4-45 死人の森の断章4 冥道の番犬
一筋の星が流れ落ちて、夜空に尾を引いていった。
衝撃と音が木々を揺らし、鳥たちが慌てて飛び立っていく。
たまたま夜空をぼんやりと見つめていた三つ首の犬は、導かれるようにして星が落ちたであろう林のあたりにたどり着いた。
彼の名をサイザクタットと発音する故郷では流星は凶兆であったが、サイザクタートと発音するこの地では吉兆とされていた。もし流星の欠片でも見つけることができればそれは一財産になるだろうと見越してのことだった。
それに、幸運を拾った者は憧れの視線を向けられる。
たとえ移民で、姿かたちが異形であっても、受け入れてもらえるきっかけくらいにはなるかもしれない。
星が落ちることを凶兆ではなく、吉兆であると信じている事を態度で示せば、土地に馴染もうとしていることを認めてもらえるかもしれない。
サイザクタートは祈るような気持ちで歩みを進めた。
へし折れた木々、大きく陥没した大地を見て、思わず息をのむ。
そして、流れ星の正体を見てさらに驚愕した。
それは水晶のような材質でできた、流線型の構造物だった。
サイザクタートにはそれが何なのか分からない。彼は並外れた巨体であるが、それを上回る全長の物体はどうやって作り上げたのかと疑問に思えるほどのものだったし、滑らかな形はまるで芸術家の作品のようだった。
「もしやこれは噂に聞く外なる猫なのでは。それとも、神々の投げ槍か? いやいや、そんな馬鹿な」
自問して自ら否定するということを何度か繰り返しても答えなど出ない。
かといって、高熱を帯びているらしいその物体に近づく勇気は無い。
そうこうしているうちに、事態はサイザクタートの意思とは関係なく動き出す。
構造物の滑らかな表面に一筋の亀裂が入り、そこが蓋となって上に持ち上がったのである。中にはサイザクタートが見たこともないような複雑な形状の機器がぎっしりと詰め込まれており、中央の座椅子とも寝台ともつかない場所に、小柄な人影が横たえられていた。
その人影の顔を、正確には頭部を見て、サイザクタートは息を飲んだ。
震えながら視線を落とし、それから自分の左右に二つある頭を触る。
しばらくして顔を上げると、微かな呻き声が聞こえてきた。
変わらずに、流線型の物体は入り口を開いたままだった。
棺のようだ、とサイザクタートは嫌な連想をしてしまい、気持ちが沈んだ。
自己嫌悪に陥ったのも束の間、微かな呻き声が聞こえて、三つ首の犬は巨大な棺桶に近付いていく。大地はじゅうじゅうと音を立てており、高熱であちらこちらが融解していたが、誰かが生きているという事実が彼の足を前に進ませた。
幸い、背の高い彼は高熱を発している棺に触れることなく内側の人物を取り上げることができた。それでも恐るべき熱気は彼を苦しめたが、生存者を見捨てるという選択肢は無かった。
「何と言うことだ」
改めて腕の中の人物を見て、サイザクタートは呻いた。
目も眩むような、愛らしい少年だった。
白皙の肌、柔らかそうな兎の耳、天与のものとしか思えぬかんばせ。
そしてなにより、もう一つの特徴。
サイザクタートは、じっと麗しい少年を見つめていたが、やがて彼の呼吸が乱れている事に気付かされた。その身に異常な色が混じっていることも。
月光に照らされる純白は、おぞましい血の色によって穢されていた。
赤黒い色彩は、少年の全身に刻まれた無数の裂傷から流れ落ちたもの。
刻一刻とこぼれ落ちていくか弱い命。
しかし、サイザクタートには彼をこの世に繋ぎ止めるだけの手段が無い。
医者を呼びにいくのは間に合わないし、応急処置などしてもここまで深い傷には無意味だろう。
念のため、墜落してきた棺の中を火傷しないように慎重に検めてみるが、中には治療に使えそうなものは見つからなかった。
サイザクタートは少年を見て、その命の儚さを思って項垂れ、そしてあることを思いついて中央の頭を上げた。
「そうだ、もしかしたら」
サイザクタートは大急ぎで瀕死の少年を抱え上げると、猛然と走り出した。
向かう先は、彼の来し方。
番犬たる三つ首の異形が住まう、洞穴である。
引き込まれるような青色を湛えた大きな河が流れている。
大河が常にそうであるように、流域には幾つもの共同体が築かれており、森の多いその一帯は昔からヒュールサスと呼ばれていた。
とある山から木々を裂いて流れ出た細い川は、一つの村落を通過してその大河に合流していく。
そんな人里から離れた、鬱蒼と木々が生い茂る森の中に、サイザクタートの住処はあった。
草木に隠されるように山奥の岩壁にぽっかりと口を開けた暗闇。
四つの月明かりですらその内側を照らすことはできず、その深さは一度足を踏み入れたが最後、二度と出てくることができないのではないかと思わされるほど。
三つ首の番犬は、その入り口に立って、じっと外界を見つめている。
もっとも、油断無く周囲を見回して警戒しているのは中央の頭だけで、左右の頭は目蓋を閉じて安らかな寝息を立てているのだが。
不意に、がさりと音がした。
草を踏みつける重量が、一定の間隔で近付いてくる。
虫や小動物などではない。
これは、『来客』なのだとサイザクタートは理解した。
「私は誰だ、サイザクタート」
長身の男が現れるや否や、出し抜けに問いかけられる。
蓬髪を振り乱した、不敵な面構え。
自信に溢れた壮年男性は、サイザクタートを見下ろすように言った。
番犬は小さくなってこう返した。
「ヒュールサスきってのまじない師、ウォゾマ・メロロキン――グレンデルヒ」
サイザクタートは言葉を途切れさせた。
かわりに獰猛な吐息を吐き出して、鋭い眼光で男を射貫く。
ウォゾマ・メロロキンあるいはグレンデルヒと呼ばれた男は巨大な三つ首犬に睨み付けられているというのにまるで動揺することなく、平然と口を開いた。
「様を付けろ、番犬」
居丈高な口調に、犬の牙がぎりと軋む。
屈強な肉体に力が漲り、今にも爆発しかねなかったが、そこでサイザクタートは左腕で全身を抑え込むようにして感情を押し留めた。
荒く息を吐きながら、左腕がとん、とんと軽く胸を叩き、頭を叩く。
それで多少なりとも落ち着いたのか、深呼吸をしてサイザクタートは続けた。
「グレンデルヒ様。本日はどのようなご用件でございましょうか」
「これだ。処分せよ」
粗末な袋が投げつけられた。
内側ではくぐもった声と、生きて蠢くなにかが悲痛な感情を外に知らせようとしているようだった。
サイザクタートは悲しそうに小さく鳴いた。
「どうした。犬風情が、主人の言いつけに背くというのか」
すると、犬の黒い鼻がすんすんと鳴った。
「お言葉ですが、グレンデルヒ――いえ、ウォゾマ様。この声、この匂いには覚えがございます。この中にいるのは、もしや貴方様の奥方ではありますまいか。一体なにゆえ、彼女をここに?」
まじない使いのウォゾマはふんと鼻を鳴らした。
「これは
「しかしウォゾマ様。村で婚姻を交わしてからまだ数年ではありませぬか。ハザーリャ神の気紛れということもございます。今暫く辛抱されてはいかがでしょう。それに、奥方ばかりを責めるのも――」
「ほざけ、犬畜生風情が! 子を生むは女の責任。己の無能を周囲に求め、あまつさえ大いなる神ハザーリャを貶めるかのような物言い、決して許されぬぞ!」
サイザクタートはしゅんとなって項垂れた。
もはや、この男に抗弁しても無駄であると悟ったのだ。
それからウォゾマは、背後からもう一つの袋を引いて、番犬の前に投げ出した。
「それと、これもだ」
この世のものとは思えぬほどに痛々しい叫びが、低く低く響いた。
ウォゾマが踏みつけると、袋の中で蠢くなにかはカエルが潰れたかのような音と共に沈黙した。じっとりとした液体が、異臭と共に袋の下に染み出していった。
「この男は愚かにも崖から転落して腰を砕いた。まじないで命を長らえさせたが、もはや歩けぬでな。働きもしない穀潰しを生かしておく意味はなかろうと村で話し合い、ここに連れて行くことになった」
「歩かずに済む仕事はございませんか」
「あると言えばある。が、そのような恥ずべき家仕事は女の領分だ。それを男が侵すなどあってはならぬこと。男としての誇りを穢されるくらいならば、ここに連れてきた方がこやつの為にもなるだろうよ」
言うだけ言うと、ウォゾマはその場を振り返りもせずに立ち去っていった。
サイザクタートは嘆息した。見下ろすと、くたびれた袋がかすかに蠢く。
静かに嗚咽が漏れ聞こえてきて、番犬は悲しい目をした。
そうすることしかできなかった。
サイザクタートは二つの袋をゆっくりと、丁寧に洞穴の中に運んで行った。
暗闇の中に消えていくと、後は何も分からなくなってしまう。
しばらくして番犬が入り口に戻ってくると、その両手には中身の無い袋だけが残されていた。
サイザクタートは袋を丁寧に畳んで、入り口の脇に置く。
その時、彼は茂みや落ち葉、枝などによって隠された場所に目をやった。
丁度、洞穴の内側と、外側の森との境界線上に、それはあった。
かすかに身動ぎの音がする。
番犬は、ウォゾマが遠く離れたことを確認し、もう戻ってこないことも注意深く探ってから、ようやく小さな声で囁いた。
「大丈夫かい? もうあいつは行ったから、安心していいよ」
すると、茂みや枝葉などに隠された場所から返事があった。
「僕、助かったの――?」
「ああ。ここにはもう、君を虐める奴はいやしないさ。だから安心おし。これから、君が食べられるものをとってくるからね」
弱々しい声、微かな身動ぎ、そして怯えきった心。
震える小さな影を、サイザクタートは誰にも見つからないように沢山の落ち葉で覆い隠して、それからまた洞穴の中に入っていく。
やがて、手の中に隠した食べ物らしき何かを茂みの中に差し入れた。
弱った相手は食べるのに難儀していたが、サイザクタートが爪や牙で細かくすると、柔らかい口調で礼を述べ、無事に糧を繋ぐことができたのだった。
サイザクタートは看病を続けながら言った。
「聞いての通り、ここにはとても怖いまじない使いがいるんだ。もし君が大怪我をしていることがばれたら――それから、君の外見のことがばれたら、大変なことになってしまう。君の怪我は私がなんとかするから、それまではここで大人しくしていてほしい」
すると、少年の柔らかい声が従順に了解の意を示した。
「わかりました、サイザクタートさん。でも、今は怖い人はいないんですよね? それなら、どうして僕はここから出てはいけないのですか? 僕は、恩人である貴方の顔をまだ見ることができていません」
「駄目だ、駄目だ。それはいけない。私の顔はとても、そう、醜いのだ。君は驚きのあまり怪我を余計に悪くしてしまうだろう。だから、元気になるまではそこから出てはいけない。いいね、決して、私の姿を見てはいけないよ。とても良くないことになるからね」
サイザクタートは強く念押しして、何度も何度も少年に確認を取った。
少年は残念そうに、
「わかりました、言う通りにします」
と呟いて、それからすやすやと寝息を立て始めた。
サイザクタートは、少年を起こさないようにそっと溜息を吐いた。
それから、そっと茂みに手を伸ばそうとするが、触れる寸前で熱いものに触ってしまったかのように素早く腕を戻してしまう。
「私のような醜いけだものが、あんなにも美しく愛らしいひとの目に触れてはいけないのだ」
自らに言い聞かせるかのような、諦めの言葉。
口調とは裏腹に、サイザクタートの瞳は焦がれるように茂みの奥に注がれたままであった。彼が見ているのは、少年を助け出した瞬間の光景だ。
月光に照らされて輝く、世の如何なる宝よりも美しいと思えたかんばせ。
愛らしい少年を、サイザクタートは守りたいと、そう思ったのだ。
そうしてしばしの間、二人は洞窟の入り口で朝を迎え昼を過ごし、夜をやり過ごした。その間、二人は沢山の言葉を交わした。
「ねえ、サイザクタート。貴方はどうしてこんな所にずっと立っているのですか? 退屈ではないの?」
「私は番犬だからね。この生と死の境界を守っているのさ」
「生と死の境界って?」
少年の問いかけに、サイザクタートは答えて言った。
「ここより外は生者が暮らす世界。ここより内側は死者が暮らす冥界。
「冥界――それは、あの世ということですか?」
「そうさ。君をここに連れてきたのは、生と死の曖昧な境界に身を置くことで死なないようにするためでもある。だから気をつけて、うっかり現世に出てしまえば傷が広がって死んでしまうかもしれないし、逆に暗闇に足を踏み入れれば――」
「踏み入れれば?」
恐る恐る、少年は訊ねた。
サイザクタートは、厳かに答える。
「どんな恐ろしい世界に出るかわからない。それはおぞましい異界の神々、猫たちが住まう【猫の国】かもしれず、あるいは瘴気を身に纏った不定形の魔人たちが集う
「それはなぜ?」
「それはきっと、冥界に繋がっている【冥道】だからだよ。この土地、ヒュールサスというのは、古い言葉で『冥界への道』を意味している。大いなる生と死の神ハザーリャへ繋がる道という意味だけれど、その御許へと赴くと言う事はこの世での生を終えるということなんだ」
サイザクタートは、自分で口にした言葉でぶるりと震え上がった。
口調から態度から、そのハザーリャという神への畏怖が滲み出ていた。
少年は、すぐそばの暗がりがいかに危険かということを十分に理解した様子だったが、その後で番犬に聞こえぬように小さく呟く。
「冥界に繋がる道――そこを通っていけば、お母様に会えるのかな」
サイザクタートの耳は大層良く、その小さな声を聞き逃すことは無かったが、彼はあえて聞こえないふりをした。
それから、月を見上げながら歌を口ずさみ始める。
少年にはわからぬことだったが、それは『サイザクタット』の故郷に伝わる子守歌なのだった。穏やかな気持ちになった少年は、寝息を立て始めた。
またあるとき、少年は番犬に対して自らの身の上を少しだけ語った。
はじめ、何があってあのような大怪我をしたのか、少年は頑なに話そうとしなかった。だが、献身的な看護に心を開いたのか、少年はすっかり安心した様子でサイザクタートに自分というものを打ち明けていった。
「ヴァージル、というのが僕の名前です。見ての通り、四つめの月に住んでいた兎です。いきなり脱出艇で現れて、きっとびっくりしましたよね――」
ヴァージルと名乗った少年は、少し言いづらそうに、途切れ途切れに語っていく。その内容は断片的で、全容は掴みがたかったが、おおむねこういうことらしかった。
ヴァージルの住んでいた
王宮は既に敵地だった。
王子は少数の信頼できる者たちを連れて都を逃れたが、追撃は熾烈を極めた。刺客の襲撃は一人また一人と忠実な臣下らの命を奪い去っていく。
遂に魔の手が王子に迫り、彼は全身に手傷を負いながらも脱出艇に乗り込み、地上へと逃れる事に成功する。
その王子こそが、ヴァージルなのだという。
「だから、僕も迂闊に外に出るわけにはいかないのです。追っ手はきっと地上にまでやって来ていることでしょう。見つかればどんな目に遭わされるか。どうか、僕のことを誰にも話さないで下さい」
「勿論だとも」
二人は顔を合わせることこそなかったが、言葉を交わすことで着実に確かな信頼関係を築くことに成功していた。
その間にも、サイザクタートはヴァージルを求める心を抑えて懊悩し、ヴァージルは暗い洞穴の方を気にして、夜眠る時には静かに泣いて母の名を呼ぶということを繰り返していたのだが、交わされた約束が破られると言う事は無かった。
その日も、太陽が沈み、太陰が昇って、夜が静かに更けていった。
虫たちの合奏にあわせるようにしてサイザクタートが歌うと、ヴァージルは穏やかな気持ちになって茂みの中の暗闇で目蓋を閉じていく。
「おやすみヴァージル。ハザーリャによろしく」
「僕は眠るだけだよサイザクタート。あの世にいくわけじゃない」
「夢の世界は、ハザーリャ神がおわす冥界と繋がっているのだよ。眠りはかりそめの死であり、大いなるハザーリャに少しだけ挨拶ができる機会でもあるんだ。もし何か祈りたいことがあるのなら、夢の中でお願いしてみるといい。気紛れにお願いを聞いてくれることもあるからね」
ヴァージルがそれを最後まで聞いていたのかどうかはわからない。
やがて安らかな寝息が聞こえてきたので、サイザクタートは夜の番を粛々と続けることにした。
すると、久しぶりに重い足音が聞こえてくる。
番犬は身構えた。相手が何者か、既に理解していたからである。
「久しいな、犬」
「ウォゾマ様。今宵はどのような御用向きで」
壮年のまじない使いは、生きて蠢く何かが詰め込まれた袋を投げ出して言った。
数は、前回よりも遙かに多い。
さしもの冥界の番犬も、これには黙りこくった。
「これらを始末せよ。これは役立たずの老いぼれだ。食うだけ食って何の役にも立たない。始末せねばならぬ」
ウォゾマが言うと、袋の中から叫び声が聞こえてくる。
「この恩知らず! この恩知らず! 今まで育ててやったのは一体誰だと思ってるんだい?! ここに来るまでの間に、お前が迷わないように小枝を折ってやったのはお前を思ってのことなんだよ! 隣の国からふっかけられた無理難題、あれは私が培ってきた知恵で解ける、それにお前が年老いたとき同じ目に遭わされてもいいのかい、そら出せ、すぐに出せ、この親不孝もの!」
「川沿いに下れば迷うことなどないし、あの難題は既に解いた。そして私はまじないによって不老になっている。業突張りのくそばばあ、さっさとくたばるがいい」
ウォゾマは袋を蹴飛ばした。
それから別の袋を指差すと、またしても語り出す。
「これとこれは直視するのも耐え難いほどの容貌をした男女だ。醜いだけでは飽きたらず、醜悪なものどうしで傷を舐め合うようにして身を寄せ合っていた。盛りのついた犬のように子を増やされては困るでな。奥へ連れて行け」
サイザクタートは理解できずに訊ねた。
「どうして、彼らが子供を作ってはならないのですか?」
「醜い者同士が子をなせば子供も醜くなるだろう。その子供が子をなせば、醜さという害悪は連鎖する。後世の者たちのことを案じるがゆえのことだ」
それから、ウォゾマは更に幾つかの袋を蹴飛ばして続けた。
手の中に収まるほどに小さなもの、大声で泣き出すものまでが混じっており、それらが紛れもない赤子であることを理解して、サイザクタートは震えて顔を伏せた。左手が、固く握りしめられていた。
「これらは出来損ないだ。耳が聞こえぬ、目が見えぬ、口がきけぬ。手足が動かぬ足りぬ形がおかしい。更に加えて知恵が足りぬ。役に立たないどころか、これらが何かの間違いで子を残せば後の世に禍根を残すであろう。健康に生きるごく普通の人々が、これらの忌まわしい種によって穢されることを想像してみるがいい。なんと胸くそ悪いことか。このような不正義を許容することは断じて罷り成らん」
ウォゾマは続けて先程蹴飛ばした老婆を再び悪罵して、何度も何度も足蹴にした。軽蔑と共に吐き捨てる。
「それもこれも、貴様が取り上げた時に絞め殺しておかぬからよ。貴様以外の産婆どもは真っ当に己の分をわきまえていたというのに、貴様ときたら頭の悪い異国の思想にかぶれおってからに。やはり女に知恵など与えると碌な事にならん」
それから、ウォゾマは次々と袋をサイザクタートの足下に転がしていく。
誰もがまだかろうじて生者の世界に留まっている者たちだ。
しかし、サイザクタートのすぐ後ろには底のない暗闇が口を開けている。
その寒々とした空気を感じているのか、袋の中で生きているものたちが恐怖に震え出すのが感じられて、番犬は口を開こうとして、睥睨するウォゾマの目を見て、それからそっと項垂れた。
「最後がこれだ。連れて行け」
ウォゾマは、小柄な何かが詰め込まれた袋を寄越した。
またしてもこのような小さな袋なのかと暗澹たる気持ちになったサイザクタートだったが、内側から漏れ聞こえる音にはっと目を見開いた。
笛が鳴るような、風が通り抜けていくような甲高い音。
それが、閉塞した気管支を通ってどうにか外と内とを繋げていく音に、サイザクタートは聞き覚えがあった。
「ウォゾマ様! この者はまだ助かります! 煎じ詰めた薬湯とまじないをあわせれば、息が出来ず、胸がへこんでしまうこのような症状は収まるのです! 丁度、薬草はこの山で採れるはず。早速私が――」
「ならん」
にべもなかった。
僅かに見えたと思えた光明をあっさりと断ち切られて、サイザクタートは絶望の眼差しで袋を見た。それから、恐る恐る聞きかえす。
「なにゆえでございましょうか――」
「この間の流行病でもそうであったがな。治療には金と労力がかかるのだ。私には他にも診てやらねばならない健常な患者たちが沢山いるのだよ」
「この者とて、治れば健常です! それにこの症状は幼い頃に特有のことが多いと聞いております!」
「だからどうした。子や孫に伝わったら貴様はどう責任を取るつもりだ」
サイザクタートは絶句した。
『後世のために病の原因を事前に取り除き、予防すること』――それは、まじない使いであるウォゾマがかねてより主張している、人々に健康な暮らしを送らせるための方策であった。
「先程の足りぬ者らも、醜い者らも、それから無能な者らも皆同じだ。後世の子供たち、孫たちがより良い暮らしをするためには必要が無い存在なのだよ」
「それは、あまりにもあまりな言い分です!」
「口答えするか、この出来損ないの犬畜生がっ! 奇形の怪物め、生かしてやっているだけありがたいと思えっ!」
ウォゾマの壮絶な剣幕に、三つ首の犬は巨体を震わせて一歩後退った。
蓬髪を振り乱すまじない使いは、額に血管を浮かばせながら怒鳴り散らす。
「貴様たちはいつもそうだ! 自分さえよければそれでいいのか?! まっとうに生きている者、後世に生きる者たちのことなど何も考えない! それでいて自分たちだけは権利を主張し、汗水を流して働く善良で健康な者たちを奴隷のようにこき使う。貴様らに足を引っ張られるこちらの身になってみるがいい!」
ウォゾマは無造作に袋を掴むと、その中に隠されていた者を月明かりの下に投げ出した。
果たして、そこにいたのは苦しそうに胸を押さえる少年であった。
息をしようとするたびにべこりと胸がへこみ、まともに呼吸ができていない。
微かに通っていく空気でかろうじて意識を繋いでいるといった様子であった。
それを見て、ウォゾマは鋭く一喝した。
「甘えるな」
小さな頭に足を置くと、強く地面に押しつけていく。
「このガキ、先程まではわざとらしく咳を繰り返していたというのに、疲れたのか息が出来ないふりに切り替えた様子だ。大げさに振る舞いおって、うるさくてかなわん。村の医院に来た時はひどいものだったわ。うるさい上にぼりぼりとみっともなく頭を掻いてフケやシラミを落とし、身体のあちこちを掻き毟っては瘡蓋を落とす。少しは我慢しろというのだ、周囲がどれだけ不快になるかわからんのか」
少年の肌は、顔や首もと、それから二の腕の関節部といった場所が赤く炎症を起こしており、更にはかさかさと乾燥していた。
また、体中が痒くて仕方が無いのだろう。両手指の関節と関節を摩擦させたかと思うと、何度も赤くなった部位を掻き毟ってしまう。過度の引っ掻きによって擦過傷が生まれ、血が流れていく。
「このような、不健康であるという利権にしがみつく者たちによって、立派で健康な者たちの生活が脅かされているのだ。奴らが不当に啜っている甘い蜜を取り上げ、正当な配分がされるようにしなくてはならない。正しい血を守り、生きるに値しない生命を間引く。これは、共同体を維持するために必要不可欠なことだ」
それからウォゾマは滔々と、医療や介護といった福祉によって生じる経済的損失について語り、交配牧場による優秀な血統の選別だとか、法で断種や安楽死を定めていくべきだとか、そういった事をまくし立てていった。
そうしているうちに気分が良くなっていったのか、ウォゾマは目を閉じて自分が思い描く理想社会を夢見始めた。
だから、サイザクタートが立ち上がり、腰を落とし、左手を掌打の形に整えても、その予備動作に気付くことはできなかった。
サイザクタートの中央の頭が、驚愕の表情を形作った。
大地が踏み抜かれ、勢い良く撃ち出された掌底がウォゾマの腹腔に直撃する。たたらを踏んだ壮年の男に、更なる追撃。
「その汚い足をどけろ、ちょびヒゲ野郎の出来損ないが」
柄の悪い口調で、三つ首のひとつ、左の頭が吐き捨てた。
今まで目を閉じて目覚めることが無かった左右の頭。
それが、どうしてか目を覚まして、その上サイザクタートの意思に関係無く肉体を動かしている。
「これは紛れもなくお前の意思だ、サイザクタート」
「一体、何を」
「さっきは止めて悪かった。このクソ野郎風に言うなら、我慢は健康に良くないって所だよ。俺はお前の奥に潜んでいた、抑圧された心の表れだ。理性を司る中央のお前が深く傷付き、耐え難いと感じた時に俺が表に出てこられるんだ」
よく回る舌で、わかるようなわからないような理屈を捏ね回す左の頭。
眼光鋭くウォゾマを睨み付ける好戦的な表情に戸惑っていたサイザクタートだったが、足下に横たわる少年や袋を見て、それからちらりと茂みの中に隠されたヴァージルを意識して、彼は決意を固める。
「そうだ。そうだな。もう、潮時なのかもしれない」
「サイザクタート、貴様まさか、拾ってやった恩を忘れるつもりではあるまいな」
「そのまさかだ」
地面に横たわる少年の姿勢を直してやると、サイザクタートは夜空に向けて一度だけ吠えた。
深く息を吸い込むと、番犬は力強く宣言する。
「もうお前には従わない。冥界の番犬として、私はもう何人たりとも罪なき生者を背後に通さないと決めたのだ」
サイザクタートの瞳に、強い意思が漲っていた。
叫ぶような言葉に、ウォゾマがたじろぐ。
そして、これは誰も気付いていないことではあったが、いつしか茂みの下からは安らかな寝息がしなくなっていた。
幕は未だ下りる気配を見せず。
四つの月が冴え冴えと森を照らす夜は、まだ終わらない。
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