4-42 死人の森の断章5 外なる法①



 轟く音はさながら雷鳴であり、衝撃の重さは大規模な地震を思い起こさせた。

 しかしそれは天の意思に由来するものではない。

 紛れもなく、人がその叡智によって引き起こした災厄である。


 ずらりと並べられた大きな鉄の筒が、一斉に火を吹いた。

 高台から降り注ぐ無数の砲弾は、坂道を駆け上がってくる軍勢を容易く吹き散らしていく。粉砕された肉と骨が絶叫と共に空を舞った。


 ――そんな戦場から少し離れて。

 巨大な天幕が連なる本陣で、霊長類の男が卓上に広げられた戦術地図を睨み付けている。身に纏っているのは詰め襟の白い軍服だが、隠しても隠しきれない屈強な肉体は折り目正しい布をきつそうに盛り上げている。仕立てが合っていないと言うよりも、服を着ることが何かの間違いのような原始的な野性味がある男だった。


 地図上で三色に塗り分けられた駒が示すのは、もどかしい膠着状態である。敗走を続ける黒い陣営に、追撃する白い陣営。それに加えて、黒の撤退を助けるように灰色の援軍が現れていた。


 あらゆる戦場で勝利を続けてきた白き亜竜王アルトであったが、ここに来てしばしの足踏みを強いられる事になっていた。

 敗軍の将ダエモデクの命運は風前の灯火と思われていたが、そこに現れたのが第三の勢力、ジャッフハリムであった。


 ジャッフハリムとは中原に覇を唱える大国であり、暴君ビシャマルの悪名は大陸中に轟いている。恐ろしい奸婦を王妃として迎え入れてから人が変わったようになり、他国への侵攻を繰り返して災厄を振りまいている、というような風聞は、噂の神エーラマーンが囁くがごとく、この地にも伝わってきていた。


「忌むべき呪妃、レストロオセ。聞くところによると、言語支配者と呼ばれる卓越した神秘の担い手であるとか」


 アルトの背後に控えていた臣下のひとり――もう長いこと王に付き従っている兎の槍持ちがそう言うと、アルトは右の隻眼を細めて吐き捨てた。


「あのおぞましい怪物たちが、亡きダーカンシェル様と同じ言語支配者によって生み出されているというのか」


 高台に設えられた天幕の外に出る二人。

 そこから見える光景は、おぞましいの一言だった。

 幼児が捏ねた粘土細工でもまだいくらか美観を気にするだろう、と言いたくなるような、醜悪さの精髄がそこにある。


 ありとあらゆる生物を滅茶苦茶に混ぜ合わせ、融かして固めたかのような異形。固体とも液体ともつかない肉腫が流動しながら蠢き、破壊と殺戮を撒き散らし、見る者を恐怖に陥れる。竜王国はあらゆる種族を受け入れる多種族混成国家だが、その混沌の中にもあのような雑多なものは存在しない。


 あらゆる生命が複合した種族とでも解釈すれば良いのだろうか。

 その在り方、行動、凶暴性、全てが『人』にとって受け入れ難い怪物たち。あれらがダエモデクに加勢したことで、アルト率いる精鋭たちの足はしばし止められることとなった。


 異形の怪物たちは様々な生物の特性を併せ持っており、個体ごとにがらりとその強さや戦法が異なる。そのため、定まった対抗策を練ることが難しい。

 竜王国が誇る【五色の騎士団】はいずれも劣らぬ英傑揃いだが、彼らの力をもってしてもジャッフハリムの異形の軍勢は難敵と認めざるを得ないのが現状だった。


「それにしても、この状況をこうも容易く打ち破るとは」


 アルトは、敵軍の第一陣を吹き散らした大筒を胡乱げに見た。弓や弩、投石機を上回るという兵器。三本足の烏たちや二本足の霊長類たちが扱う事を得意とする『杖』の御業が、難敵の個体差など構いもせずに力尽くで蹂躙していく。


 瓦解した敵の軍勢。その中に一つの部隊が突撃していく。長い牙が特徴的な虎頭の大男に率いられた雄々しい獣たちは、その爪牙で総崩れとなった異形の怪物たちを次々に引き裂いていく。竜王国が誇る【黄獣騎士団】の武人たちは優勢に戦いを進めているが、これも全ては先制攻撃が成功したからこその成果。


 遠間へと叩きつけられる圧倒的火力。大筒はただそれのみを追求した結果として誕生した、『破壊の杖』であった。大砲という概念と技術そのものは既知のものだ。それは滅びた旧世界や超古代文明、更には異世界から漂着した『墓標船』を経由して広く伝わっている。しかし、その使用には大きな制限がかけられている。


 正々堂々たる勇士と勇士の戦いを穢す卑怯者の武器。

 あるべき秩序をねじ曲げ、徒に屍を生み出すだけのものなどあってはならぬ。

 旧世界の文献を読み解くにつれ、おおむねそのような解釈が『火器』に対してなされ、それが巷間に流布した結果、それを使用する者はある種の烙印を押されることになる。


 筋金入りの杖の信奉者であるならば逆にその『狂い振り』を誇示することもできようが、一般的に火器を用いる事は不名誉であり、自らの存在を損なう事に繋がってしまうのだ。そのため使用されることは滅多に無い。


 その上、秩序を重んじる真竜クルエクローキはこの火器をことさらに嫌っており、使えばかの竜の怒りを買い、呪いを受けるというのだ。

 亜竜は例外なく世界を統べる九大竜を尊崇している。

 建国の祖であるダーカンシェルを神として信仰することとはまた別に、世界を包み込む大いなる存在への敬意は常に竜王国の国民全ての心にあった。


「恐ろしいことだ。あのようなものを使わざるを得ないとは。果たして、これでどのような災いがもたらされることやら。やはり、杖のようなまがい物ではなく、まことの力を持つ言語魔術を頼みとすべきではなかっただろうか」


 敵の屍が積み上げられた戦場で、長い牙の虎が勝利の雄叫びを上げた。

 戦いの決着がついたとはいえ、今はまだ途上。

 その上、自軍が用いる兵器に不安があるとなれば、そうそう浮かれることもできないのだった。


「そのような事を仰いますな、王よ。杖のわざとて馬鹿にしたものではございませぬ。それに、このハタラドゥールめが考案した『呪い避け』は有効に機能しているようですぞ」


 後悔を口にするアルト王の横から口を挟むのは、緑色の長衣を纏った、呪術師然として風体の男だ。

 アルトは隻眼を鋭く動かして、その相手を睨み付ける。

 美しい男だった。


 【有鱗の大樹】と聞けば誰もが震え上がる、【緑竜騎士団】が団長。

 その名はハタラドゥール・タラドカン・デ・ラ。

 女性と見紛うばかりの美貌と涸れたような声が独特な麗人である。


「ほざけ、グレンデルヒ。この身から血を抜いて何をするかと思えば、あのような紛い物を作り出すとは」


「おやおや、まことの名は隠していたはずですが、とうとう曝かれてしまいましたな。流石は陛下」


「ぬけぬけと、良く言うものだ」


 王がハタラドゥールを異なる名で呼んだ途端、美貌の呪術師の全身に亀裂が入り、内側から全く別の容姿を持った『誰か』が現れようとする。だがその直後、余裕を持った台詞が言い終わると男の姿は元に戻っていた。


 ハタラドゥール、『まことの名』をグレンデルヒと言う男は、アルトが最も信頼する部下の一人である。

 どことなく穏やかで植物のような雰囲気を持った彼は、難敵を排する為に新しい兵器を開発した。それが大筒であり、またそれを操る『砲兵』たちである。


「単眼巨人、か。不思議なものだな。俺の姿は遠方ではあのような異形として語られているのか」


「隻眼という話が、人伝に広がっていくにつれてああして語られるようになったのでしょう。エーラマーンの悪戯というものでございます」


 二人が見る大筒の周囲には、霊長類の出来損ないのような姿の怪物が並んでいた。重量のある火器を軽々と運搬し、扱う度にその全身が目に見えぬ呪いによって引き裂かれていくが、致命傷というほどではない。大柄な体躯に見合った高い耐久力で怪物たちは大筒で敵軍を砲撃していく。


 怪物の名を、『単眼巨人』といった。

 亜竜王アルトの血を抜き、『本人の一部は肉体から切り離されても互いに影響を及ぼし合う』という感染呪術の原則を利用して生み出された、生ける兵器である。


 ずんぐりとした身体に巨大な単眼。それらの特徴はすべて、アルト王の武威を誇張したもの。

 アルトの血より作られた王の紛い物は、確固たる『己』を持っていないため、偉大にして畏怖すべき亜竜王という風説によりその姿が奇妙に歪んでしまっていた。


 異様な風体の単眼巨人は二体がかりで大筒を用いて、通常ならば精鋭たる騎士団でも手間取るような異形のジャッフハリム兵を駆逐していく。


 錬金術師でもある『グレンデルヒ』は、この時代の常識では考えられないほどに進んだ『生命の創造』という技術を突如として思いつき、この戦場に投入した。

 その結果として生み出され、戦況を一変させたのが単眼巨人の群である。


 強靱な肉体を誇り、睨み付けたものを束縛するという邪視によって砲身を固定して反動に耐え、更には標的の動きも止めることができるという、理想的な砲兵。

 二人一組で一つの大筒を運用することで、反動と負荷を分散し軽減するという手法により、効率的に戦うことができていた。


「まあ、当然ながら使い捨てになりますが――所詮は偉大なるアルト王に言葉を賜ることが叶わぬ畜生風情です。あれらは消費されるべくして消費されるのですから、使い終わったら新しいものを用意すれば良い」


「だが、単眼巨人とやらはこの身より生み出された子のようなものではないのか」


「子ならまた作れば良い。女と同じです。使い終わったもの、古いものは処分して、新品を手元に置く。まだ使えたとしても、それが何だというのでしょうか。富を多く使い、循環させるは王たる者の義務と言って良い。つまらぬ中古品は下々の者どもに払い下げてやれば世の中がより上手く回るというもの」


 グレンデルヒの舌はよく回った。

 アルト王は何かを言おうとして、しかし寸前で止める。

 神の血を引いた生まれながらの王者である彼にとってその言葉は至極当然なものだ。それを否定する理由など何も無い。それはあまりに『不自然』というもの。


「銃などの火器は英雄性を否定します。それを服飾文化として取り込み、見た目重視の扱い方をするならば話は別ですが、陛下と火器はあまり相性がよろしくない。更には大いなるクルエクローキへの敬意もございましょう。ここはあれらの道具に任せることが最善。ダエモデク討伐の為には必要なことと割り切られませ」


 グレンデルヒの言葉はいちいちもっともだった。

 加えて、彼は側近の一人としてこの上無い働きをしている。

 アルト王は彼に労いの言葉でも掛けようとしたのか、口を開く。

 その時である。


「その佞臣の言葉に耳を貸してはいけません。アルトよ、それは暴君の道。そのようにして勝ち得た未来は、ジャッフハリムと同じ歪んだものとなりましょう。あの異形の怪物は、竜王国の未来の姿を暗示していると思って下さい」


 口を挟んだのは、王のすぐ傍に侍る兎の槍持ち――ではなかった。

 彼が手にしている、氷でできた三叉槍である。

 それは呪術の力が込められた品であり、精緻なつくりの氷細工でありながら鉄を切り裂き、巨岩に叩きつけても折れず、齢千年を超えた大トントロポロロンズを貫き通すほどに優れた槍だった。


 世の中には意思を持ち、口をきく呪具というものも存在する。

 ダエモデクの宝物庫の奥深くで眠っていた槍は銘を『ディーテ』といい、アルト王を主として認めていた。


「その呪われた槍の言葉こそ耳を貸してはなりません、王よ。それは持ち主を誑かし、腑抜けにさせる魔性の槍。男を堕落させる女の声で誘っているのがその証拠。もしかすると、それこそは使い手の命を啜るメクセトの神滅具ということもありえまする」


 グレンデルヒの言葉に、槍持ちの兎が驚いて槍を放り投げてしまう。

 それを軽々と掴み取ったアルトは、三叉槍を矯めつ眇めつして言った。


「ディーテよ。お前はこの身に害を為すつもりがあるのか?」


「とんでもありません。全てあの卑怯者の虚言です。どうか、あの二心を持った邪悪な男を追放して下さい。そうでなければ、私を使って奴を貫いて下さい」


「いいえ、いいえ! このグレンデルヒの心にやましいところなど一切ございません。その雌槍は我々を陥れようとしている! 王よ、私にその槍をお渡し下さい。御身の目の届かぬ場所へ捨てにまいります」


 こうして、グレンデルヒとディーテが争うのはこれが初めてのことではない。

 ディーテを手に入れてから、そしてグレンデルヒがまるで人が変わったようになってしまってから、ずっとこうなのだった。


 アルトは小さく嘆息して、もう何度目になるかも分からない仲裁の言葉を口にしようとした。

 その時、遠くで大きな怒鳴り声が響き渡った。


 何事かとそちらを見やると、先程快勝してみせた虎頭の大男が怒りと共に吠えている。背後に控える様々な種類の肉食獣たちも殺気立っている。

 その対面には、硬質な外骨格と薄い翅が特徴的な虫たちが整然と隊伍をなしている。複眼であるため表情は分かりづらいが、獣たちを睨み付けているらしい。


「ほう。またしても【黄獣騎士団】は【黒蟲騎士団】と揉めているのですか。全く、困った連中ですな」


 グレンデルヒが言う通り、ここ最近の揉め事の多さにはアルトも頭を悩ませていた。切っ掛けがどのようなことであったかは問題では無い。喧嘩などの騒ぎが起きているということそれ自体が、竜王国の土台が揺らいでいることを示していた。


 元来、多種族を束ね上げ、共存させようという理念は多くの困難を伴う。

 想定されるあらゆる国内の問題を、アルトは【国民不和予防局】という組織を立ち上げることで解決してきた。


 【脳髄洗い】や【精神加工】、【改心誘導】や【順正化処理】などと呼ばれる技術を【星見の塔】にいる義姉のつてで手に入れ、薬物や催眠術を併用することで、種族、民族間の相互不和を未然に防いできたのだ。


 『差別狩り』などと揶揄されながらも、アルト王はそうした厳しい態度をとる事で混沌とした国内に秩序をもたらしていた。

 厳しい王の治世には不満も多かったが、それゆえの平和は長く続いた。だが、それが今、脆くも崩れ去ろうとしている。


 獣たちは虫たちを『何を考えているか分からぬ不気味な奴ら』と蔑み、逆に虫たちは『野蛮な突撃馬鹿ども、我々の支援が無ければ何もできぬ癖に』と罵る。

 更にそれがより具体的な身体的特徴をあげつらうようなものになると、それは既に竜王国の法では裁かれるべき罪となる。


 彼らはしかし、罰を恐れていない。

 王の目の前で、堂々と他の種族を侮蔑してみせる。

 竜王国の共存共栄の理念、守られるべき秩序は、破綻を目の前にしていた。


 戦いを長引かせるのは危険。さりとて、ダエモデクとジャッフハリムという目に見える敵を討ち果たしてしまえば勝利の酔いから醒めた竜王国は瓦解するであろう。であれば、次はどうすればいいのか。


「勝利が無いのなら、新たな勝利を作り出せば良いのです、王よ。次なる目標、新たなる敵を作り、それを目指せば良い。無い需要は無理矢理にでも作るのが、民を食わせねばならない治世者というものです」


「そのために徒に戦火を広げると? 馬鹿なことを。領土を広げればそれだけ維持のために国民を疲弊させてしまいます。まして戦争を長期化させるなど、どのような見地から見ても無意味な浪費でしかありません」


 思い悩む王の内心は独白として漏れていたのか、それすら拾い上げて論争を始めるディーテとグレンデルヒ。どこもかしこも、争いと対立に満ちている。アルトはまた、大きく嘆息した。


「――全ては言葉と意思、個々の思考、見ている世界のずれからこのような混沌とした状況が生まれるのではないだろうか。ならば、ダーカンシェル様が、そして我ら双竜が『言葉』などを与えたのがそもそもの間違いではなかったか」


 アルトは嘆き、おもむろに手を持ち上げていくと、ゆっくりとした歩みで争い合う二つの集団の下へ向かった。そして、不可思議な響きの呪文を唱える。それはどのような言語にも似ていない、歌のような音の連なり。力ある文言が世界に浸透すると、その効果は劇的に顕れた。


 言い争う二つの集団はアルトの言葉を聞くや否や完全に沈黙し、それどころかぼんやりとしてその場に座り込んでしまったのである。

 そこにいるのは既に竜王国の臣民ではない。

 ただの獣と、虫である。


 成り行きを見守っていた者たちが、その光景に震え上がった。

 アルトは暫くして、また不可思議な呪文を唱えて手を左右に振った。

 すると、知性を失っていた獣たちが悲鳴を上げ、言葉を無くしていた虫たちが畏れるようにその場に跪いた。


 誰もが恐怖のあまりに震え、おののき、王に平伏する。

 そして囁き声で、怖い、寒い、もうあんなのは嫌だ、と囁き交わすのだった。

 ディーテが、恐る恐る王に訊ねる。


「一体、今あなたは何をしたのです?」


「見ての通りだ。『言葉』を奪った」


 アルト王とその半身とも言えるダエモデクには、動物に言葉を与える力が生まれつき備わっていた。それは動物たちを人たらしめるものとされていたのだが、それを奪われるということはすなわち人でなくなるということに等しいのである。


「今後、我が王国の秩序を揺るがすような『悪しき言葉』を発した者からは、『言葉』の全てを剥奪する。罰神の力が衰えている今、この王たる身が直々に裁きを下そう。咎人はみな秩序から爪弾きにされ、あらゆる平和の恩恵を喪失すると知れ」


 平和を喪失する。その響きが、竜王国の臣民たちに浸透するのに時間はかからなかった。それは、『人でなくなる』ということだった。

 竜王国を縛り、そして守護する法と秩序の加護が失われれば、他国では『ただの害獣や怪物』とされてしまう種族とて少なくはない。


 恐ろしい厳罰に震え上がる臣民たちを隻眼で睥睨すると、アルトは天幕へ去っていった。王の布告はその日の内に前線に伝わり、伝令によって数日後には本国まで届いたという。


 そして数日後。ある知らせがアルトの耳に入った。

 ダエモデクはジャッフハリムの王都へと迎え入れられ、客将として高い地位に就き、大軍を率いることを暴君ビシャマルに許されたのだという。

 跪く蟷螂かまきりが、重々しく告げる。


「ジャッフハリムで再起を図ろうと画策しているダエモデクですが、配下となり、功績を上げた者に更なる『言葉』を与え、知恵と力を授けると公言していると、潜伏させている『虫』たちから連絡が入りました」


 アルトの逆をいくような施策であった。

 それが意識してのものであるにせよ、偶然であるにせよ、何かを感じずにはいられないアルトは、臣下を下がらせた後で三叉槍に語りかける。


「なあディーテよ。このやり方は、本当に正しいと思うか」


 言葉を喋る槍は、しばしの間を置いてこう答えた。


「ダエモデクは、飴をちらつかせることによって民を支配しています。これは彼が誰よりも欲深いために、人は欲に従うのだということを知っているからこそできる行いでしょうね」


「そうだな。しかし今は、あちらこそが民のことを考える良き王であり、こちらこそが民を苦しめる暗君に思えてならない」


「――アルト。貴方は畏敬によって民を忍従させ、秩序を生み出そうとしています。これは、荒廃した竜王国を守る為という意味では決して間違ってはいません。鞭が見えないままでは、罰や法は曖昧模糊として見えにくいものですから」


 ディーテはそういいながら、僅かに心苦しそうでもあった。

 物言う槍は諭すように続ける。


「けれど、自らが自らを律することができるようになれば、それに勝ることは無いと私は思います。実際に罰や看守がいる必要は無く、架空の規律を誰もが心に抱き、『内なる法』に従って善く生きる。それが理想です。でも、それを為し遂げるためには長い時間がかかるでしょう」


 アルトは生まれ出でた瞬間より、己の中に正義を持っていた。

 ゆえにこそ竜王国は共存という理念によって秩序を保つことができていたのだし、王として臣民を導いてこられたのである。


 だが、足りなかった。

 何が、と言って答えが出るようなものではない。

 ただ、足りなかったと言う他に無いのだ。

 沈み込むアルトの心を引き上げるように、ディーテが明るく声を上げた。


「ですが、一つだけいい方法があります」


「それは?」


「ダエモデクは私の他にも様々な財宝を集めていましたが、その中に『断章』と呼ばれる叡智が記された書物があります。ダエモデクはそれを今でも持っており、それが彼に強大な力を与えているのです」


 そのような話は初耳だったので、アルトは一つだけしかない目を丸くした。

 ディーテが言うには、その『断章』は黒い装丁の本で、九巻本の五巻目であるらしかった。


「前回が『愛情』でしたから、恐らくあちらの手にあるのは『道徳』です。あれには正義の原理を示し、『内なる法』を人の心に根付かせる力があります。裏を返せば、倫理を壊して欲望を解放することにも繋がるのですが」


「それを手に入れれば、王国に秩序を取り戻すことができるのか?」


 アルトは答えを知ることを恐れるように、だが期待を隠しきれずに前のめりになって訊ねた。三叉槍は彼を安心させるように、優しげな声で言った。


「ええ。そして、それこそが私の望みなのです。さすれば私にかけられた呪いも、きっと――」


 そこで、不意にディーテは言葉を途切れさせた。

 不審そうにするアルトを煙に巻くかのように、槍は急に話題を変えた。


「そうです。奪うということは、何も悪いことばかりではありません。たとえば、過度に富や力を蓄えている者からそれを取り上げ、貧しい者に分け与える事は王として第一に考えるべきことの一つでしょう。戦いが終わった後で、貴方はその『奪う力』で格差を是正するのです。それによって、王国はより良くなるでしょう」


「おやおや、何を馬鹿な妄言を」


 と、どこからともなくやってきて口を挟んでくるのはグレンデルヒである。

 彼は嘲笑するかのように三叉槍の言葉を否定する。


「あらゆる民に機会は均等に与えられているはずですよ。だというのに落伍し、貧乏人に落ちぶれるということは、その者はできることをやらなかっただけのこと。より多く努力している者から当然得られるべき富を奪い、怠け者どもにそれを与えるなど、なんと愚かしい。そんなことをすれば、みな額に汗することが馬鹿らしくなり、怠惰な塵屑どもが蔓延る退廃した国家になってしまうでしょうな」


「また貴方はそのような。それは私の言葉を恣意的に曲解しています。それに機会は均等に与えられてなどいませんし、失敗した人がまた立ち上がれるように網を用意しなければ、そんな国こそ退廃が満ちあふれてしまうでしょう」


 アルトはうんざりして溜息を吐いた。

 この両者が揃うと、決まってこのような論争が始まってしまうのだ。

 両者の言い分の是非はともかく、こうしたいがみ合いこそが彼の心を蝕む毒であった。たとえ『善き国』を実現するために議論が必要だとしても、どうしてこうまで相手を憎み合い、否定し合いながら言葉を交わさねばならないのか。


 アルトは、己の権能を思った。

 『言葉』を与え、奪う力。

 白い亜竜を、神なる権威の下に王たらしめる権力。


「ああ、父よ、ダーカンシェルよ。これは、あまりに重すぎる」

 

 独白はあまりに小さく、激しく言い争う両者の声に紛れて消えた。




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