ。それでもし、セスカが完全に存在を乗っ取られてしまったとしたら――」


 その続きこそが、俺が一番知りたかったことだ。

 ちびシューラは俺の目を真っ直ぐに見つめる。

 獣のような、獰猛な視線だった。


「上書きに上書きを重ねてやればいいんだよ。『今のセスカ』っていう存在を強く確信しているシューラたちが、今ここにいる。バックアップはここにあるの。だからシューラとアキラくんを内包するこの左腕がある限り、リカバリは可能だよ。この左腕が、私たちの勝利の鍵なの」


 その言葉は光のようだった。

 自信を失いかけていた俺の心を強く照らし上げる、コルセスカにとってのもう一人の自分――鏡映しの姉妹。


 過去がコルセスカの存在に影響を及ぼすだけの力を持つというのなら。

 逆に、現在が前世の彼女を書き換えることだってあり得るのだ。

 これは、時間を超えて行われる、双方向性の存在の鬩ぎ合いだ。

 そして、コルセスカはひとりきりじゃない。


 この頼もしい主がいれば、もう大丈夫なのだと信じられた。

 この二人のどちらかが欠けることなどあり得ない。

 両腕が揃ってようやくサイバーカラテが完璧になるように、俺たちは三人で前に進んでいく。その未来が、確信できた。


「よし、というわけで次の戦いに向けてのミーティング、始めるよ! シューラが来たからには、舞台はもうこっちのもの! 歓声を独り占めして、カーテンコールまで突っ走るからね!」


 力強い声に、それぞれが応じる。

 そうして女王の号令の下、反撃の狼煙が上がったのだった。


(あ、そうだアキラくん。【死人の森の女王】の名前ってなんて言うの? 称号じゃ呼びづらくて)


 開幕の直前、隣にいるちびシューラがそんなことを訊ねてきた。


(それが、幾つも名前を持っているらしくてな。最初は確か、ディスマーテル・ウィクトーリアで、次がニケとか。あとはうっすらとフェブルウスとか聞こえたかな。その後はセレス、ディーテ、テスモポリスと舞台ごとに変わっていったが)


 それを聞くと、ちびシューラは少しだけ考え込んだ。


(ふむふむ。そうか、そういう引用かー。だとすると、さっき言ってた『断章』の名前は――確か、『愛情』と『道徳』と『健康』だっけ?)


(ああ、それでいいと思ったが)


 【死人の森の女王】――過去の時点では【冥道の幼姫】が集めている黒い本はそんな名前だったと記憶している。

 それを確認すると、ちびシューラはなるほどと頷いて言った。


(じゃあ残りの名前は多分こうかな。第一断章が尊敬レヴェランス、第二断章が技能スキル、第三断章が地位ステイタス、第四断章が健康インテグリティ、第五断章が道徳モラリティ、第六断章が愛情ナラティブ、第七断章がトラスト、第八断章が知識リコグニションって、そういえば六つしか無いのかな? うーん、七番目は多分メートリアンのだよねえ)


 すらすらと出てくる名称の数々に、俺は驚いて聞きかえした。


(知ってるのか?)


(うん。ほとんど使い魔の分野だけど、ある意味では私の専門でもあるから。あのね、これはこっちの世界では【九つの大罪】とか【九つの罪源】とかって呼ばれてる『権力の基盤となる価値』のことなの)


 また、よくわからない話が出てきたが――しかしどうもしっくりとこない。今並べられたものが『大罪』というのは、直観に反するというか。

 どれも、ごくありふれたものに思えるのだが。


(昔は武力フォースとか教育ビルドとか信仰フェイスとかもあったんだけど、それぞれ分割吸収されて今の形になっちゃったの。一応、アキラくんの世界にも似たような概念はあるはずだけどな。完全に同じではないだろうけど)


 ちびシューラはそれらが『権力の基盤』だと言う。

 確かに、それらは使い方によっては人を従わせる権威になり得るかもしれない。


(【王国】って呪術――使い魔系統の奥義を成功させるためには必修だったからねー。一応、これらを包括するのが今シューラが第五階層に広げている支配マスキュリニティなわけだけど)


(あー、多分わかんないから簡単に頼む)


 頭がこんがらがりそうだ。

 とりあえず、トリシューラの王国に関係していることなのはわかった。



(要するに、おっきな呪術の場を作り出して、術者である王が何かの価値を掲げるの。それをみんなに認めて貰う儀式が【王国】なんだけど――それを行うための祭具があの『断章』ってことなんじゃないかな。あれは、建国の鍵なんだよ)


(建国の鍵、か。ならあれさえ持っていれば、【冥道の幼姫】は自分の王国を完全に復活させることができる?)


(そういうことだね。逆に、シューラたちが奪ってしまえばそれを阻止できるだけじゃなくて、こっちの権力基盤をより強固にできる)


 これは想像以上に重要な情報かもしれない。

 今後は、あの『断章』を手に入れることも考えておくべきだろう。

 六王の争奪戦に、『断章』の争奪戦。

 過酷な戦いだが、勝利すればトリシューラの王国はより確かなものとなる。


 そうすれば、彼女の目指す場所へ、また一歩近づけるのだろうか。

 今は、そう信じて進むしかなさそうだ。

 ふと、一つ気になって訊ねてみる。


(そういえば、九つの大罪なんだよな? 九番目は? なんか、今の調子で再演をしていったら六つしか出てこなさそうだから、もう【冥道の幼姫】が持っているのかもしれないけど)


 すると、ちびシューラは神妙な口調でこういった。


(あのね。この九番目は、再生者オルクスとか死霊使いがいる王国にだけ存在する価値なんだけど――生存ウィクトーリアっていうんだよ)


 ウィクトーリア。あるいは、ヴィクトリア。

 それがラテン語で勝利を意味していることを、俺の中に残っていた前世の知識が教えてくれた。

 その事実が何を示しているのか、俺にはわからない。

 今は、まだ。


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