4-46 死人の森の断章4 禁忌と罰



 俺は三つの首のうち一つに宿るとその双眸を開き、しかと敵を見据えた。実際には劇中でそういうことになっている、というだけだが、『役そのもの』である俺にとってはそれは現実に等しい。実際、俺にはここが舞台だと感じられない。小道具大道具は実物に変じており、木々も岩も踏みしめた土も冷たい空気も、全てが夜の森そのものだった。


 非道な言動を繰り返すまじない使い、ウォゾマ・メロロキンへの不意打ち直後。

 左の頭から演劇の空間を見る俺は、激しい後悔に苛まれていた。

 やってしまった、という他ない。

 敵の誘いに、それとわかった上で乗ってしまったのだ。


 ウォゾマの露骨な言動、本来の台詞を大きく逸脱した下劣な即興はこちらを挑発するための罠だ。

 サイザクタートを演じるグラッフィアカーネことグラは俺のせいでまんまとウォゾマ演じるグレンデルヒの策略に嵌ってしまったというわけである。


 初めのうちは、


(落ち着けグラ。今の俺たちが正面から挑んでも、グレンデルヒには勝てない)


 などと怒りが激発しそうなグラを諫めていたというのに、今の俺はこうだ。


(よし殺せストレスを溜め込むのは身体に良くないつまり俺たちは奴に脳を攻撃されている!)


 何この人、先輩がだいぶアレとか本当にこの職場大丈夫なの――とかグラが内心で後悔しているのが感じられる。つらい。心が伝わってきてつらい。

 あらためて、ちびシューラが戻って来たらもうちょっと優しくしようと決意する。いやでもあいつ現状を知ったら、キリッ、とか俺の真似してからかいそうだな。やっぱいつもの対応でいいか。



 正直なところ、穴があったら入りたい気分だ。

 が、真後ろの洞窟に入ったが最後、あの世行きというのだから、そういうわけにもいかなかった。


 やってしまったものは仕方が無い。成り行きに任せつつ、軌道修正していかないといけない。しかし、である。

 どうも、様子が奇妙だ。


 ウォゾマ(グレンデルヒのことだが、グラの精神衛生上こう呼ぶのはよろしくないので役名で呼ぶ)は俺の打撃を受け、サイザクタートの宣言を聞いた後、何故か「今に見ていろ」などと小悪党のような捨て台詞と共に去っていった。


 そういう役である、と言われればそれまでだが、拍子抜けである。

 奴の狙いは何だったのだろうか?

 既に本来の筋書きからは外れてしまっている。


 事前に渡された台本に従えば、ウォゾマはあそこまで露骨な振る舞いはしないし、いわゆる『姥捨て山』というような要素はあまり直接的な描写はされず、秘されたまま話の一要素として処理される予定だった。


 なにせこの話の本筋は王子ヴァージルとサイザクタートの関わりの方であって、ヒュールサスの因習にサイザクタートが立ち向かうとかそういったものではない。

 こうした残酷な要素は、この話でもっとも重要な要素である【冥道】の性質を際立たせるための、言ってみれば舞台装置に過ぎない。


 奇妙な事はまだある。

 これはアドリブによって劇が歪んだとかそういうことではない。

 そもそもの筋書き、設定段階の問題である。

 まず時系列がおかしいのだ。


 話の開始時点で、既に神々の図書館が破壊されてしまっている。

 これでは何のために過去に遡行したのかがわからない。

 ならば、ここでするべきことというのは無いのではないか?

 何のためにこの舞台はあるのだろう。


 先程の幕間ではヴィヴィ=イヴロスは姿を見せなかった。

 そうでなくとも、彼女は状況の説明を省略しがちだ。

 状況の全体像が見えず、ただ踊らされているような感覚。


(ゲームだと、お姉さんと慕ってくる可愛い少年といちゃついてるだけで勝手に忠犬サイザクタートが陰謀を未然に防いでくれてめでたしめでたしだったんだがなあ)


 コルセスカとやったゲームの中のヴァージルは、レオとはまたタイプが違うが純真で人なつっこいタイプの美少年だった。勘違いナルシスト過ぎて鬱陶しいマラードとか堅苦しい押しつけ正義道徳マンのアルトよりだいぶ心穏やかに攻略ができたものだ。


 コルセスカはというと、どの相手でも可愛いとか捗るとかわけのわからないことばかり呟くのでちょっと不気味だった。特にマラードとか、「思い切り拒絶して罵倒してプライドをへし折った後に優しく許して受け入れてあげたい」とか言ってたのでああこいつトリシューラの姉妹なんだなと思いました。どうしようもねえ。そして主人公が女王なので本当にそういう行動がとれるゲームだった。アレな需要と供給の一致を感じた。


(馬鹿じゃないですか)


 俺の思考が明後日の方向に飛んでいるのを敏感に察知したグラが、呆れ果てたとばかりに冷ややかな目を向けてくる。

 軽く咳払いして、思考を引き戻す。今はトリシューラとコルセスカとの思い出に浸っている場合ではなかった。


(悪い。とにかく軌道修正だ。ヴァージルの問題を解決していく方向に戻していこう)


(了解です。あと、さっきはどうも)


 心中の思考とアイコンタクトだけで今後の打ち合わせをしていると、グラがそんなことを言い出した。さっきとは、俺の予定外の行動のことだろうか。


(少し、胸がすっとしました。昔、サイザクタートの事、あ、子孫の方ですけど、あいつをあんな感じで悪く言う奴がいて。そう言う時、俺は我慢しなかったなって思い出しました)


 今演じているサイザクタートの子孫と幼なじみであったというビークル犬の若者は、懐かしそうに目を細めた。

 グレンデルヒに対する殺意を持ちながらも、現時点では真正面から挑むことが無謀だと悟って俺に手を貸してくれている彼だが、同時にこのサイザクタートに対しても特別な思いを抱いている様子だった。


 亡き幼なじみの先祖を演じる、というのは、彼なりの喪の儀式なのかもしれない。

 この世界での祖霊に対する意識はよくわからないが、おそらく俺の世界よりも実際的なものなのだろう。ならば、弔いに際して古い死者に敬意を払うことの意味は俺が考えているよりも重いのかもしれなかった。


 さて、俺はひとまず飾りの頭として主導権をグラ演じるサイザクタートに委ね、台詞や次の行動を教えるプロンプターとしての役割に徹することにした。

 またウォゾマ=グレンデルヒの悪意ある介入があれば対抗することになるだろう。舞台に上がってしまった以上は仕方がない。これはむしろ好都合と考えるべきだろう。


 サイザクタートの人格の一側面、という役柄で参加してしまえば、より自由に状況に介入することができる。グラと俺とが同じサイザクタートという役を演じる。いわば一人二役ならぬ二人一役といった所だ。


 時が移り変わって、麓の村からはウォゾマではなく別の村人がやってくる。

 その姿は独特だが見覚えのあるものだ。

 珊瑚の角を持つ蛙、ジヌイービ。

 台本に書かれていた名前が『ロドウィ』であったことが俺を驚かせたが、


(ハザーリャ教徒なんかの、冥界に関係した信仰を持っている人らにとっては普通の名前ですよ。最後が『イ』とか『ィ』で終わるような名前を、彼らは生と死、破壊と再生といった概念と結びつけてるんです)


 というグラの解説によって納得する。ロドウィの名前にそんな意味があったのか。確かフルネームも全て「-y」で終わっていた覚えがある。

 それはそれとして、ロドウィなるジヌイービが連れてきたのは、ウォゾマの時と同じように、人が詰め込まれた袋である。


 ただし、今までとは少々事情が異なる。

 袋の中にいるのは、放火や強盗殺人といった重罪を犯した者たちだ。

 今までと同じく、サイザクタートは袋詰めにされて受け渡される。


 冥道の番犬は、罪人たちを洞窟の向こうに連れて行き、冥界行きという刑罰を与える役目も担っている。そこでは死を司る神であるハザーリャが、罰を司る神であるティーアードゥと共に死刑囚の裁きを執り行うのだという。


 その特異な外見からか、それともそういった職業に就いているからか、サイザクタートに対してのロドウィの態度は怯えが前に出ている気がした。

 恐ろしい怪物、異質な他者を見るような視線。

 サイザクタートは、村から離れて生活をしている。


 余所者であり、外見が普通からはみ出している彼は、異物として扱われる。

 共同体に馴染めず、仕事も誰もやりたがらないようなことをせざるを得ない。

 この時代、【忌民】と呼ばれるサイザクタートのような身分の者はこうした扱いを受けるのが常であったという。


 死人の森の衛視ネヴァドゥンと呼ばれる者たちは、こうして死を護り、監視し、時にそれを執行するのだ。

 死刑の執行人――請われて人を殺す職業。

 ロドウィが去り際に小さく呟いたのが、はっきりと聞こえてくる。


「おっかねえおっかねえ。人を殺すなんてとんでもねえ。そういうのは神さまのなさることだ。俺たち下々のもんがやっていいことじゃねえや」


 どうしてか、その言葉が耳にこびりついて離れない。

 俺に聞かせるための台詞なのだと思えてならなかった。


(ん? どうしたんですか、アキラさん)


 訝しげに左側の頭部を見るサイザクタート=グラに、俺は何と答えることもできなかった。

 ただ、息絶えたカインと、血に濡れた右側の義肢のことを、少しだけ思い出して、感情の温度が下がっただけだ。


 いずれにせよ、だ。

 流石に、こうした刑罰に対して干渉することはできない。

 死刑というのは俺にとって馴染みが薄いものだが、それを行っている社会そのものを邪悪だと断じるような判断は流石に無茶だと感じる。


 その点でいうと、むしろグラの方がかなり抵抗があるらしかったが、昔の事だと自分に言い聞かせることでどうにか許容することができたようだった。ジャッフハリムの倫理観、道徳観を垣間見た気分だ。


 その後も、サイザクタートはその後も死刑囚を引き取っては洞窟に送り出していくことになる。その過程で、匿われているヴァージルは大量の生が死へと変じていくのを見て、やがて死というものに対する感覚が麻痺していく。


(で、このあとヴァージルはこっそりと洞穴の中に入ってしまうわけだな。死んでしまった母親に会いに行くために、国宝である『どんな言葉でも記憶できる鈴』で寝息を偽装して、サイザクタートを騙すわけだ)


 と、そこまで言って一つの事に気付く。

 サイザクタートはその鈴を手にしてヴァージルを連れ戻そうとすることになるのだが、その形状は金剛杵という宗教的な道具にとてもよく似ていた。


 俺の元いた世界の密教あたりと関係があるのかどうかは不明だが、トリシューラのように参照しているとすればあれは武器の象徴でもあったはずだ。

 そして、俺の記憶が正しければ、グラはトーナメントの時、鈴の付いた金剛杵を使っていなかっただろうか。


(ええ、あれはサイザクタートの遺品です。あいつから家宝を奪い取った【変異の三手】の副長、イアテムとか言う奴を第三階層の裏面で襲ってどうにか取り戻しました。あいつの実家に返そうとしたんですけど、家の人たちが俺に使って欲しいって――いや、そんなことは今はいいじゃないですか。何ですか一体)


(いや、何でもない。というか、お前あのイアテムに勝ったのか)


(ええまあ。無傷とはいきませんでしたけど)


 試合とはいえカーインに勝利した時点で明らかだが、この少年、相当の手練れだと再確認する。第十魔将サイザクタートの親友だったらしいが、もしかするとそれに並ぶくらいの優秀な人材だったのかもしれない。


 場面は移り変わっていく。

 ヴァージルがいなくなったことに気付いたサイザクタートは、彼を連れ戻すために洞窟の中に足を踏み入れる。


「なんてことだ! このままでは、ヴァージルが死んでしまう!」


 必死になって暗闇を疾走するサイザクタートは、やがておぼつかない足取りで進む少年の後ろ姿を見つける。

 闇の中、ぽつんと白い燐光に包まれたヴァージルはひどく目立った。

 その淡い光が次第に薄れていくのを見て、サイザクタートは焦る。


「大変だ。あの光は命の輝き。あれが消えたら、ヴァージルは本当に死んでしまう! すぐに連れ戻さなくては!」


 だが、そこでサイザクタートの足が止まる。

 いや、止められたのだ。

 俺とグラはぎょっとして右側を凝視した。


「本当にいいのかい? そうしたら、君の、失敬、僕たちの醜い姿が彼の愛らしい目に映ってしまうよ? 彼の純真な心は、それに耐えられるだろうか。彼の目を穢してしまうことになるのではないかな?」


 聞き覚えのある声だった。

 どこか軽く、だが落ち着いた感じのする男性のものだ。

 それは、力士ゾーイの傍らに浮遊していた立体映像、仮想知性体の男が発していたものと寸分違わずに同じだった。


(名前は確かケイト! 姿が見えないと思ったら、こんな所で現れやがったか!)


「やあやあはじめまして僕。右側の頭である僕は、サイザクタートの理性が人格を持って現れた存在なのさ。僕の言葉はいつだって君の為になると思ってくれ」


 もっともらしい口ぶりでサイザクタートの行動に干渉しようとしているが、それでは話が進まない。

 突然介入してきたケイトがこちらを妨害して何を狙っているのかはわからないが、サイザクタートがヴァージルに姿を見られてしまうことは劇の筋書きに含まれている内容である。


 洞窟に入ってはならない、相手の姿を見てはならない。

 二人が互いに約束を破り、かつそれによって生まれた罰をお互いに助け合って乗り越えることで、はじめて二人の立場は対等になり、その後も二人で力を合わせて暮らしていった、というのが話の大まかな粗筋だ。


 その流れを停滞させてしまえば、最終的にどうなってしまうかわからない。

 ケイトの言葉を聞く必要は無い。

 今すぐ黙らせるか無視するかして、さっさとヴァージルに声をかけるべきだ。

 しかし、意に反してサイザクタートの口は頑として動かなかった。


(おいグラ、早く何か言え!)


(無理です! だって今、サイザクタートは声をかけたくないって思ってます! なら、それを覆すだけの材料が無いと動けない!)


 グラの返答に愕然とした。

 それは役者としてのグラが、サイザクタートの内面を考え、解釈した結果の必然だった。そしてそれはケイトという第三者の指摘によってより強固な解釈として固まってしまったのだ。


 つまり、ここで声をかけるのは作劇上明らかに不自然なのだ。

 声を掛けようとして、躊躇い、結局何も出来ずにヴァージルの背を見送るだけ。

 それが、この場面の全てだ。


 最悪な事に、ケイトはそれを首の一つという役、舞台の上で意味を持つ台詞として形にしてしまった。つまり、演劇の空間でそれは実行力を有する。

 俺やグラがさっきから内心で密かに語り合っているのとは違う。


 黙ったままの意思よりも、音として発話された意思の方が重みがある。

 たとえそれが独白であっても、内側に秘された思考よりも外側で明らかにされた台詞こそが重要なのが演劇というものだ。


 そして、この【世界劇場】の内側では、演劇とは世界そのもの。

 これは現実だ。

 ゆえにサイザクタートは動けない。


(やられた、くそ、何か説得材料は無いのか!)


 俺も左側の頭部としてサイザクタートの行動に干渉すればいいだけなのだが、この状況で有効な言葉が何なのかがわからない。

 最悪だった。無能もいいところだ。


 俺は何のためにここにいる?

 言葉が出なくなった役者を支援する為だろうに!

 悔しさに歯噛みしながら、ヴァージルが闇の中に遠ざかっていくのを見つめる俺たちだったが、声がかけられないながらも後を追うことは続けていた。


 そうして、ヴァージルは辿り着いてしまう。

 死者の行き先である、冥界に。

 青白い燐光は、死者が纏う色。


 か細い光が無数に漂う空間を進んでいくと、ヴァージルは誰かを見つけたのか勢い良く駆け出して、大きな岩の傍に佇む少女に話しかける。

 蜂蜜色の髪、灰色の瞳。

 もうすっかりお馴染みとなった、幼き日の【死人の森の女王】――【冥道の幼姫】がそこにいた。


「ああ、来てしまったのね、私のヴァージル」


 冥道の果てで待っていた幼姫は、今回は亡き王妃という役どころのようだった。

 彼女は自分よりも高い背丈の少年を抱きしめて、静かに涙を零した。

 ヴァージルが、その頭を撫でて言った。


「ごめんね、僕のテスモポリス。君を一人にしてしまった。でも安心して。君を追いかけて、ここまで来たんだよ。もうあの男に縛られることも無い。君は自由だ。だから、僕と一緒にここを出よう? 外の世界で二人で生きよう」


 ヴァージルの言葉は、どこか奇妙だった。

 冥道の幼姫――今回はテスモポリスというらしい彼女は、設定上はヴァージルの母親であるはずだ。しかし、それにしては二人の態度や言葉の雰囲気には、違和感があるように思える。


「駄目、駄目です。私たちは、親と子供なのです。このようなことを続けてはなりません。だからこそ、私はあの時に死んで良かったのです」


「どうして? どうしてあの男は良かったのに、僕だけは駄目なの?」


 待て。何だこの会話の流れは。

 これは、一体どういうことだ。

 ふと、悪意に満ちた視線を感じて、右側を見る。

 そこで、ケイトが宿った頭部が嘲笑うかのような笑みを浮かべていた。


「ねえ、お母様」


 縋り付くようにヴァージルが言って、さらに言葉が続く。

 全身に氷を突き入れられたような感覚。


「お祖母様」


(な――)


 グラもまた、愕然とその台詞を聞いていた。

 ヴァージルの言葉は続く。


「曾お祖母様、曾々お祖母様、ご先祖様――『ママ』。どうして、今までの王家のみんなは良かったのに、僕だけは駄目なの?」


「もう、限界なのです。だって既に王家の血は呪いを内包し過ぎてしまった。その最果て、一族の精髄たる貴方は、そんなふうに」


「『そんなふうに』何だっていうの?」


 ヴァージルの声の冷たさに、抱きしめられていたテスモポリスだけでなく俺たちまでもがぞっとさせられた。演じているのはレオのはずだが、誰かが乗り移って喋っているかのようだった。


「だって、こんなふうに生んだのはママでしょう? なのに、それを否定するの? 僕が生まれたのは、いけないことだったの?」


 サイザクタートは、その言葉を聞きながら思わず自分の左右の頭に触れていた。

 そして、テスモポリスの種族的特徴である、妖精アールヴの尖った耳を見て、それからヴァージルの耳を見た。


 頭頂部にある三角形の猫耳、右側頭部にある兎の垂れ耳、そして左側頭部にあるテスモポリスそっくりの尖った耳。

 ヴァージルの両耳は、左右が非対称なのだった。

 それは、本来ならばあり得ない形。


 サイザクタートは、それを見てヴァージルに共感したのだった。

 白い耳の半ばにある無惨な火傷を見て、テスモポリスの目が揺れ、悲しげに俯いた。ヴァージルは畳みかけるように言う。


「この耳が僕は好きだよ。大好きな人のことを感じられるから。なのに、ママはそれを否定するの? 僕は否定しないよ。生まれてくる子供が同じような耳を持っていたら、絶対に祝福するもの」


「生まれてくる――何を言って」


 テスモポリスが聞きかえそうとしたその時、少女の息が詰まり、苦しそうに口を抑えて崩れ落ちる。

 その身を支えながら、ヴァージルは淡々と言葉を続けていく。


「生まれてくるよ。だって念入りに、念入りに、お墓の中に入ってまで愛してあげたんだもの」


 少女が激しく嘔吐いて、俺は一つの予感と推論に絶句する。

 テスモポリスもまた、顔を青ざめさせながらヴァージルに問いかける。


「あなた、まさか」


「だって、ママは嫌がらなかったよ? とっても固くて冷たかったけど、綺麗だった。この世のどんなものよりも、テスモポリスは綺麗だよ。永遠に、生きていても死んでいても、僕のもの、僕だけのものだよ。ねえ、僕のお嫁さんになってよ」


「駄目ですよ、ヴァージル。貴方は私の子。お断りさせていただきます」

 

「なら僕も、それを断る」


 次の瞬間、ヴァージルは信じがたい暴挙に出た。

 抵抗する間を与えず、テスモポリスの額に口づけたのだ。

 急速に胸に広がっていく冷たさを感じながら、俺は言った。


「行くんだサイザクタート! ヴァージルを止めなければ、多分取り返しのつかないことになる!」


 激しく拒絶するテスモポリスを、ヴァージルは強引に抱き寄せて囁く。柔らかい口調だというのに、どうしようもなく嗜虐的な響きが感じられた。


「傷付くな。でも、これでママは僕のものだよ」


 少女の絶叫が冥界の闇に響く。

 その下腹部から、信じがたい勢いで吐き出されていくものがあった。

 それは明らかに生きていなかった。

 当然だろう、死者が生みとしたものが生命を宿しているはずもない。


 大量の血液が滴り落ちて、吐瀉物と混ざり合っていく。

 産み落とされたのは、屍蝋化した腕。

 特定条件下で腐敗を免れた永久屍体が、幼い少女の纏うスカートの下から冥界の土に垂れ下がっていた。


 指先が汚物に塗れた地面に触れると、それはぴくりと動いてぎこちないながらも動き出そうとする。その長さといい大きさといい、とてもではないが赤子のものではない。恐らくは、十分に成長した男性の右腕だ。そんなものを腹から外側に突き出されて、耐えられるはずもない。テスモポリスの絶叫が長く長く、ヴァージルの歓喜の声が高く高く響いた。

 

「楽しみだなあ、楽しみだなあ! 可愛い可愛い、僕たちの子供だよ! 名前はなんて付けようか? こんな風にして生まれる子だもの、きっとハザーリャ神の加護があるに違いないよ。それに合った名前がいいと思うな。あ、でもラヴァエヤナ神やアエルガ=ミクニー神に関係した名前もいいよね。テスモポリスはどう思う?」


 少女は激痛とおぞましさで問いかけに答えるどころではない。

 ここに来て、ようやくケイトの狙いが理解できた気がする。

 どうやってかは知らないが、ケイトはこの流れを理解していた。


 これが『史実』なのか、そういった説の一つ、あるいは物語の類型の一つなのかは知らない。だが、こういう展開になり得ることをケイトは知っていたのだ。

 これがどのように繋がってくるのかは不明だが、とにかく嫌な予感しかしない。


 不吉さを凝縮させたかのような、おぞましい生誕の瞬間。

 あるいは、死が産み落とされるということは、その出産は殺人であったのかもしれない。痛みは母胎であるテスモポリスを苦しめているのか、生まれてくる死人の子を苦しめようとしているのか。


「ヴァージルッ! それ以上は駄目だ! 戻れなくなるっ!」


 サイザクタートが、遂に言葉を形にする。

 ヴァージルが目を見開いてこちらを見た。

 赤い眼がサイザクタートを凝視する。


 見るなという禁忌が破られた瞬間であり、冥道に足を踏み入れてはならないという禁忌破りが露見した瞬間でもあった。双方がそれを認識して、はじめて約束が破られたことが事実となる。そして、約束を、掟を、法を、信頼を損なったものには、必然としてあるものが与えられる。


「サイザクタート、その、頭は――」


 ヴァージルが愕然と何かを言おうとした瞬間だった。

 暗闇の背景を引き裂いて、機械仕掛けが出現する。

 あまりにも唐突な、しかし当然とも言うべき登場。


 荘厳で大仰な機械仕掛け。歯車が回り、絡繰り仕掛けの扉がゆっくりと開いていく。その中から現れたのは、いつか森で見た性別の分からない神々しい人物。

 神々しい、という形容も奇妙だろうか。

 なぜならば、それは神そのものだったから。


「おお、罪人たちよ。我が友の庭で、なんと不埒な行いをしているのか」


 雷のごとき光が閃いて、ヴァージルとサイザクタートに神罰が下る。

 そう、それは罰だ。

 いかなる無法も見過ごさぬ、荒々しき罰神。

 その名は、


「平伏せよ罪人たちよ! 我が名はティーアードゥである!」


 舞台の上手から高らかに宣言したのは、見間違うはずもない、ティアードゥを演じるヴィヴィ=イヴロスに他ならなかった。


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